人物辞典No.1

曹操孟徳−三國鼎立し、超世の英傑去る
出身地[言焦](ショウ)郡 幼名阿マン/吉利
生きた期間155年〜220年享年66歳 知謀97 武勇83 人望92
容姿身長7尺、目が細く鬚が長い.

らくちん頭出し
【第28話】呉との対決
【第29話】慢心は災いを成す〜曹操、連環の計にはまる
【第30話】魏軍炎上、赤壁は修羅場と化す
【第31話】三国鼎立への動き
【第32話】忠臣馬騰、許昌に散る
【第33話】恐怖! 馬超来襲
【第34話】計略は兵より強し、韓遂投降し馬超敗れる
【第35話】蜀の謀士、張松との対面
【第36話】荀の誤算
【第37話】漢中征伐
【第38話】隴(ろう)を得て蜀を望まず
【第39話】魏王曹操、皇太子を曹丕に
【第40話】元宵節の反乱
【第41話】漢中争奪戦 第1幕〜猛将夏侯淵の最期
【第42話】漢中争奪戦 第2幕〜将軍徐晃と王平の確執
【第42話】漢中争奪戦 第3幕〜鋭すぎる男、楊修の末路
【第43話】関羽の奮戦と曹操の動揺
【第44話】関羽の呪い
【第45話】不吉な夢
【第46話】奸雄の永眠

【第1話】〜【第15話】予告された登場、乱世の奸雄
【第16話】〜【第27話】飛躍への序曲


呉との対決
 劉備と孫権が結ぶことを恐れた曹操は呉に使者を送り、共同して劉備を攻めようと持ち掛ける。
 ところが諸葛亮の絶妙な弁舌と、周瑜・魯粛の説得により孫権は曹操との決戦を選択し、曹操の使者を斬り殺してしまっ た。
 これに激怒した曹操は赤壁に兵を進め呉軍と対峙する。「南船北馬」という言葉どおり、魏軍の将兵は水上での戦いに 不慣れなであったため、水上戦に長けた荊州の蔡瑁・張允らに戦艦を指揮させるが、名将周瑜の前に大敗を喫 してしまう。しかし、両名の訓練によって次第に水戦に慣れていくのを恐れた周瑜は、曹操が派遣してきたスパイのショウ 幹を逆用して蔡瑁たちが内通しているように見せかけた。曹操は激怒し両名を斬ってしまう。
 しかし、これだけでは100万と豪語する魏軍相手に3万の精鋭で当たる呉軍は勝てない。
 そこで周瑜と黄蓋が「苦肉の計」を思い付く。もともと周瑜は孫策時代からの臣でありまだ年齢も若い。一方の黄蓋は 孫堅の時代から仕えてきた重鎮である。当然、周瑜の指揮下に入るのは面白くない。そこで両名はわざと仲違いし、周瑜は 魏のスパイが見ていることを承知で黄蓋を鞭で打つ。黄蓋はこれに不満を抱き魏に内通する振りをした。
 初め、曹操やその参謀たちは計略と思ったが、黄蓋の使者カン沢が機転を利かせた弁舌をしたため曹操は黄蓋を信用して しまう。

慢心は災いを成す〜曹操、連環の計にはまる
 スパイとして呉に送っていたショウ幹がホウ統を連れて戻って来た。船上の生活に不慣れな魏の将兵たちは船酔いがひどく、 ホウ統に何か妙案はないかと曹操は尋ねた。するとホウ統は、船を鎖で繋げば揺れが収まると答える。魏の謀臣で同行してい た程は火計の危険性を述べるが、大軍を擁している上、敵軍の一翼を担う黄蓋がこちらに内通していると信じている曹操は聞 き入れない。かくして「連環の計」は成功した。
 勝利を確信する曹操は「周瑜よ魯粛よ(呉軍の総大将と参謀)、お前たちの腹の中に虫を入れておいたぞ(黄蓋、カン沢のこと)」 と歌ってみたり、「江東を平定後は二喬(呉の二喬と言われる程美しかった美人姉妹で、それぞれ孫策、孫権兄弟の正妻)を手に 入れて晩年を楽しく過ごしたい」と言ってみたりと、完全に緊張感が切れてしまっていた。

