スパイラル - I'm not in love.-
カット : しちみ唐子
小説 : 乙姫静香
恋をすることなんて、一生ないと思ってた。
Spiral - I'm not in love. -
Scene 1
白く煙る霧雨の中を、亨(とおる)は走っていた。
梅雨時のまとわり付くような湿気を顔で切りながら、道のあちこちにできた水溜りを避けては走る。雨が亨の目の中に入る度に、亨は眉を寄せて顔を横に振った。
冷え冷えとした街には、道に整然と植えられた木の葉に落ちる雨の音しかしない。
6月だというのに、その日は妙に寒かった。
亨はとあるマンションの前で立ち止まると、いつものように一度、そのキズひとつなさそうな新しい建物を見上げ、そして一度深呼吸をする。自動ドアを抜けると、亨の荒い呼吸がロビー中に響いた。
大理石が敷かれた綺麗なロビーには、誰もいなかった。土曜日の夕方だというのに、そのマンションには生活感というものが漂わない。亨はそれが、建物の大きさの割には部屋数が少ない高級マンションであるがゆえだということを、よく知っていた。
亨がこのマンションに通うようになって約半年。それでも、他の住人にあったことは数える程度しかない。人に会うことの方が珍しいロビーの中で、亨はブリーチとは無縁の黒い前髪を指先で払った。
磨かれたガラスに映る、自分の姿。暗い切れ長の瞳が、少し長めの前髪の奥で光っている。空気をはらんでいる硬目の髪が、細かな水滴をその先から落としていた。
そして、もう一度深呼吸。洗いすぎてくたびれたTシャツを、申し訳程度に引っ張る。
張り付いたシャツが、亨の細くしまった身体のラインをくっきりと形どっている。それが嫌なのか、亨はシャツを身体からはがすように、胸の辺りを一度、軽くつまんで持ち上げ空気を入れた。

亨はロビーの奥にあるもうひとつのガラスの扉の前に立つと、その脇にあるタッチパネルに、濡れた指で番号を入力した。
プルルルッ
と、呼び出し音がする。ワンコールでそれは途切れると、いつもの声がパネル上のスピーカーから流れてきた。
「はい」
乱れることの無い、冷静な男の声。少し低めのその響きの所為か、亨はその声の持ち主が自分より二つも年下だということに、出会ってからしばらくの間、気付かなかった。
「あ・・・・・、俺・・・だけど」
亨が途切れ途切れに小さく呟くと、プツっという音の後に、奥のガラスの扉が開く。
何度繰り返しても、緊張する手順。それがこのマンションの高級感のためか、それともこれから部屋ですることのためか、亨は未だに分からない。
ただ、最初から、嫌悪感を感じたことはなかった。
部屋は五階。『502』というプレートの脇に「T. SHIMA」と書いてある。
志摩貴明(しま・たかあき)。それが、亨の契約相手だった。
Spiral - I'm not in love. -
「んっ・・・」
灰色の部屋の中に、亨の熱い声が響く。
規則的に軋むベッドの音。塵ひとつ無いほど清掃の行き届いた部屋の中、アイスティーに入れたガムシロップのように、そこだけがドロリと濃い空気をしているように見える。
背後から抱きしめられたまま、何度も入り込んでくる貴明の感覚に、亨がきつく口唇を噛んだ。
「7分遅刻だな」
扉を開け、濡れた亨を見た貴明は、最初にそう言い放った。貴明はいつも、時間に厳しい。
亨とは違う、なんの癖もなくサラサラな髪の毛。蔓の細い眼鏡の奥にある、涼しげな瞳。自分より少しだけ背の高い貴明の背中を見ながら、亨は、最初に貴明を見た時の印象が、『頭よさそう』であったことを思い出した。
「早く、シャワーを浴びたらどうだ?」
毛足の長いグレーの絨毯を踏みながら考え事にふける亨に、貴明は感情の読めない声で言う。
亨は、貴明の笑顔を見たことが無い。とはいえ、自分も貴明の前で笑ったことなどないのだから、どっちもどっちか・・・と思う。
謝罪の言葉さえも受け付けなさそうな雰囲気の中、亨は何も言わずに浴室へと消えた。
そして、それから一時間後、二人はこうして抱き合っている。
これが、いつもの週末。
何を考えているか分からないような貴明も、ベッドの中では妙に優しい。
亨を抱きしめる腕も、髪を撫でる手も、身体に触れてくる口唇も。
いつでも信じられないくらいに優しいから、亨はいつも必死だった。
勘違いしないように。
自分は金で買われているのだと言うことを、忘れないように。
恋人なんかではないのだと、必死で自分に言い聞かせた。
「あっ・・・・・ん・・・・」
深く入り込まれたまま、貴明の手が、はちきれんばかりに固くなった亨のそれにかかる。
半年身体を重ねた所為か、亨の弱いところを貴明は分かってきていた。
「もう・・・・・いいか・・・?」
右手で亨のそれをいじりながら、貴明が亨の耳元で囁く。
貴明が自分を買ってるのだから、好きにすればいいのに・・・と亨は思う。けれど、途切れがちな吐息の合間に小さく肯き返すと、貴明が再び動き出した。
「っ・・・・ん・・・・」
脳さえも溶かすような、甘い感覚。
「契約・・・しないか?僕と」
あれは、雪が降り続けた真冬のこと。
「毎週末、ここに来るだけで良い。ただし、他の誰とも寝ないこと」
いかにも育ちのよさそうな、その日初めて会った若い男の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「そうしたら、君の借金が返済できる分くらいのお金は、僕が出そう」
あの言葉が忘れられないのは何故だろう?貴明の声が、やけに綺麗に響いたからだろうか?
「は・・・っ・・・・ん・・・・」
貴明の手の動きが早まって、亨が、取り替えたてであろうグレイのシーツをぎゅっと掴む。
「・・・・・んんっ!」
貴明の愛撫は優しいのに、何故だかいつも、解放の時は泣きそうになるほど、胸が軋んだ。
Spiral - I'm not in love. -
雨はまだ降り続けている。
長い口付けの後、浴室に消える貴明の足音を聞きながら、亨は目を閉じて雨音に耳を傾けていた。モノトーンを基調とした2LDKの貴明の部屋には、雨の音が良く似合う。
この、一瞬のけだるいまどろみ。
亨はそれに身を委ねずに身体を起こすと、裸のままキッチンに向かった。貴明の部屋の雰囲気に合わない、銀行の名前が入ったマグカップ。それを手に取り、水道の水を入れる。一杯を一気に飲み干し二杯目を飲もうとしたとき、亨の視界にキッチンのシンクの中に置かれた一組のティーカップが入った。
客でも来ていたのだろうかとあまり深く考えずに、使ったマグカップを軽く洗って、食器乾燥機の中に入れる。
耳に届くのは、貴明の浴びているシャワーの音と雨の音。
亨はしばらくその音に耳を傾けると、手際よく服を身につけ、貴明になにも言わずに部屋を出た。
数分後、貴明は髪を拭きながら寝室に戻ると、そこに誰も居ないのを見て、居間とキッチンを覗き込んだ。バスローブから覗く裸足の足が、そこでピタっと止まる。
食器乾燥機に入れられた、銀行のマグカップ。
シンクの中で、一度温められたにもかかわらず、今は冷え切ってしまった新品のカップが二つ並んでいる。
貴明は、髪を拭いていたタオルで口元を塞ぐと、ため息を染み込ませるかのように、そっと息をついた。
雨はまだ、止みそうにない。
Scene 1 / End