中学生・高校生と関わりを持つ人たちに
同性愛について知っておいてほしいこと
一体、同性愛者はどれくらいいるのか。欧米の多くの書物は、ものにより違いはあるが、全人口の1パーセントから10パーセントぐらいの範囲を上下している。10人から 100人に1人の割合である。私も周りを見渡し、それぐらいかと思う。もちろん、一般の異性愛者の人は、「 (日本にも) そんなにいるのか」「私はン十年生きてきたが、一度も会ったことはない」と言う人が(年配になればなるほど)ほとんどだろう。それは、あなたの周囲にいた同性愛者がよほど積極的で、そしてあなたがよほど、その同性愛者にとって気の許せる話しやすい相手だったのでなければ無理もないことである。
私は、数年前故郷に帰省した際に、意外なつながりで、高校時代に部活も同じで、多くの時を一緒に過ごした同級生と会った。8年ぶりだった。高校生のとき、女の子に興味があるような言動さえ取っていた彼は、自分が同性愛者であると私に告げた。当時からうすうすわかっていたという。同性愛者同士が、同じ職場にいたとか、同じ学校の同じ学年にいたとか見出すことは、そうめずらしい話ではない。自分が開かれていなければ、普段、日常の生活で顔を合わしているはずの同性愛者と「出会う」ことは、まずない。
同性愛の中学生・高校生は、非常に孤立している。周囲に身近な形で手に入る情報はごく少なく、このような性質を持つ人間は、世界に自分一人きりだと思ってしまう。日常生活で、常に否定的な文脈で語られる同性愛に(そして自分自身、否定的に語ってきた同性愛に)、実は自分が当てはまるのだという自覚は、ありとあらゆる抵抗を伴って、中・高生の頃に、否応なしに意識されてくる。中には、強い抑圧のため「同性愛」という言葉を、そのどうしようもなく湧き出る感情に与えることもなく、半ば無自覚のまま中学・高校時代を過ごす者もいる。恋愛という感情を抑圧したまま思春期を終了することになる。
自分の内で、嫌悪すべきもの、一般の社会から拒絶されるものとして分類されている同性愛に自分が当てはまっているのだという意識は、自己否定感・自己卑下感を生じさせる。自分が周りの人間と、根本の部分において異なっているという感覚は、周りの人間との親密な関わりを築くことを躊躇させる。思春期に入ってからずっと、同性愛の中・高生は周りのピア(仲間)からの疎外感を抱き続ける。たとえ表面上、適応しているように見えようとも。それが、彼の人格の形成や、彼の将来についての考え方に、何らかの影を落とすことはしばしば見られることである。
私は現在、同性愛に関する電話相談を受けている。時折、かかってくる高校生からの相談の内容は、上に書いたことをそのまま反映している。自分に対し肯定的になれず、自分の将来を極めて悲観的にとらえている。
ここでこの文章を読む人にわかっておいてほしいのは、同性愛者の多くは、思春期の時に(外部からの要因等によって)突然、同性愛者に「なる」わけではない。もともと、生まれつきと言っていいほど、同性愛者になる性質が備わっている。したがって、中・高生の時に同性愛の存在を肯定的に伝えることは、新たな同性愛者を製造することにはならない。
また、同性愛を「治療」しようという試みは、まず無駄に終わると考えた方がよい。異性愛者が、自分の存在の「根っこ」から異性を好きになり異性に性欲を抱くのと全く同様に、同性愛者は、その存在の「根っこ」から同性を好きになり同性に対し性欲を抱く。同性愛的「行為」を変えることができても、同性愛者(ひいては人間)の「こころ」や「存在」そのものを変えることが一体可能だろうか。そもそも「同性愛を『治療』しよう」という考え方それ自体が、どこかおかしい・ある偏りを示していることに思い至るべきである。
皆、自分が同性愛者であることを隠し、同性愛者は存在しないことになっている日常生活の中で、中・高生は、それでもどこか他の同性愛者と会える場所を探す。何もわからず初めて新宿2丁目に行き、見知らぬ男性に声をかけられて性関係を持ったという高校生が、電話相談を受けていて少なからずいる。それは、もちろん高校生の性的関心に依るところが大きいが、自暴自棄様の精神状態に依るところも大きい。そして、情報の欠如に依るところが大きい。