魏軍炎上、赤壁は修羅場と化す
 船を繋げた場合、火攻めにされればたちまち炎は隣の船に移り危険であることは曹操も承知していた。しかし両軍の配置から して、呉軍が魏軍を火計で破るためには東南の風が吹く必要があった。しかし季節は冬。この時期には風は北西に吹く。 つまり火計をした呉軍が、自ら焼け死んでしまうわけだ。
 事実、ホウ統が黄蓋の使者として曹操の元を訪れた翌日の風向きは北西であり、それを知った呉軍の総大将周瑜はショックで 血を吐いてしまう。
 しかし、ここで奇跡が起こった。風向きを変えるよう祈っていた諸葛亮の力なのか、突如として東南の風が赤壁に吹いたので ある。
 この時を待っていたとばかり黄蓋率いる高速船が発進、曹操が「しまった!」と思ったときには遅く、猛烈な火攻めに遭って 大敗。黄蓋に襲われた曹操は辛うじて張遼に救われ船を捨てて馬で逃げようとするが、陸地には呉軍の猛将、呂蒙と凌統が待ち 伏せしていた。ここも駆けつけた徐晃の働きによって何とか危機を脱したものの、今度は趙雲が現れ、逃げれば次は張飛に襲わ れてと、逃亡する先々で敵の待ち伏せにかかってしまう。曹操がどのルートで逃げるか、諸葛亮はすべて予測していたのである。
 華容道まで逃げ延びてきたときには、曹操の周りには僅か数十名の兵士しか残っていなかった。
 そこへ運命だろうか、関羽雲長が現れる。
 曹操は一瞬、観念した。関羽の乗っている馬は、かつて自分が与えた名馬、赤兎馬である。自分の乗っている馬は既にかなり 走っており、逃げ切ることは不可能に近い。
 この時、隣にいた程が彼の側に近づき、関羽は強きを挫き弱きを助ける性格だから説得が可能だと言い、曹操は孟子の故事 を語り掛けて、情に脆い関羽の涙を誘った。
 関羽からしてみれば主君劉備の命を狙い、漢王室を有名無実化している曹操は悪玉の親分以外の何者でもない。しかし、かつて この悪玉に命を救われたことも事実である。しかも自分が今跨っている名馬、曹操を事実上逃げられなくしている名馬は、他 ならぬ彼からの贈り物なのだ。
 義の人関羽は曹操の説得に応じ、軍律を犯すことを承知で軍を退いた。
 曹操は華容道を駆け抜け、曹仁の率いる軍へ合流した。その際、呉軍の周瑜が攻め込んでくることを予想し、南郡を守っていた 曹仁に策を授ける。曹操の予測どおり周瑜が攻めてきた時、曹仁は曹操の指示に従い快勝した。

三国鼎立への動き
 210年、銅雀台が落成すると、曹操は文武百官を集めて盛大な祝宴を催した。その際、自ら経歴を振り返り、「自分は宰相と して位人臣を極めたので、これ以上は望んでいない。私は殷に臣事した周の文王を理想としている」と述べた。周の文王とは、 殷王朝末期、国の大乱をおさめた人物である。堕落し力を失った殷に変わり王朝を建てる力を持ちながら自分はあえて臣下の 姿勢を取り、息子の代で王位を簒奪させている。これを理想としていると言うことは、曹操もまた息子の代で漢王朝を簒奪す ると宣言したようなものであった。
 酒がまわって気持ちよくなってきた頃、劉備を荊州の牧に推薦する書面を持った使者が呉からやってきた。劉備は、曹仁・ 周瑜が争っている隙を突いて南郡・襄陽を取り、さらに零陵・桂陵・武陵・長沙を取って地盤を固めていたのだ。
 劉備の人徳を恐れていた曹操は「ついに領土を得たか」と動揺したが、周瑜を南郡の太守に、程普(孫権配下の武将)を江夏 の太守に任命して劉備と争うようしむけるよう程が進言、曹操は受け入れた。
 こうして、天下は、中原の曹操、江東の孫権、荊州の劉備によって三分されたのである。

