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劇団太陽族所属 俳優 故 南勝 儀 かねてより病気療養中の処
去る2023年11月26日に永眠いたしました
享年82歳でした
故人が生前に賜りましたご厚情に深く感謝し 謹んで御礼申し上げます
劇団太陽族*****
こちらは以前収録したインタビュー記事です。
『南とミナミ』− 精華小劇場公演に向けて(2005年9月8日収録) −
− 今回、劇団太陽族初めての精華小劇場での公演ですが、ミナミのど真ん中にできた小劇場での公演ということで、昔からお芝居やってはる南勝さんに話を聞きます −
岩崎 南とミナミ。ま、我々太陽族も初めてやるわけですが。南勝さんはお芝居を長くやってらっしゃる訳で、若いときにあの周辺でよくお芝居をされてた、そのあたりをお聞きしたいんですが。精華はもう昔からようご存じやったんですかな。
南 学校は知ってましたけどね。戎橋通りはよう歩いたわな。
佐々木 小学校自体はもっとずっと古いんですか。
南 うん、古いよ。
岩崎 明治ですね。で、地域の方のお金で建ってるんですよ。だから大阪市ができるより古いんですな。
岸部 市政が出来る以前。
岩崎 地元の方たちはものすごく誇りを持っていらっしゃる場所なんです。南さんの若いときは、たぶんまだそこに生徒たちが通ってはるということになるんかな。
岸部 まだ廃校になってなかった。
南 ああ、うん。そうやね。
岩崎 ミナミは芝居町ということなんですね。歌舞伎座っていうのがその辺にあったんですよね。
南 千日通りの角が大阪歌舞伎座やったんやね。そののち千日デパートになって。もう、あんのかないのか分からへんけどね。
岩崎 はいはい。今は?えー、ビックカメラでしたっけ。
南 デパートの上に劇場持ってたね、やっぱり。
岩崎 ほう、ほう。南 千土地興業ちゅう会社の持ちもんやったんとちがう?お笑いのタレントとかようさん所属してたよ。米朝さんなんか、たぶんそこの所属やったんとちがうかな。何べんも出とるわけやないけど、僕はたまたま、その千日劇場っていうところに出ることがあって。いっぺん出たときにね。もう、亡くなりはった小米さん・・・。
岸部 桂枝雀さん。
南 まだ小米さんっていうてはって。
岩崎 ああ。
南 ちょうど楽屋風呂で二人になったことがありましてね。
岩崎 ほう、枝雀さんと。枝雀さんて、ざこばさんの兄弟子なんですよね。
南 そうです。米朝さんのお弟子さんですね。南光さんの師匠や。
岩崎 そうですか。今日は南勝さんにお写真もお持ちいただいているんですが。
南 (写真を出す)
岩崎 ああ、これがそう。
南 カミセキっていうんかな。10日代わりで、上、中となって。これは上席になってるかな。
岩崎 「こいさん」という芝居ですか。
南 これは、亡くなりはった鳳啓介さんの本ね。
岸部 あ、啓太さんってなってる。志織啓太さん。
岩崎 書くとき、演出するときは啓太さんなんですかな。
南 そうやね。漫才なんかも全部あの人が書きはった本やからね。大口とかいわれたやろ。あれ、全部あの人が考え出しはったことやろ。
全員 へえー。
岩崎 写真に写ってんのは京唄子さんで。そのお隣が南勝さんですね。
南 ええ、そうですね。
岸部 きれいやな。
岩崎 写真の裏にお名前がありますけど。当時は、南昌吉さんという名前なんですね。
南 新派におったときに使ってた名前なんですけどね。
岩崎 ほお、なんでまた南昌吉さんになったんですか。
南 いや、かっこええやろ思てね。まあ、宇野重吉とかおったじゃないですか。
佐々木 ああ。「吉」ね。
南 真ん中できれいに割れるでしょ。
岸部 字が対称になるんやね。
南 それで、昌吉がええとか言われたんでね。あっさりしててええんじゃないかなって。なんか小僧さんみたいな名前やけど、それが気に入ってね。森本 この写真、何歳くらいの時なんですか。
南 25、6やったと思うんやけどね。これは。
岩崎 南さんはいくつから芝居をやってはるんですか。
南 21歳くらいですな。最初は、くるみ座っていう毛利菊江先生のところで勉強させてもらって。僕の家がもともと岸和田の方やから、それから大阪の関西芸術座っていうところへ行って。どっちも劇団の養成所へかよったんやけど。ちょっと、どっちもちゃうなって感じて(笑)。
岩崎 また、NGワード。えー。南勝さんは、自分の方向は別にあるんじゃないか、と思わはったんですよね。
南 こんなん、メシ食われへんやろってなもんや。
岸部 あわ、あわ。
南 うん。
岸部 えーと。ほんで、ほんで?
