人物辞典No.1

曹操孟徳−飛躍への序曲
出身地[言焦](ショウ)郡 幼名阿マン/吉利
生きた期間155年〜220年享年66歳 知謀97 武勇83 人望92
容姿身長7尺、目が細く鬚が長い.

らくちん頭出し
【第16話】開戦か和睦か、荀対孔融、曹操対袁紹・劉備
【第17話】曹操暗殺計画
【第18話】劉備破れ、関羽 曹操に降る
【第19話】曹操と袁紹の宿命の対決−その時、劉備と関羽は−
【第20話】英雄は英雄を知る−曹操に別れを告げる関羽−
【第21話】江東の小覇王、死す!
【第22話】官渡の戦い〜戦線は膠着し、曹操兵糧に窮する
【第23話】官渡の戦い〜鳥巣襲撃!
【第24話】暗愚な英雄袁紹逝き、冀洲陥落す
【第25話】名門袁家の滅亡
【第26話】謎の男、徐福の登場
【第27話】恐るべき諸葛亮、されど荊州北部は曹操に帰順

【第1話】〜【第15話】予告された登場、乱世の奸雄
【第28話】〜【第46話】三國鼎立し、超世の英傑去る


開戦か和睦か、荀対孔融、曹操対袁紹・劉備
 劉備は曹操が攻め込んでくることを恐れ、袁紹に救援を求める。袁紹は書記の陳琳に曹操討伐の檄文を書かせる。
 それを知った曹操は冷や汗を垂らした。もしかつて反董卓連合が洛陽に攻め上った時のように各地の諸侯がこれに 呼応すれば、とても防ぎきれない。
 さっそく群臣は集められ、今後の対札を練ることになる。まず孔融が敵が十倍の兵力を擁する袁紹であること、 さらに豪傑を抱える劉備とも同時に戦わなくてはならないことを指摘し、ここはひとまず和睦するべきだと主張した。
 それに対し、荀は真っ向から対立。袁紹は確かに強大な兵力を持っているが、大軍を使いこなせる器量がない ことを見破り、さらに彼の抱える群臣を尽く酷評する。田豊は有能だが剛直であるため主君とそりが合わず、顔良 ・文醜は匹夫の勇にすぎない。許攸は欲ばかり、審配は一人よがりで策略に欠ける。逢紀(ほうき)は人の用い方を知 らない。彼らは互いに相容れない者たちなので、戦いが長期に渡れば必ず足並みは乱れ、内から崩れるだろう。
 孔融は荀の的確な分析に言葉を失い、曹操は荀の案を取り入れることにした。
 まず、いくら器量が小さいとは言え強大な兵力を持つ袁紹との対決を人に任せるわけにはいかない。そこで劉岱・ 王忠の2人を劉備に当たらせ時間稼ぎをしている間に袁紹を破ろうと考える。
 しかしこの2人、時間稼ぎをすることもできずたちまち劉備らに捕らわれてしまった。
 一方、孔融が後方を固めるために張繍・劉表を味方に付けるべきだと進言すると、さっそく曹操は劉曄を張繍に派遣 する。ちょうど袁紹からの同盟の使者も来ており、張繍はどちらにつくべきか悩んでしまう。かつて曹操の長子曹昂と 親衛隊長の典韋を殺したことで、曹操に後で仕返しされるのではないかと恐れていたのだ。そんな君主に参謀の賈は 、曹操は天下に覇を唱える男だから、昔のことは気にしていないだろうと言い、弱小勢力に加勢したほうが大事にされ るとして曹操側につくことを進言、張繍はその言を聞き入れて曹操陣営に加わった。この知らせに曹操が喜んだことは 言うまでもない。
 一方、曹操対袁紹の事実上のキャスティングボードを握っていた劉表だったが、持ち前の優柔不断さから終始立場を 決められなかった。

曹操暗殺計画
 こういった緊迫した事態の中、宮中でも曹操暗殺の計画が立てられていた。董承は医師、吉平を味方につけ、曹操を 毒殺しようと試みる。しかし、かつて董承の妾と密通していたため罰棒に処した秦慶童に怨まれていた彼は計画を密告 され、王子服・呉子蘭ら共謀者共々殺されてしまった。
 また、曹操暗殺の連判状が董承の寝室から見つかり、他に劉備と馬騰が計画に関わっていたことを知る。
 曹操は自らを殺そうとした献帝を廃位させようと考えたが、程に献帝にはまだ利用価値があることを言われると、 思いとどまった。

