2002年9月のミステリ

世界の終わり、あるいは始まり The End of the World,or the Beginning

2002年作 歌野晶午 角川書店 500頁
あらすじ
東京近郊の住宅地で、小学校低学年の男の子が誘拐される事件が立て続けに起こる。犯人からの接触は電子メール一回だけで交渉もしない。身代金の要求額も二百万円と異様に小さい額だ。そして男の子達は誰も無事に帰ってはこなかった。

小学六年生の息子雄介、一年生の娘菜穂、パート勤めをしている妻秀美と3人の家族を持つ冨樫修は、埼玉県のひいらぎ台という新興住宅地の持ち家でそこそこ幸せに暮らしていた。雄介の部屋で偶然名刺を見つけるまでは。小学生の部屋に大人の名刺というのも違和感があるが衝撃はその九日後にやってきた。夕刊に名刺の名前が載っていたのだ。それは新たに誘拐された男の子の父親の名前だった。
感想
ま、ミステリとしては破綻していると言わざるを得ない。しかし「聯愁殺」の様な推理合戦の変型と考えれば意欲的な作品だ。作者が「悩む親」をこの小説の題材としているのは、斬新なミステリ小説を書きたかったためだけなのか、それともこれは社会派ミステリなのか。さぼてんは社会派の比重は大きいと思う。

残酷な話だったな。。。。。「息子が犯人かも」と父親の修はひとり悩み苦しむ。息子は潔白だろう。最近は大人びてきたとはいえ優しい子だし。いやあれだけの物的証拠があってそれはないか。自分の育て方が悪かったのだろうか、被害者にどう償えばいいのか、生き地獄に落ちるのかと毎日逃げ道を呻吟する。思い悩んでも始まらないのはわかっているが、あまりの衝撃の大きさに息子に問いただす勇気が奮い起こせない。万引きとは次元が違うのだ。チェルノブイリで原子炉が融解を始めていても感じなかった世界崩壊が、自分の間近にせまっている恐怖を感じている。

こういう事態がもし起こった場合、頭真っ白になり泡食って子供に「無実だと言ってくれ」とすがりつくのが普通だと思う。しかしこの父親はひとり考え続ける。知力の限りを尽くす。なぜなら作者は「もてる力を出し切って子供と向き合え」と思っているから、それが親の姿だと考えているから。
おすすめ度★★★★
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共鳴 COMPLICITY

1993年作 イアン・バンクス 広瀬順弘訳 ミステリアプレス文庫 445頁
あらすじ
舞台はスコットランド。エディンバラの新聞記者キャメロン・コリーは正義感ある敏腕記者ながら生活も心も乱れていた。夜は遅くまでゲームに浸り、煙草中毒、マリファナ、コカインにも手を出している。しかも親友の妻とはSMプレイをする仲。大悪は許せない。ペンでお尻ペンペンだがごく個人的な小悪は許せる男、それがキャメロン・コリーだ。
感想
映画を見て原作を読みたくなったとはいえ、先に映画「サイコ2001」を見ていたのは大失敗。恐らく犯人の意外さも目玉やったと思う。映画は原作にやたら忠実なん。なのに何故か原作よりも猟奇シーンがやわ、薄い。ほんなら他に描きたかった物はなんやねん?というのが見当たらない。それでもって本を読んだら、半分狂気に彩られてきっちり書かれていました。気持ち半分は確かに共鳴してしまう。

英国の貴族を称した言葉をもじって「能力ある人間は、それにふさわしい仕事をして世の中に貢献しなければならない。」といような事が言われていたけれど、それが崩れてきているよね。その持って生まれた才能やお金を全て自分の欲のためにつかっていいって風に。アメリカではウォーターゲート事件の頃から。英国ではサッチャー政権の頃から。我が日本は田中角栄首相の日本列島改造論の頃から。行き過ぎた資本主義の陥る穴なんだろうな。凡人さぼてんに都合よく言えば能力ある人々にはぜひ頑張ってもらいたい。
おすすめ度★★★1/2
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