オーディオ日記 第58章 遥かなり夢追う日々(その20)2025年3月1日


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音楽のあわれ、みやび:

ずっと追い求めてきた自分の理想とするオーディオの音は正確性、高忠実度、普遍性という言葉に集約されるかもしれない。平坦な周波数特性や低歪は当然のことでもあるが、これらを基本とした音によって再生される音楽はどのような音源であっても客観的には一様であり、また納得の音で聴ける(はず)というもの。しかしながら現実は必ずしもこの甘い期待の通りとなってくれることはない。また、世のオーディオファイルの数だけ音があるということが現実で、同じ音源であっても全く同一に聴こえることは経験上ほぼ無く、普遍性を獲得することは更に至難であると思わされてきた。

もちろんこれは、機器が違い、部屋が違い、音量を含めて音楽再生の好みも違うという要因によってもたらされるものだろうと思うが、この違いはいずれは収斂して行き、その先には普遍性を纏った理想の音が存在するはず、と追い求めてきた。従って、そのような方向に自分のオーディオシステムを成長させ、熟成させることによって、期待に違わない音楽再生ができるようになるはず、、、だから普遍的な音に近づくことは難しくもあろうけれどその努力が成長に向かっての小さな一歩であると信じてもきた。

だが、悪戦苦闘を続けながらも何がしかの納得に近づいたようにも思えるこのところの自分のオーディオの音に関して、今までと違う想いも生まれてくる。異なる視点に立って自省してみると、普遍性を求めることは何か基本的に誤っているのではないか、とも感じるようになってきた。結局重要な点は音にあるのではなく、音楽そのものであり、音楽は官能の世界である。官能を理性(的なもの)に語らせようとすることは出来なくもないのかもしれないが、ある種の情念の領域でもあって客観要素を元に分析しきれるものではない。

音楽を聴いて(あるいはオーディオの音に触れて)感動するのは、どこかに自分の官能を刺激してくる部分があるためなんじゃないか、とも考える。当然ながらこの部分、つまり官能のツボとなる要素は各人各様に異なる。云わば蓼食う虫も好き好き、、、音に対する感性も音楽に対する希求も異なる。この微妙な違い、差異は決して収斂しない。

翻って、自分の好みを見つめ直し、その好き嫌いについて自分の心に忠実となれば、自ずと理解できる部分が朧げではあるが浮かんでくるような気がする。あわれを感じさせる音楽が好きなのだ。ここで云う「あわれ」とは哀れでも憐れでもない。あわれという表現は単なる哀愁とは少し違うようにも思う。古語の世界で云うところの「もののあわれ」に通じるものなのかもしれない。また、その上でみやびなる雰囲気も好きだ。これはまた解釈が難しくて、必ずしも優美さや華やかさとも云い切れない。何かこう、もっとたおやかでおっとりした美しいもの? 自分でも明確に分析することはできていない。

この空間が何によって満たされれば良いのか、、、:
Land Scape

そう自己分析した上であれこれ考えてみると、確かにモーツアルトの音楽にはあわれやみやびがあると思えてくるし、他の作曲家の音楽と比すれば、このあわれとみやびの双方をモーツアルトはより強く具現しているとも考えられる。それ故に愛して止まない。ベートーベンにはあまりあわれを感じないし、マーラーにはみやびという感は少ない。ハイドンは相対としてはみやび度が高いかも。強いて考えてみれば、自分の好きな作曲家であるパガニーニやボッケリーニにはこのあわれとみやびがそれなりにあるやにも思われるし、総じてそのような傾向のものに愛着がある。
(注釈)だからとて、ベートーベンやマーラーが嫌いな訳では全く無いのだが、、、

つまり、自分の感性、官能で音楽の好みを語れば、(完全に的を射ているとは思えないが)このような因果関係があると解釈しても良いのかもしれない。従って、ここには普遍性というものはあまり入り込む余地がなく、更に云えば客観性などほぼ必要がない。

オーディオの存在意義を自分の趣味として「あれこれ弄る楽しみ」ということを除外して考えれば、本来的には音楽を奏でてくれるもの。そこに必要以上の「もの」としての思い入れはもしかしたら不要で、自分の感性に沿った音楽そのものをこの部屋で提示してくれれば良いはずでは、とも思えてくるのだ。

だが、そう考えて行くと、逆にここには遥かに難易度の高い課題が出現するようにも思う。己の官能をそっと刺激してくれるあわれとみやびを感じさせる音楽を我がオーディオシステムが十全に提示できなければならない。そこには機器だの部屋だの使いこなしだの、その他もろもろの「オーディオ的雑事」を介入させてはならない気もしてくる。ただひたすら純粋に音楽だけを提示し、「音の存在」は忘れさせてくれるものでなければこれは実現できないもの。一方で、観念としては矛盾するようだが個々の楽器の音(あるいは声)そのものにも官能を刺激する要素が多分にあって、ここが損なわれていても感動は成立しない。

そうやってあれこれ考えていくと、現状多少は納得の音に近づいたのかもしれないが、本当に目指すべき音楽の官能の世界、その境地はもっとずっとずっと遠くにあることに否応無く気が付く。そして夢想するのはコルボのレクイエムを聴きながら逝ける日、、、

半世紀を越えて、どうにかここまでたどり着けたということの側面かもしれないし、あるいはやっとその真実に気が付くところまで成長できた、ということなのかもしれない。全く堂々巡りのように思えて仕方ないのだが、足掻きながら単にオーディオ的な音の比較に汲々としている自分であればこれは判らなかったことなんだとも思う。残された時間があまり無いという今の自分(のオーディオライフ)にとってこれが良い気付きなのかどうか結論の出しようもない。だがこの先、新しい理想を持つこととなる、そういう予感も生まれてくる。

今までビジョンとして考えてきた計画は概ね実践してきており、この官能の音楽を具現化する方策がすぐにあれこれと浮かんでいる訳ではない。目先に捉われずに沈思黙考することが必要となろう。幸せの音楽に満ちた日々をもたらすのか、はたまた今まで辿ってきた同じ茨の道をまた巡ることになるのか、、、