記憶の城

乙姫静香






†††††The Castle of Memory†††††





 目覚めると、そこは深い森の中だった。どうしたのだろう。身体は傷だらけだ。服のあちこちは破れ、血がにじんでいる。
 あぁ、それよりもなによりも、わたしはいったいだれなのだろうか。
「・・・っく」
 立ち上がろうと、身体に力を入れると、右の太腿に激しい痛みが走った。どうやらざっくりと切れているらしく、手を当てるとぬめぬめとした血がまとわりついてくる。
「・・・死ぬ・・・のか・・・」
 視界に霞がかかり、気が遠くなる。俺は目を閉じると、大きくひとつ息をついた。






 「気がつきましたか?」
 誰かの声がする。どこか、懐かしい声が。
「・・え・・・・っつ!!」
 起き上がろうとして痛みが走り、足のことを思い出す。周りを見ると、まるで絵に描いたような洋室の中に、裸で寝かされていた。
「どこですか・・・ここは。まるで・・・お城みたいだ」
「みたい・・・ではなく、城なんですよここは、一応」
 俺の額に乗せられていたらしい濡れタオルを洗面器で濡らしながら、その人は言った。腰に届くかと思われる程の黒髪をゆったりと結び、着物とガウンを足して2で割ったような服に身を包んでいる。露出度の低い中からも、その肌の白さは見て取れた。
「驚きましたよ、山草を摘みに森へ行ったら、人肌に触れるんですもの。おまけに、どうやら随分ひどい怪我をなさっていたようですから、ご迷惑かとも思いましたが、私の城へお連れしてしまいました」
「そんな、迷惑だなんて・・・私こそ失礼をいたしました。・・・そこで、失礼ついでといってはなんですが、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか」
 絞ったタオルを俺の額に乗せてくる相手を見ながら言う。相手は微笑みながら肯いた。
「あの、あなたは・・・その、男の方ですよね」
 言った後に、何ともいえない気まずさが胸をよぎる。目のやり場に困っていると、相手はクスクスと笑いながら言った。
「えぇ、そうですよ」
「あぁ、やっぱり」
 声を漏らすと、また相手がクスクスと笑う。俺は、恥ずかしさをまぎらわそうとして、相手に言った。
「そういえば、私の服はどこにあるんでしょうか。少し確かめたいことがありまして」
「確かめたいこと・・・ですか」
 笑いをおさえて、彼が言う。俺は、痛みをこらえながら身体を起こし、言った。
「えぇ。自分が何者なのかをはっきりさせたくて。そうしないと、あなたに自己紹介もできない・・・・・・・それにしても驚きですね、キングサイズのベッドとは・・・」
 明るく返したのだが、俺の記憶がないことを哀れに思ったのか、彼は微かに蒼冷めて言った。
「記憶喪失・・・ですか?」
「そんなおおげさなものではないと思うんですがね。自分のこの身体を見ても、私に何かあったことは確かです。そのショックの所為でしょう。傷が治る頃には思い出しますよ」
 彼は無言でベッドの傍から離れると、ソファの上に置いてあった服を取って俺に渡し、言った。
「あなたの了解を得てから洗おうと思っていたので、脱がせたままになってる筈です」
「すみません」
 血のこびり付いたシャツの胸ポケットや、ズボンのそれに手を入れる。すると、ズボンの右後ろポケットから、免許証が出てきた。
「真島朔太郎。23歳だそうです」
