碧電の10年を振り返る

2010.11.5

■碧電を作り始めた頃

2010.11.5、碧海電子鉄道は開業10周年を迎えました。当時相互リンクをさせていただいたサイト様が続々10周年を迎える中、そろそろうちもという実感が湧いてきていました。この機会に碧電の10年間を振り返ってみたいと思います。
 インターネットが急速に普及したのは21世紀に入る少し前、1990年代末であったと思います。私も職場でネットを経験し、周囲より遅れて2000年1月に自宅にもネットを導入しました。当時はまだまだダイヤルアップ接続が普通で、回線が込み合う深夜など、写真1枚閲覧するのに何分もかかったりと、今では想像もできないような環境でした。
 立ち上げの動機は開業当時書いた「ホームページ立ち上げ奮闘記」に書いていますので省略しますが、最も古い画像の日付から、準備を始めたのは2000年7月くらいであったと思われます。開業の4カ月ほど前ですが、碧電の各駅の多くは開業当初からのものです。2〜3駅だけで開業させることがためらわれたのと、早く出来上がりが見たくてどんどん作り込んでしまったためです。
 仕事の関係で帰宅は21時より早いことはあまりありませんでした。準備期間中はネガのスキャン、レタッチ、ページの作り込みが楽しくて、連日遅くまで作業をしていました。「もうこんな時間だ。」と、時間も忘れて没頭するのもしばしばでした。

■どんな時代だった?

碧電開業の頃、守備範囲の各線はどんな状況だったでしょうか。当時私は大阪市内在住のため、各線をくまなく見られる状況にはありませんでした。撮影記録ノートを見ると、特にJR線はほとんど撮影していません。団臨の運行が大幅に減ってしまい、あまり話題らしい話題もなかったのであろうと思われます。名鉄に関しては長らくカメラを向けることがなかった三河線へ「取材」に出掛けました。

JR東海道本線

既に313系が登場しており、311系が脇役へ回りつつありました。313系が増えるにつれて113系が廃車になったはずですが、いつまで走っていたかははっきりした記憶がありません。既に定期列車からは撤退し、「さわやかウォーキング」の臨時列車として神領区のものが時々姿を見せていた程度であったと思います。
 ブルートレインは既に「みずほ」はなく、「さくら・はやぶさ」の併結と「富士」が単独で運転されていました。
 団臨用の車両は既に衰退期に入っていました。12系お座敷車は2本共廃車になっていて、機関車も両数を減らしていました。運転の機会が激減していましたが、ユーロライナーは健在でした。

JR武豊線、衣浦臨海鉄道

武豊線は1999年にキハ75系への置き換えが完了し、それ以来全列車がキハ75で運転されています。
 衣浦臨海鉄道は当時既に今の運行形態となっていて、それから10年間は変化らしい変化がないようです。ただし、当時はまだセメント輸送が辛うじて残っていた模様です。

東海道新幹線

三河安城−名古屋を走行する100系
0系は前年、1999年に東海道新幹線から撤退していました。私は新幹線をほとんど撮っていなかったため、ページ作りのために久しぶりにカメラを向けました。その時に100系を撮らなかったら撮らず仕舞いになってしまったかもしれません。
 ドクターイエローに関しては700系ベースの923形ができたばかりで、検測は0系ベースの922形で継続されていました。


名鉄名古屋本線

既に3Rや6R(広義の6000系)が主力となっていましたが、7000系、7500系パノラマカーは廃車が始まってはいたものの、急行以下の列車で元気に活躍していました。5500系は碧電開業前の2000年9月、東海豪雨によって5505Fが被災。同系初めての廃車となりました。

名鉄西尾線

急行以下の列車は6Rが主力でしたが、SRの運用には5500系、5300系、5700系が共通で使用されていました。特急は前年に1600系が投入され、パノラマカーは見られなくなっていました。

名鉄三河線

山線を走る6500系。まだワンマン化実施前。三河知立−三河八橋電化区間はまだワンマン化されていなかったため、SR(5500系ほか)や3Rも乗り入れて来ました。(3Rの運用区間、時期はわかりません。)後にワンマン仕様となる7700系は白帯の撤去が始まってはいたものの、複数の編成が残っていたため、白帯の4連も見られました。
 山線の猿投以遠、海線の碧南以遠が非電化で、キハ20形、30形が活躍していました。
 写真はワンマン化前に見られた6500系です。扉のグレー塗装が時代を物語っています。


