構内放送ログ

手動編集による皆様の声のコーナー「腕木信号」に掲示板を設置して3年が経過しました。掲示板をスレッド型に変更しましたので、手動編集による転載を休止します。このページはトップページ「構内放送」のログを掲載していきます。

乗車券発行

ホームタウンから


碧海電鉄全線


発行当日限り有効 0円
(碧海電子鉄道)ホームタウン駅発行
 
   

半年を経過したログの公開を終了しました。(25.4.6)

●構内放送(25.4.6)【名鉄5000系(先代)】

フイルム消化で撮ったものが40年の時を経て、貴重な1コマになりました。(←拡大画像 javascriptを使用) 新年度最初の更新となります。恒例により、過去ログは半年を経過した記事の公開を終了しました。
 40年前の大学卒業前後、同級生は余裕のある生活、人によっては海外へ卒業旅行に出掛けた人も少なくありませんでした。しかし、学外の研究室へ行っていた私たちはその研究室の流儀に従いました。卒業式後も研究室に行って残務をこなし、最後までバタバタを強いられました。
 私は東京に残って就職することになっていました。両親に卒業証書を見せるために帰郷しましたが、滞在できるのは2〜3日だけでした。
 引退が近いクモニ83や、田端から稲沢に転入した初期型EF65PFを撮ったりしました。次に帰って来られるのは夏休みになりそうなため、モノクロフイルムの現像を済ませてしまおうと思いました。3/28の午後だったと思いますが、名鉄名古屋本線の境川の堤防へ出掛けました。フイルムの消化が目的のため、数を減らしていたAL車や、SR車で珍しいと思ったものを中心に撮りました。普段ならば見過ごしていたものまでシャッターを切っています。
 消化とはいえ、40年が経つと、写っている車両で今も走っている形式は6000系、6500系くらいになっています。未撮影のコマが残ったまま現像してしまうよりも、はるかに価値のあるものになったと言えましょう。
 今回は撮っておいてよかったと思った1コマを掲載します。それは5000系です。若い皆さんはパノスパからの機器流用車を想像されるでしょうが、私たちの世代はやはり丸っこいスタイルのこちらです。
 4年間の大学生活中、5000系だけでなく、名鉄自体の撮影の機会が激減していました。5000系については中学生の頃に撮った1コマしかなく、フイルム消化のために撮った1コマが貴重なものになりました。
 このネガは最近再スキャンしました。ASA32のフイルムを特殊な現像液を調合して約200まで増感しています。20年前のスキャナーでは特に暗部の描写がよくありませんでした。スキャナーを変えたところ、大幅な画質改善が見られました。(25.4.6)


●構内放送(25.3.30)【動画:名鉄9522、9523F甲種輸送、名古屋臨海鉄道東港発車】

動画の閲覧はこちらから (←動画の閲覧はこちらから) 25.3.26、名鉄9500系9522、9523Fが日本車両から出場しました。前回の2.19輸送分については、EF64とDD200のプッシュプル編成であったことを本稿でも扱いました。それが、今回はDD200の単機牽引に戻りました。
 年始以降、豊橋駅の配線や信号などの改修工事が行われ、一部のポイントが一時的に使用停止になっていました。工事が完了して、ダイヤ改正以降は再び使用できるようになったとみられます。そういう意味では、プッシュプル編成、とりわけEF64が充当される列車はたいへん貴重なものであったと言えましょう。
 笠寺で一泊する行程は改正以降も変わりません。翌、3.27に同駅を発車。名古屋臨海鉄道の東港で反対側への機関車の連結、車掌車1両の切り離し、転線作業が行われました。
 今回は転線後、名電築港へ向けて発車するところを録りました。すぐ踏切を渡りますが、ここは電鐘式の警報機が残っています。それがここを選んだ理由です。そして、もう一つ、春休みに入っていたため、名電築港、東名古屋港付近は混みあっていることが予想されました。それゆえ、避けた方がよいと判断しました。
 ただ一つ残念なのは、映像の最後、横着な運転をする車が写り込んでしまったことです。完全に消えてほしいものでしたが、せめてもの意思表示としてモザイクを入れました。
 次回の更新は新年度となります。本稿過去ログは半年を超えた記事の公開を終了します。(25.3.30)


●構内放送(25.3.23)【シリーズ40年前/185系並の塗装となったクロ157】

185系に合わせた塗装になり、この日、初めて本番のお召列車に充当されたクロ157。特徴的な4枚折戸が確認できる。回送のため、菊のご紋章は未取り付け。1985.3.20 品川(←Xの投稿です) まずは雑談から。長年使っていたシェーバーが壊れました。1986年、会社の創立何周年かの記念品でもらったものです。つまり、39年近く使っていたものです。電池式の通称「トラベルシェーバー」ですが、ほとんど毎日のように使って来ました。
 商品名で検索したネットの口コミを見ていたら、「スイッチになっているプラスチックのリングが割れてしまった」というコメントがありました。私のものも同じ壊れ方です。この方も長年使用されたとのこと。やはり長持ちするものだったのですね。いまどき、このような長寿の家電があるでしょうか。
 さて、今回はシリーズ40年前です。40年前は大学を卒業という時期でした。同級生は卒業旅行として、海外に行った人が目立ちました。しかし、学外の研究室に行っていた私たちはそのような余裕がありませんでした。
 その頃の国鉄はといえば、85.3.14ダイヤ改正がありました。東北上越新幹線が上野まで開業して、在来線にも大きな動きがありました。大宮−上野の「新幹線リレー号」の運転が終了。185系200番台の一部は田町へ転属して、「踊り子」に使用されるようになりました。それと同時期に、転入車の一部はお召牽引車の指定を受けました。
 クロ157は185系との併結のための仕様変更を受けることになって、ダイヤ改正間際の頃は使用できませんでした。そこで、85.3.12に運転された伊豆急下田行のお召列車はEF5861+1号編成となりました。ご公務ではなかったため、国旗の掲揚は省かれましたが、非公式お召列車にEF5861が充当されるのは異例なことでした。
 ご静養からのお帰りは85.3.20。このとき、185系+クロ157のお召列車が初めて運転されました。
 本列車については、雑誌の付録のダイヤには「(臨)」という表示の列車番号なしのスジがありました。しかし、送り込み回送列車については情報がありません。この日はたまたま撮れたものであったと記憶しています。
 その後、185系+クロ157のお召電車の運転の機会は減少。ほとんど平日の運転であったことから、就職後には撮影のチャンスがありませんでした。新塗装の同車を見たのはこの日限りとなりました。(25.3.23)


