鎗々満耳(そうそうまんじ)
――サイタ サイタ サクラガ サイタ に始まる
             昭和10年代の農村の小学生――

第1回目 

小学校尋常科時代
1  舞野分教場

 昭和10年4月1日(火曜日)小学校入学式の日である、この日は薄日の射す程度で、風の舞い晴れの天気だったと思う。
 私は、紺の着物を着て、父に連れられて入学式場の分教場に行った。父は急用でもあったのか校門の所で、「用事があるので後から行くから、先先に名前を呼ばれたら、大きな声で「ハイ」と返事をするように」と言われて分かれた。
 一人で校門を入ったら近所の友達で、同級生のS君がいた。S君も一人だったので連れだって一緒に式場に入り、正面より少し右側(北側)の前の席に二人で腰掛けた。父は入学式が終わるまで、とうとう現れなかった。

 入学当時の舞野分教場は、一、二学年を一緒にして授業を行う、一学級だけの複式学級の分校であった。生徒数は、一年生が男十一人・女七人で十八人、二年生は男十六人・女六人の二十二人、合わせて四十人であった。
 分教場の佐野養吉先生は、当時五十一歳、口髭を蓄え威厳に満ちた、怖い感じの先生であった。先生は隣の大衡村竹ノ内のお生まれで、学校の敷地内に建てられた教員住宅に、奥様と大勢の子供達と住んでおられた。
 奥様は先生と同村の奥田のお生まれで、先生より若くて、小太りのふっくらとした笑顔の優しい奥様で、地区で奥さんと言えばこの人を指した。農閑期になると、地区の娘達に裁縫を教えておられた。

 道路からコンクリートの小さな橋を渡ると、少し青味がかって表面が突起した、コンクリートの校門があり、向かって右(東側)の門に、落合尋常高等小学校・舞野分教場と書かれた、約横十二糎、縦四十糎ほどのタイル製の板がはめ込まれてあった。
 学校の南側の全部と東側の校庭の部分は、高さ四十糎ほどの土手が築かれ、その土手にヒバを植え込んだ生け垣になっていた。
 校門の西に大きな赤松の木が茂り、南西の角に木造の備荒籾の蔵が東向きに建っており、それに続いて教員住宅があった。住宅の前の花壇には色々な草木や、草花が植えてあり、花壇の区切りに、ビール壜が逆さに埋められていたのは珍しかった。
 東側の生け垣の中央部に太い楓の木があり、その北側の方に八重桜の木が二本あって、春になると見事な花を咲かせ、楓は秋に紅葉が美しく、その下に太い杉の丸太で造った腰掛があり、鬼ごっこをして疲れた時や、皆でお話する時に並んで腰掛けた。
 鉄棒と国旗掲揚塔が作られたのは、日支事変が勃発してからで、昭和十二年以降であり、鉄棒の方が早く、国旗掲揚塔は後になって造られたのである。

 舞野分教場の校舎は、明治二十一年に新築されたもので昭和十年まで四十七年経ていた。校舎は四つに区切られて、西側から東方向にカラ教室(雨天体操場)、事務室、教室、裁縫室になっていて、南面は廊下になっていた。
 カラ教室の西面の壁に、主に子供の罹る天然痘・麻疹・猩紅熱・ジフテリアなどの、重大な病気の症状を図示した大判の絵が張ってあった。南面の壁には五十音を覚え易くする為の大判の色刷りの絵が張ってあった、その絵のア行には朝日が描かれ、アサヒハアカイナ・アイウエオ、カ行には柿の実と割れたイガから覗いている栗が描かれ、カキノキクりノキ・カキクケコ、サ行は笹船が描かれササフネサラサラ・サシスセソと書かれてあった。
 北側の方に大小の砂を入れた箱があり、大小の升が数個と、直径三糎、長さ二十糎の棒(斗掻棒)が備えつけてあった。大きい方の砂箱は一米四方位で、高さ約四十糎小さい方の砂箱は六十糎四方、高さ四十糎位。と記憶している。なにせ六十年以上の前の子供の頃なので、子供の目には大きく見えても、案外小さかったかも知れない。外で遊べない雨降りの日や、冬の雪の日はよく砂箱で遊んだものである。
 校舎の玄関前に、円形に仕立てられ、よく手入れされて形の整った糸ヒバの大木があり、南に面した枝下には福寿草が植えてあって、早春の天気のよい日に、黄色の可愛い花を咲かせた。
 玄関の昇り口の西側に大きなシャコ貝の殻の手水鉢が、櫓の様に組んだ台に置かれてあった。
 事務室の西側の長押に小銃が一丁飾ってあった、この小銃は佐野先生が日露戦争の時、陸軍軍人しして出征し、ロシア兵と戦った時の分捕り品だとか、先生ご本人が実際に使った村田銃だとか噂されていたものである。