「マジマ・・・サクタロウさんですか?いい響きですね」
 言って、彼は目を細める。俺が微笑み返すと、彼は少し首を傾け、続けて言った。
「どうお呼びすればよろしいでしょう。『マジマさん』・・・とか」
「いや、別にどう呼んで貰っても構わないんですが、なんか・・・こう、違うんですよ。あなたには、もっと違った呼ばれ方をされたほうがしっくりくるような・・・。おかしいですね、初対面なのに、こんな風に感じるなんて」
「では、どうお呼びしましょうか。でも『マジマさん』でないとしたら、あとは『サクタロウさん』としか・・・」
困ったような顔をしながら彼が呟く。
「そうですね。でもまだその方がしっくりくるような気がします。とても、気持ちのいい響きです。懐かしい響きです」
「懐かしい?」
 彼は不思議そうな顔をした。
「えぇ、そうです。初めて見た時から、いえ、声を聞いた時から思っていたのですが、とても懐かしいです。泣きたくなる位」
「懐かしいと泣きたくなるんですか」
「なりませんか?」
 聞き返すと、彼は首を傾げた。広い広い部屋の中を歩いて、ソファに座る。
「ずるいことを聞きますね」
「そうですか?」
 俺は平然と答えた。
「そうですよ。このまま話していたら、きっとあなたは際限なく私の服を脱がせてしまいそうだ」
「でも着られる服には際限があるでしょう。あなたを裸にした後、私が何をする・・・と」
「いやらしい聞き方をなさる方だ。私のこの目がもし見えていたなら、私は言葉だけでなく、あなたの視線にまでも犯されてしまったに違いない」
 彼は悲しげな顔をすると、自分の肩を自分で抱きしめた。それにしても驚きだ。俺は彼のこの言葉がなかったなら、多分気が付かなかっただろう。盲目だったなんて。
「この城には、どなたかいらっしゃらないんですか」
 俺は話を変えた。彼の様子が、あまりにも悲しげだったからだ。
「ここには私しかいません。以前はいたのですが、今は私一人です」
 彼は静かに答える。
「淋しくないんですか?」
「集団の中の孤独と比べれば、こっちの方が気が楽です。自然のままにいられる程の仲になれる人は、一人が精一杯」
 途端、激しい既聴感に襲われる。俺はどこかで聞いた筈だ。この言葉を、この声を。
「急ぎの用がないのなら、怪我が治るまでここにいらしたらいい」
「用も何も、私は自分がこうなったいきさつすら分からないんですから・・・。あなたがいいというのなら、お言葉に甘えるまでです」
「それもそうですね」
 顔を見合わせて、軽く笑う。彼はソファから立ち上がると、中の水がすこしぬるくなった洗面器を取って、部屋の扉を開けた。
「食事を作りますが、好き嫌いは?」
「大体のものは平気です」
「それは良かった、大したものはありませんが・・・。あ、それから」
 扉を閉めかけて、再び顔を出す。
「私に敬語を使うのはよして下さい。しっくりきません。・・・・・あなたらしくないような気がします」
 微かに空気が揺れて、扉が閉まる。俺は、軽く息をつくと、再びベッドに横たわった。
 歳は俺と同じ位だろうか。その割には落ち着いて見える。広い部屋の窓からは、昼の日を浴びて輝く、緑の樹々しか見えない。
 ・・・何かを思い出しかけている。自分のことのようで自分のことでなく。昔のことのようでそうでないもの。忘れてはいけないことが、きっとあった筈。そう、たとえどんなことがあったとしても。