忠臣馬騰、許昌に散る
 荊州は元々呉の領土と考えていた周瑜は、曹操と程の思惑通り劉備に対して進撃を開始するが、途中で病に倒れあえない 最期を迎えてしまう。
 彼の跡を継いだ魯粛は富豪の息子らしく穏健派で知られ、劉備に対しても好意的であった。荊州の領土問題で劉備ともめる 一幕もあったが、彼の勧めにより孫権も方針を転換し、劉備と手を結ぶことにする。天下を三分したといえ曹操の勢いは頭一 つ出ており、ここはナンバー2とナンバー3で協力し合うことが生き残る道だと考えたためである。
 孫権と劉備が共同して北上しているという情報が入ると、曹操はまず背後にあたる西涼の馬騰の動きが気になった。馬騰は、 かつて曹操暗殺計画に加わった1人であり、劉備たちと本格的な戦闘になれば、隙を突いて攻め込んでくる危険性が十分にあっ た。
 そこで、謀臣荀攸の進言に従い、勅命によって孫権討伐を命じ都に誘い込み、暗殺することを計画。馬騰は曹操の真意を知 りつつも不用意に上洛し、殺されてしまった。

恐怖! 馬超来襲
 馬騰を殺し安心した曹操は、30万のもの大軍を率いて呉に攻め込もうとした。
 この動きに、さっそく呉から劉備に援軍の使者が遣わされた。劉備の軍師諸葛亮は、西涼にいた馬騰の息子馬超に手紙を送 り、父の敵を討つために曹操を打つ絶好のチャンスとけしかける。
 馬超がこの誘いに乗ったため曹操は呉征伐を中止、西涼の太守韓遂に馬超を討つよう手紙を送るが、韓遂は馬超と手を組み 上洛の軍を起こした。その数20万。元々、西涼の兵は騎馬に長け屈強であることを知っていた曹操は多いに恐れた。
 馬超たち軍勢の勢いは凄まじく、古都長安を陥落させまだ余りあった。さらに進撃してくる彼らに対処するため曹洪を派遣 するが、短気な彼は簡単におびき出されて大敗。潼関も落ちる。
 そこで曹操自ら出陣するが、馬超の武勇は西涼の将兵の中でも群を抜いており敗れる。逃げる曹操に馬超は追いすがり切り かかるが、この時曹洪と夏侯淵が救援として駆けつけたため命からがら逃げ延びることができた。
 しかし、激戦はまだ終わらない。新手の兵2万を加えた馬超はさらに手強く、曹操は敗退を重ねる。
 徐晃の献策で渭水を渡って前後から攻めようとすれば渡っている最中に矢を射られて総崩れとなり、落とし穴を掘ればホウ 徳が奮戦して効果が上げられず、夜襲を予測して四方に伏兵を張れば取り囲んだのは物見の兵だけで、その外側から馬超軍の 本隊に襲いかかられ敗れる。曹操には珍しく、案じる策が次から次へと不発に終わる。

計略は兵より強し、韓遂投降し馬超敗れる
 それでも曹操が黄河の西に別働隊を進めると、馬超たちも危機感を抱きいったん和睦したいと考えた。
 一方の曹操は、馬超の片腕となっている韓遂を味方に引き入れたいと考え、故意に韓遂と親しく語り合ったり、所々をわざ と塗りつぶした手紙を韓遂に送るなどして馬超を疑心暗鬼に陥らせる。最後の仕上げは、曹洪に「昨晩の件、よろしく」と韓 遂に言わせ、これを聞いた馬超はますます韓遂を疑うようになった。
 こうなっては、韓遂も保身のために曹操に投降する以外道は無くなってしまった。これを知った馬超は多いに怒り韓遂の陣 を襲撃、そこへ曹操が侵攻してきたため馬超軍は大混乱。彼は何とか西へ落ち延びた。