●構内放送(25.3.9)【動画:ロイヤルエクスプレス四国ツアーからの返却甲種輸送】

動画の閲覧はこちらから (←動画の閲覧はこちらから) 昨年に続き、四国でツアー列車に使用された「ロイヤルエクスプレス」が3.13の8862レで帰って行きました。牽引はEF210-356号機でした。当初はお手軽に近場で撮ろうかと思いました。しかし、同じ構図の写真を量産したところで面白味に欠けるきらいがあります。なんらかの工夫を盛り込みたいと思いました。
 そこで思いついたのは、8862レが大府から本線をオーバークロスして行くところを動画に納めることでした。アップダウン、両側面が映るタイミングがあります。映像として面白いものになるのではないかと考えました。
 ここで撮るのは初めてではありませんが、曇っていたため、反対側から撮ってみることにしました。
 手ブレ補正にデジタルズームによるフレーミング調整、画質劣化防止(インタレース解除)と、手間をかけたものになっています。どうぞご覧いただければと思います。(25.3.16)


【衣浦臨海鉄道KD58デビュー】

半田埠頭到着後、目立った動きがない中、ダイヤ改正当日から運用を開始した衣浦臨海鉄道のKD58-1(←拡大画像 javascriptを使用) 衣浦臨海鉄道のKD58は24.11.20に半田埠頭に到着しました。その後、見学イベントはあったものの、目立った動きが見られませんでした。
 ところが、ダイヤ改正当日、Xを見ていたら、大府駅にKE65と共に留置される同機の写真があり、驚きました。
 いつの間に試運転、訓練をしたのだろうか?どちらも実施されたはずですが、少なくとも広く話題になることはありませんでした。
 3/15は551レから運用を開始したとのこと。大府に留置されている2両が翌朝の碧南市行「白ホキ」の牽引機となります。3/16には番狂わせなしに5570レに充当されました。碧南市到着後はこれまでの運用と同様に先頭のKE651が5571レでホキ6両を牽引。KD58は5573レで残りの4両を牽いて大府に戻りました。この列車が碧南線で初めて先頭に出た列車となりました。
今のところ、機関車の運用順序、ダイヤに大きな変化は見られません。今後の動向にも留意していきます。
碧南線には25.3.16に入りましたが、5570レの次位でした。翌3.17は同列車で先頭に立ちました。(←拡大画像 javascriptを使用)皆さん早く見たいと思いますので、撮れたてKD58-1先頭の重連を追加アップします。(25.3.16、3.17写真追加)


●構内放送(25.3.9)【貫通幌付名鉄9100系の試運転が始まる】

9121F試運転。滑走しやすい霧雨の中、非常制動試験も行われた。(←拡大画像 javascriptを使用)25.2.19に甲種で大江に到着した9100系2本と9500系。前面に貫通幌が取りつけられるという仕様変更がありました。それらのうち、9121Fの試運転が3/4から始まったという情報があったため、3/5に行ってみました。これまでの新車と同様、伊奈と豊明の間を往復しているようです。
 種別、行先表示のLEDは在来車よりもだいぶ小さくなりました。また、前評判によれば、写真写りの面でも、このLEDは高速シャッターでは切れてしまうらしいとのことでした。初日の試運転では、明らかに表示が切れている写真をSNSで見かけました。
 3/5は日中霧雨でした。空転を起こしやすい気象条件です。写真の列車はこのあと急減速して踏切の前で停車しました。試運転なので、ブレーキのテストも行っているようです。滑りやすい条件下で急制動をかけたためでしょうか。フラットが生じていました。
 今のところですが、前例どおり、試運転は3日間にわたって実施されるようです。3/7からは9122Fに変わりました。
 これらが営業デビューすると、最古参現役車になった6000系6003Fなどの動向が気になるところです。(25.3.9)


●構内放送(25.3.2)【久しぶりの客車団臨の撮影に サロンカーなにわ琵琶湖一周】

当初構えていたポイントは木の影が伸びてきたため、急遽場所を移動(←拡大画像 javascriptを使用) この週末はサロンカーなにわを使用した琵琶湖一周ツアーの団臨の撮影に出掛けました。昨年、通称「米原訓練」で走った同車を撮る機会はありましたが、それから1年近くのブランクがありました。
 このところ、同車を使った団臨がしばしば運転されています。全国的に客車列車が激減してしまった状況ゆえか、トラブルの話が頻繁に聞かれます。たいへん残念に思います。「激パ」と呼ばれる大混雑の中に入り込む気になれず、なかなか足が向きませんでした。
 それでも、今回は大阪−敦賀の全区間をEF65PFが担当すると聞きました。これまでに運転された琵琶湖一周列車はEF81ないしはDD51が充当されていたため、PFならば行こうかと思った次第です。
 撮影ポイントについては、同行したNさんにお任せしました。先月末の寒波によって日本海側を中心に相当な積雪がありましたが、まだ残っていました。
 写真は米原経由で運転された復路の列車です。余呉−木ノ本のポイントには大勢の方がいましたが、分散していたためか、特に混乱はありませんでした。
 当初構えていたポイントは次第に木の影が伸びて来て、まだら状になることが心配されました。そこで、急遽まだ陽が当たっている場所に移動しました。身勝手な人はおらず、後方の人たちの邪魔にならないように皆さんがポジションを低くしていました。
 せっかく条件がよい場所に移動したものの、間もなく通過というときになって雲がかかってしまいました。それでも、通過時には薄日が当たりました。
 Nさん、長時間の運転、お疲れ様でした。(25.3.2)