 「とても、気持ちのいい響きです。懐かしい響きです」






†††††The Castle of Memory†††††





 「おいしい」
 俺は、出された料理を口に入れて、思わず声を上げた。あまり動かない方がいいとの配慮で、ベッドの上で食事をとることになったが、火加減といい、味加減といい、病人食とは思えない程、それは俺の好みに合っていた。
「それは良かった。人の為に食事をつくるのなんて、本当に久しぶりなもんですから、緊張してしまいました」
 夕空の朱の所為か、彼の血色も、初めに会った時よりも良く見える。微笑むと、幾分若返った。
「以前はここにも人がいた・・・と言ってたけど」
「はい?」
「男の人?」
 その時、彼の表情が陰った。
「どうして、そんなことを?」
「い・・・いえ、ただなんとなく・・・そんな気がしたものだから」
 無表情でいるときの彼の顔は、なんとも形容しがたい、氷のような、青く濡れた月のような印象を受ける。身に纏うシルクが、彼の線の細さを引き立たせているのかもしれない。
「・・・・・・あの人にとっては、あてのない約束だったのかもしれません」
「何か、約束を?」
「えぇ。私のことを、いつまでも覚えている・・・と。いつかまた、ここへ来ると」
 ベッドの横へ引いた椅子に腰掛け、窓の外へ視線を投げる。開いた白い胸の鎖骨の上に、小さな黒子があった。柱時計が六時を告げる。彼は音もなく立ち上がると、部屋の灯りをつけ、再び座った。
「何か?」
 彼が呟いた。
「えっ!?」
 現実に戻って、声を上げる。何としたことか、彼に見とれていたのだ。二の句を継げないままに、スープを口にすると、彼が安心したように、息をついて言った。
「食事の音が聞こえないから、どうかしてしまったのかと思いましたよ。食べ物の中に何か入ってましたか?」
「いえ、そんなことは・・・。おいしいです。ただ・・・・」
「ただ?」
「不思議な人だ」
「誰がです?」
「あなたが・・・です」
 俺が言うと、彼はどことなく嬉しげな表情を見せ、言った。
「今のあなたにとっては、全てが不思議に見えるんじゃありませんか?・・・・・それとも、いつもの口説き文句ですか?」
「これは心外ですね。そんな風に口説かれたことでも?」
「・・・・・・少し、くやしいですね」
「何が?」
「記憶のないあなたが相手では、どうしても話が私のことになってしまう。何か話していただけませんか?」
 何か。何かと言われても、それは難しい。食事を終えて、皿の乗ったトレイを渡すと、俺は何とか口を開いた。
「結構覚えているものですね。味覚というものは・・・」
 彼はトレイをワゴンの上に乗せて、俺の方を見た。
「自分がどんな味を好んでいたか、どんなものを食べたことがあったか。何が好きか、何が嫌いか・・・・・・」
「そういうものですか」
「えぇ。そして食べながら思いました。・・・私には、好き嫌いは無いだろうと。先刻も言ったけれど、あれはその場の嘘です。食べてみて、はっきり分かりました」
すると彼は、少し機嫌を損ねたような顔をして言った。
「嘘をつかれるのは好きじゃありません。遊ばれてるようで、嫌です」
「私だって嫌いです。でもどうでしょう。ここにひとつの仮定をたててみます。あなたの目の前に、今にも死に絶えんとする者がいる。その人はあなたにとってかけがえのない人で、この世で一番大切な人だ。その人は言う『私のことを嫌いだと言ってくれ』・・・と」
「何故その人はそんなことを・・・」
 彼は眉をひそめて聞いた。
「分かりません。・・・分かることができなかったのです」
「その人はあなたのことを想ってはいなかったのですか?」
「想っていてくれました。多分、この世の誰よりも。・・・・・・だからこそ、彼は『絶対』を求めてしまったんじゃないかと思う」
 俺は目を伏せた。胸の中にもやもやが広がる。これは、なんだろう。
「『彼』ということは、男の人なんですね」
 俺は肯いた。
「そんな風に、もし言われたとして、あなたはたとえ嘘でも、相手のことを『嫌いだ』と言えますか?」
「・・・・・・・」
 彼はしばらく考えると、ふと顔を上げて聞いた。
「これは仮定ではありませんね。あなた自身が体験したことです。・・・・・・で、あなたは何と?」
「あぁ、そうかもしれない。確かにあったような気がします。そして私は、私は・・・・・・嫌いだと言えなかった」
苦しい。
 そのとき胸の痛みが、よみがえったようだった。
「あなたは、彼の最期の願いを退けたんですね」
「えぇ。・・・いや、その後に何かあったような気がする。それがあいつの最期ではなかったと思う・・・・・・」
 広い海へ投げた網を手繰り寄せるように、少しづつ感覚が戻ってくる。何かを思い出さなくてはいけない。そんな思いにかられながらも、手繰り寄せた網には、それらしきものは引っ掛かっていなかった。






†††††The Castle of Memory†††††





 それから数日が過ぎ、俺もベッドから出られるようになってきた。城主とも段々と親しくなり、まるで。ずっと前から知っていたような感じすらする程、それは自然な付き合いになっていった。