愛知環状鉄道

2000系は登場前。開業時からの100系によって運行されていました。JR貨物のDD51の牽引によって北岡崎まで乗り入れていた貨物列車は前年廃止となっていました。

■持病のこと

病室から撮った283系「オーシャンアロー」の入場車 私は難病に区分される持病をかかえています。それが碧電の制作にも影響を与え続けました。つかの間の療養期間中に撮影できたものがある一方では、体調を理由に撮影行を断念したことも少なくないのです。趣味だけではなく、今年退職を決めたのも病気が大きな理由です。
 思い起こせば既に学生時代には発病していたことになりますが、30歳になる前後から原因不明の下血に悩まされました。その他に腸閉塞の一歩手前の通過障害が時々起り、腹痛に苦しめられました。実は碧電のアップを終えた当日も職場で下血してしまったことは今も忘れることはできません。
 そして、開業1年2ヵ月目についに腸に穴が開いて緊急手術を受ける事態になりました。10年近く原因が不明でしたが、執刀した外科医師によってやっと診断が成されました。
 病名はクローン病。主に小腸に炎症が起こる病気で、腸に穴が開いたのは修復(傷の治癒)が追い付かなくなったためでした。免疫の作用によって特定の部位に炎症が起こることはわかっていますが、今のところ確立された治療方法がないため、基本的には炎症を起こすような食べ物を控える生活を強いられます。
 緊急手術の入院時には長期間更新を断念せざるを得ないとあきらめていました。しかし、安静にしなさいと言われるのは昔の話。翌日から歩行訓練が始まりました。外科手術後、動かないでいると腸が癒着を起こしやすくなるのです。病室でじっとしていると、もっと歩きなさいと促されるほどでした。
 その結果、比較的早期に外出許可が出るようになりました。帰宅して画像をスキャン。ミニPCに画像を撮り込んで病院へ戻ってからページを作り込みました。そして、ダイヤル回線経由で更新を行うことができました。正常にアップできた時は感激でした。
 その時には「構内放送」を読まれた多くの方から「びっくりした。」という声や、お見舞いのメールをいただきました。
 2004年には再び悪化して約4ヶ月の長期入院を強いられました。一ヶ月以上食事をしない絶食治療もあり、我ながらよく達成できたものだと思います。部屋から見える関西線、阪和線、大阪環状線の電車たちが癒しを与えてくれた他、点滴の合間に多少の撮影もできて、精神面のケアができたことが大きかったと思います。
 しかし、ちょうど三河線の非電化区間が廃止になる頃で、とうとうまともに撮影に出掛けられないで廃止日を迎えたのは歯がゆいものでした。それでもミニパソコンとダイヤルアップ接続によって更新を続け、遠方の方々とのコンタクトを維持することができたのは大きな励みであり、生活の質の向上につながりました。
 今も「新今村」に残してある名鉄NSR車の運用追跡は病院から閲覧する情報系掲示板が頼りでした。

■碧電を通じた交流

碧電は当初掲示板を設けていませんでした。有名掲示板では既に「荒らし」や「炎上」が起こっていたことや、掲示板ばかり増やしても意味がないのではと考えたからでした。感想などはメールで送っていただき、手動編集で掲載するため、コーナーの名前を「手動」信号である「腕木信号」としていました。
 しかし、メールを下さる方は少なく、苦労して作ったコンテンツも反応ゼロ。アクセスカウンターの数字が伸びるのを見て、どれくらい見られているかを想像するしかないということもしばしばでした。