●構内放送(25.2.16)【名鉄9100系、9500系甲種もEF641037とDD200-11のペア担当】

前面貫通形にモデルチェンジした9100、9500系の甲種(←拡大画像 javascriptを使用) 2.9付本稿では、日本車両へのヨ8000形緩急車の送り込みを扱いました。2両を回送するためにEF64とDD200のプッシュプルという「豪華」な編成であったこと。大府以東へEF64が自力運転されるのは久しぶりであると思われることを記しました。
 そのヨ8000を使用した名鉄9100、9500系の甲種輸送が25.2.19に実施されました。結局、2.7と同じ機関車が使われることを知ったのは、運転当日になってからでした。
 豊橋では5番線に甲種が入線。EF64は4番線で待機して、東海道下り方から5番線に転線、連結されたとのことです。まだ駅構内の工事の関係で機回しが行えない模様です。
 1.8に行われたJR四国向けレール輸送車の甲種では、飯田線内を担当したDD200は豊橋で切り離しとなりました。しかし、今回は最後尾に連結されたまま豊橋を発車しました。
 笠寺に到着したあと、名鉄車の留置線への移動はDD200によって行われたようです。その計画があれば、DD200を切り離さなかった理由が見えてきます。
 この列車をどこで迎えるか。私個人は矢作川橋梁の一択でした。その理由は編成の記録を重視したためです。EF64とDD200の形式がわかること。9100系2本+9500系の組成がわかりやすいこと。この2点にこだわったものです。他にも引きが取れる場所はありますが、追い掛け族が直前に画角に入り込んでくるようなトラブルが起こりかねないと考えました。
 通過の10分くらい前までは晴れていました。ところが、みるみるうちに黒い雪雲が接近して、間際には雪が舞い始めました。肝心なところで陰るのは長年の活動でいやというほど経験しています。天下無敵の雨男ぶりは私の宿命だと諦めています。
 それでも、2点の目標は達成できました。名鉄車の境目2箇所はポールに重なることを回避できました。結果的にではありますが、そこも満足評価です。通過後は激しい吹雪になりましたので、その前に撮れたのはまだましであったという状況でした。(25.2.24)


●構内放送(25.2.16)【シリーズ40年前/雪の吾妻線、EF15が牽くサロンエクスプレス東京】

雪景色の吾妻線 EF15+サロンエクスプレス(←Xの投稿です) 2/3〜の週は10年に1度の寒波襲来と言われました。この週末は比較的暖かくなりましたが、週明けからは再び寒波がやってくるといいます。年によって偏西風などの影響による気候に傾向がありますが、この冬は寒波が流れ込みやすいのかも知れません。
 さて、今回はシリーズ40年前です。吾妻線で走ったEF15が牽くサロンエクスプレスです。過去の本稿を確認したところ、まだ載せたことはないようです。
 当時は卒業研究の提出が迫っていました。前年の秋くらいから忙しくなり、週に何回かは終電で帰宅していました。
 そんななかに入ってきたのがEF15+サロンエクスプレスの情報です。吾妻線は線路が貧弱であったため、EF15がこの線のために残されてきました。それがDD51に置き換えられることになって、最後の機会になることが見込まれました。
 論文を一緒にまとめていた同期に相談しました。すると、「行っておいでよ。資料のまとめは日曜日にやろう」と言ってくれました。
 後輩が車を出してくれることになって、運転前夜に集合して現地を目指しました。出たときは雨でしたが、吾妻線内は雪でした。
 情報を入れて下さった方。休みの振り替えを了承してくれた同級生。一緒に出掛けた後輩たち。いろいろな人々のお陰で得られた成果でした。
 撮影地の川原湯−岩島ですが、八ッ場ダムによって水没、線路が付け替えられた区間があります。写真のあたりは建物が増えて、既に撮れなくなっているようです。(25.2.16)


●構内放送(25.2.9)【EF64が久しぶりに大府以東へ、DD200とPPでヨ8000を回送】

車掌車2両をEF64とDD200のプッシュプル編成で回送(←拡大画像 javascriptを使用) 2.7の早朝、ちょっと珍しい列車が走りました。ヨ8000形2両をELとDLで挟む編成でした。ヨ2両の回送はこれまでにもしばしば実施されています。日本車両からの甲種輸送で添乗員が乗車するための車両をあらかじめ送り込むのが目的です。運転時間帯も似通っています。
 ここ最近の事例では、DD200が単機で牽引して、豊橋で機回しを行ったうえで飯田線へと入って行きました。しかし、今回はEF64が先頭に立ち、豊橋駅では機回しを行いませんでした。EF64はDD200+ヨが発車したあと、単機で稲沢に戻っています。
 豊橋で機回しを行わないという動きは、今回が初めてではありません。25.1.8に実施されたJR四国向け9000系気動車(キヤ97の四国版)甲種も従前とは異なる運転になりました。飯田線内を牽引したDD200の機回しを行わず、西小坂井で待機していたEF210が下り方に連結されました。
 この措置は豊橋駅の配線変更が絡んでいる模様です。これまで豊橋駅での乗り換えが4、5番線から8番線というように、ホームが離れていたものを、名古屋方面からの列車の発着を7番線とすることで、同じホームでの乗り継ぎが可能となるように改善したものです。
 そのための工事の一環として、飯田線から東海道下り線に向けての甲種輸送の機関車の「機回し」が行えなくなってしまったようです。その結果、JR貨物としては機関車を2両用意して、運転士も2名必要になりました。
 これが一時的なものなのか、今後はこのパターンが継続されるのかは、いまのところわかりません。
 日車では名鉄向けの9500系前面貫通仕様の新車が工場から出て入換を行った様子がSNSに投稿され、大きな反響がありました。2024年度の計画として名鉄が公式に発表していることからも、近いうちに出場してくるものと考えられます。
 EF64が大府以東に自力走行で乗り入れるのは、2021.3ダイヤ改正以来と思われます。そこも注目される点でした。(突発的な代走の有無は把握していません。)(25.2.9)