 「朔太郎さん。どうしたんです?こんな所で・・・」
 彼が声をかけてきたのは、台所であった。
「お腹が空いたんでしたら、何か作りますけど」
「いや、それより・・・・・何か飲むものが欲しい」
 精一杯さりげなく言ったつもりだったのだが、どうやらそうは受け止めてもらえなかったらしい。彼は見透かしたような瞳で俺を見ると、しっかりとした口調で言った。
「・・・・・お酒が欲しいなんて言うんじゃないでしょうね」
「いや、その・・・そうだったらいいなぁ・・・なんて。・・・・駄目か?」
「あなたねぇ。飲むと治りが遅くなるって、あれほど言ったのに、まだ分からないんですか?歩けるようになったからって・・・・・駄目ですよ」
 半ば呆れたように彼は言った。俺は台所を出て、大食堂よりは幾分シンプルな家人用の食堂に行くと、手近な椅子を引いて座る。
「それはそうと、広い城だなぁ。何度も歩いたつもりなのに、まだ覚えられないよ。まるで迷路の中にいるみたいだ」
「おや、今日はいつもよりあきらめがいいですねぇ」
「作戦を練り直すよ。どうやら正攻法じゃ駄目みたいだからな」
 硝子のグラスに氷だけを入れて、彼が食堂に来る。俺の隣りの椅子を引くと、シルクのガウンから見える細く長い脚を組んで座った。
「でも、あなたの為を思って言ってるということは、是非とも忘れないで下さいね」
 グラスを揺らして、中の氷をクルクルと回す。ジリジリと音をたてて、氷の表面が汗をかいていく。彼がグラスを揺らす手を止めると、カキッという音と共に、氷の塊はグラスの底に横たわった。
「それにしても、本当に広い城だな。掃除なんか大変だろう」
「広いといっても、生活するのはその、ほんの一部ですから」
 グラスの底にゆっくりと、溶けた水がたまっていく。
「今何時だ?」
「もうすぐ9時ですね」
「寝るには早いな。・・・・・夜は何してる?」
「何も」
 彼はあっさり答えた。
「寝付かれない時なんかは?」
「良く分かりません」
「変な答えだな」
 俺は首をひねった。
「もうそろそろ帰りたいんじゃありませんか?・・・・ここはたいくつですものね」
「そんなことはないさ。たかが数日でそんな事を言ってたら、ずっと住んでる君に悪い」
「私は好きでここにいるんですから・・・・」
 しかし、そういった彼の顔は、何故か淋しそうだった。
「・・・・どんな人だった?・・・・その、前に住んでた彼は」
「えぇ、そうですね。孤独で、不器用で、面倒見が良くて、淋しがり屋で、優しくて、おおらかで、強くて・・・・・・矛盾を抱えて燃えている太陽のような人でした」
「・・・・愛して、いたのか?」
「愛?」
 そう言うと、彼は歪んだ笑みを浮かべて俺を見た。
「そんなこと分かりませんよ。大体愛なんてものを、誰かその目でみたことあるんでしょうかね」
「じゃあ、何て言えばいいんだ?」
「この気持ちは、短調の音楽に似ています。人を脆くする、人を淋しくさせる。そして、人の情念を刺激する」
 氷が半分程溶け、グラスにあたって音を立てる。
「人を好きになるということは、ひとつの曲をつくるようなものだと思います。楽しい気分で続いた後に、転調して悲しい気分になったりする。転調を繰り返し、章を変え、楽部を変え、やがて終わりを告げるものです」
「永遠の恋は存在しないのか?」
「永遠ということは、終わりがないということです。終わりがないということは、始まりがないも同然です。始まりがないのなら、その存在は『無』です。だからといって、永遠を否定する訳ではありません。永遠というものは疑いながらも信じるべきです。それこそ『無限』がなければ『有限』の存在が怪しくなってしまうのだし、生き物は無限を求めるから寿命があるのだとも思うからです」
 おそらく彼はずっと考えていたに違いない。昼も夜も、来ないであろう人を思いながら、時には寝ることすら忘れて・・・。考えて、否定して、また考えて。長い長い孤独の時を、そうして埋めていたのだろう。
「永遠なんてものは、神様と一緒です」
「確たる証拠もないのに、何故か人に信じられている」
「そうそう」
 俺の言葉に相づちを打つと、彼はテーブルの上にグラスを置く。しかし、組んでいた脚をといて立ち上がり、俺に背を向けると、彼は小さく呟いた。
「でももし・・・・・寿命を越えて想いを持ち続けることができたなら・・・・」
 灯りをつけない部屋の中に、月の光が白く満ちる。
「それは、なんて悲しいこと・・・・。なんて、苦しい恋」
 俺は、彼の置いたグラスを手に取ると、氷ごと一気に飲み干した。



