スパイラル-I'm not in love.- カット : しちみ唐子/小説 : 乙姫静香


Scene 2




 初めてのキスを、いまも覚えている。
 キスを、されると思っていなかったから・・・というのもある。しかし、ためらいがちに触れた口唇が震えていたような気がしたことと、口唇を離した直後に貴明の見せた表情が忘れられないから・・・という方が大きい。
 亨を買いたいと言い出したのは貴明なのに、なぜか、貴明の方が傷ついた顔をしていた。
「あぁ・・・・・わかった」
 ぶつけようのない怒りと情けなさと。
 貴明の申し出に、不安で震える口唇でそれだけを言うと、亨は高ぶる感情にまかせて浮かんでくる涙をみせないように、軽く顎を上げた。
 そんなとき、ふいに重ねられた口唇。
 買われる身で、口付けられるなんて思ってもみなかった。それも、あんな風に優しく。
 震えていたのは、自分だったのか、それとも貴明だったのか。
 驚いて身を引くと、貴明が切なげに眉をひそめたような気がした。それが、いまでも気になっている。拒絶と取られたのではないかと思って・・・。
「おい!小田切、なにボーっとしてんだ!」
 同僚に呼ばれて、慌てて顔を上げる。梅雨の合間の晴れの日。東京のビルの谷間に、亨はいた。
 隣のビルの電光掲示板に出ている時計で、昼休みが終わっていることを確認すると、亨はペンキの缶と刷毛を持って高いハシゴに上がった。ハシゴの上に座ったところで、刷毛を口にくわえてタオルを頭に巻く。
 亨の仕事は看板屋。看板を制作したり、設置したりという仕事だ。
 最近ではカッティングシートを使い「描く」から「張る」に変わった感のある看板屋業界。しかし、そんな中でも、未だに手書き看板の注文を多く受ける会社に勤めていた。
 亨はデザイン関係の専門学校を出てから、ずっとここで働いている。ただ漠然と、絵を描くことが好きだった。
 いつも仕事をもらっている若者向けの古着屋。その壁をひたすら、白いペンキで塗りこめて行く。いわば、絵を描く前のキャンバス作りだ。これが終わったら、鉛筆で下書きをし、色を塗っていく。
 亨はペンキの刷毛を動かしながら、完成まで大体10日くらいかな・・・と計算した。
 客との営業トークが苦手な亨も、付き合いが長い所為か、この店のオーナーとは上手くやっている。おかげでいまでは、壁のデザインも一任されるようになっていた。数ヶ月に一度、自分の好きなように絵が描けることが、亨には嬉しくてたまらない。
 もう一箇所、亨は指名された手書きの仕事を持っている。
 都内でも有数の大会社の前にある、大きな壁。
 今は、草原に立つ大きな木の絵が描いてあった。






Spiral - I'm not in love. -






 見下ろしたビルの谷間では、木が揺れていた。
 貴明は持ってきたコーヒーを傍らに置き、メールをチェックする。いつもと変わらない、冷たい表情、動かない眉。
 届いたのは仕事のメールが殆ど。しかし、その中に混じって届いた弟からのメールを見た時に、少しだけ貴明の目が見開かれた。
『下駄箱の中にある穴の開いた靴箱。なにアレ?捨ててもいい?』
 弟の悠汰は高校生。昔からお兄ちゃん子だったせいか、貴明が家を出てからは、よくマンションまで遊びにくる。そして、気を利かせているつもりなのか、服を勝手に持ち出したりする代わりに、部屋の掃除をしていったりもした。
『大切なものだから、触らないでくれ』
 携帯で受信する弟のことを思い、短く書いてすぐに送る。
 大きな窓の外を見ると、ひときわ強い風に、木々の葉がざわめいていた。
「ここに、入れておいてくれれば、俺が勝手に持って行くから・・・」
 亨はそう言うと、器用にハサミを使い、空いている靴箱の横に、ポストの口のような穴を開けた。
 それは二回目の逢瀬の時、突然の、亨の主張だった。金はどこかに置いておいてくれればいいから・・・と。
 貴明は、その言葉に内心ホッとした。口には出せなかったが、代償としての金を手で渡すことに、ある種の嫌悪感を感じていたからだ。
「本当に、それでいいのか・・・?」
 貴明が冷静を装って返すと、亨はちょうど紙幣が入るくらいの穴を作り終えた後に言った。
「いいよ。その方が、俺にとっても・・・」
 その後に何を言いかけたのか、聞かなくても貴明には分かるような気がした。きっと、貴明が亨の立場だったら、同じようなことをしたであろうから。
 その日から、玄関脇の下駄箱の中には空の靴箱が入っている。貴明は、お金を入れるだけで、開けはしない。なぜだか、その箱は、亨のもののような気がしていた。






Spiral - I'm not in love. -





 亨はポケットを探って鍵を取り出すと、暗闇の中、慣れた手つきで立て付けの悪いドアを開けた。
 手探りで電気のスイッチを入れ、玄関に入る。貴明のマンションとは似ても似つかない、狭くて古いアパート。強引に取り付けた小さなシャワー室があるだけで、風呂もついていない。
 亨は後ろ手でドアを閉め鍵をかけると、ペンキで汚れた靴を脱ぎ、荷物を傍らに投げ出した。
 一日中外での仕事の時は、腕も上がらなくなるくらいに疲れる。この仕事を五年やっている亨にとってもそれは例外でなく、奥の畳の部屋に寝転がると、黙って目を閉じた。
 絶え間なく襲ってくる睡魔にだけは負けないように、適当な考え事を引っ張り出す。
 妹への今月の仕送り。いまやっている仕事のデザイン。家賃も払わなくちゃいけないし、土曜日までに図書館から借りている本も返さないと。
 土曜日・・・。
 ふとその言葉に、他の考えが全て止まる。
 当然、今週の土曜日も、亨は貴明の部屋に行くのだ。それが、契約だから。
 自分とはかけ離れた生活を送る貴明。着ているものも、食べるものの好みさえも、接点などありそうにもない。じっくり話をしたことなどないから、本当はどうかは分からない。けれど、あの部屋を見る限り、なんかそんな感じがする。自分とは、住む世界が違うのだと。
 上品で、失敗とは無縁に見える貴明。そんな貴明が、何故自分を選んだのか、亨には全く分からなかった。
 亨は、貴明がどこに勤めて何をしているのかも知らない。
 知らないけれど、きっといい会社に違いない。そうでなければ、自分にあれだけの金を払えないと思うし、あんなマンションには住めないと思う。もしかしたら、家が金持ちなだけかもしれないと思ったこともあった。しかし、貴明が部屋に置いていた銀行の名前の入ったマグを見て、それだけではないと思い直した。
 貴明は、とても物持ちがいい。一度買ったものは、大事にしているようだ。銀行のマグも、来るたびに使った形跡があるものの、キレイに洗われている。それは、他の高価そうな食器たちに並んで、そのマグも変わらぬ扱いをされているようで・・・。なぜだか、胸をくすぐった。
 あと数回眠れば、土曜日がやってくる。





 支払いの後に残ったお金で、新しいTシャツを買おうと、亨は思った。

Scene2 / End






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