蜀の謀士、張松との対面
 馬超を破り長安を取り戻した曹操の威名はいよいよ天下に鳴り響した。これを恐れたのが漢寧の太守張魯である。そこで曹 操に対抗するため、まず益州(蜀)を攻めとって地盤を固めるべきだと、参謀のエン圃が進言する。
 これを知った益州の牧劉璋は恐れおののき、張松を曹操に派遣して張魯を攻めてもらおうと考えた。
 しかし、張松は劉璋の器量の小ささに不満を持っており、密かに益州の地図を持ち出すと曹操に益州を献じてしまおうと画 策した。
 しかし、実際に許昌を訪れてみると、奢り高ぶる曹操は3日も彼を待たせ、さらに多額の賄賂を巻き上げられてようやく面会 を許された。曹操が天子を擁し賢人を集め、徳も備えている人物と期待していた張松は多いに落胆し、わざと曹操を怒らせ、そ の人物を見ようとする。
 曹操が書いた兵法書である孟徳新書を「西川(益州のこと)では三尺の童ですら暗誦している」と酷評し、屈強な兵を見せられ れば、「西川では真心で政治を行っているので軍隊など見たことがない」と言い、「私は負けたことがない」と曹操が豪語すれ ば、濮陽で呂布に殺されかけたことや宛城で張繍に火攻めにされたこと、赤壁で周瑜に大敗し華容道で関羽に見逃されたこと、 馬超から逃げる時は容姿をいつわるため髯まで切り落としたことなどを上げて馬鹿にする。
 怒った曹操は張松を斬り殺そうとするが、楊修・荀に諌められて思いとどまり、棒で叩き出させた。
 この結果、張松は曹操に見切りをつけ、劉備に益州を献上する方向へ向かった。

の誤算
 曹操は董昭ら群臣一同の要望により魏公の位にのぼった。漢王朝簒奪への第一歩が踏み出されたわけである。
 この時、曹操陣営一の参謀荀は強行に反対し、後で「こんなことになろうとは…」と嘆いた。荀は漢の臣下として 曹操が天下を安定させることを望み、そのために協力してきたのである。
 荀が真意を知った曹操は、彼が自分に刃向かうのではないかと恐れた。荀の読みは常に的確であり、その先見性と人を 見る目においては畏敬の念さえ持っていたのである。その荀が自分のためではなく漢のために策謀を謀るようなことがあれば、 曹操にとっても見逃すことはできない。
 そこで212年、呉征伐の際、荀を同行させ、密かに殺してしまおうと考える。しかし、知謀の臣荀はそれを見破った。 これまで曹操が戦場に赴くときはいつも許昌を守り、兵糧を送るなど裏方に徹していた自分を、今回戦場に向かわせるという 所に不審を抱いたのだろう。彼は病を理由に寿春に留まろうとした。
 そこで曹操は贈り物を荀の元に届けた。荀が器を開けてみると中身は空。彼は曹操の殺意を読み取り、自ら毒をあおって この世を去った。この時代、身分の高い人から贈り物をもらったら必ずお礼の手紙を書かなければならないが、中身が空なので お礼を述べようがない。つまり、中が空なのに「ありがとうございました」と返事を出せば、何も上げていないのに何を言うか と言われて斬られ、返事を書かなければ「礼の手紙をよこさぬとは何と無礼な」と斬られるわけである。
 曹操は荀の死を聞くと手厚く葬り、敬侯と諡した。
 後に「曹操を魏王に」という発議が出されたとき、荀の甥荀攸が強硬に反対した。曹操が「荀の二の舞になりたいか!」 と怒ると、憤りのあまり荀攸は病死してしまう。

