本の紹介



 

「宮沢賢治の青春 "ただ一人の友" 保坂嘉内をめぐって」 
 菅原千恵子著                
 宝島社   1994年7月刊 


 僕は、日本の文芸作品はあまり読まないし、読んでも面白いと思うものは数少ない。高校生の時に、義務感でいくつかの著名と言われる作品を読んだことがある。その中で、強く印象を受けたものとして思い出せるのは、島崎藤村の「破戒」と、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の二つだろうか。「破戒」は、マイノリティがマジョリティから受ける差別・侮蔑の中で自らのマイノリティ性を隠しながら生きることの息苦しさ、そして結末での劇的な(今で言うところの)「カミングアウト」が描かれた作品で、まだ自分の同性愛性をはっきりと自覚していなかった僕は、それでも主人公と共通する痛みに身につまされる思いがしたことを覚えている。現実の社会でいかに生きるかという(後者の作品と比べると)外面的な意味でマイノリティの苦しみを描いた作品と言うことができる。

 「銀河鉄道の夜」は、ファンタジーの形で内面の旅を描いた作品である。

 ジョバンニは、親友のカムパネルラと一緒に、汽車に乗って銀河鉄道を旅している。途上で人々が乗っては降り、タイタニック号が沈没した後に汽車にやって来た姉弟たちも、とうとう南十字星の駅で降りてしまった。ジョバンニとカムパネルラは二人きりになる。 
「僕たちどこまでもどこまでも一緒に行こうね。」
そうジョバンニが言ってふり返ると、カムパネルラはもうどこにも見えなかった。ジョバンニは鉄砲玉のように立ち上がる。そして窓の外へからだを乗り出して力いっぱい泣き叫んだ。

  目を覚ましたジョバンニは、つめたい涙をながして草むらに寝ている自分に気づく。とび起きて町へ下っていくと、橋の上には人がたくさん集まっている。
 「こどもが川へ落ちたんですよ。」
 胸がさあっと冷たくなる。ジョバンニは夢中で飛ぶように河原の人だかりの方へ走っていった。カムパネルラは水に落ちた友人を助けようとして川に飛びこんだんだ。そして友人を舟の方へ押して寄こしたっきり、もう浮かんではこなかった。川面いっぱいに写っている銀河のはずれにしか、もうカンパネルラはいないのだと、ジョバンニには思われてしかたがなかった。
 

 読後、たとえようのないかなしさが残った。
 こころのどこか深い層にはたらきかけられ、ジョバンニの深遠な孤独が痛いほどに伝わってきた。
 内面の旅に同行できるような友とも結局、最後には別れなければならなかった。
 気持ちをわかちあえる友人を、現実の世界においても失わなければならなかった。       
         
  メタファーや象徴的な表現にあふれる「銀河鉄道の夜」は、一体それが何を意味するのかよくはわからないところがある。たとえば、カムパネルラが姿を消す直前、ジョバンニが目にする「両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っている二本の電信柱」、これは何をあらわしているのか。                           
 

 この「宮沢賢治の青春」を読んで、「銀河鉄道の夜」で描かれている世界が、ずいぶんとわかるようになった。様々なメタファーが実際に意味するもの、そして、なぜ自分の内面のあるものが、これほどに銀河鉄道の夜に共鳴するのか、といったことなどが。
         
  三十三歳で亡くなった宮沢賢治は、生涯ある一人の男性を思い続けていた。
「銀河鉄道の夜」のジョバンニは賢治自身、カムパネルラはその男性、学友の保坂嘉内をあらわしている。
  1916年、現岩手大学農学部の学生だった二十歳の賢治は、学生寮の室長をしていたが、そこに一年遅れて入学してきた保坂嘉内が同室になる。文学を好み、歌をつくり、理想主義のこの二人の青年は、急速に親しくなる。
 この時期、三ヶ月間あまりにつくられた賢治と嘉内の歌は、互いの考えが深く影響し合っていることをうかがわせる。会ってから一年ほどして、他の学友二人を加え文芸同人誌「アザリア」を創刊し、賢治と嘉内の仲はさらに親密になる。二年目の夏、以前何人かの仲間と登った岩手山に、今度は二人だけで一泊二日の登山をする。
 この旅行が二人の間柄を決定づけた。この小旅行のことは、嘉内の歌にも、その後何度も賢治が嘉内に宛てる手紙にも、くり返しくり返し登場する。

 「あなたとかわるがわる一生懸命そのたいまつを吹いた。
   銀河が南の雲のきれまから一寸見え、沼森は微光の底に眠っている。」

 岩手山から見える夜空の銀河の下で、二人は夜を明かした。そして様々な思い、理想を語りあい、互いの世界を共有しあった。どこまでも共に進んで行こうと誓いあった。

  この小旅行の後、賢治と嘉内は「アザリア」誌上で、読者にはわからぬ形で、互いを「恋人」と呼びあうようになる。そこで、後に賢治が頻繁に作品の中で用いる「寄り添って腕木を連ねる二本の電信柱」という題材が、賢治と嘉内の双方の歌に登場してくる。この寄り添う二本の電信柱はいうまでもなく、寄り添い支えあって歩んで行こうという賢治と嘉内の姿を象徴したものだった。

  しかし次の年、嘉内は、「アザリア」に書いた文章が社会思想的に過激であるとみなされ、退学処分を受ける。その後、賢治の呼びかけにもかかわらず、少しずつ賢治と嘉内との間は離れていく。そして、賢治が二十五歳のとき、東京で再会した二人は、互いの方向が異なりすぎることを認識し、埋めることのできない溝を残し訣別するのである。

 「わが保坂嘉内、わが保坂嘉内、私を捨てるな。」

 悲痛な賢治の思いが、嘉内に宛てた手紙に書き残されている。
            
  一生を独身で通した宮沢賢治は、亡くなるまで、嘉内と、嘉内と一緒に語り合った銀河の夜の記憶をずっと心に留めていた。同性を愛する賢治の思いは、誰にも明かされずにただ彼の作品にのみ、(抑圧されたかたちで?昇華されたかたちで?)表現されている。
 
 
 
 


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