 事務室には暗い所があつて、悪いことをすると其処に押し込められると言われ、みんなが恐れていた。そのせいか事務室の前を通る時は、誰もがそっと通り、ガラス戸越しにこっそり覗き見してりした。
 分教場に通った2年間のうち、事務室に入ったのは一度だけだと思う。それは先生に言いつかって、実務室から何かの教材を運ぶ手伝いをした時の事と思う。また二年間のうち事務室の暗い所に入れられた人は無かった。
 教室は西側が教壇で教壇の北側に大型の古ぼけた、鍵の掛かるオルガンがあっり、後ろの壁には大きな紙に絵の具で描かれた、舞野地区絵図が張ってあった。絵図は詳細なもので、一軒一軒の家から観音堂、お寺、火の見櫓、二箇所にある水車が描かれてあった。
 学習用の机は使い込まれて黒くなった二人用のものである、椅子も二人掛のものであった。一年生の席は入り口に近い南側、二年生は北側になっていた。
 一番東側の部屋は洋裁室と言っていたが、部屋の半分ほどは物置の様になっていて古い机や椅子、雑用品が積み重ねてあって児童が入る事は無かった。

 分教場で過ごした二年間うち、心に残る思いでは数々あるが、何といっても大事件は二・二六事件であったと思う。
 昭和十一年二月二六日、この日の冬は例年になく雪の多い年で、根雪がまだ四十糎以上も残っていた。 
 先生は朝の始業時に、子供にも分かる、いつもと変わった顔で教室に来られた。そして「いま東京で大変な事が起こっている。分かり次第教えるから、静かに自習するようにと言われて、住宅に帰られたまま、その日は教室に現れなかった。
 時々奥様が見えられて、「何でも東京で兵隊さんが大勢で暴れているようだ。」と簡単に話されたが、子供達には何のことやら、少しも分からなかった。
 二十七日になって、先生は少し落着かれたのか、時々教室に見えられてラジオで聴かれた東京の概況をお話されたが、何のことやら理解出来なかった。二十八日になって、地元出身で仙台の陸軍部隊に入営した人が、反乱軍鎮圧の為東京に向かったと話された事だけは、強く記憶に残っている。
 当時は地区の総戸数七十数軒のうち、ラジオのある家は数軒位、新聞を購読している家も十軒に満たなかったと思う。なにぶん昭和大恐慌で、農村が最も疲弊していた時代であった。このような状態でのニュースの伝播がどのようにして、地方の人々に広まったのか、現代のテレビ時代に考えさせられる。

 昭和十二年の大雪の降ったある日のことである。校舎の西側裏にある手洗い所に、雀が飛び込んだのを捕まえた。どうするか相談した末、風邪で休んでおられた先生に、御馳走することに決まり、私が料理することになり、羽毛を剥いて小刀で数個に切り分けた。誰かが糊の空き缶を探し出し、綺麗に洗って鍋がわりにして、ストーブの上で雀を煮た。
 当時お客さんとして一年生と一緒に勉強していた、先生の息子さんに、住宅からこっそり醤油を持ってきて貰い、味付けして先生の所に届けて貰った。
 届けたものがどうなったか不明だが、後日になって大人の人達の間で、誰が考え、誰が料理したのかと話題になったようであった。