劉備破れ、関羽 曹操に降る
 曹操暗殺に加わっていた者で残っているのは劉備と馬騰の両名のみ。とりあえず、袁紹と連動しそうな劉備が曹操は 目障りであった。実際、曹操が徐洲の劉備を攻めると彼は袁紹に救援を求めている。
 しかし、袁紹は荀の言うとおり大した人間ではなかった。曹操が許昌を留守にしている間に攻めれば必ず勝てると 進める田豊の献策に、たまたま病を煩っていた末子のことが心配で出陣できないと答える始末。田豊は天を見上げ主人 の器の小ささを嘆き、徐洲を死守しようとしていた劉備は失望したに違いない。
 さて、関羽を下ヒ城に残し張飛と夜襲に討って出た劉備だったが、曹操の幕下荀と毛カイに見抜かれ大敗、2人は 離れ離れとなって敗走、あえなく小沛は曹操の手に落ちた。
 劉備はその後、袁紹を頼って河北へ落ちのびる。
 一方、徐洲に押し寄せた曹操に対し陳登は城を明け渡し、残るは関羽の守る下ヒ城のみ。
 有能な人材を見ると欲しくて欲しくて仕方なくなる曹操は、虎牢関の戦いで華雄を簡単に討ち取り呂布と対等にやり 合った関羽を殺すのは惜しいと考える。そんなとき、かつて親睦を結んでいた張遼が進み出て使者に立ちたいと言う。
 さて、主人は劉備ただ一人と決めている関羽。しかしこのまま城を枕に討死にすれば、劉備の家族までも死なせて しまうことになる。悩んだあげく、関羽は張遼の言葉に応じ城を明け渡すことを決心する。

曹操と袁紹の宿命の対決−その時、劉備と関羽は−
 関羽を迎えることに成功した曹操は、彼のために3日ごとに小宴を開き、5日ごとに大宴を開いてもてなし、金品を 贈ってどうにか手なづけようとする。
 しかし関羽は金品には手を付けず倉庫にしまい込むと、呂布の愛馬だった赤兎馬を送られれば「これで兄者の元へ 行ける」と言ってみたり、戦袍を与えようとすれば「兄者にもらったものがあるのでいらない」と答えるなど、あくま でも劉備に対する義を貫こうとする。
 元々、命を救ってくれた恩を武勇で返し、劉備が見つかった時は曹操の元を離れるという約束で降伏した関羽のこと、 このままでは本当に手放すことになるかもしれないと曹操は焦る。ならば手柄を立てさせなければよいではないですか と謀士の程は言うが、状況はそうも言っていられない方向へ進んでいく。河北の袁紹が許昌を目指して南下を開始し たのだ。
 白馬で袁紹軍と対峙した曹操軍だったが、敵の大将顔良は強く、宋憲・魏続たちは簡単に討ち取られてしまう。弱っ た曹操は魏でも数本の指に入る名将徐晃を派遣するが、これでも歯が立たず帰陣する始末。もはや顔良に当たれる人間 は関羽しかいなかった。
 もし関羽が顔良を討ち取れば自分から離れてしまうのではないかと心配する曹操に、「義兄弟の関羽が大事な大将を 殺したとなれば、おそらく袁紹は劉備を斬るでしょう」と程が囁き、関羽の出陣を許した。
 はたして関羽は顔良を一太刀で斬り殺し袁紹軍は総崩れとなる。程の言うとおり、袁紹は激怒して劉備を殺そうと するが、劉備も殺されてはたまらぬと、「これは曹操の計略」と言い逃れる。
 関羽は、続いて袁紹軍のもう一人の猛将文醜も討ち取り、この戦いで一番の戦功を上げる。