南 でね、新春座って劇団があって。これが、いわゆる商業演劇と新劇の中間みたいな中間演劇といわれるところで、そこにいれてもらってね。
岩崎 この写真は、その新春座とのからみで出演したということなんですか。
南 いやいや、新派に入ってからや。もともと新春座におったから、いろんな世話してくれる人がおって。東京に出たいって言うて新劇から新春座にいったから、新派とか商業演劇の方面に目覚めたというか。
岸部 新派へいったのは25歳位?
南 いや、もうちょっと前。23歳。この写真は昭和42年て書いてますね。
岸部 森本さんの生まれた年や。
南 昭和41年に入ったからな。
岩崎 この写真の当時は、住まいは東京にありつつ、大阪に出てはった。
南 これはね。
岩崎 そうすると、この時期は難波の方で何日間か住んでたんですか。
南 難波だったら、岸和田へ30分で帰れるんや。
岩崎 ああ、そうか。自宅から、難波に通ってはった。
南 そうそう、南海電車。休み月になれば、大阪に帰ったらお仕事世話してくれる人がいるからこっちのほうが有利で。ちょくちょく帰ってきてた。
岩崎 当時は今に比べてどうでした、街のにぎわいは。あんまり今と変わらない、繁華街は繁華街?
南 繁華街やけども。そうやね、どういうんかな。やっぱり落ち着きはあったんかな。がやがやした中にね。
岩崎 なるほどね。
南 千日前自体が、もっと老舗も多かったし。織田作之助っていう有名な作家が行ってた、カレーライスの自由軒ていうのがありますね。
岸部 ああ、自由軒。ほんまに精華の近くですね。
岩崎 ありますね。
南 今もありますね。
佐々木 卵がのってる。
岩崎 飲むのはよく飲み歩いたんちゃいますの。
南 飲みましたな。
岩崎 飲みましたなぁ(笑)。あのへんで芝居打ってると飲むのはどのあたりに行きますの?
南 そうやなあ。新派で来るころは、歌舞伎座はなくなってて、新歌舞伎座やったからね。その頃やったから、新歌舞伎座の裏あたりやね。難波新地っていうところやね。
森本 もう、球場もできてたんですか。
南 もともと、僕ら南海ファンやから。よう、見たで。飲み屋で選手らと会うたりしたで。
森本 ほお、なるほどね。岩崎 南さん、映画も出てはったんですね。
南 うん、新派やめてからね。TV映画や。50本位やったかな。
岩崎 素浪人花山大吉とか銭形平次に出てたって。侍の役が多かったんですか。
南 いろいろでしたよ、丁稚、手代、番頭とか。ちょっと悪い感じの、な。
岩崎 当時の関西の新劇の俳優さんたち、わりあい時代劇に出るっていうようなこともあったんですね。
南 あのね。まだそんなに使ってもらわれへんかったけどね、その後だんだんと出て来たね。やっぱり、映画自体が斜陽化してきたから、専属の役者っていうのがもてへんようになったでしょ。いろいろ新劇でやってる役者とか使うようになったんですね。岸部 新派辞めて、大阪に帰って来はったん。
南 はい。
岸部 何歳?
南 31歳やったかなぁ。
森本 その時はもう、南勝?
南 いやいや、まだ。
森本 昌吉さん。
岩崎 劇団未来に参加するのはそれ以降?
南 ずっと以降ですわ。
岩崎 創造館で稽古してますけど、京阪で創造館へ来ると。野江ですかな、劇団未来の稽古場は。いっぺん入らせてもらったけど、木造の良いアトリエですわ。
南 もとは阿波座にあったんが移転して、倉庫を世話してもらってアトリエにしたんやね。
岩崎 それから、未来をお辞めになったんがあり。小劇場と出会う事になったんですね。
岸部 「ぼちぼちいこか」で、わたしらと出会って。
岩崎 そうそう、ウイングフィールドでお会いして。
岸部 中島陸郎さんを通じてね。
岩崎 それが御縁でございましたなあ。
岸部 長いですね。それから、もう12年経つやろ。
南 そやね。
−さて、話はミナミへ戻ります−南 僕らちいさいころはね。南海線で岸和田から難波へ出たら大阪へ来たっていう、そんな感じやったな。
岩崎 初めてミナミに遊びに行ったっていうのは?二十歳やそこらになったら行きますわな、南海電車の人やったら。
南 そやけど、あんまり行かへんかったよ。
岩崎 ああ、時代がね。
南 うん。
岩崎 南勝さん、昭和16年の生まれやから。まさに太平洋戦争前夜ですわな。そこから何年かは、ミナミ界隈は焼けてますのかな。
南 あ。それはまた別の思い出があるね。天王寺なんか、一心寺さんにお参りするわな。そしたらほとんどまわりは焼けてるし。
岩崎 あの辺、高台ですもんね。
南 そんなん残ってたし。難波球場の裏側や、湊町の駅のある方向。あの辺もみんな焼けてたわ。
森本 電気屋街とかあの辺も焼けてたんですか?
