オーディオ日記 第32章 夢の通り道(その5) 2013年2月16日


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美音の探求を続けている。念願であったDynaudio Sapphireをじっくりと聴く機会を得た。一聴して素晴らしいスピーカーであることが分かった。欲しい、ともその瞬間に思った。音楽がすっと表現されて音場が広くて深い。それでいて音に芯もあり、まさに極楽の境地である。用意してきたお気に入りの音源を次々と聴く。何とも心地良く、これが美音なのかも、と思わせる。個性を纏った美しい音とでも云うのだろうか、高域に独特の突き抜け感がある。嵌まり込んだら抜け出せないような魅力でもある。これがEsotar2が表現するところのSapphireのサウンドなのだろうか。敢えて云えばその支配力が大きいので多様な音楽の表現が少し同じパターンになるようにも感じられる。さらに聴き続ける。

ん?ん?ん?

聴き続けるつれて、どの楽曲にも共通の表現というかトーンが付き纏っている感じが拭えない。これは何だろう?これはやはりツィータの個性が関係しているのだろうか。音は総じて柔らかく、広がりがあるのだが、熱さ、激しさというリアリティに繋がる要素、質感が足りないようにも感じる。楽器の音は千差万別、録音も皆違う。もっと多彩な音楽が聴けて良い筈である。音楽には天国も極楽もあれば地獄もあるのである。それぞれの音楽が持つ命があるのである。それを全身全霊で感じ取りたいのである。マーラーの交響曲には美だけではなくひっそりと横たわる死もまたそこに描かれているのだ。

オーディオに一体何を求めるべきなのだろうか。少し自分でも分からなくなってきた。美音で音楽を聴き続けられるのなら、それで良いのではないか。このSapphireにしろ、PIEGA、ELAC、B&Wとこのところ聴き回ったスピーカー達は皆、その美音という求めの水準は確かに満たしているではないか。いずれも素晴らしいスピーカー達である。しかし、当方の求める音はここにはない。これが美音であるというのなら、それはいらない!大いなる自己矛盾。試聴の帰り道にこんなことばかり考えていたら思わず泣けてきた。どこまで行けば求める音があるのか、そこに辿り着けるのか。それは叶わぬ夢なのか。

スピーカは無色透明でなければならない。すべの音楽を、その音楽のあるがままに再現せねばならない。鳴っていない楽器、演奏していない音楽まで再現して欲しいと求めるのだろうか?そんなことは不可能なはずだ。と、理性は引き止める。

中高域に関して云えば、当方が普段聴いているのはベリリウムリボン(ツィータ)とアルミダイヤフラム(ホーンドライバー)である。これらが自らが求める音、あるいは音の好みにも関係していないとは云えない。さりとて、これらのユニットにも個性が無いはずはない。所有しているユニットではないが、エールやゴトーのドライバーが醸し出してくれる音楽の背景に至るまでの限りない静謐さを求めているのだろうか。

翻って、自分のスピーカーシステムに求めてきたこと、出せていない音、などについてもう一度考えてみる。美音を追って、イコライザでそれを創ろうなどということは、ただ聴き易い音へと小手先の細工しているだけではないか?と、改めて自問もし、反省もしてみる。イコライザの弊害は経験から十分知っているのだし、それが音楽の生命力を奪ってしまう危険性があることも承知している。BGM的に音楽を聴くのであれば、それも良し。けれども音楽と対峙し、その深みの中で自らの魂がもがき続けるのであれば、音楽の生命力を奪ってはならない。例え虚像であってもそのリアリティが綺麗ごとで終わってはならない、と思うのである。

そんな大それた望みに辿り着けるのか、改めて考えてしまう。オーディオとは見果てぬ夢かもしれない。あるいは単なる無いものねだりか。しかし、考えても始まらないものもある。考えただけではどうにもならないこともある。指を咥えているだけでは夢には辿り着けない。気を取り直して、改めて我が最愛の(?)スピーカーの調整ならびに周辺機器・環境の整備に取り組むしかない。

世にあるメディア化された音楽(CDやLPなど)としてそれぞれの楽曲が存在し、その録音クオリティは千差万別である。普遍性はない。オーディオはまた、そのメディアの持つ録音クオリティに大きく左右される。良いものは良く、悪いものは悪い。悪いものがオーディオシステムによって「良く鳴る」という事はない。今までの甲斐なき努力というのはある意味では録音の今ひとつのものであってもこれを何とかしようとしてきた点かもしれない。普通の録音というものがおそらく保有するメディアの6~7割を占めるであろう。2割位は大別すれば録音の悪いものとなる。良いと分類されるのはやはり1割か。2割は無いと思う。極上のものは更に少ない。録音の悪いものは悪い、として無駄な努力など最早せずに終わらせる必要があるのかもしれない。ただし、普通の録音のものはやはりちゃんとした音楽として楽しめなければならない。1割か2割しかない良い録音の楽曲だけを繰り返し聴くようなことはしたくない。既に万を超えた楽曲数になっている普通の録音レベルの音楽を日常として楽しみたいのである。おそらくは、これを普通に楽しむのではなく、内心は極上のものとして楽しみたい、という欲望がすべての諸悪の根源なのかもしれないが。

マルチアンプシステムの調整には終りがないと思う。ある領域に達すると、既製品のスピーカー、ネットワークで駆動されるスピーカーでは到達し得ない音が出る。また、出るはずだ、と頭で論理的に考え、追い求めてきたところもある。完全には理想の音を手に出来ていない、という現実もあり、そこから来るもどかしさもあった。多分完成の領域とはユニットの力量を90%は引き出して、個々の楽器のリアリティ、分離、空気の震え、何より音楽の闊達さ、楽しさと生命の躍動を感じることであろう。

音について何が良くて、何が悪いのか、それを理解し究極まで突き詰めて初めて到達できるものかもしれない。世の多くのスピーカーを敢えて意識して聴いてきた。やっと少し自分の判断に自身が持てるようになって来たようにも思う。これを活かして行かねばならない。一方で、調整のために音楽を「聞く」ことは苦痛でもある。しかし、これを越えて行かねば、マルチアンプのゴールドセッティングは完結しないだろう。その訪ね歩く過程と辿り着いたと感じられる領域がまたマルチアンプシステムの醍醐味でありオーディオの悦楽でもあるのかもしれない。


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