刈谷駅に停車中の快速3132M クハ165-5 1977.5.3  度々申し上げていることですが、碧電は万人受けするものよりも、たとえ少数の方々にしか受けなくてもディープな内容を重視する方針です。これまで地味な存在と言える車両たちもためらうことなく取り上げて来ました。掘り下げ方が不十分とはいえ、特定の分野に強い関心を持たれている方からメールや掲示板への書き込みをいただいたことがあります。
 印象の深いものを挙げれば、153系の車番特定でしょうか。153系(オリジナル車)はもう28年も前に全廃となり、撮影から既に30年近くが経過した写真から車番を特定するというものです。153系は旧形国電とは違い、差異が少ない車両だと思っていましたが、ヘッドライトの大きさ、ワイパーの色の他、ヘッドマークの汚れ、塗装の剥げ具合の特徴までもが手掛かりとなり、見事に車番が特定されました。
 その他、武豊線沿線の車両解体工場、名鉄三河線の右側通行の話題や貨物列車の話題には多くの読者が情報提供をして下さいました。それに関連して、写真や資料を送っていただいたことはたいへんありがたく、嬉しいことでした。
 (そういえば、ここ最近は読者に参加していただけるようなコンテンツを作ってきませんでした。このあたりは改善しなくてはと思います。)

インターネットは今でこそ当たり前の存在になっていますが、10年前はまだまだ新しい媒体でした。掲示板というコミュニティーが形成され、そこに集う見ず知らずの方々と会話を交わすことができるのはとても新鮮な感覚でした。掲示板に書き込み、それに対して返信があることが不思議で、そのこと自体が楽しいものでした。
 しかし、お互い生身の人間。一度直接会いましょうということになってきます。相互リンク先「DISCOVER JAPAN」さんの掲示板には開設初期の頃から出入りしていましたが、そちらの常連さんとは今も交流が続いています。また、名鉄系を扱うサイトオーナーさんのオフ会も開き、大阪にいた私もお誘いをいただき、各地へ一緒に撮影に出掛けました。(しかし、メンバーの転勤や、3400系やパノラマカーの引退と共に会う機会も減ってしまいました。)
 他にも碧電を通じて直接お会いする機会ができたり、撮影地で「いつも見ています。」と、直接感想などを聞かせていただいくことがありました。「長年の疑問が解消した。」「少年時代、夢中になっていた頃を思い出して懐かしかった。」「○○線を撮っている人がいるとは思わなかった。」などの声を聞かせていただいた時には「やっていてよかった。」と充足感を得ることができました。

■碧電の今後は

ここ数年、ブログが流行し、HTMLを自分で書くのはどうも・・・と言っておられた方も続々ご自分の作品をネット上に公開されるようになりました。9周年企画で扱ったキハ91形など、ネット上ではあまり見かけなかった形式も、少し検索するだけで多数のサイト(ブログを含む)で扱われていることがわかります。
 ブログの普及は貴重な作品を世に出すことには大いに貢献しています。しかし、その一方ではテーマが絞り切れていない類似のサイトが増え、ニュースものを扱うサイトでは報道合戦のような状態となります。あふれるような情報過多ぶりに、私自身は食傷気味であることは確かです。

さて、冒頭で碧電開設当時の各線の様子を書きましたが、大雑把過ぎて今との比較がしづらいかもしれません。主な変化を挙げてみましょう。

JR在来線


新幹線

名鉄(碧海エリア関係)

愛知環状鉄道



いかがでしょう。リストアップしていてため息が出ました。私個人の価値観ですが、この10年だけでもこの地域の鉄道が趣味的にはずいぶんつまらなくなったものだと言わざるを得ません。タイムスパンを広げれば、その落ち込み方はさらに激しいものがあります。バラエティーが明らかに縮小していることや、特に在来線では「意欲」の低下が感じられます。一例を挙げれば、一世を風靡したパノラマカーの後継車が銀色のロングシート車では役不足は明白です。
 ターゲットの減少によって、今までならば見向きもされなかったような列車にファンが集まったり、「ネコが三つ子を産んだ」程度のことまで話題にしなくてはならなくなっています。あるいは、世間一般との距離がより遠くなる方向に価値を見出すしかないのでしょうか。
 このような状況を受けてか、事実上更新を停止されてしまったサイトが散見されたり、撮影地であれほどよく見掛けた人がほとんど見掛けなくなったという方が何人もいらっしゃいます。碧電でも度々情報提供や掲示板への書き込みをいただいていた方々の多くがすっかりご無沙汰となってしまいました。
 今後はますます画一化が進むことでしょう。魅力に乏しい環境の下、これまでの10年を上回るものを作る自信はありません。私自身が面白いと思わないようなものを人に面白く見せることはできないのですから・・・。
 10周年の抱負としてはネガティブなものになってしまいましたが、これからも地元の鉄道の記録を末永く残す役割の一端は担っていきたいと考えています。

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