 ・・・・・・悲しい記憶を、持ってる。






†††††The Castle of Memory†††††





 「最後の願いです。どうか、俺のことを嫌いだって言って下さい。お前の顔なんか、二度と見たくないって・・・・」
 あいつは傷ついた身体でそう言いながら、俺にすがった。
「ね、お願いです。そうじゃないと俺・・・俺・・・」
 俺の服を握る手に力がこもる。俺はそんなあいつの手を強く包み込みながら、それでも決断を下せずに迷っていた。
「そうじゃないと・・・あんたのこと忘れられないよ・・・・。もう、あんたのこと忘れて生きることができなくなっちまう。何のために死ぬ?何のために生まれてくる?・・・・今の続きをする為じゃないだろ?でも、このままじゃそうなっちまう。あんたを巻き込んじまうよ、あんたを探しちまうよ、待っちまうよ?・・・・そんなことに、あんた・・・・耐えられる?
「・・・・しかし・・・・」
「簡単なことだよ。一言・・・ひとこと言えばいいんだ。・・・・ね・・・」
 血のにじんだ頬で涙がはじける。あんなに艶やかだった肌も、こんなに汚れてしまった。何度も愛撫した頬も、こんなに疲れてしまった。細かった腕は益々細く、変わらなかったのは、深い黒に輝く瞳と、その心だけだった。

「どうか、どうか俺に、すべてを忘れさせて下さい・・・・」






†††††The Castle of Memory†††††





 気がつくと、いつの間にか寝ていたようだった。城主の言葉について考えていたのだが、それにしても変な夢だった。
「お目覚めですか?」
「あ・・・あぁ。おはよう」
「おはようございます。もう十時ですよ。遅い朝食はどちらで取りますか?」
 柔らかい笑みを浮かべて彼が言う。俺は身体を起こすと、大きく伸びをしながら答えた。
「すぐ、食堂に行くよ」
「はい」
 明るく返事をすると、彼は扉を閉めた。外は今日もいい天気で、全く雲ひとつない。俺は、彼の置いていった服に着替えると、まだ夢心地な頭を支えながら部屋を出た。
 広い城・・・広い城。一人で住むには広すぎる城。彼はいつから待っているのか、そしていつまで、待ち続けるのか。待ち人は、どこで何をしているのだろうか。
−−−なんて、苦しい恋。
 彼の言葉が胸をよぎる。あれは彼自身のことに違いない。彼は、永遠の恋を見つけてしまったのだろう。そして、彼は待ち続ける。きっと、いつまでも。彼の待ち人が、緑のインクで書いた手紙をくれない限り。
 あぁ。でも一体誰が言い出したことなのだろう。別れの手紙は、緑のインクで書くのだ・・・などと。彼は、待ち人から届かない緑に囲まれて、これからも暮らしていくのだろうか。だとしたら、それはなんて、残酷なこと。
「?」
 食堂へ行こうとして、ふと頭を傾げる。おかしい。昨日よりひと部屋増えているような気がする。しかし、工事をしていた訳じゃないし、彼一人でこんなことができる訳はない。まして、一晩のうちにひと部屋増えるなど。きっと、気の所為だろう。



 「ごちそうさまでした」
 フォークを置くと、白いカップに入った紅茶が出される。爽やかな香りが嗅覚を刺激した。
「それにしても、記憶喪失になると、物覚えも悪くなるのかな。ここへ来るときに迷いかけたよ。部屋の数えかたを間違えたらしくって、部屋がひとつ増えたのかと思っちまった」
 カシャーンッ
 陶器の割れる音がして、思わず立ち上がる。台所へ行くと、床には割れた食器が散らばり、硬直したまま空を見る彼がいた。
「大丈夫か?」
 そう言った途端、彼ははじかれたように俺の方を見た。確かに、青冷めている。
「え・・・あ、大丈夫・・・です。ちょっと、考えごと・・してたものですから・・・」
 言い終えないうちに床にかがんで割れた食器を拾いはじめる。
「手伝おう」
 俺がそう言いながら台所の中へ入ると、慌てて彼が叫んだ。
「触らないでっ!」
「えっ!?」
「あ・・・・・。あの、危ないですから。あなたは怪我人ですし、一人でやった方が気が楽ですから。きつい言い方をして、すみません」
 俺から顔を背けて言う。俺は立ち上がると、何か変なものを感じながら言った。
「そうか・・・?」
「それより・・・どうなんですか?何か思い出しましたか?」
「あぁ。それなんだけど、今・・・何月何日?」
 一瞬、彼の手の動きが止まる。俺が視線を投げると、拾った陶器の破片を持って立ち上がり、彼は言った。
「は・・・8月・・・、15日です」
「何年だったっけ?」
「・・・・・1940年です」
 と、すると、夢の中の自分はいくつくらいなのだろう。そして、夢の中の彼は、誰なのだろう。
「ったく、どうしてこう夢って奴は・・・」
 片づけを続ける彼を視界の中に入れながら、俺は舌打ちした。濡れ雑巾で床を拭きながら、彼が答える。
「何か夢でも見たんですか?」
「・・・ん。どうやら何年か前の自分らしいんだけど。・・・こういうことないかな?夢の中ではすごくはっきりしてるんだけど、目が覚めるとおぼろげになっちまって、思い出せないってこと」
「・・・・・」
「あぁ、ちくしょうっ!!」
 思い出せない自分に嫌気がさして頭を叩く。すると彼は、割れた破片を捨て、冷たく言い放った。
「でも、覚えてないってことは、たいしたことないってことなんじゃないですか?」
「うーん。でもあれは違うと思うな。あいつとはそんな、簡単なつきあいじゃない」
「じゃあ何で思い出せないんですか?」
 鋭いところを突いてくる。
「そんなものです。あてになりませんよ、人の心なんて・・・」
「そんな言い方しなくったっていいだろ」
「生きている限り、『今』はどんどん想い出になってしまう。覚えていたくても忘れてしまうことだってあるんですよ。昔の人を忘れてしまっても、仕方の無いことです」
 それきり彼は、俺に背を向けて食器を洗い出した。押し黙ったまま何も言おうとはしなかった。
 細い肩。その肩を抱きしめたくなる衝動にかられる自分に驚く。彼が待っているのは別の人間で、俺ではないのだ。そう自分に言い聞かせながらも、彼から目が離せなくなっていた。
 彼の姿を見つめながら、夢の中のあいつに似ているような気がしてくる。いっそそうなら、そんなにか楽だろうに。