英雄は英雄を知る−曹操に別れを告げる関羽−
 やがて、劉備の幕僚孫乾と偶然再会した関羽は、劉備が袁紹の下にいることを知らされる。すでに十分すぎる手柄を 立てている関羽、さっそく曹操に暇乞いをしに行くが、曹操は面会に応じないことで抵抗する。やむを得ず手紙を書き 記し、曹操より送られた金品には最後まで手を付けず劉備の元に走る。
 曹操は関羽の忠義ぶりに感心し、やむを得ず関羽が立ち去ることを許したが、その知らせが届くのが遅れたため、途 中の関所で関羽は魏の将軍を何人も殺すことになった。

江東の小覇王、死す!
 曹操と袁紹、この二人の宿命の対決が近づいていた頃、江東では孫堅の長子孫策が周瑜らを率いて急速に勢力を拡大 していた。まさに向かうところ敵なしといった状態である。これには、かつて「孫策は父の七光り」と彼を評した曹操 さえ、自分の人物眼が間違いであったことを認めざるを得なかった。
 そこで、曹仁(曹操の従兄弟)の娘を孫策の末弟孫匡に嫁がせて好誼を固めようとしたが、逆に大司馬の位を望んでい た孫策は大いに怒り、曹操が袁紹と戦っている間に許昌を襲撃しようと考える。
 袁紹としても、南の孫策が睨みを利かせてくれれば曹操と戦いやすい。参謀の郭図は孫策と結ぶことを進言する。
 しかし、ここで英雄たちの運命を決定付ける思いもしない事件が起こってしまった。孫策は軽率にも単身で行動して いた際、殺した呉郡の太守許貢の食客たちに襲われて瀕死の重傷を負い、まもなく死亡したのだ。僅か26歳であった。

官渡の戦い〜戦線は膠着し、曹操兵糧に窮する
 孫策の跡を継いだ孫権が曹操によって会稽の太守に任命されると、怒った袁紹は70万の大軍をおこして官渡に向かう。 対する曹操の軍勢は7万。兵糧が少ないこともあり長期戦は不利とした曹操は急戦を挑むが、袁紹軍の猛将、張ゴウが強い。 さらに、袁紹の知恵袋審配があの手この手で攻め込んでくる。これには参謀の劉曄が何とか対抗するが、あくまでもそれは 守りであって急戦ではない。
 こうして一ヶ月あまりも対峙すると、曹操陣営はいよいよ兵糧に困り出した。何度も兵を退こうと考える曹操だったが、 ここで退けば勢いに乗った大軍が怒涛のように攻め上ってくるだけと、許昌を守る荀は手紙で返答し、決戦を促す。
 そんな時、荀に送った曹操の手紙が、袁紹配下の許攸に捕らえられてしまう事件が起こった。さっそく袁紹の元にその 手紙は届けられ、曹操が兵糧に窮していることが分かった。許攸は今こそ許昌へ攻撃をかけるべきだと進言するが、以前曹 操と交際のあった許攸が曹操の手引きをしているのでは、と逆に袁紹に疑われる結果になった。さらに運悪く、審配によっ て許攸の過去の不正が発覚してしまったので、もはやこれまでと感じた彼は曹操の元へ走ってしまった。
 さて、許攸を手を叩いて喜び迎えた曹操、彼が兵糧基地の鳥巣を狙えと進言すると、張遼の諌めも聞かず精鋭5千の兵を 率いて鳥巣襲撃を決意する。
 そして、許攸の進言に対する対応の違いが、両雄の明暗を決定付けてしまうことになった。

官渡の戦い〜鳥巣襲撃!
 許攸が持っていた袁紹軍の旗を立てて行ったので、味方と思い込んだ袁紹軍は大敗を喫する。さらに張ゴウ・高覧の2人 は曹操への内通を郭図によって誣告されたため、やむを得ず曹操に降った。曹操は彼らを厚遇し、先鋒をつとめさせたので、 喜んだ2人は奮戦し袁紹は冀洲へ逃げ帰ることになった。
 さて、戦利品の中に袁紹への内通の手紙が発見された。曹操は、漢の光武帝に倣い、その手紙の中身を見ずに燃やしてし まった。「袁紹は大軍を擁していた。私さえ震え上がったのだ。諸将が寝返りを考えたとしても無理はない」という彼の言 葉に何人の武将が胸をなで下ろしただろうか。
 金品とは別に、もう一つ大きな戦利品があった。袁紹の謀臣、沮授を生け捕りにしたのだ。一時期袁紹の下にいた荀に よって彼の知謀を知っていた曹操は、軍中にとどめ厚遇したが、馬を盗んで逃げようとしたためやむを得ず殺した。ただし、 その忠義の心には深く感銘し、黄河の渡し場に沮授の墓を建てた。