漢中征伐
 曹操が漢王朝を簒奪することを恐れた献帝は、宦官と謀り曹操暗殺を計画するがまたしても計画は露見し、献帝を除く関係者 を尽く極刑に処した。
 214年、曹操は娘を献帝に嫁がせ皇后とすると(これで献帝の義理の父と言うことになる)、いよいよ呉を攻め、次に蜀を取ろう と考えた。この時、すでに益州は劉備のものとなっていた。
 曹操は、夏侯惇の勧めでまず張魯が治める漢中に攻め込むことした。夏侯淵・張ゴウを先鋒とし、自らは中軍を率い、曹仁・ 夏侯惇を後詰めとした。初めこそ苦戦したが、軍を退くように見せかけて敵を誘い出しこれを打ち破ると、勢いに乗って進撃を 開始。張魯の下に身を寄せていた元馬超配下のホウ徳が出陣してきた時は落とし穴を掘って捕らえ、味方に付けることに成功す る。
 こうなると力の差は歴然とし、あえなく張魯は降伏。曹操は彼が漢中の人心を得ていたため、鎮南将軍として引き続きこの地 を治めさせた。

隴(ろう)を得て蜀を望まず
 参軍していた司馬懿・劉曄から続いて蜀も攻め取るよう進言されるが、曹操は「隴を得て蜀を望む」の故事を言い、蜀討伐に は応じない。孫権が隙を突いて攻め込んでくることを危惧していたのだ。
 事実、孫権は北上を開始し、合肥を守る張遼と交戦状態に入っていた。張遼は抜群の働きで、少数で大軍を擁する孫権軍を食 い止めていたが、そう長くは持ちこたえられない状態にあったのだ。
 一方、劉備が蜀に入ったばかりならば、まだ諸将の心を得ていない内に攻め込むこともできたが、すでに劉備はかつてこの地 を治めていた劉璋の旧臣たちを心服させていたので、易々と蜀には入れないと曹操は踏んでいた。
 そこで夏侯淵を定軍山に残し、兵40万を率いて張遼の救援に向かった。
 これで形勢が逆転した魏・呉軍。呉将甘寧の活躍は光るものがあったが、数に勝る曹操が優勢になる。困った孫権は停戦を呼 びかけ、毎年の朝貢を条件に曹操も承諾した。

魏王曹操、皇太子を曹丕に
 呉と和睦した後、曹操はいよいよ魏王にのぼろうとする。ただし簒奪の謗りを交わすため、形式的に三度辞退したから位に即 いた。
 すでに60歳を数える曹操は、いよいよ後継者の選定に入るが、彼は文才に優れた三男の曹植を溺愛していたため、長男の曹丕 にするか曹植にするか非常に迷っていた。そこで参謀の賈に後継者は誰がよいか相談する。
 賈は元々曹丕を支持しており、曹操の問いにしばらく沈黙してからおもむろに「即答しなかったのは、長男を後継者にしな かった袁紹・劉表のことを考えていたためです」と答えた。袁紹は末っ子の袁尚を、劉表は次男の劉ソウを後継者としたため内 紛が生じ共に自滅している。
 曹操は賈の言葉にカラカラと笑うと、曹丕を後継者に指名した。
 ちなみに曹植にも知謀の士、楊修が付いていた。しかし彼は曹操の謎かけをいとも簡単に解いて知をひけらかしたり、どんな 質問をされても大丈夫なように、曹植のために模範解答付きの例題を授けたりと、曹操の不快をかっていた。
 もし楊修がもう少し奥床しい人間であったならば、あるいは曹植が後継者として指名されていたかもしれない。

元宵節の反乱
 218年の春正月、耿紀・韋晃・金イ・吉バク・吉ボク(吉平の息子たち)が許昌で反乱を起こした。しかし曹休の働きによって これらは鎮圧された。
 都は反乱に荷担した者によってあぶなく大火災になるところであった。占いの名人、管輅の言に従って厳戒体制を取って いたため事無きを得たが、そのままのさばらせておくのは危険である。そこで曹操は一計を案じる。火事が起こったとき、 「火を消そうとした者は赤旗の下へ、門を出なかった者は白旗の元へ行け」と兵士たちに命じ、赤旗の方へ行った兵士たちを 反乱の協力者として皆殺しにした。その数300名余りにも上った。

