同性愛という現象を真面目に考えていくと、
(同性愛に関係する種々の現象をも真剣に再考することになり)
「人間」や「世界」に関して、
様々に思いをめぐらさずにはいられなくなります。

性、セクシュアリティ、男性性、女性性、
男性/女性という二分法ではない(gradationalな)視座。
androgynousという視座。

エロス、
愛と呼ばれる現象について。
attraction of the sames.

偏見や差別という現象は、
人間の本質に根づいているものなのではないか。
世界の始まりと共に、在るものではないか。
必ず、何ものかを、scapegoatsとせずにはいられないはたらき、
「悪」の属性を、ある対象に、付与せずにはいられないはたらき、
あるものを、異質(異物)とみなさずにはいられない、
そしてそれを排除しようとせずにはいられない、そういうはたらき、
常に、歴史の中に、人間の本質の中に、
inherentなものであるかのように、存在している。

stigmaを背負わせれた者がいかに生きていくか。
stigmaを刻印された者としてのアイデンティティ。

秋田巌は言う。
「実に様々な「ネガティブ」に人は見舞われる。
その「傷」に驚くほど無頓着な人もいるが、
そのような場合「罪を得る」ことが難しく、
社会的にいくら成功していても、
存在の個別性に立脚していない危うさがある。
そして時に「罪に堕ちる」こととなる。
この「罪」「傷」「欠落」を、我が身に刻み付け、
一生涯それをともに生き抜く決意をする者が、
Disfigured Heroである。」
(「心理療法と人間関係」所収「心理療法と人間」 p.143
 岩波書店 2001年)
(「罪を得る」や「Disfigured Hero」がどういうことかは、
原文をお読み下さい。)

私が、いわゆる"ego-dystonic homosexual"であったとき、
私の内の根源的な部分(相手を愛し、いとおしく思う気持ちや性欲)を、
異物だと感じていた(感じさせられていた)。
そして、私の存在自体が丸まんま、
世界にとってのおっきな異物であるみたいに感じていた。

私がやろうとしていることは、
異物であるものを(異物だとみなされるものを)
(それを異物だとみなす)システムに、いかに同化させていくか。
否、同化させなくとも、
いかに、折り合いをつけ、収まりをつけていくか。

異物を「取り込むこと」「同化すること」は、
(その異物を取り込んだ)システムの、大変革を引き起こすことだろう。
急激に、そのシステムの質・次元が一変することになろう。

異物と「折り合いをつける」「収まりをつける」ことは、
異物とシステムの間の、
バランスのあり方、調和のあり方、
だけの問題になるのかもしれない。
(それ「だけ」でも、大きなことなのかもしれないが。)

同性愛が、世界にとって、異物ではないと言う者はいないだろう。
私のやろうとしていることは、
異物と、(それを異物とする)システムとの折り合いをつけていくこと。

それは、私自身が、世の中との折り合いをつけていこうとする、
そういう作業であるように思う。
それは、私にとって、創造的な作業であるように感じられる。
Kawaian Jungianでいう、物語りをつくっていくこと、であるように思う。

人間は必ず死ぬ。
悩んだり苦しんだり、病いになったり、衰えたりする。
不運な境遇に生まれたり、急に不幸にみまわれたりする。
自分の大切なものを失ったりする。

少数の人々は、
人間のそういう側面、
世界のそういう側面、
とかかわらざるを得ないように生まれついているのかもしれない。
かかわることを仕事とするように生まれついているのかもしれない。
それが召命であるように感じられるのかもしれない。

 



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