●構内放送(25.2.2)【名鉄空港線開業20周年】

聚楽園、金山では折り返しのため、乗車したまま入換を実施。(←拡大画像 javascriptを使用) 表題のとおり、空港線全面開業、2000系ミュースカイのデビューから20周年となりました。当時、私は大阪在住。3・3・Sunフリー切符を利用して何度か空港線、常滑線を訪れました。開業時のダイヤ改正ではリバイバル色の5500系3本が引退しました。それまで続けてきたNSR車(=SR併結可の7000系または5700系の6連)の運用記録を終了としたのは、とても寂しい気持ちになったのを思い出します。記録そのものよりも、どんな流れの運用が行われたかの考察が楽しいものだったのです。
 この週末は記念に運行された「ブルーミュースカイ」2003Fによる団臨を撮ってきました。
 新鵜沼を出て、中部国際空港へ。折り返しいったん聚楽園へ。ここで折り返して太田川から河和へ向かいます。私は河和線内、写真の場所で迎えました。以前、2000系+9500系が運転されたときにもここを訪れています。今回はそのときよりも撮影者が少なかったようです。
 再記になりますが、富貴−河和口間には過去にもう2駅がありました。写真の先頭車右寄りあたりにあったのが四海波(しかいなみ)。このあたりは別荘地でもあったようです。そして、次の布土(ふっと)は四海波の廃止によって駅間調整が行われ、移転しました。しかし、利用者減少によって、結局廃止になってしまいました。
 撮影後はその布土の名が付く肉屋さんへ行きました。マスコミにもたびたび登場するお店です。そこで総菜を購入して帰宅しました。知多牛コロッケにはミンチかつかと思うほど肉が入っていました。(25.2.2)


●構内放送(25.1.26)【動画:383系車体傾斜実演-さわやかウォーキング神領車両区-】

動画の閲覧はこちらから (←動画の閲覧はこちらから) 今月2回目となるさわやかウォーキングに参加しました。神領駅から神領車両区、リニアの非常口縦孔を巡って、春日井駅がゴールとなるコースでした。
 好天に恵まれたこと、鉄道に関心を持つ方が増えていることがあったのでしょう。コースは人が途切れることがないほどの盛況でした。
 神領車両区と言っても、既に配置形式が限られます。クモヤ90やクモエ21などの事業用車の配属がある頃に行きたかったとは、ぜいたくな望みでしょうか。
 それでも、予告された383系と315系が置いてあるだけではなく、383系の振り子制御機構を用いた車体傾斜の実演は見所となりました。これほどまでにはっきりとわかるほどの傾斜が可能なのかと驚きました。
 今回ご覧に入れる映像は台車部分のアップですが、窓ガラスに映る背景でも傾いている様子がよくわかるかと思います。(25.1.26)


●構内放送(25.1.19)【動画:さわやかウォーキングでEL急行臨時停車】

動画の閲覧はこちらから (←動画の閲覧はこちらから) 先週の記事は大井川鐵道の門出駅がゴールとなるさわやかウォーキングについて書きました。写真は元南海6000系の「直行」を使用しました。ところが、碧電をご覧いただいている方には全くの不人気でした。
 当日撮った動画は公開を視野に入れてはいませんでした。そのつもりであるならば、もっといろいろなシーンを細かく撮ったことでしょう。あくまでも「自分用」として備忘録がわりに撮ったものでした。
 しかし、PCに取り込む前から何度も再生したくなります。客車列車に触れる機会が激減している昨今、十分に楽しんでいただけるのではないか。素材不足を写真で補いながら、内容の充実を図ったつもりです。
 撮影や客車列車の乗車はさわやかウォーキングの余興のはずでした。しかし、実際にはメインイベント以上に楽しむことができました。(25.1.19)


●構内放送(25.1.12)【新年ご挨拶/磐越西線のお召列車】

通称「フルムーンお召列車」磐越西線の担当はED7712号機(←Xの投稿です)久しぶりにXの埋め込みを使ってみました。新年ご挨拶の第2弾として、1984.9に運転された通称「フルムーンお召列車」です。
 磐越西線では約束をしていない鉄道研究会のメンバーに会い、車に乗せてもらうなど、世話になりました。
 ED7712号機が牽くお召列車は急に流れて来た雲に太陽が遮られる直前。辛くも晴れカットになったものです。若干早切り気味なのは、その心理が現れたものです。
 東京生まれ東京育ちなのに「Vや!Vや!」を連発していたOBの先輩。記録ノートを眺めていて、運転してくれた人(鉄研同期の後輩)の希望で磐梯急行(=現実的には大げさすぎる社名)の遺構を見に行ったことを思い出しました。楽しかった1日がついこの間のような感覚になります。


【大井川鐡道門出駅のさわやかウォーキングに参加しました】

さわやかウォーキング終了後も門出への直行電車が運行された。(←拡大画像 javascriptを使用)年末であったと思いますが、公式HPで金谷発、大井川鐵道の門出がゴールとなるさわやかウォーキングの広報がありました。写真は元南海6000系が「直行」のマークを掲げています。こんなのを走らせますよという宣言にも受け止められました。
 この6000系、入線はしたものの、4年以上経っても営業デビューしなかったものです。制御装置の関係で変電所に大きな負荷がかかるとの噂が流れていましたが、真相はわかりません。
 「直行」とはさわやかウォーキングでゴールした参加者を運ぶため、基本的には途中新金谷のみ停車(他に運転停車あり)で金谷−門出で運行された臨時列車です。予告(?)どおり6000系が丸い系統板が掲げられました。これは南海電鉄で方向幕が使われる前に使用されていたものを模したものです。
 参加者向けに門出−金谷が乗り放題となるフリー切符が発行されました。私も金谷でコースマップを受け取るのと一緒に購入しました。門出ー金谷の片道分280円で乗り放題とは大盤振る舞いですね。これで臨時停車の「ELかわね路」にも乗車できました。金谷まで乗車した後、新金谷までの回送を営業運転する列車にもそのまま乗車しました。SL牽引の普通、805列車です。
 これだけ楽しませてもらって280円ではさすがに申し訳ないことや、不通区間の復旧に僅かでも貢献できればとの思いがありました。プラザロコでフリー切符の10倍くらいのお土産を購入しました。(25.1.12)