†††††The Castle of Memory†††††





 その翌日。俺は小さな悲鳴で目が覚めた。
「・・・ん・・・?」
 ベッドの中で小さくうめく。寝返りをうつと、今度ははっきりとした声が聞こえてきた。
「朔太郎さぁ〜んっ!!」
 彼が俺を呼んでいる。俺はベッドを出ると、重い窓を開いて外へ顔を出した。
 庭の外れの、少し段差があるところに草むらがある。その中に、彼は座り込んでいた。
「どうしたっ!?」
 俺が叫ぶと、彼がこちらの方へ顔を向けた。
「洗濯物をしていたら、あなたの服が風に飛んでしまって、捕まえようとしたら崖が・・・・。足をくじいたみたいなんです」
「ちょっと待ってろ」
 俺は適当に着替えると、急いで外へ出た。日の光が眩しい・駆け寄ると、緑の中で彼が所在なげに座っていた。
「大丈夫か?」
 言いながら俺が下へ飛び降りて傍らに座る。すると彼は俺にしがみつき、震える声で言った。
「大丈夫です・・・。身体は大丈夫なんです。ただ・・・ちょっと、びっくりして・・・」
 言い終える端から、ポロポロと涙をこぼす。見上げれば、俺の身長くらいはある高さだ。目の見えないものが落ちたら、相当怖いであろう。
「さ・・・もう大丈夫だから、落ち着いて・・・」
 気のきいた台詞も言えずに肩を抱く。彼はゆっくりと体重を預けながら、微かにしゃくりをあげて返した。
「一瞬、身体が浮いて・・・死ぬかと思った。地獄に・・・落ちるかと思った。・・・・また、一人になるかと思った。そう、考えると・・・なんだか、すごく、悲しくなって・・・」
 黒い瞳から大粒の涙が絶え間なく溢れ出る。もし俺がいなかったら、彼はこの緑の中、いつまでも一人でこうして泣き続けていたのかもしれない。そう考えると俺の中に、彼の待ち人に対する怒りがこみ上げてきた。
「今は・・・俺がここにいるじゃないか。君の恋人の代わりにはならないかもしれないけど、今は俺がいるじゃないか」
 これも単なる気休めでしかなかった。しかし、そのことは俺も彼も痛いほど分かっていたので、二人ともそれ以上、何も言おうとはしなかった。