暗愚な英雄袁紹逝き、冀洲陥落す
 官渡では思わぬ敗退を喫した袁紹だったが、その勢力はいまだ健在だった。すでに顔良・文醜の猛将はなく張ゴウは曹操 に降り、知謀の臣沮授は殺され田豊は自ら投獄した挙げ句殺してしまうなど、能臣の姿こそないが物量では曹操に引けを取 らない。
 袁紹は、倉亭に大軍を擁して再び攻め込んでくる。数の違いもあって初めこそ快勝するが、程の「十面埋伏の計」の前 に大敗を喫し血を吐き、冀洲へ逃げ戻る。
 ちょうどその時、汝南で劉備が黄巾の残党を集めて攻め上ってきたので夏侯惇に命じそれを破らせると、程の献策に従 って深追いせず、力を蓄えることにした。まずは強大な基盤を持つ袁紹を先に討つべきだと言うことを知っていたのだ。
 202年、曹操は再び官渡に出兵、袁紹側は末子の袁尚を派遣して迎撃させるがこれが大敗。元々末子を一番可愛がり、英雄 の相があるとまで期待していた袁紹、この知らせを聞くと血を吐いて亡くなった。その時、長子の袁譚ではなく袁尚を後継者 として指名したため、袁譚は不満。袁家が纏まらないうちにと、203年春、曹操は大攻勢をかけた。
 しかし、急に攻めれば袁譚と袁尚が共に手を取り合い結束が固まるだろうと郭嘉が進言する。そこでまず荊州を攻めること にした。案の定、袁家は二手に分かれて内紛を起こし、敗れた長子の袁譚が曹操に降伏を申し入れてきた。好機と見た曹操は 降伏を受け入れると、袁尚の本拠地である冀洲城攻略に取り掛かる。冀洲城は審配が守っていたが、許攸の献策に従って水攻 めにし落城。降ろうとしない審配を惜しみながら斬る。

名門袁家の滅亡
 さて、袁尚たちが曹操に敗れ北の遊牧民、鳥桓に逃げ込んだ頃、袁譚は各地を略奪して回っていた。元々袁譚、袁尚を仲た がいさせ、最終的には共に殺そうと考えていた曹操は、これを大義名分に袁譚討伐を決定する。
 袁譚は河北の大都市、南皮に篭城し劉表に加勢を求めるが断られ孤立。まもなく曹洪に討ち取られた。
 これで袁紹の遺児は袁尚と袁熙のみ。
 随行させていた参謀の郭嘉が風土病でこの世を去るなど大きな犠牲もあったが、彼の残した「この機に北方を平定す べき」という遺言に従い、曹操は軍を進めた。
 一方、袁尚と袁熙は鳥桓から逃げ出し、遼東の太守、公孫康に身を寄せていた。
 公孫康は曹操の威力を恐れ両名の首を刎ねると、曹操の元に届けた。
 こうして、四代に渡って三公を輩出した名門も曹操によって滅ぼされ、中原から河北に至るまで、曹操は広大な領土を 手中に治めることになった。