●構内放送(25.1.5)【謹賀新年/名鉄8800系+7000系】

パノデラ+7000系白帯車#展望席の高さの違いがよくわかる 1985.1.2 美合−男川(←Xの投稿です) 明けましておめでとうございます。お勤めの方は9連休であったという方が多いのでしょうか。うるう年が入るため、同じ曜日配列は5年ないしは6年に1回ということになります。東京、大阪勤務時代は休みが長くなるのはありがたく思いました。
 さて、今回は40年前の正月に走った名鉄のパノデラ+7000系白帯車です。画像補正の都合上、Xと同じ写真にさせていただきました。
 8800系パノラマデラックスは前年12月にデビューしたばかり。何で知ったのかが思い出せませんが、初詣輸送でこの編成の特急が設定されることを知りました。
 1/2にYMさんと一緒に撮影に出掛けました。幸いにも朝から快晴。パノデラ自体が初見であることもあって、ワクワクしながら列車を待ったことを思い出します。
 しかし、翌年以降はこのような併結は行われなかったのではないかと思います。当時はパノデラがデビューしたばかりで、座席料金が違うことはまだ浸透していなかったと思われます。座席券は車内で買えばよいと考えて飛び乗る方もいたことでしょう。パノデラのほうに乗って500円言われ、「なんでそうも高いだ!」と怒る人がいたかも知れません。
 また、両車の間は非貫通のため、パノデラの座席券を買って間違えて白帯のほうに乗ってしまったりすると、乗り移りができません。以上は想像になりますが、きっといろいろなトラブルがあったのではないかと推察しています。
 昨今は「それ以前の問題」として、正月輸送特別ダイヤが組まれることがなくなってしまいました。定期列車以外にも初詣団臨が設定されて、三河線に8800系や1000系が入ったこともありました。近年では、これらの話題もありません。ほんとうに寂しくなったものです。
 新年早々ぼやきになって恐縮です。本年もどうぞよろしくお願いします。(25.1.5)


●構内放送(24.12.29)【北陸、能登応援ヘッドマークを掲げたEF510】

北陸、能登応援ヘッドマークを掲げたEF510銀ガマ(←拡大画像 javascriptを使用)年内最後の定期更新となります。
 Xでは2024年のまとめとして、ご自身で撮られた写真の代表作、印象深い列車をアップされている方が目立ちます。では、自分はどうなのかと、画像ホルダを眺めてみました。
 日頃の日常の記録こそが後々大切なものになることはわかっているつもりです。しかし、どうしても「変わった列車」重視となることは、ずっと変わっていません。最近は動画だけパーンしながら撮ることも増えて、同時に写真を撮るのは難しくなっています。さらに言えば、今年2024年は古い車両の置き換え=新車試運転、甲種、廃車回送などが昨年よりも大幅に減っています。その結果、これと言った写真があまり見当たりませんでした。(これはと言う話題があれば、その都度掲載してきました。)
 少ない写真の中から選んだのは、ヘッドマーク付きのEF510です。震災や水害を受けた能登地方を応援したいと、富山機関区若手社員さんの発案によるものと聞きます。508、509、514、515の4両に取り付けられています。いずれも元JR東日本の寝台特急牽引機であり、ヘッドマークステイがあったために起用されたものと思われます。今のところ近場まで来たのは509と515のみです。JR貨物職員さんの思いが伝わってくれればと思います。
 今年もご覧いただきましてありがとうございました。次回更新はは25.1.5を予定しています。皆さま、どうぞよい新年をお迎えください。(24.12.29)


●構内放送(24.12.22)【名鉄揖斐線のモ702(元瀬戸線)】

美濃北方で折り返しを待つ揖斐線の区間運転列車(←Xの投稿です) 先週、2コマ目で公開した樽見鉄道の客車列車。このあとは東大垣からレールバスに乗車。北方真桑で降りて貨物列車を撮りました。そして、名鉄揖斐線の美濃北方まで歩きました。
 反対側のホームに停まっていたのはモ702+ク2323です。いずれも1978年3月の瀬戸線昇圧まで同線で活躍していました。
 瀬戸線の中でも小型で古かったモ700形が新たな職場に転じたのは驚きでした。当時はまだ窓がアルミサッシ化されておらず、塗装がスカーレット化された以外では、サボ受けが取り替えられたくらいです。瀬戸線時代からの変化は小さかったと言えましょう。
 記録ノートを見ると、この電車に乗ったのではなく、新岐阜直通の急行を待ったようです。モ510形であったことと思いますが、全く記憶がありません。(24.12.22)


●構内放送(24.12.15)【今回は30年前と40年前/キハ82系、樽見鉄道通学列車】

夕日を浴びて高山線をゆくキハ80系6連。JR東海さんはよくここまで美しい姿で最終走行をさせてくれたものです。(←Xの投稿です) 今週はXで好評をいただいている2題を扱います。
 まずは30年前の1994年12月です。1990年にキハ85系量産車が投入された「ひだ」。さらに2年後、「南紀」も同系に置き換えられました。それでも、キハ80系のうち、検査期限に達していないものは臨時列車用に残されてきました。それらについては、1994年10月からはいよいよお別れ興行に入ったと言えましょう。
 注目されたのは、10.25の高山線60周年記念列車。JNRマークの取り付けのほか、褪せていた塗装が一新されました。
 12.10の高山線最後の運行は運転時刻が早く、当時住んでいた大阪を朝一番の新幹線で出ても間に合わないものでした。当日は高山−飛騨古川で高山線60周年のSL列車も運行されます。12/9の夜、大阪市内で24時間の契約でレンタカーを借りることにしました。Hさんを犬山遊園駅で拾っていく約束をしたため、寝過ごしてはたいへんです。結局、ほとんど眠ることができずに3時過ぎには出発しました。
 日の出が遅い山間部ゆえ、下り列車は山影に入ってしまいました。そこは夜通し走ってきたことが報われませんでした。
 気を取り直してC56+12系を撮りに行き、キハ82系の復路は一番人気の飛騨一ノ宮のカーブにしました。一時薄雲が広がったものの持ち直し、良好な光線の下を通過していきました。
 Hさんは知り合いが乗せていってくれることになって、私は大阪への帰途を急ぎました。まだカーナビはない時代。最悪でもレンタカーの営業所が閉店する22時までには車を返さなくてはなりませんでした。
 前夜は寝ていないこともあって、延々直線が続く名神高速は眠気を誘ったことを思い出します。よい条件で撮れたのはなによりでしたが、それなりに苦労した1コマとなりました。(24.12.15)


