御所近くを歩く
 丸太町通を西に進むと京都御苑。とりあえず御苑沿いに寺町通を上ってみる。仙洞御所の塀が切れたあたりに鳥居がある。梨木神社である。
梨木神社  上京区寺町通広小路上ル
 孝明天皇に使え、明治維新に功績のあった三条実万、実美親子を祀って、三条家旧邸に明治18年に創建された。

境内の手洗舎の湧水は京都三名水の一つ「染井の水」、あとの二つ「醒ヶ井」、「県井」が無くなり現存するのはこの「染井の水」だけになったため貴重な名水で、茶の湯や料理には最適と言われている。
 また、9月中旬頃には、参道が紅白に咲き誇る萩の花でおおわれる。毎年9月の第3日曜日には、「萩まつり」が開催され、たくさんの人で賑うということである。
梨木神社のすぐ脇に京都御苑の九門の一つ「清和院御門がある。

京都御苑

 京都御苑は、京都御所の外苑である。南北1.3km、東西700mの敷地には、京都御所を中心に、仙洞御所と大宮御所がある。明治2年の東京遷都までは、宮家や約200の公家の屋敷もあった。現在、それらの邸宅跡は芝生と玉砂利の広い道に変わり、市民の憩いの場になっている。 運動広場やテニスコート、児童 公国もある九条邸のあったところに残る厳島神社と拾翠邸、花山邸の鎮守社・宗像神社、西園寺家の白雲神社が往時をしのばせる。また御苑の周囲の築地堀には、蛤御門や乾御門、清和院御門など九つの門があり・それぞれに歴史の物語を秘めている。
それでは梨木神社に一番近い「清和院御門」から御苑の中に入ってみよう。

猿ヶ辻
 正面に御所の東側の築地塀に行き当たる。築地塀に沿って、北に向かって広々とした砂利道が続くが、この北東の角を猿ヶ辻という。御所の鬼門にあたるので、これをさけるために築地塀を欠け込ましてある。また築地屋根の下に、鬼門を鎮護する日吉山王の神使といわれる木彫りの御幣をかついだ猿があるので猿ヶ辻と呼ばれている。
 文久3年(1863)5月、尊攘激派の公卿として知られる姉小路公知が暗殺されたところ。深夜、国事係公卿の会議を退出した公知は太刀持ちと共に朔平門をすぎて「猿ヶ辻」にさしかかった。その時、3人の刺客に襲われ重傷をおった。太刀持ちは逃げたが、公知は立ち向かい、刀を奪い取るなどしたが、帰邸後、出血多量で死亡した。暗殺者は薩摩藩の田中新兵衛であったというが、田中新兵衛は取り調べ中に自殺。真偽は謎のままとなった。

写真奥が「猿ヶ辻」
途中に見える門が「建春門」
 禁門の変
正面奥が「蛤御門」
塀の途中。切れているところは「建礼門」

  文久3年(1863)8月に起こった禁門の政変により、三条実美ら長州系過激派公卿、及び長州藩は京都政界を追われることになった。以後長州藩では、再び京都へ進軍し、戦火を交え失地を奪回せんとする急進派の来島又兵衛、久坂玄瑞らと、富国強兵策を考え、出兵に反対した慎重派である桂小五郎、高杉晋作などと意見が対立していた。

 そのような中、元治元年(1864)6月、池田屋事変の報が届く。これを聞いた長州急進派は激怒し、来島又兵衛、久坂玄瑞らが、京に向けて進軍を始めた。次々に進発した長州軍は6月25日には京に集結。山崎、伏見、嵯峨、八幡などに布陣した。これに対して幕府を始め、諸藩の兵も京都市中に布陣し、臨戦の態勢をとった。。
 戦闘は、7月19日の未明に開始された。伏見を発った長州軍は、下立売御門、中立売御門、蛤御門の3方向から攻撃をかけ、その中の来島又兵衛隊は会津藩守備兵を蹴散らして、蛤御門を占拠するまでに至った。このため、御所内は大混乱となり、天皇を別の場所に避難させる動座も論じ られた。
 ところが、そこへ現れた薩摩軍が、来島隊に激しい砲火を浴ぴせたために、形勢は一挙に逆転。この蔭摩軍との交戦で来島が戦死し、長州軍は総崩れとなって寺町御門方面へと 退却した。
 一方山崎方面から進軍した長州軍は、堺町御門へ攻撃をかけるも敗れ、久坂玄瑞が負傷し鷹司邸内で自刃した。一連の戦いは多数を誇る幕軍、諸藩兵の圧倒的勝利に終わり、長州の残兵は天王山へ敗走する。勢いに乗る会津兵と新選組は、どこまでもこれを追撃したため、敗残兵をまとめ、そのまま長州へ落ち延びていった。これが「禁門の変」である。蛤御門付近が最も激戦であったため「蛤御門の変」とも言われる。
 この戦いはわずか一日で終わったが、戦火は三日に渡って燃え続け、焼失した家屋は二万八千を越えたとされる。この大火事を京都の民衆は「とんど焼」と呼んだ。
清水谷家の椋(来島又兵衛戦死の地跡)
 築地塀に沿って、西に向かってみよう。塀の中央あたりにあるのが御所の正門の建礼門である。そして、その先に蛤御門が見えるが、その手前、築地塀の切れたところに樹齢三百年余の椋の大木がある。この椋の木のあたりに公家の清水谷家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれるようになった。蛤御門の変のおり、長州藩士、来島又兵衛がこの椋の木のあたりで討ち死にしたと伝えられている。
蛤御門
 その先、烏丸通に面した門が蛤御門である。蛤御門はもとは新在家門といわれていたが、宝永の大火(1708年)の時に、それまで閉ざされていた門が初めて開かれた。それを「焼けて口を開く蛤」に例えられて、蛤御門といわれるようになったという。 元治元年(1864)に、長州藩と会津・薩摩藩との間で戦闘が行われた、世に言う「禁門の変(蛤御門の変)」では、この蛤御門の近辺が最も激戦であったという。その戦闘の名残の銃弾の玉傷が今も門の梁に残っている。

うっすら白いのが銃弾跡
次へ進む    前へ戻る