 「どうも・・・すみません。もう、大丈夫ですから・・・・・」
 しばらくすると、彼はそう言って身体を離した。
「おし、じゃあ・・・立てるか?」
「ゆっくりなら・・・・」
 彼が言って、俺の肩に左手をかける。俺がもう一方の手を握ると、彼はゆっくりと立ち上がろうとした。
「痛っ」
「大丈夫か?どこが痛い?」
「右の、足首が」
 彼が痛みに顔を歪める。右の足首を見ると、透けるように白い肌が紫色に変化していた。
「・・・・たいしたことはないと思うけど、しばらくはおとなしくした方が良さそうだ」
 相手の目が見えないのをいいことに、嘘をついた。怪我が重いと知れば彼も気落ちするだろう。これ以上、彼の悲しい顔は見たくなかった。
「さ、上へあがろう」
 言って立ち上がる。すると彼は俺の手を離して言った。
「ちょっと待って下さい。・・・確か風はこっちの方に吹いてたと・・・」
「何をしてるんだ?」
 足を引き摺りながら、突然彼が草むらの中へ入っていく。おれが当惑顔でそれを眺めていると、彼が小さく叫んだ。
「あった!!」
「え?」
 日の光がさんさんと当たる草むらの中で、かがんでいた彼が立ち上がる。俺が眩しさに目を細めると、彼が嬉しそうに言った。
「ほらっ!朔太郎さんっ!!」
 本当に嬉しそうに、手に掴んだものを振る。
「ね!!あったでしょう!!」
 手にしたもの、それは俺の白いワイシャツだった。
  光の中で彼が手を振る。
−−−「朔太郎さぁ〜んっ」
 それは、一瞬のゆらめき。
「・・・・・・・・・・あっ」
 俺は小さく呟いた。





 「朔太郎くん。これがうちの息子だ。どうか仲良くしてやっておくれ。ほら、玲。自己紹介しなさい」
「はじめまして。高倉・・・玲です」
 そう言い、涼やかな瞳の彼は、はにかむように笑った。あれはまだ十になる前のこと。幸せいっぱいだった、出会いの記憶。





 「朔太郎さん。俺ね、今度転校することにしました。春からはおんなじ学校です。よろしくお願いしますね」
 いとも簡単に言ってのける。こいつの家は華族の血を引いていて、相当な金持ちだったのだ。
「そんな、お前。俺のとこなんて、普通の学校だぞ」
「そんなの関係ありませんよ」
 伸びはじめた髪を、軽く掻き上げる。それは十を少し過ぎた頃。胸をときめかせていた、予感の記憶。





 「全寮制だとよ。肩がこる」
 空が赤くなりはじめている。俺がぼやくと、彼は笑って言った。
「俺は嬉しいですけどね。それだけ、あんたと一緒にいる時間が長くなりますから」
 臆面もなく言ってのける。
「朔太郎さんは嬉しくないんですか?」
 首を傾げて聞いてくる。俺はそっぽを向いて答えた。
「ば〜か」





  「父が、死にました」
  あいつは涙声でそう言った。激しい嵐の夜だった。
「・・・・・殺されたんです」
 何も言えなかった。慰めの言葉ひとつ、かけてやることが出来なかった。全ての現実が、俺たちから吹き飛んでいった。あいつがこれから一家の長にならなければならないことも、夜に無断で飛び出してきた寮のことも、もう、どうでもいいことだった。
 あいつの父親と俺の父親は、古くからの友人だった。俺の父親は薬品研究の一人者として、軍で働かされていた。
「どうなるんですかこの国は・・・・?父は、軍の機密を守るために殺されました。俺は、それを知っています。父を殺してまでも守りたかったそれをしてるんです。・・・・きっと、今度は俺が狙われる。こんなことがいつまで続くんですかこの国はっ!?」
「玲・・・。すぐに終わるさこんなこと。俺たちがやめさせなきゃならないんだ。続かせやしない。続かせやしないさ」
 泣きながら訴えるあいつを抱きしめて、俺は言った。
 あいつの父親から、数日前に届いた手紙。ただ一言『玲を頼む』と書いてあった。でも、そんなことじゃなく、俺はこいつを守りたいと思った。一人にしちゃいけないと思った。

 嵐の中のくちづけは、どこまでも冷たかった。





 「戦争?」
 1937年7月7日。日中戦争始まる。あの嵐の夜からちょうど一年が経過していた。
「毎日軍から誘いが来ます。『ゆくゆくは幹部に』ですって。さすがに俺には、直接手を下せないらしい。・・・今更体面を気にしてどうするつもりなんでしょうねぇ?」
 皮肉な笑みを浮かべて、あいつは言い捨てた。疲れている。このごろ特に痩せたようだった。
 相手が未成年の所為か、軍もはじめは手荒なことはしなかった。なんせ学校の中にいるため、うかつに手を出すことは出来ない。その上、相手は華族の血を引く一家の主なのだから。
「母も妹も、もう疲れきってる。家長失格だな。俺・・・どうしたらいいんでしょうねぇ?」
 ため息交じりに、あいつは青い空を仰いで言った。そんな心配が、その日のうちに無くなるとは、夢にも思わずに・・・。





