プロフィールと鉄道趣味歴

01.05.01 更新

■開設者のプロフィール

■純粋な鉄道少年の頃

愛知県西三河の東海道本線沿線で育った私は、物心ついた頃から鉄道への関心が絶えることがありませんでした。幼少の頃、祖母や両親にねだっては近くの踏切へ出向き、電車を眺めることたびたび。小学生の頃は学校から帰ると友人と線路際へ通って、行き交う列車に手を振るのが日課になっていました。
 当時は臨時列車の知識などあろうはずもなく、たまに団体臨時列車や転属回送などで日頃見られない車両を目にするととても得した気になったものです。東海道線は新幹線開業前ほどではないにせよ、早朝のブルートレインのほか、湘南色の電車(一時はスカ色の70系も入線)、各種機関車が牽く貨物がひっきりなしにやってきて、たいへん恵まれた環境で育ちました。
 いつしかお気に入りの車両達をアルバムに収め、いつでもながめることができないだろうかと思うようになります。しかし、当時はカメラなど高級品。写真の単価も高く、小学生には手が出ませんでした。
 それでも5年生の頃からは父のカメラを持ち出すことを許され、私が影響を与えた友人達としばしば撮影に出かけました。しかし、当時我が家にあったのは最高シャッター速度1/250、絞りマニュアル、速度オートのコンパクトカメラで、高速で駆け抜ける列車には不向きで、ほとんどぶれている写真にはしだいに不満が高まっていきました。

■「碧海電鉄」のルーツ   01.5.1 UP

中学1年のときの級友、S君とは話をしているうちにお互いが鉄道ファンであることを知りました。お互いの家を行き来して年季の入った本を見せ合ったり、一緒に撮影に出掛けたりしましたが、この頃の思い出が後になってひとつのきっかけを生むことになります。
 一年生の頃はまじめにクラブ活動をすることもなく、放課後はよく二人で仮想鉄道の地図を書いて遊びました。3回転ループやスイッチバックがあれば制限速度5km/h(?)の吊り橋まである起伏とスリルに富んだ鉄道で、「駅長」には先生方の他に町の駐在さんまで登場し、日々延長される鉄路には夢と笑いが込められていました。今は線名も忘れてしまったこの路線こそが碧海電子鉄道の原形であり、仮想鉄道を基幹として本サイトを立ち上げようと思い立つきっかけとなったのです。碧海線にある「新十三塚」はその仮想鉄道にあった駅名で、最も古い命名ということになります。

教室の前に掲げられた自由なんたらという校訓とは裏腹に、「束縛、禁止、試験」のほうがよほど実体を表していて、校区外への外出は制服着用、県外への生徒だけの外出は禁止など事細かな校則にがんじがらめに縛られていました。先生の言いつけをよく守る「よい子」であった当時の私は、夜行列車に乗って遠くへ出掛けようなどと考えたこともなく、思えばなにひとつ思い切ったことができませんでした。今となっては、先生に叱られていつも職員室の前で正座させられていた彼らの仲間に時々は入れてもらうべきだったとさえ思います。
 リンク集から入ったあるサイトのオーナーさんの期末テストのあと授業をボイコットして現役のSLを撮影しに行ったという大胆な記述には自分の置かれていた世界の狭さを感じずにはいられませんでした。決してそれを奨励するわけではありません(*1)が、このようにバイタリティーあふれる方は思う存分の成果を上げられたあとはこの世界から去って行かれる方も多いようです。(「あるきっかけ」の刺激で復帰された方も少なくないようですが・・・。)いっぽうの私に関しては、思いっきり、思う存分ということができずに、常に不満を解消しきれなかったことがこの年まで途切れることなくこの趣味を続けて来られた(来てしまった)原動力なのかも知れません。

*1 小中学生の方、遠くへ出掛けるのに授業をボイコットすることを勧めているのではありません。親御さんや先生に相談してみましょう。先生方はきちんとした計画、手続きの下で行くことを学ばせて下さることを望みます。

続きは少しずつ書いていきたいと思います。


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