漢中争奪戦 第1幕〜猛将夏侯淵の最期
 同年、蜀を手中にした劉備が北上を開始し、漢中の南、天蕩山を守っていた張ゴウが蜀の老将黄忠らに敗れてしまう事態が 起こった。さらに夏侯徳と韓浩が殺されたので救援を頼むという知らせが夏侯淵から入った。曹操はかつて寒中を攻めた時、 劉曄や司馬懿の言を聞き入れて蜀まで取っておけば良かったと後悔する。
 曹操は同年秋7月、自ら40万もの大軍を率いて出発。南鄭で張ゴウと面会し、敗戦の罪を許すと共に、定軍山にいる夏侯淵 に兵を進めよと指令を出す。この際、夏侯淵が勇敢でありながら臆病でなかったため、無謀な進撃をすることを懸念し、 「ただ武勇に頼るような戦い方はしてはいけない」と諌めた手紙を送った。
 しかし、もともと奇襲攻撃を得意とし、危険を顧みず戦いに挑む夏侯淵は、あえなく黄忠に討ち取られてしまった。
 夏侯淵といえば挙兵以来、共に戦場を駆けた男であり、しかも親戚でもある。曹操はその知らせを聞くと深く悲しんだ。

漢中争奪戦 第2幕〜将軍徐晃と王平の確執
 夏侯淵の弔い合戦を誓う曹操は、自ら20万を率いて定軍山に攻め寄せ黄忠を追いつめるが、蜀の五虎大将の1人、趙雲に 助け出されてしまう。この時の趙雲の働きは抜群で、彼一人のために全く歯が立たない自軍の不甲斐なさに曹操は 怒りを募らせる。ついに自ら敵陣に乗り込むが伏兵に遭って敗れてしまう。
 そこで徐晃を正先鋒、王平を副先鋒として漢水からの逆襲を試みるが、この2人の将軍が戦略の相違から仲違いを起こし、軍は 纏まらない。
 しかも徐晃が趙雲・黄忠に敗れたとき、自陣まで失うことを警戒した王平が加勢に来なかったため両者の確執は決定的となる。 徐晃は王平を殺そうとし、その殺意を読みとった王平は蜀に投降してしまった。
 王平の裏切りに怒った曹操は自ら軍を率いて雪辱戦を挑むが、今度は諸葛亮の計略に翻弄され敗北、次男の曹彰が駆けつけて 何とか落ち着いた。

漢中争奪戦 第3幕〜鋭すぎる男、楊修の末路
 さて戦いは長期に及び、されど特に戦功もないまま時は過ぎていった。こうなると、曹操としては一度兵を退きたいところ だが、それでは蜀の物笑いとなる。
 ある日、鶏のスープの中に浮かぶ肋を見て思うところがあり、つい「鶏肋」という言葉が曹操の口から出た。それを聞いた 夏侯惇は「鶏の肋(あばら)とは何のことだろうか」と、知謀に長けた楊修に問いた。楊修は「鶏の肋とは出汁にするには最適 だが食べようとしても食べるところがない。これに拘っていても仕方がない部分です。魏にとって漢中は鶏肋ということでし ょう。まもなく陣払いの命令が出るでしょう」と答える。
 そこで夏侯惇は他の武将に先駆けて旅支度を始めるが、それを知った曹操は「よくも我が軍の士気を落としたな!」と激怒し、 楊修・夏侯惇を殺そうとする。夏侯惇は皆の助命嘆願により救われたが、楊修はその場で殺されてしまった。
 楊修は頭の切れる男であったが、自らの智をひけらかすところがあり、以前より曹操はカンに障っていたのである。加えて 後継者争いでは三男の曹植に入れ知恵を授けるなどしていたため、自分の死後、曹家を分裂させる要因にもなりかねないと危 機感を抱いていた。そこで彼の知恵を逆用し、わざと謎を解かせて殺したのである。
 この後、曹操は一度は戦いを挑んだが、得るものが少ないと見て長安に退却した。