【樽見鉄道の客車列車とEF58が並走】

樽見鉄道の客車列車とEF58が並走(←Xの投稿です) 40年前の10.23、所用のために帰省しました。前夜の大垣夜行に乗車しましたが、早朝に家族を起こすのはためらわれたため、そのまま大垣まで乗車して樽見鉄道を訪れました。
 同社はまだ第3セクターとして開業して間もない頃。1984.2ダイヤ改正でDE10形に余剰車が出ている環境下、TDE101号機を新製したことや、旧形客車2両のほかは2軸のレールバス3両だけの旅客車でスタートしたのは極めてユニークでした。
 当時は衣浦臨海鉄道の輸送量が低迷しており、DL2両は同社からの移籍車で賄われました。国鉄時代からのセメント輸送が同社の経営を支える柱になったものと思われます。しかし、線内の貨物輸送および朝の通学列車のために短い路線ながらもDL3両を用意する必要があったことになります。
 1両あたりの走行距離が伸びず非効率であったのは自明であり、大胆な考え方をすれば、同じ系列機を使用する国鉄(運用範囲を限って)、衣浦臨海、西濃鉄道、樽見鉄道で機関車や保守体制を共用化してもよかったのではないかと思ったことがあります。まぁ、財産管理上、それも難しかったのでしょうね。(24.12.15)


●構内放送(24.12.08)【衣浦臨海鉄道KD58、名鉄ハイキングで公開】

名鉄ハイキングのコース内で展示された衣浦臨海鉄道のKD58(←拡大画像 javascriptを使用) 12/7、8の名鉄ハイキングでは、立ち寄り先に衣浦臨海鉄道の半田埠頭の機関区(技術区)が含まれていることは、かなり早い段階から認識していました。「当日はアレが見られるかも?」という意味深な記載があったのですが、それがKD58形を指していることがまもなく確信的になりました。川崎車両で同車が製造中であることや、完成が近い姿であることが明らかになったためです。
 ところが、12/2の夜、就寝後にわっと発熱したことに気づきました。翌日は1日寝て過ごしました。
 幸いにも早々に熱が下がったほか、咳や身体の痛みが悪化することはありませんでした。
 週末前に散歩で「試運転」を実施。途中でしんどくなるようなことはありませんでした。休憩を取りながらであれば、ハイキングコース7kmの踏破は可能と判断しました。
 半田埠頭に入場したのは何年ぶりでしょうか。DD51が入線した際やKE652号機にお召並みの装飾を施したときなど、当時のことが懐かしく思い出されます。
 気になるのはKD58がいつごろから動くかですね。職員さんに尋ねている方が見受けられました。お話によれば、運転する人も保守をする人も訓練がまだまだこれからのため、決まっていないということでした。きっと計画はあるのでしょうが、ネット等を通してわっと拡散されて、尾ひれがついてデマも含まれて・・・などということを警戒されていることでしょう。
 伺ったことをもう少し記せば、KE65保守用の部品がなくなってきているそうです。また、JR東日本の秋田総合車両センター側も保守、検査の受け入れが難しくなってきているということでした。
 KD58は立派なヘッドマークを取り付けていました。会社関係者の期待の高さが伺えます。
 最後になりますが、質問にお答えいただいた職員の皆様、ありがとうございました。(24.12.08)


●構内放送(24.11.24)【千代田線直通用の103系1000番台が常磐快速線用に】

一般形クハ103を先頭にした103系1000番台の編成(←Xの投稿です) 2024年は残すところ1ヶ月になりました。今年は10月、11月初旬にかけて平年よりも気温が高い日が続きました。秋を感じさせない気候が続いたせいでしょうか。余計に年末が迫っていることを実感しづらかったのかも知れません。
 さて、今回は「シリーズ40年前」になります。この写真をXに投稿したところ、久しぶりの1000超「いいね」をいただいたので、定期更新でも紹介したいと思います。
 40年前の常磐線は緩行線〜地下鉄千代田線直通用の103系が順次203系に置き換えられていました。運用を外れた103系1000番台はまだ廃車にするほど古いものではありません。1984年の夏には中間車を105系に改造したものが現れました。
 所属区である松戸を離れなかったものは、快速線に転用されるものが出てきました。その中で特筆されるのが、先頭車だけは一般形で、中間車は1000番台という編成ができたことです。まだ1000番台は緩行線色のままであるため、文字どおり異色の存在でした。
 先頭車はクハのため、走行性能には影響がありません。しかし、ブザーの回路に相違があったため、クハは1000番台に合わせる改造を行ったそうです。(「B767-281のブログ」を参考にさせていただきました。)1000番台併結対応車であることを表すため、ナンバーの下に白線が入っていました。
 写真の先頭車、クハ103-188は同時期製造のクハ103の中で唯一関東の配属になったこと。1000番台併結改造前は無線を搭載せず、中間に封じ込められていたこと。製造時から「ブタ鼻」ライト、非冷房なのは関東ではこの1両だけだったなど、いろいろな特徴があったとのことです。私はそこまで詳しいことは知りませんでしたが、そこも高評価をいただいた理由なのかも知れません。103系という形式の奥深さを改めて感じさせます。(24.12.01)


●構内放送(24.11.24)【衣浦臨海鉄道KD58形が到着】

いよいよ活躍の場となる区間に入ってきた。(←拡大画像 javascriptを使用) 衣浦臨海鉄道に新しい機関車、KD58-1号機が到着しました。本に「DD200の導入を考えている。」と、会社関係者の談話が載って以来、地元ファンを中心に話題になっていました。
 DD200形と同一のものと見なされますが、形式はKD58。KE65の命名方法を踏襲したものになっています。また、キャブに社名が入ったところも水島臨海、京葉臨海のものとは異なるでしょうか。
 11.6にはKE651号機が秋田総合車両センターから戻ってきたばかりです。当面はKE65も活躍を続けるものと思われます。KD58が今後どのような使われ方になるのかについて、私なりにいろいろ想像していますが、さまざまなことが考えられます。現段階では憶測で書くことは控えます。今後の動向を見守りたいと思います。(24.11.24)


