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国会請願署名 原爆裁判 よびかけ 「原爆と人間」展


この原爆展は、被爆から半世紀が過ぎたいま、なぜ新しい原爆展パネルをつくるか、という討論をもとに企画されたもので、「あの日、あの時」にとどまらず、50年にわたる被爆者の苦悩、そのなかでの被爆者のたたかいが浮かび上がるように構成されています。

 パネルは、写真や絵と、証言がセットになっています。分かりにくい証言には短い解説もついています。証言の漢字や人名には、ひらがなやカタカナのルビがついていて、子どもも読めるよう工夫されています。

 大きさはB2判(横52センチ、縦73センチ)で1セット40枚。定価は6万円(梱包送料 2,000円)です。

 なお、英語版、ロシア語版、フランス語版、イタリア語版、ドイツ語版もあります。パンフレット(日本語200円、英語300円)も用意しています。

 「原爆と人間展」パネルは 「今も 世界で」   「あの日 あの時」   「苦しみ 怒り」   「たたかい 生きる」 の4部構成となっています。
 

原爆と人間展パネル

広島 原爆ドーム

長崎 浦上天主堂

今も 世界で 

4.たった一人の生き残り

旧ソ連はセミパラチンスクで住民には実験のことを知らせないで467回も核実験を行いました。
水爆実験の時だけ避難を命じましたが、カイナル村では42人の男が”重要な任務”があると残され死の灰をあびてしまいました。
40人が白血病やガンで亡くなり一人は自殺しました。 
たった一人生き残ったエレオガさんも肝臓を冒され、皮膚炎が体中にでき、苦しんでいます。

5.死の灰で遊んだ子どもたち

ものすごい光と音のあと 太陽のような火の玉がふくれあがっていき 大地がゆれました。
雪のような白い粉が降ってきて 子どもたちは 粉を体にこすりつけて遊びました。
2、3日したら 髪の毛が抜け始め皮膚がただれやけどの傷もひどくなりました。

6.アメリカの被爆兵士 

アメリカ海軍の消防兵だった。 
1946年7月 ビキニでの原爆実験に参加した。 
爆心から約30キロで爆発を見た。 
10時間後に爆心の島で作業をした。 
1ヶ月後、両足に浮腫が始まり 左足切断。1年後には右足も。 
病名は「悪性リンパ腫」。 
4年後、左手にも浮腫。2年後、切断が宣告された。 
こんな被爆兵士が数十万人も苦しんでいる。 

証言 ジョン・スミザーマン

7.俺は死ねない

俺は10歳で原爆孤児になった。 
生きるためには何でもした。 
畑を荒らし ヘビやカエル、トンボまでナマで食べた。 
被爆者だとわかるとろくな仕事につけなかった。 
首のハレモノはガンの転移だった。 
原爆は俺の体の中で ガンになって生きている。 
俺は死ねないんだ。原爆と心中するまでは− 

証言 福田良弌

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