関羽の奮戦と曹操の動揺
 やがて劉備は漢中王になった。怒った曹操は劉備を攻めようとするが、司馬懿が孫権に荊州を攻めさせることを進言すると これを聞き入れた。荊州の所有をめぐっては呉・蜀間で激しい対立がある上、荊州を守る関羽が孫権を侮辱するような言動を 取ったため、同盟関係にありながら政治的・軍事的緊張が存在していたのだ。孫権がこの誘いに乗ると曹操は喜んだ。さっそ く満寵を樊城を守る曹仁の元へ向かわせ補佐させた。
 この動きを読んだ諸葛亮は関羽に曹仁の出端を挫かせようとして、樊城攻撃を支持する。
 しかしこの動きは呉の幕僚歩シツに読まれており、関羽が曹仁攻撃に出るのを狙っていたのである。
 関羽は樊城を囲ったがなかなか落ちず長期戦の様相を呈してくる。
 曹仁の救援要請に、曹操は大将を于金、副将をホウ徳として派遣することにした。ホウ徳のかつての主君馬超が蜀に降って いること、さらに兄のホウ柔も蜀に仕えていることを考え、諸将はホウ徳が裏切るのではないかと疑念を抱いたため、彼は出 陣に際して棺桶を担いできた。「戦を前に何と不吉なことを…」と言う諸将に、ホウ徳は「自分が勝てば関羽を、負ければ自 分の屍を入れるためのもの」だと答える。
 一方、大将の于金はホウ徳の勇ましさに内心恐れをなしていた。もしホウ徳が関羽を討ち取ったとなればホウ徳の名声は一 気に自分を越えてしまうだろう。彼にとって挙兵以来仕えてきた自分を新参者のホウ徳が抜くことなど許せることではなかっ た。
 于金のこの嫉妬深さは、戦略に表れてしまう。ホウ徳も関羽もその武勇は広く知られていた。こういった豪傑は得てして 力比べをしたくなるものである。2人は共に一騎打ちを望み、事実矛を交えることになった。
 両雄は互いに何度も渡り合うがなかなか決着が付かない。しかし若さで勝るうえ棺桶まで用意したホウ徳の意気込みは尋 常ではなかった。たびたび関羽を追いつめる。
 しかし、ホウ徳に手柄を立てられることを恐れた宇金は、ホウ徳が優勢になると決まって帰陣のドラを鳴らしてホウ徳を 呼び戻した。大将が宇金である以上、この命令に従わなければ軍律違反になる。憤りを感じながらホウ徳は帰陣し、2人の間 は険悪なムードになる。
 一軍を率いる将軍がこんな調子では、勝負は見えていた。水攻めを恐れ陣地を移すよう進言するホウ徳だったが、于金は ホウ徳の言を聞き入れる気など全くない。そうこてしている内に水攻めに合い、于金たちの軍は総崩れとなり、両名とも関 羽に捕まってしまった。
 于金は命乞いをして捕虜となる一方、ホウ徳は命を救いたい関羽の言葉を跳ねのけ死を選んだ。
 この情報が曹操の元にもたらされると、関羽の武勇を知っている曹操は動揺し、関羽を恐れる余り遷都まで口にしてしまう。 それは参謀の司馬懿によって諌められ思いとどまり、新たに徐晃を樊城に派遣した。