謎の男、徐福の登場
 許昌に戻った曹操は、次に荊州が欲しくなった。州都襄陽は、劉表が詩人や商人を厚遇したため文化が高く、中原や江東 が戦乱に巻き込まれている中、比較的平穏な日々を送ってきたので商いも盛んだった。
 もはや背後を突かれる心配のなくなった曹操は、曹仁、李典らを樊城に派遣して様子をうかがう。曹仁は劉表は大したこ とがないと甘く見ていた。軍勢の数もこちらが圧倒的に有利である。軽率にも、呂曠・呂翔を派遣するが、客将として劉表 の下にいた劉備の部下、趙雲と張飛に簡単に討ち取られてしまった。元々短気だった曹仁は激怒し、李典を引き連れ自ら戦 場に赴くが、絶妙な火計に遭って大敗を喫し、許昌に逃げ帰るという醜態を晒してしまう。
 これまでの劉備と戦い方が異なると感じた曹操は、群臣に意見を求める。するとただ一人、程だけが劉備に仕えている 軍師、徐福のことを知っていた。二人は同じ郷の出身だったのだ。
 僅かな軍勢で大軍の曹仁たちを討ち破った徐福を高く評価した曹操は、この無名の軍師をなんとか自分のものにしたいと 考えた。程は徐庶(徐福の本名)が母親思いであることを利用し、母に手紙を書いてもらい呼び寄せようと進言する。
 しかし、賢い母は奸雄曹操に協力しようとしなかったため、高価な贈り物を贈って礼状を書かせ、その筆跡を真似て 徐庶に手紙を送った(この時代は、身分の高い人から物をもらった場合、必ず返事を書かなければいけなかったらしい)。
 徐庶はそれが偽手紙であることを知っていたが、自分が行かなければ母が殺されると感じたため、泣く泣く劉備の元を 去る決意をする。その際、交流のあった諸葛亮を推挙した。

恐るべき諸葛亮、されど荊州北部は曹操に帰順
 曹操は朝廷の最高位である三公を廃し、丞相である自分に権力を集中させることにした。さらに司馬懿らを新たに登用し 人材も充実させる。
 さて、万全を期していよいよ南征しようとするが、夏侯惇が新野で兵を教練している劉備を先に片づけるべきだと主張、 荀や徐庶が孔明を軍師として迎えた劉備は手強いと諌めるが、結局、曹操は夏侯惇の案を採用する。
 夏侯惇は李典・于金を率いて意気揚々と出陣したが、諸葛亮の火攻めに遭って大敗を喫してしまう。怒った曹操は、208 年、自ら50万の大軍を率いて出兵した。その際、諌めた孔融を一族諸共皆殺しにしている。
 一方、荊州でも状況は変化していた。州牧だった劉表が病死し、次男の劉ソウが蔡夫人によって強引に後継者となってい た。ただし、劉表は生前に長男の劉キを後継者として指名しており、さらに後見人を劉備に頼んでいた。もし劉備が劉キを 担ぎ軍事力に訴えたならば、劉ソウ一派が敗れるのは目に見えている。
 そこへ曹操が攻め込んできたので、劉ソウ達は荊州を曹操に譲ることで自分達の保身を謀ろうとした。
 曹操はこの動きに大喜びし、劉ソウの後ろ盾である蔡瑁と張允を早速登用。江東の孫権を叩こうと考えていた曹操は、彼 らを水軍の指揮官に任命する。さらに荊州の幕僚だったカイ越を得て御満悦。
 その一方で劉ソウは殺害し、また共に逃げる劉キと劉備を、荊州の武将文聘に追わせた。

 荊州を離れようとする劉備の元には、何万もの人民が付き従った。このため、劉備の歩みは遅くなり、このままでは曹操 の軍に追いつかれてしまうと参謀達は危惧し、人民を見捨ててでもここは逃げるべきだと主張する。しかし自分を慕い、死 をも恐れず付いてきてくれる人民を見捨てるわけにはいかないと劉備は言い、ついに曹操軍に追いつかれると大混乱に陥っ た。
 この戦乱の中、糜夫人は自殺し、子供の阿斗は趙雲に託される。曹操軍が押し寄せる中、胸に阿斗を抱き、ただ一騎で走 り抜ける趙雲を見た曹操は、是非とも生け捕りにして部下にしようとするが失敗、取り逃がしてしまう。
 趙雲が駆け抜けた後、長坂橋まで来ると張飛が仁王立ちで出迎える。張飛の武勇を知っていた曹操や諸将は鬼のような 彼の形相におののき、手も足も出ない。さらに、諸葛亮の計略かもしれないと疑心暗鬼に陥る。そうこうしているうちに橋 が落とされ、伏兵なしと知った曹操は「またしても諸葛亮に謀られた」と嘆き退却する。
 だが、水路で劉備に先回りされては危険だと心配し、江陵に急行、その地を治めるケ義・劉先らを降伏させた。

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