南 いや、あのへんは焼けてないんちゃう。もちょっと西っ側や。
岩崎 南さん、あれでしょ。子供のころは通天閣なかったんでしょ。たぶん、あれ鉄やから物資で持って行かれてて。
佐々木 鉄を取るために解体してたんですか。
南 うん、そうやね。
岩崎 通天閣のない動物園前の風景を南さんは見てるはず。戦車とかね銃弾とかになったわけです。
南 そやからね、鉄くず集めるのも小遣い稼ぎになりましたんや。
岩崎 南さん一押しのミナミの老舗っちゅうのはありませんか?
南 え、飲むとこ?
岩崎 いや、ご飯でもお茶でもええんやけど。
南 どこやったかな、坂町いうあたりに丸福コーヒーとかあったな。トリイホールのちょっと先あたりを坂町っていうたんや。
佐々木 ああ、今もありますよ。細い道入った古いええ感じの。
南 ああ、それやな。あと、御堂筋のはり重とかな。
岩崎 道頓堀も今とはだいぶ変わりましたんかな。
南 昔はね、川の上に張り出して牡蠣鍋とかやってたな。
岸部 聞いたことある。
南 あんまり関係ないけど、お茶屋さんいうんかな。相撲の切符や芝居の切符を扱ってる、今でいうプレイガイドが中座の前とか、二、三軒ありましたよ。
岸部 チケット販売所みたいな。劇場とか何軒くらいあったんですか、ミナミで?
南 僕が知っているだけでも、西から、文楽座っていうのがあって、それが朝日座になるなあ。それから角座、中座、松竹座、今は復活してるけれども僕らの知ってるときは洋画の映画館やってたけどね。それに浪速座、大劇。
岸部 歌舞伎座もあったんですよね。
南 俺らの頃は、新歌舞伎座になってるけどね。学校行ってる頃は、まだあの千日デパートの歌舞伎座があったんや。
岸部 はいはい。
岩崎 そして、そのずっと前は刑場跡やったとかいう話になっていくんやね。けなしてるんとちゃうよ。
岸部 千日前通りの法善寺の角の所が刑場跡やったんやって。「ぼちぼちいこか」のとき調べて歩いたもん。
岩崎 ほお。
岸部 これらの劇場って、商業演劇やってたんですよね。
南 そうですね。
岸部 新劇をやってる劇場はなかったんですか。
南 そうやな、ミナミにはないな。
岩崎 大阪の三越とかって、結構東京の新劇が来てやってたって聞きました。
南 ああ、ええ劇場やね。高麗橋の。もともと新劇やってた劇場やったら、毎日ホール、朝日会館、サンケイホール。
岩崎 キタの方やったんや。
岸部 棲み分けみたいなのがあったんですか。
森本 ミナミの方が、昔からの興業会社が仕切ってたとか。
南 ああ、そんなんあるかもしれんねえ。
森本 フェスティバルホールは。
岩崎 あれは、新しいやろ。
南 うん、でもその頃もうあったと思うよ。
岸部 ふうん、そうか。小劇場とか全然ない時代ですもんね。
岩崎 それはそうです。小劇場が出てくんのは1960年代やから。
南 小劇場と言われてないわな。アングラとか。
岩崎 南さんと唐十郎さんて、ほぼ同じ世代ですよね。
南 ああ、でもちょっとぐらい上ちゃうかな。
森本 そのころはもうやってはった?アングラ系。
南 あった、あった。天井桟敷やな。
岩崎 当時、南さんとか新劇やってはった人たちから見てね。その小劇場、アングラってどんなふうにうつってたんですか?
南 僕は結構興味持ってたね。やっぱ、ちょっと新劇かじったからかなあ。早稲田小劇場とかね。自由劇場とかね。
岩崎 秋浜悟史さんとかの三十人会もこの頃ありましたかね。
南 ありましたね。
岩崎 いわゆる翻訳劇としての新劇からの移行期ですね。昔は文学者とかが書き下ろしてたんを、劇団の座付きで書くなんていうことになってくんのはその時期なんやろう。
南 そうやね。岩崎 さて、そんな芝居小屋がたくさんあった難波の街に精華小劇場が出来ました。南さん、どうですか。精華小劇場に対する抱負というか、今回の新作についてということでなくても良いんですけど。ああいう体育館部分が劇場になったということに対して。どんな思いを持ってらっしゃいますか?
南 まあ、入り口は精華小劇場になったということなんやけれども。その前に、街踏劇の時と、精華小劇場のオープニングイベントでリーディングをやらしてもうてるから。僕自身はこれで三回目になるんかな。難波駅に近いから、ホンマに、どない飲んで酔って帰っても安心や、っていう。
全員 はははは。
南 それがうれしゅうてしゃあないね。
佐々木 抱負ですわ。
岩崎 ええまとめになったようで。「南とミナミ」というタイトルで、南さんの歩んでこられた道と、ミナミの重なる部分ということでお話を聞きました。
では我々、「晴れて風無し」、頑張りましょう。