オーディオ日記 第58章 遥かなり夢追う日々(その18)2025年2月14日


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諸行無常:

ちょっと思うところもあって新平家物語(吉川英治)を読み直した。長大な物語であるが、平安末期から鎌倉時代~戦国時代に至る混沌、混乱はある程度は安定していた奈良、平安の公家政治から変遷し、武家による覇権争い(言い換えれば殺戮の歴史)がその根底となっていることを否応なく実感することになる。そして、これは現在に至るもなお人類が世界中で行っているより規模の大きい多種多様な殺し合いと基本において変わることはない。

もちろん物語としてまとめられているので、その中にはほっとするような挿話もあるのだが、大きな流れである覇権の栄華は時と共にうつろい、また諦観に満ちているとも感じてしまう。人は生まれ、死ぬ。そのこと自体には敢えて抗う必要も無い。だが、権力を求める争いは日常のどこにでも潜んでいて、とりたてて取り上げる意義が少ないかもしれないような些細なことでも、歯車が回れば結果として大規模な殺戮の遠因ともなっていく。

単にそれを愚かと云ってみても、それだけでは何らかの解を生む訳ではなく、結果としてもたらされる悲惨さの解消には全くならない。人間を含む生き物は放っておいてもいずれ死ぬし、時の権力者もそこから逃れることは出来ないのだが、取り付かれたように栄華の夢を見る。生き物のルーツと歴史を鑑みれば弱肉強食こそが生き残りの唯一の解であることがDNAに組み込まれていて、この本性自体を理性というヴェールで覆い隠すことは出来ない。

若い日々に読んだ時の感想とは少し違ってきてるのかな、と思うこともある。物語としては悪童平太であった清盛の出世街道から始まり、義経の波乱の鞍馬脱出からその後の活躍、そして転落を追っているので読み応えは充分なほどの量と長さである。だが、この年齢となって読み返せば、何故人間は争うことなく生きていけないのだろうかという素朴な疑問とともに、そこに諸行無常という理がより一層強く感じられてもくる。

モーツアルトやパガニーニの調べを我が家のオーディオで読書時のBGMとする贅沢さを享受しつつ、この真冬の寒さも床暖房や二重窓のお陰でほぼ感じることもなく読書三昧。ふと、思う。これは何か人生のオマケのようなものだな、、、と。読み疲れたら、BGM的な弦楽曲から交響曲や管弦楽曲に変えて、鮮やかな色彩とその音量にしばし酔えば良い。聴ききれないほどの素敵な音楽に溢れていることはやはり幸せなんだろうか。

オーディオもここに至るまでの葛藤など多々在ったかもしれないけれど、それも今では詮無き事。自分なりに実現できたことが結局は現在ある「音」の全てだし、人生そのものもオーディオも基本は同じだと思う。何かを目指して、足掻き続けてきたことに変わりは無い。だが、求めていたものが得られたのか、得られなかったのか、確と判る訳でもない。

ただ、今の環境とここで聴ける音楽があるだけ。明日のことはこの年齢ともなれば予測は付かないので憂いても仕方ない。だから、現状を是とするか否とするかは自分次第。遠からず約束された(終わりの)日は訪れる。それを否とはしないし、そもそもそれが自然の流れである。

オーディオもまたこのようにすればいいんじゃ、という愚鈍の想いを込めてシステムの構築を行ってきた。多少の時間は掛かったにしても自分なりに考え続けた構成は一応の完成を見た。これを更に煮詰めるための試行は今後も続いていくと思うのだが、自分としてはおそらくもうこれ以上は無いだろうな(もちろん多少の諦観は含めての前提だが)、とも思えるところには至った。

だから、多彩な音楽を聴いていても、音楽としての是非や好き嫌いは当然あるが、システムに対する不足感、飢餓感を痛感することは余り無くなった。もちろん、これで良しとしていいのかどうか自分としては多少心許ないところも未だあるにはあるのだが、、、

このようなこともあって音の比較とか向上させようという観点からのアプローチは気持ちとしても随分と後退してしまってきているかもしれない。人様のオーディオシステム(の音)との比較において自分の音を評価しようとは思えなくなってきたのかも、と云えば言い過ぎだろうか。自分の是とする音は自分でしか創れないし、それが自分として楽しんで聴けるかどうか、ということが本筋ではないかと思うが故に。

だとするならば、このような駄文を世間様に向かって公開する意義はあるのだろうか、、、さまざまなこだわりの細部や、いろいろとご教授もいただいた結果などここで書き連ねても来た。それは一重に自分の歴史でもあるとは思う。あるいはその一片が目に留まった方にとって有意義な情報ともなったかもしれない。そういう期待値も若干ながらある。

ただ今や情報の受け手を惑わせるような(アフィリエイトの為だけに書かれたような?)胡乱で些末な音の比較が世に満ちている。敢えて過激に書けば、オーディオファイルは音を良くするという情報、施策に飢えており、そこに情報を流せば人は飛び付き、また尾鰭をつけて拡散されて行く。ネット社会の光もあるのだけれど、また闇も深い。そんな片棒は担ぎたくはない。

故に、ここで自分なりの成長は終わる、と自覚するならば、意味のある情報を今後発信していくことなど不可能だろう。そういう想いも日々強まってきている。己の歩むオーディオ道は僅かに紆余曲折しながらまだ続いては行くだろうとは思っているけれど、劇的に変化することはおそらく無いだろうし、その必要性自体も以前ほど強くは感じていない。

半世紀を越えて趣味としてきたオーディオでもある。他の趣味(主として体育会系)でこれほど長く続けてこれたものは無い。随分と葛藤もあったがそれもこの先、日々記憶から薄れていくだろう。初めから今ここで聴けるようなモーツアルトであったなら、このような趣味として長く続け、今に至ることはなかったかもしれない。思うようには聴けなかった、、、だから、その原動力がここまで連れてきてくれたのだ。だが、その「駆動力」そのものが年齢と共に徐々に、そして今や急速にそのパワーを失ってしまっているような気もしている。足るを知った暁には最早成長はない、、、結果としてそれが良いことなのかどうか微妙なのだが、ひとつの真実だろう。

人生は突き詰めれば諸行無常であるのかもしれない。けれど、今ここにある音楽は決して無常を感じさせるものではない。輝きや優しさに満ちている。相当部分が自己満足なんだろうと分かってはいるが、今ならばそう断言してしまってもいいような気もするのだ。