木屋町通を進むと、京都市内でも有数の広い通り「御池通」に出る。目の前に超高級ホテルの「京都ホテル・オークラ」。ここがかつて長州藩の藩邸があった場所である。
桂小五郎像  中京区河原町御池
 河原町通沿いのホテル正面に廻ってみる。長州藩邸跡の石碑と桂小五郎像が建っている。

桂小五郎
 萩出身の長州藩士。後に木戸孝允と改名。17歳で吉田松陰の門下生となり、尊皇攘夷運動に参加。嘉永5年20歳の時に江戸に出て、神道無念流斎藤弥九郎に入門し、塾長に抜擢された。さらに、造船術や蘭学を学び、25歳で萩藩に登用された。藩命により京都で公卿や、他藩との折衝に当たるなど、外交官的な役割を担ったが、文久3年(1863)の禁門の変以後は地下活動を余儀なくされ、翌元治元年6月の池田屋事件では危うく難を逃れた。慶応2年(1866)には、坂本竜馬の仲介で薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと薩長同盟を結び、維新回天に尽力した。維新後、名を木戸孝允に改め、新政府の要職を歴任し、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれた。
 ホテルオークラ脇の路地を抜けると再び高瀬川沿いの道に出る。御池通方向に少し戻ると「料亭旅館 幾松」がある。入り口の脇には「桂小五郎幾松寓居跡」の碑。

桂小五郎幾松寓居跡
 かつての長州藩控屋敷で,桂が芸妓幾松と恋仲となり、新選組に追われながら苦難の時代を過ごしたのがこの屋敷であったといわれている。しかし、これが史実であるかということについては真偽のほどは疑問である。
幾松は維新後木戸公夫人松子となり,明治10(1877)年夫を亡くした松子は別邸であったこの地に住み,剃髪して翠香院と号し,明治19(1886)年44歳で没した。
そしてさらにその並びにまた石碑がある。

兵部大輔大村益次郎公遺址 中京区木屋町通御池上る東側
 現在はこの地にありますが、碑のみ現在地に移したというお話しもあります。真偽のほどは私にはわかりません。

大村益次郎
 周防国出身。初名は村田蔵六 緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後、江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。のち桂小五郎の斡旋で長州藩に仕え軍制改革を指導した。農民や町人の兵式訓練の必要を説き、長州征伐、戊辰戦争において軍事的手腕を発揮。維新後兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力。明治2(1869)年9月、関西の軍事施設視察時に反対派浪士に襲われ、大阪で治療を受けるが11月に没した。この石標は,大村が襲撃された時,投宿していた長州藩控屋敷の跡を示している。
上の石碑あたりから後ろを振り返ると、高瀬川の向こう岸に立派な碑が二つ見える。

大村益次郎卿遭難碑・左側
佐久間象山先生遭難之碑・右側


佐久間象山
 信州松代藩出身。天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎に就いて学ぶ。朱子学の再興を主張して神田に塾を開く。藩主真田幸貫より海防掛を命ぜられるのを機に、『海防八策』を建言し、江川太郎左衛門から洋式砲術を学び、蘭学に傾倒した。1853年ペリ−来航に際し老中阿部正弘あて『急務十事』を建言、翌年門人である吉田松蔭の海外密航未遂事件に連座して罪を問われたが、文久2年(1862)赦され、元治元年(1864)幕命によって上洛、公武合体論と開国論を主張。木屋町通三条上ルに寓居し、開国論を唱えて公武合体につとめた。そのため攘夷派から憎まれ、7月11日夕刻、自宅へ向かう途中、この地で刺客に襲われ暗殺された。
さらに、北に向かってぶらぶら歩いてみよう。

 一の舟入
 高瀬川は、江戸時代初期に京都と伏見を結ぶ運河として、商人の角倉了以によって作られた。それ以前は鴨川を船で上った物資は、伏見で陸揚げされ、陸路を京都の中心に運ばれていたが、この運河ができたことで物資の輸送は飛躍的に楽になり、商業の発展に貢献した。舟入とは物資を積み下ろしする船だまりで、一番上流にあったのがこの「一の舟入」である。

この辺りには、多くの維新にかかわる碑がありますが、はたしてその碑がその場所にあったものなのか・・。維新の史蹟として信頼できるものなのか・・。私にはわかりません。
ただ、この町並み・・この中に近藤が桂が・・生きていたことは確かです。
角倉了以別邸跡
一の舟入の先、道を挟んだ向かい側に「がんこ」の看板。お馴染みのハチマキのオヤジの絵。いつも銀座で利用している「がんこ」の系列店である。玄関にまわってみると「角倉了以別邸跡」の石碑。そして、庭園の見学無料とかいてある。思わず入ってしまった。まだ開店前だったが、庭師さんが丁寧に案内してくれた。
 いや〜 見事な庭。しかも、料理の料金を見ると、いつもの銀座と変わらないお手頃料金。次は絶対にここで食事しよう。
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