鎗々満耳(そうそうまんじ)
――サイタ サイタ サクラガ サイタ に始まる
             昭和10年代の農村の小学生――

第3回目 

小学校尋常科時代
3 小学三年生


 落合尋常小学校には報恩寺地区にも分教場があり、三年生から本校に通う。本校も一、二年生で一学級の複式授業なので、三年生になって初めて単式授業を経験する。本校と二つの分校出身の三年生は、男子四十人・女子二十七人で合計六十七人であった。
 当時の学級編成は、四十人で一学級にするのが標準の様であった。男子は、四十人居たので一学級できるが、女子が二十七人なので一学級にするには人数が少なかった。結局、一学級六十七人のマンモス学級になった。そしてこの状態が六年生まで続いた。教室一杯机を入れられ、机と机の間隔の狭い、歩くのがやっとの状態であった。

 四十人の男子の内、舞野分教場出身の者は十人なので、それ以外の三十人とは初対面で気心の知れない人達である。初めの内は出身校別にグループで遊びながら、お互いに他のグループの行動を観察して、情報を集めそれぞれの性格を評価していたようである。何らかの機会を得て相手の気心が感じ取れる様になると、急に親しくなり相手との距離もなくなり一緒に遊ぶようになる。
 学校の教育方針の一つなのか三年生の時は、席の配置が他の地域の人と混じり合うように配置され、二人用の机に同席する相手も他の地域の人と組み合わせて、お互いが早く友達になれる様に配置されていたと思う。
 本校にも分校にもそれぞれ餓鬼大将らしき者がいると思ったいたが、特に目立つそれらしい者はいなかった。高等科二年生まで在校しているので、三年生などは最下級生にあたり上級生には兄や姉がいて常に監視される、クラスの中に餓鬼大将などはびこる隙はなかった。
 校長先生は、四月に赴任して来られ、小柄だが体格のがっちりした人で口ひげを生やしておられる「佐々木 新次郎先生」であった。
 担任の先生は、本校に永くおられ温厚で書道の達人であり、工作も上手で歴史・民族・考古学に造形の深かった「加藤 好尾先生」であった。先生は、時々近所の地にまつわる伝説や歴史についてお話してくださった。また太い竹を加工して、習字の時硯に水を注ぐ水差しを作られた事もある。先生は、吉岡町の自宅から自転車で学校に通勤していた。自転車の荷台には、いつも必ず合羽が積んであったのが印象的で、今でも心に残る記憶の一つである。

 三年生の時の、心に残る出来事は日支事変の勃発と山学校をしたことである。
 山学校が起きた(起こした)のは、三年生も間もなく終わろうとする三月の初めの頃であった。
 体操時間の時だった。地区対抗のケットボール(野球と同じ様なルールで、ピッチャーが大きなボールを転がし、打者がそのボールを蹴る)をしていたが判定について相手チームと大口論になり、お前らとは、一緒に遊べないから帰ると言って試合を放棄し、教室に戻り帰り支度をし始めた。
 舞野地区十人の内数人は、鞄を持って教室を出ようとしていた。虚勢を張るためのデモンストレーション的なものと皆考えていて、本当に帰るつもりは無かったと思う。異常な事態に驚いた誰かが、先生に注進したのだろう。先生が現れて出口を遮るように立ち、ことの顛末を聞かれた。
 先生の説得に応じて何人かは自分の席に戻ったが、なかなか席に戻らない者がいたので業を煮やした先生が、最後通告とも取れる様に「そんなに、ものの道理が判らない者は帰ってもよいが、もう学校に来なくてもよい」と言うような意味に取れる事を言われ、引くに引けない状態でいたので思いきって教室から出た。
 その時一緒だったのは、「大内 芳美君」「相沢 芳巳君」と私の三人であった。真っ直ぐ家に帰ると怪しまれると思い、相沢の家の近所の人達が蒔切りをしている山に行くことにした。現場に着いたのがひる頃だったので、山で働いている人達は昼飯にとりかかる時だった。
 山の人達から「土曜日にしても早いな、まさか学校から逃げて来たのではあるまいな。それとも、山に来たのだから本当の山学校か。」とからかわれた。また、「隣のNは、何故こないのか」とも聞かれたがその時は適当に誤魔化して一緒に弁当を食べ三時頃まで山で遊んだ。
 三人で家へ帰る途中、学校から帰る先生に出会ったがバツが悪く知らぬ振りをして通り過ごした。
 家に帰ると、今日の事件は、皆に知れ渡っていた。「こんな時間まで何処をうろついていた。」と大目玉を食わされた。何せ同じ学校に、姉・兄達が五人も行っているので、学校での出来事は細大漏らさず手に取るように判るのであった。

 当時、三年生が学校で教えられていた学科目を紹介しょう。下記の様であったと思う。
 四年生になると理科と科学が加わり五年生から国史(歴史)・地理が加わった。私は、算術・読み方・唱歌は得意な方であったが、書き方・体操・図画・手工は苦手な科目であった。
                           

学科目 現在名
 

 



修 身 道 徳
読 方 国 語
算 術 算 数
書 方 習 字
唱 歌 音 楽
綴 方 作 文
体 操 体 育
図 画 図 画
手 工 工 作

 上に姉・兄が多く居て学校で習う唱歌はよく聴いていたので、三年生の頃は唱歌の時間で教えられればすぐ歌う事ができた。四年生以降は、教科書の唱歌よりもそれ以外の戦争に関連する唄を教えられるようになった。
 唱歌の教え方は、先生がオルガンを弾きながら一節歌い生徒はそれを真似して歌う。それを、何度も繰り返す方法で教えていた。生徒が楽器を使うことは無かった。また、楽譜について教えられる事もなかった。
 小学校時代に習った唄は、本当に懐かしい思いでのある歌ばかりである。

        ☆今回は、ここまです。☆
        ☆これをお読みの方で当時の唱歌を知りたい方は、こちらをどうぞ☆ 

    

 

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