 12月1日から、ストーブを焚くのが恒例であった。寒さが厳しくなると、ストーブで昼飯の弁当を温めた。本棚と言うより下足棚の様なものに、裸の弁当を並べて温めた。
 二年生のガキ大将のS君が、並べられた弁当の蓋を次々開け、見るだけでなく、美味しそうなおかずがあると、他人のものでも無断で食べることが度々あった。
 ある時おかずを全部食べられた者もいて、家人に知らせたのか、先生に知られてしまった。保護者も呼ばれて注意されたのか、教室でみなが注意されたが、本人が名指しで叱られたかは記憶にない。
 教室に太い鞭と細い鞭があった。太い方は直経が八粍位の篠竹の物、細い方は六粍位の彗竹(熊笹)で造ったもので、長さはどちらも七十糎位あった。
 授業のとき説明に指差に使用されるものだが、ときには体罰として、頭をポンと叩かれることもあった。字や絵の説明の時、先生は細い鞭を使われる事が多かった。
 分教場での罰の階級は軽い方から、口頭注意、細い鞭で頭を一回、細い鞭で頭を二回、太い鞭で頭を一回、太い鞭で頭を二回、立ち番(立たされる事)、罰当番(指定された所の掃除をする事)、罰当番後の居残りがあった。
 鞭でポンとやられる位は罰と思わないのが普通だが、立たされたり罰当番や、残されたりすると罰を受けたと感じたものだろう。罰の階級の様なものを定めて、本人の行った悪さの程度を教えたのではなかろうか。
 佐野先生は注意する事はあったが鞭での罰は殆どなかった。分教場時代、二年生の時何が原因だったのか、思いだせないが、太い方の鞭で二つやられた事が記憶に残っている。

 分教場時代の恒例の行事の一つに、春の遠足があって、一年生の時は分教場のほぼ真南に位置する、標高六十米の丘陵にある鶴巣舘と呼んでいた城跡に行った。
 鶴巣舘は城跡の形が、鶴が羽根を広げた時の形に似ていた事に由来する。十五世紀のはじめ頃から、黒川郡一帯を統括していた黒川氏の子孫であった、黒川安芸守晴氏(月船斉)が城主として住んでいたが、伊達政宗に抗して滅ぼされたと伝えられていた。
 その後、慶長十六(1611年)伊達政宗の三男、伊達河内守宗清が城を普請して入ったという。
 鶴巣舘は分教場から約二粁程で、城跡の高台からの眺めが良く、特に舞野地区の家並みが手に取るように見えた。真北にある分教場、隣の観音堂が目立った。お寺の近くに建っていた、三十米以上の高さの火の見櫓の赤い屋根が見えるとか見えないとか大騒ぎしながら弁当を食べて楽しんだ。
 二年生の時の遠足は吉岡の天王寺に寄り、吉岡駅から志戸田まで汽車に乗り少し遠回りになるが高田橋を渡って帰るコースだった。
 天王寺には吉岡町の開祖と言われる、伊達河内守宗清の墓と養母飯坂の局の墓があり、宗清の墓の側に殉死した七人の墓がある。墓の近くには当時植えられたと伝えられる、桜の木と杉の大木が天に聳えていた。
 天王寺から北西に少し隔てた所に、軽便鉄道の駅があり、駅構内の東寄りの広場に桜の木があり、そこで一箱二銭のキャラメル一箱と、小さな袋に入った変わり玉を分配された。変わり玉は小さなあめ玉で、砂糖が多く嘗めていると次々と色が変わり、当時一銭で数個買えたが、一銭で買える数よりも多く入っていた。
 吉岡駅で汽車に乗って仙台の方向へ向かい、次の停車場(停留場で無人駅)で降りた。殆どの人が汽車に乗るのが初めてなので、車中は大騒ぎであったが、瞬く間に停車場に着いてしまった。みんな、もう少し乗りたかったと残念がった。
 この日の遠足の経費は五銭で、キャラメル二銭、変わり玉一袋一銭、汽車賃は普通子供料金三銭のところ団体割引で二銭になり、当時で、五銭でおやつ付きの汽車旅行をしたことになる。今から思えばお伽の国の出来事の様なものである。

 分校の生徒が本校へ行く日は、当時四大節、即ち一月一日の四方拝、二月十一日の紀元節、四月二十九日の天長節、十一月三日の明治節と、運動会、学芸会のある時だけで、その時は兄達に連れられて、一緒に相川の本校に行った。
 家から本校までの距離は四粁以上あったので、随分遠いと思ったが、三年生から高等科二年を卒業するまでの六年間、毎日歩いて通った道のりであった。

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