鴨川散歩
 一の舟入の先は二条通。二条大橋の脇から鴨川の河原に降りる。遊歩道が整備されていて気持ちがいい。
思わず口ずさんでしまう歌。

       「ああ 新撰組」 三橋三智也

      加茂の河原に千鳥が騒ぐ
      またも血の雨 涙雨
      武士という名に 生命をかけて
      新撰組は 今日も行く
 次の「丸太町橋」のたもとに「女紅場址」(にょこうば)の碑がある。ここでいう女紅場は、女子高等教育施設として明治5年4月14日、九条家河原町邸に開校された。校地は公家の九条家の別邸で、鴨川に面していた。日本で最初の高等女学校で、後の京都府立京都第一高等女学校、現府立鴨沂高校のことである。
 女紅場址の碑の前は丸太町通。横断したいが交通量が多く渡れない。河原町通との交差点の横断歩道を渡り戻ってみる。この写真の地図は赤いマークの場所にあった。地図の西・東三本木通あたりが、三本木遊郭のあった場所である。

三本木遊郭跡
 遊郭と呼んでいるが、いわゆる遊郭ではない。花街といったらいいだろう。料亭もしっかりしており、腕のいい芸者がいる「洛下遊楽の地」であった。幕末頃には大いに賑わいをみせ、勤皇佐幕の武士達が入り交じって往来する街だった。
 近藤勇の愛妾・三本木の芸妓「駒野」は近藤勇との間に子どもがあったという。また、桂小五郎の婦人となる幾松は三本木の「吉田屋」に籍を置いていた。
 東三本木通には吉田屋跡、頼山陽旧宅跡などが残っているが、今は民家が建ち並んでいる。
吉田屋跡(清輝楼)上京区東三本木通
 
 「立命館草創の地」という碑が建っている。
 1900年(明治33年)6月、中川小十郎は西園寺公望が1869年に開いた私塾「立命館」の名称を継承し京都法政学校を創立、仮校舎として「清輝楼」で勤労学生のための授業を開始した。
                   =説明板より=
 この「清輝楼」こそ、幾松ゆかりの「吉田屋」の後を受け継いだ旅館だった。1997年まで大和屋旅館として存続したが、現在は駐車場になっている。
同じ町内を歩いてみる。また次の碑を見つけた。

頼山陽旧宅跡(山紫水明処)上京区東三本木通丸太町上る東側

頼山陽  1780-1832
 江戸後期の儒学者、詩人。安芸(あき)の人。名は襄(のぼる)、字は子成、通称は久太郎。朱子学者頼春水の子。尾藤二洲に学ぶ。1800年脱藩するが連れ戻されて幽閉され、この間史書執筆を志し、「日本外史」を起稿した。のち文政5(1822)年、鴨川のほとりであるこの地に山紫水明処と名付けて居宅を構えた。詩文書画の名が高く、山紫水明処に文人墨客を集め、文化サロンを開いた。「日本外史」は幕末維新期にはほとんどの知識人が読んだ空前のベストセラーとなり、志士たちの思想形成に大きな影響を与えた。近藤勇も愛読しており、頼山陽と酷似した筆致の書も残している。
ここまで、結構歩いている。でも河原町通の向こうは「京都御所」。もう少し歩いて見よう。
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