本日の御題:危険すぎる教育のデフレーション
◆教育改革が教育の崩壊を生む
 ゆとり教育の名のもとに、いよいよ今年より学力30%OFFのセールが始まる。日本政府は実体経済だけでなく、 学力においてもデフレ現象を引き起こす腹づもりらしい。デフレスパイラルにさらなるニューフェイスが加わったというべきか。
 自由な時間を増やすことで詰め込み式の勉強ではなく、心にゆとりのある精神的に豊かな子供を育てるというのがセールの目的らしいが、 教育界からはこの改革に対する疑問の声があがっている。学校での授業時間を減らしても、結局は塾へ通う時間が増えるだけであると。
 私もその意見に賛成だ。受験の体質が変わらない限り、単に授業時間を減らし学ぶ量を減らしただけでは何も変わらない。 もちろん、試験は原則として学力によって測られるべきであり、性格への安易な偏重は学力低下をさらに推し進めることになるだけだ。

◆日本の教育は夢のない詰め込み
 しかし、矛盾することを言うようだが、私は小中学生の授業時間を程度の差こそあれ短縮することには基本的には賛成だ。 ただし単に野っ原に放り出してしまったら、テレビゲームをやる時間と塾にいる時間が増えるだけで、根本的な解決にはならない。 少なくとも精神的な豊かさを育てるには、それなりの仕組みと環境、つまり社会インフラが必要になる。
 ここでいう社会インフラというのは、決して公共設備を乱立させることでもなければ、高速道路を作ることでもない。 「夢を抱かせるための環境づくり」である。勉強したいと思うきっかけ作りと言ってもいい。
 たとえば小学校の社会科見学を増やし、ロケットを作っている宇宙開発事業団等超一流の施設を見学するのもいいだろう。 中学生ぐらいになれば、やはりトップスターの出演する演劇やコンサートを鑑賞することもできるはずだ。 あるいは巨大なコンピュータシステムを目の前で見せるのもいいだろうし、恐竜の博物館でもいいだろう。 いやいやモンゴルで馬の世話をしただけでも逞しくなるかもしれない。
 そんなことは今までだってやってきた、と言う人もいるだろう。しかしここからが違うのだ。多くの小学校・中学校では行った行ったっぱなし、 見せたら見せっぱなし、感想文だけ書かせて終わりである。社会科見学で実際に感動した子供がいても、どうすれば自分もそうなれるのか、 道筋を立ててあげることはしない。
 日本は昔からそうだがハードは立派なのにソフトに弱い。見学する場所やスケジュールは立派なのにアフターフォローがないのである。
 体を動かして子供たちが何かを感じ取ったとき、その情熱が熱いうちにその現場で働く夢の成功者にその夢をかなえるには何が必要であるか、 語ってもらうことは非常に重要だ。もちろん、補助として資料はほしい。逆に施設の説明や会社のパンフレットなどいらない。 その仕事に憧れを持った子供に、何が必要であるのか伝えることができれば、後は子供が自ら学び始めるからだ。
 実際に学生と話をすると感じることだが、今の学生に足りないものは目的意識に尽きる。彼らの多くは将来のなりたい職業や夢を持っていないか、 あるいは持っていてもどうすればいいのかを知らない。
 当然、自分に何が欠けていて何が必要なのかといった問題意識も存在しない。そもそも到達点となるべき夢がないのだから、その夢の実現のため に必要なものを考え出し、揃えることなど不可能なのである。
 そして、目的がないのに情熱的に勉学に落ち込むことなどそもそも不可能なのである。
「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものだ。好きなことに関しては人は努力を惜しまない。
もし小中学生の授業時間で減らし、学ぶべき事項を減らしたならば、その分を「好きなものを作るための活動」に費やしてほしいと思う。 そうすれば学習すべきことの減った分を取り戻すこともできるだろうし、おそらく無駄にはならないだろう。
 繰り返しになるが、「自由な時間をあげるから好きなように使ってください」では駄目なのである。机の上で教科書を広げる以上の刺激を与えること ができなければ、結果としてマイナスである。
 そしてここに日本教育の最大の弱点があるのではないだろうか。つまり、日本の教育は勉強のための勉強であり、夢実現といったような前向きなもの ではないことだ。これを「目的なき勉強」と私は呼びたい。
 それでも、高度成長時代は詰め込み式でもよかった。少しでも豊かになることという明確な目的を国民が皆持っていたからだ。 しかしバブル時代を経てある程度の豊かさを手に入れたとき、我々日本人は勉学する目的を失ってしまった。
 そして、この根本的な変化に、官僚はまだ気付いていない。俄か作りのヒューマニズムに則った改革では百害あって一利なしということにも残念ながら気付いていない。

◆受験戦争は過去のもの
 そもそも、少子化が進んでいる現在、過去の熾烈な受験戦争そのものが存在しない。
小学校から高等学校までの一貫教育にしても、受験戦争の弊害回避というのはあくまでも大義名分であり、実質は生徒を集めたい学校側の都合による ところが大きい。いわゆる早い時期からの囲い込みだ。
 大学も同様で、競争率は年々低下しており受験科目を減らす傾向にある。表向きは一芸に秀でた者を選ぶためというが、現実は受験科目を減らすこと で生徒の人気取りをしているにす過ぎない。
 我々のイメージとは裏腹に、小学校から大学にいたるまで、いつのまにか売り手(学校側)市場から買い手(生徒側)市場に移っており、 受験戦争もなければ競争の原理も働かないのだ。
 この状態で学力レベルを3割下げたらどうなるか? そこに待っているものは怠惰で勉学に無気力な学生の大量生産である。

オオウナギさんからの感想(2002.03.09掲載)

ヘテロクロミアさんからの感想(2002.03.09掲載)

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