●構内放送(24.11.17)【動画:JR西日本のリニューアル103系】

動画の閲覧はこちらから (←動画の閲覧はこちらから) 20年前の2004年、年明けから夏にかけて、実質上休職に近い状況でした。持病が悪化して入院しましたが、治療が長期化したのです。腸管の炎症を抑えるため、抗生物質を使いましたが、耐性菌のために効かなくなってきました。最後の手段として、食事を完全に断つことになりました。
 当初は自信がありませんでしたが、最悪の場合は命にも関わること。乗り切るしかありません。心掛けたのは以下の2点です。
 1つは厳しい治療をやらされているという受け身、被害者的な意識を断つこと。もう一つは、「仕事のことは忘れて、楽しいことをして過ごす」です。
 栄養を補給する点滴を数時間は止めることができるため、外出の許可が出ました。入院が長期化すると筋肉、骨が痩せます。可能な範囲の外出は予防、リハビリにも有効です。
 病室からは天王寺駅を通る大阪環状線、阪和線、関西線(大和路線)の電車が見えます。ひいきの編成がおいしい運用に入る際、時々ではありますが、外出許可を得て撮影にも出掛けました。
 「1ヶ月を超える絶食治療なのに、ストレスをよくコントロールされていますね。」
 看護師長から言われました。私は前記の心がけについて話しました。
 病室の窓からでしたが、バラエティーに富んだ103系の観察が楽しくて、食事ができないというストレスを受け流すには強い味方でした。
 ここまで、映像の説明からはかけ離れた話になってしまいましたね。想定外の文章です(笑)それでも、厳しい治療を乗り切りるための潤いを与えてくれたのがスカイブルー、うぐいす、オレンジに塗られた103系でした。今回まとめた映像はその思いを込めたつもりです。
 さて、今なお播但線や加古川線で活躍を続けている103系体質改善車について触れておきましょう。体質改善40Nと言われる更新工事施工車。外観上の特徴としては、といを張り上げ屋根タイプにして横といを隠しています。また、側面窓は大きなユニットに交換されました。隅にRが取られて、オリジナル車のような武骨さがなくなりました。これが103系かと思うほどにおしゃれになったと思います。
 当時、40Nとは、改造後、あと40年使うという意味だという皮肉たっぷりのジョークを信じてしまう人もいました。播但線では改造時の目標である寿命40年を超えて、50年に達した車も出ているようです。「あと40年」は無理だとしても、2028年には改造後30年となります。(24.11.17)


●構内放送(24.11.10)【おかげさまで24周年】

5時から7時まで30分おきに寝台特急が来るのが当たり前の時代。(←Xの投稿です) 碧電の開業記念日は11.5です。2000年の同日、朝7:00にアップロードしてから出勤しました。
 当初は宣伝の手段が限られていて、アクセス数はごく少ないのが実状でした。現在のXやインスタのフォローに近いものとして、相互リンクがありました。Agui ネットさんを始めとして、いろいろな方のお世話になりました。
 内容が充実した段階で「Yahoo Japan」に登録を申請。無事に審査を通過して登録された頃からアクセスが伸びていきました。
 それから24年が経過。Xのアカウントには初期の頃からご覧いただいている方々からフォローをいただいています。長年のご贔屓はとてもありがたく思っています。
 さて、恒例の記念画像ですが、碧海エリアを日常的に通過していた24系を外す理由がありません。写真は2段式の25形になってからのものですが、電源車はカニ24でした。
 このカニ246号、民営化後はJR九州の所属となり、2段銀帯の下側が裾の方に移設された異端車だったのだそうです。私はその認識がありませんでした。
 それを知ったのは、鉄友との電話です。間違い電話に折り返したのがきっかけでしたが、金曜日、Xに投稿したこの写真について、前記のことを教えてもらいました。
 思えば、撮影当時はもちろん、1994年12月に「みずほ」が廃止になるまで、碧海エリアでは朝5時から7時まで、おおよそ30分おきに寝台特急が上っていくのが日常でした。

 特段の用件はなかったのですが、鉄友との電話では寝台特急の話題が続きました。
「今ではサンライズが簡単に打ち切りや運休になってしまいますね。」
 「そうだね。なければないで済んでしまう列車になってしまったからね。しかし、40年くらい前は全く位置づけが違っていたんだ。まだまだブルートレインは盆正月を始めとする繁忙期にはなくてはならない存在でね。」
 「1982年8月の富士川橋梁流失事故では、僅か2日で残った上り線を使った単線タブレット閉塞で運転を再開。お盆の長距離輸送を確保したんだ。」
 当時と比べて大きく変わってしまった環境を考えると、やむを得ない面もありますが、当たり前の存在であった列車がみんななくなってしまったのだと、改めて感じているところです。(24.11.10)


●構内放送(24.11.03)【シリーズ40年前/スキー場に売却される旧形客車】

既に譲渡後の仕様である白帯が入っている(←Xの投稿です) 今週はXで多くの方から「いいね」をいただいている写真にしましょう。HDDの中に埋もれていて、撮ったことを忘れていた写真です。
 1984.10、引退した18両の旧形客車が越後中里駅近くのスキー場に搬入されました。更衣室、休憩室として利用するためとのことです。この時点でまとまった数の旧形客車の引退があっただろうかと思いましたが、実際に引退してから廃車の手続きが行われるまで時間があったようです。
 高評価をいただいている理由として挙げられるのは、客車が現存していること。また、搬入時の白帯を既に入れていたことであろうと思われます。帯なしの旧形客車ならば、さほどの注目を受けることはなかったでしょう。
 鉄道ファンだけでなく、バイクのライダーさんらしき方からも反応をいただきました。多くの方々にご覧いただけてよかったと思います。(24.11.03)


