橋本久義の東京都新宿区立西戸山中学校時代

中学校に入ってからもラジオ組立を専ら趣味にしていたが、中学2年生からの趣味はオートバイだ。
中学2年の5月、満14才になった3日後(つまり1959年5月24日(土) )に学校をさぼって鮫洲の自動車運転免許試験場に行って原動機付き自転車第一種免許を取得した。 (当時満14才で原動機付き自転車の免許が取得が可能であった)
目の検査の後、一列に並ばされて、「立って、座って、手を前に出して、上に上げて」「ハイ、合格」という簡単なものだった。
 オートバイ雑誌の「売りたし」欄で見て、丸昌自動車(浜松 今はもうない)の名車ベビーライラック号(90CC、シャフトドライブ) を¥8000円で買い込み、50CCで登録して、カミナリ族の末席に連なった。
  朝から晩まで、分解したり組み立てたり、ちょっと調節して少し早くなった、 燃費が少し良くなったと喜んでいた。

高校生になった時にはトーハツ、ホンダスポーツカブなどオートバイ3台を所有 していた。
以来、西ドイツにいた3年間を除き(この時はベンツに乗っていた) オートバイが私の足であった。
現在もスズキアクロス250cc を足変わりに使っている。オートバイについて詳しくはココ


中学校では勉強は殆どした覚えもないが、思い出に残る先生と言えば、米田孝子 先生だ。専攻は国語でいらっしゃった。
その後は担任ではなかったが、国語の授業は米田先生で、国語以外に多くのことを教えていただいた。

授業のはじめに挨拶をされるとき指先が少し外側にピンと伸びているのが印象に残っている。
具体的な授業内容についてはトンと記憶にないのだが、その後も国語が嫌いでな かったところを見ると良い授業であったのは間違いない。
私は「良い生徒」ではなかったと思うが、何かとかばっていただいた。
後から聞いたところによれば、一時職員室で、「橋本は昼休みに、家まで帰ってオートバイの修理をしているらしい。けしからん」
という話が出た時に米田先生が「別に悪いことをしているわけではないのだし、一つのことを寸暇を惜しんで一生懸命やるのは悪いことじゃないじゃないですか」と、かばっていただいたらしい。ちっとも知らなかった。

東村山に住んでおられた時には、通産研修所に近かったので、研修所で講義したあと、訪ねさせていただくことが多かったのだが、最近はちょっとチャンスがない。


 その後東京都立 戸山高校 に進学して、米田孝子先生の実兄である 米田清一 先生に国語を教わった。こんな奇遇も珍しいだろう。
米田清一先生の授業はまことにインパクトのあるもので、モノの見方、考え方を根本から教わったと思う。「なるほど、国語と言うのは『言葉の意味を知る』ということ以外にこんなにも意味のある勉強だったんだ」と、心底から思った。
(とはいえそこは不肖のの弟子であるからして、なかなか滴々承伝如瀉瓶(てきてきしょうでん もって しゃべいのごとし)とはいかなかったが……)


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