 「何っ!?」
 電話は夜にかかってきた。俺の母親は小さい頃に他界している。家には、俺しかいなかった。
「もう・・・どうでもいいです。・・・俺・・・疲れた」
「馬鹿野郎。変な事言うな。それより・・・どうして?」
「それは俺が聞きたいですよ。なんで、俺を置いて逝っちまったのか・・・ってね」
 家に帰ったあいつを迎えたものは、血の海だった。視界一面の血の海。ここまでくると、自殺だか他殺だか分からない。しかし、転がった二つの身体があいつの母親と妹であることは疑いようもなかった。
「こん・・・・な」
 駆けつけた俺は、あまりにも酷い光景に思わず息を飲んだ。
「・・・・・ふっ・・・ははっ。こんなことになるなら・・・いっそ一年前のあの時に、こうしてれば良かったんだ」
 虚ろな瞳であいつが呟く。俺に電話をしてから俺が来るまで、ずっとこいつはこの血の海の中にいたのだろう。
「しっかりしろ!それよりお前、俺以外にこのこと知らせたか?」
「あんた以外の誰に言えるっていうんですか?」
 涙声であいつが言い捨てる。
 冷静にならなければいけない。使えるものは最大限に利用するのだ。こいつを守る為なら、俺はどこまでも非情になってみせる。なることができる。
「玲、お前、全てを捨てられるか?」
「・・・・・・・・え?」
「家も戸籍も何もかもだ。俺がお前を守る」
 あいつは当惑顔で俺を見る。濡れた瞳が揺れていた。
「このまま家を燃やすんだ。その前に、二人の身体を徹底的に焼いて・・・とにかく、お前は今日限りで死ぬんだ、表向きに・・・」
 いくらやったところでどこまで誤魔化せるかなんて分からない。自信なんてものは全くなかった。でももし、この二人が軍の手によって殺されたのなら、後追い自殺をしたと考えるだろう。もしこの二人が自殺だったとしても、一家心中と考えるのはそう苦しいことではない。それだけ、軍はこの家を追いつめたのだ。意志の弱い家族なら、とっくの昔に心中していただろう。
「極最小限だけ荷物をまとめろ。俺の家へ行くんだ。幸い、俺の部屋からしか行けない屋根裏部屋がある。そこへ行くんだ」
 事を起こすなら早い方がいい。俺は座り込むあいつを急かした。
 しかし、あいつは動く気配もなく、押し黙ったまま目の前に広がる血の海を眺めていた。半開きの口唇。青冷めた頬。充血した瞳には、もはや動くことのないあいつの家族が映っていた。
「玲・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・俺、行きません」
「どうしてっ!?」
「駄目です。・・・そんなこと、いけません。そんなことしたら、今度はあんたに迷惑がかかる。もしばれたら、軍で働かされてるあなたの父上はどうなると思ってるんですか?・・・・もう、いいです。もう。すべて終わったんです。あとは、なるようになります」
 力無い、空虚なあいつの笑い声がかすれながら響く。
 パシッ
 俺はあいつの頬を、両手で叩くように挟み込んだ。あいつの目が真ん丸くなる。
「何も終わっちゃいねぇ。これが始まりなんだ。ここで死んだら負けなんだぞ。お前、何してたかって言ったよな。お前はこの一年、親父さんの死を守ったんだろ?親父さんの死を無駄にしなかっただろ?お前がここで死んじまったら、それこそ親父さんの命も、おふくろさんも妹の命も、全部無駄になるんだ。逃げるな。俺たちの闘いはこれからなんだ。目を逸らすな。闘うんだ・・・いいか?」
 あいつの顔を包み込んだまま、俺は言った。見開いたままのあいつの瞳から、涙がこぼれる。一年間、一度も見せることのなかった涙だった。
「あの嵐の日・・・・・もう、二度と泣くまいと思った。今、もう一度そう思う。泣き止んだら、もう絶対に泣かない。俺たちの勝つ日が来るまで、絶対に。・・・・・だから・・・・」
 流れた涙が、俺の指の間を伝っていく。

 その夜、高倉邸は灰と化し、高倉玲はこの世から消えた。





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