●構内放送(24.10.27)【愛知環状鉄道:緑カラー6両編成】

愛環2000系緑色の6連団臨。(←拡大画像 javascriptを使用)この週末いろいろな撮影対象がありました。その中から、今回は愛知環状鉄道(以下、愛環)の団臨をご覧に入れます。
 愛環2000系の緑色はデビュー当時からのものです。類似例がなく、ユニークな存在は好感が持てます。しかし、塗り分けが複雑なためか、維持費が嵩むという話を聞きます。シンプルな青帯への改装がたいへん時間をかけて進められています。
 Wikipediaで調べると、直近では5本にまで減っているようです。10.26、そのうちの3本を併結した列車の乗車、北野桝塚での撮影会がセットになったツアーが企画されました。募集人員は45名。6両編成にしてはかなり絞った人数です。
 日頃、愛環は4連が最大編成です。愛・地球博輸送の際は211系や113系の10両編成(万博八草までと回送区間)が運転されましたが、公式発表では2000系の6両編成は初めての運転とのことです。
 長い編成はどうしてもサイド寄りから撮りたくなります。何度か訪れている貝津付近へ行きました。集まったのは私を含めて6名でした。
 Xのポストによれば、ツアーの後、参加者向けに北野桝塚−瀬戸口往復回送列車が運転されたとのことです。ツアーに参加すると沿線での撮影ができないのが普通ですが、撮れるように配慮されていたとは、粋な企画だったようですね。(24.10.27)


●構内放送(24.10.20)【動画:西武鉄道2000系甲種輸送/天皇皇后両陛下の臨時列車を碧海エリアでお迎え】

動画の閲覧はこちらから (←動画の閲覧はこちらから)最近、碧海エリアを通る甲種が少ないなと思っていました。しかし、たまたまなのでしょうけれど、2週連続の運転がありました。
 今回は西武鉄道から近江鉄道に譲渡される2000系4両です。譲渡対象になる2000系は、甲種輸送に備えた整備が行われていることを匂わせるような投稿がXで見受けられました。多くの方が注視している状況がうかがわれました。10/19、新秋津から川崎貨物まで運転されたことで、事前に情報を得ていなかった方々も知るところになった模様です。
 西武鉄道から近江鉄道への譲渡は久しぶりであることや、初めての2000系であることから、注目度がいっそう高まったようです。東海道線は日曜日の運転になったことから、有名撮影地は相当な混雑になったようです。
 私はEF65PF先頭の列車写真よりも、西武2000系が愛知県内を通過することに重点を置きたいと考えました。なぜかと言えば、関東に延べ10年近く住んだにも関わらず、同系をほとんど撮っていないのです。かといって、ELを無視するかのように後打ちだけにするのはためらわれます。
 最近はしばしば動画だけの撮影をしますが、この列車もその方針にしました。
 前回更新以降の話題として、10/14に天皇皇后両陛下が岐阜県へお出かけになったことが挙げられます。新幹線の臨時列車に乗車されましたが、近場で撮影する機会に恵まれました。
 東京発9:48の「のぞみ65号」の後走りと予想しましたが、知立市内では同列車から7〜8分が経過しても来ませんでした。そう思っていると、ヘリコプターの音が聞こえてきました。
 せっかく撮ったものですので、映像の続きとしてご覧に入れます。通常のN700Sですので、外観の区別はつきませんが、ヘリコプターの音がお召列車であることを知らせてくれます。(24.10.20)


●構内放送(24.10.13)【動画:名鉄3304Fシンガポール航空ラッピングほか】

動画の閲覧はこちらから (←動画の閲覧はこちらから)10月の中旬になりますが、まだまだ夏が残っていると感じます。定期更新の本日、10.13は地元の氏神様の祭礼。同年会で飲み物を用意してくれているというので、顔を出しました。例年、数えで25才、42才による持ち投げが行われますが、自分たちが櫓の上に立った時のことを懐かしく思い出しました。
 今朝は名鉄のシンガポール航空ラッピング車が西尾線に入るとの情報をもらいました。光線状態を調べてみると、吉良吉田からの戻りの列車は太陽が列車の真後ろという状況の場所が多いことがわかりました。ラッピングの細かい絵柄よりも、濃紺の車体を撮りたいと考えて、牛田−新安城へ出向きました。
 ところが、カバンを開けてびっくり。レンズは入っていますが、写真のカメラが入っていません。取りに戻る余裕はないため、ビデオだけを撮りました。写真が撮れていれば、更新にはそれを使うつもりでした。しかし、間抜けなことをしてしまいました。
 このところ、業務が忙しいこともあって、動画のアップが滞っています。動画しか撮れなかったのならば、この機会に新作を公開することにしましょう。
 名鉄のラッピングはシンガポール航空が名古屋に就航して35周年を記念したものとのこと。そのシンガポール航空ですが、私も30年前に乗る機会がありました。ツアーの性格上、贅沢をさせていただいたのですが、客室乗務員は乗客ひとりひとりの名前を覚えてくれていました。サービスの良さは前評判に違わぬものでした。このような経験があるため、限られた期間のうちに撮っておきたいと思いました。
 なお、動画についてですが、3304Fの前に9863レのタキとメトロ18000系甲種を入れました。(24.10.13)


●構内放送(24.10.06)【東海道新幹線開業60周年】

高校二年の冬休み中の撮影。東海道新幹線開業60周年。前回の定期更新から2日後のことでした。開業時、私はまだ2才になる前のこと。全く記憶はありません。
 碧電の守備範囲ゆえ、スルーするのははばかられました。私の世代としては0系にしたいところです。ところが、当時、新幹線はほぼ撮影対象外。お見せできるような写真がないに等しい状態です。在庫がないので、なんとか撮っていたドクターイエロー922形にしました。
 高二の冬休み、以前に目撃したのと同じ時間に行ってみたところ、いきなりビンゴでした。しかし、いろいろと残念な出来。失敗作としてお蔵入りしていたものです。
 大西さんの補正ツールで数種類の画像を作成して「いいとこ取り」の合成を行いました。また、埃の数が多く、修復にはたいへん時間がかかりました。それでも、今となっては、苦労して修復する価値があるものと思います。
 この60年で何か一つと言われたら、脱線や衝突などの列車事故による乗客の死亡事故がゼロであることを挙げたいと思います。これからもそれを誇りとして維持していってほしいものです。(24.10.06)


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