同性愛に付けられた否定的なイメージのため、多くの人にとって、いまだに同性愛者としての生活が「夜の生活」だけに限られる。いまだに学校や職場や普段の「昼間の生活」を同性愛者として生きることができない。初めての同性との関係を、そのように性関係から持った高校生は、そのまま「夜の生活」にはまってしまうこともある。
同性愛の高校生からの相談を受けていて、私がどうしてもやっていかなくてはならないと思っていることがある。同性愛の中・高生たちに「君たちは一人ぼっちではない」ということ、そして「君たちが同性愛であることは決して悪いことではない」ということを絶対に伝えていかなくてはならない。それは、彼らの同性愛を「固定」することになるのではなく、彼らに、本当の自分でいていいのだ、というメッセージを伝えることである。それによって、どれほど多くの「健康」な中・高生が、精神的に「不健康」になったり、「不健康」な夜の生活に入り込んでいくのを防げることだろう。
中・高生にものを教える立場にある人たち、特に性教育に関わる人たちに、ぜひお願いしたい。性(セクシュアリティ)や恋愛について語るときは、目の前の中・高生の中に、同性愛者が必ず一人はいるという前提で話をしてほしい。つまり、以下の諸点を必ず話の中に含めて語ってほしい。
(1)人間には、異性に引かれる人だけでなく、同性に引かれる人も一定の割合で必ずいる。
50人に一人くらいの割合でいる。
(2)同性に引かれることは、決して悪いことではない。「病気」や「異常」でもない。
数は少なくても人間の一つの自然なあり方である。
そのような感情を持つ自分を否定的にとらえてはいけない。
(3)異性愛者は、同性愛者を冗談やからかいのネタにしてはいけない。
同性愛者が気持ち悪い存在であるかのように、仲間内の話のネタにしてはいけない。
(4)同性愛者も、ごく普通に一般社会の中で生活している。
中学・高校の教師もいれば、サラリーマンや公務員、医者、大学教授など様々な
職業に就いている。
(5)同性同士のカップルも、長く連れ添う関係を築くことができる
(6)同性愛者に対する社会の偏見や差別はあるが、同性愛者に肯定的な人々も必ずいるし、
同性愛者をサポートしてくれる団体もある。
(※同性愛者の団体をいくつか紹介できるようにしておいてほしい。)
(7)絶対に避けてほしいのは、何の根拠もないのに「今はまだ成長の途中の段階だから
決めつけるのは早い、大人になれば異性に興味を持つようになる」とか「そのうち
君に合う異性と出会える、そうすれば治るだろう」と、同性愛が思春期の一時的な
現象であるかのように中・高生に告げることである。
いつか異性を好きになれるかのような錯覚を、何も知らない十代の同性愛者に
植えつけることである。
健康な同性愛者として生きるという選択肢を、中・高生から剥奪することである。
自分の異性愛者としての感覚から、同性愛を判断してわかったように語ることは
やめてもらいたい。
「男は女を好きになるものだ、女は男を好きになるものだ」
それが当たり前だと思っているその感覚を、止揚してもらいたい。
たしかに大半の心理学の書物には、「思春期同性愛一時的現象説」とでも
名付けられるような、思春期の同性愛を過渡的な現象ととらえる説明が書かれているが、
その言葉を信じて、思春期やそれ以後の十数年という歳月を、本来の自分を否定し続けて
過ごした人々が、私の周りに余りにも数多くいる。
人格の成熟や人間関係という点で、最も豊かで意味のある時期になるはずの10代の後半
から 20代の前半を、全く無為に過ごしてしまった、と彼らは悔やむ。
(8)男女間の恋愛が当然だとか、人は皆、結婚するという前提でもって発言をすることに
対して、 十分に慎重になってほしい。
以上の諸点を真面目に真摯な態度で、教師が生徒たちに告げるなら、異性愛の生徒たちの同性愛に対する見方も変わってくるだろう。同性愛の生徒たちが天にも救われたような思いになることは言うまでもない。