関羽の呪い
 一方、呉も動き始める。武だけでなく智も身に付けた呂蒙は、無名の名将、陸遜と謀り関羽を油断させると、蜀の内通者も あってたまたまと荊州を占領してしまった。こうなると帰る場所がないどころか保留も絶たれ関羽軍は浮き足立つ。それへ徐 晃が現われ、曹仁も樊城から打って出てきたため敗走することになった。
 関羽は麦城に立て篭もるが、近くにした劉封らが救援に来なかったため孤立してしまう。諸葛亮の兄諸葛謹が降伏を勧めに 来るが応じなかったため、呂蒙によって次第に呉軍の包囲は小さくなり、ついには捕らえられてしまった。孫権は関羽を殺す つもりはなかったが、関羽をひどく嫌う呂蒙によって首を刎ねられた。
 さて、関羽の死を知った孫権は劉備の怒りが呉に向かうのを恐れ、関羽の屍を魏に送る。孫権の真意は知りつつも、生前関 羽と不思議な関係にあった曹操はその骸を受け取り、手厚く葬った。
 しかし、それ以来、夜になると関羽の亡霊が現れるようになり、曹操は不眠に陥る。「これは洛陽の御殿に妖魔がとりつい ているため」と臣下が言うので、曹操は新たな宮殿を創ろうと考える。
 しかしこれがまた曹操にとっては不幸なことだった。梁(うつばり)にするために御神木にに刀を入れたため、今度は木の神 に祟られる。それ以来激しい頭痛に悩まされるようになり、どんな薬も効果か上がらなかった。
 そこで司馬懿の勧めで名医華佗を呼び寄せた。しかし華佗は生前関羽の治療をしており、さらに頭を切らなければ病は治ら ないと言ったため、曹操は自分を殺そうとしていると思い激怒してしまう。華佗を牢獄にぶち込むと、拷問した上に殺してし まった。

不吉な夢
 ある晩、曹操は不吉な夢を見た。3頭の馬が1つの桶の秣(まぐさ)を食べているのだ。以前にも同じ夢を見たことがあったが、 その時は、馬騰、馬休、馬鉄の3人だと思っていた。しかしこれら3人はすでに殺しており、3頭の馬が何を表わしているのか 見当が付かない。そこで賈に相談した。
 賈は、馬は禄馬、即ち福徳の象徴です。これが槽(曹)に入ったということは吉兆です、と答えた。
 曹操はそれで納得したが、これは司馬懿、司馬師、司馬昭の3人に曹家が乗っ取られることを暗示していたと言われている。

奸雄の永眠
 その晩、殿中にするどい悲鳴が聞こえた。見れば、かつて殺した伏皇后や董貴人、董承らが血まみれで姿を現わし、恨めしい 声で命を返せと言ってくる。曹操が剣を抜いて空中を切り付けると宮殿が崩れ落ち、彼は意識を失ってしまった。
 次の夜も男女の泣き声が夜通し聞こえたので、もしやこれまでと死を覚悟した曹操は、曹洪、陳羣、賈、司馬懿らを呼んで 曹丕を補佐するよう頼んだ。また、自分の墓が荒らされるよう、72もの偽の墓を作らせた。
 遺言を全て言い終えた曹操は、ハラハラと涙を流しながらこの世を去った。享年、66歳であった。

●筆者から一言●
 曹操の死後、息子の曹丕が漢王室を簒奪し魏王朝を建国するが、それも曹丕の孫の代には司馬懿ら親子によって牛耳られ、 やがて魏もまた簒奪される。
 こうしてみると、曹操が魏公になろうとしたとき、それに強く反対した荀の諫言は、長い目で見れば正しかったのかも しれない。もし曹操が漢王朝に名実ともに臣下として接したならば、おそらくこのようなことにはならなかっただろう。
 司馬昭の子司馬炎が、賈充に「曹丕ごとき男が漢を簒奪したのだ。私が魏を簒奪して悪いことなどない」と言っているの だから。漢は前後400年近くに渡って中国に君臨した王朝である。それを簒奪した前例を作ってしまったところに、曹家の 隙があったように思える。
 また、曹操は長子曹丕を跡継ぎにしたが、一時期、三男の曹植とどちらに継がせようか迷ったことがあった。この事が曹操の 死後、表に表れることになる。曹丕は仁政に尽くしたが、こと兄弟に対してだけは非常に冷たく当たり警戒する余り遠ざけてい た。結果として宮廷内での曹家の層の厚さを弱めることになり、司馬一族の台頭を許してしまった。
 これらはいずれも曹操の失敗である。超世の英傑も、また人の子と言うことか。
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