プラハでルサルカ観劇


風雅異端帳に戻る ♪  音楽の間に戻る ♪  詠里庵ホームに戻る
 2011年5月8日(日)プラハの国立オペラ劇場でルサルカを観劇した。アメリカを引き上げ名声の限りに包まれた晩年の1900年、ドヴォルジャークは作品114になるオペラ「ルサルカ」を作曲した。プラハのもう一つのオペラハウスであるプラハ国民劇場にて翌年初演。個人的には属啓成(さっか・けいせい)著音楽写真文庫VIII「ドヴォルザーク」(風雅異端帳「チェロ協奏曲」の文献1)に載っていた冒頭自筆譜のメロディーが素晴らしかったため、だいぶ経った1997年プラハでスコアを求め、いずれはナマで全曲をと思っていたオペラである。
 5月の国立オペラ劇場はほぼ毎日本格的なオペラを上演していて、8日のルサルカは5月1日についでの公演。公式サイトではその次の6月6日(2011年)となっている。それを過ぎるとこのサイトはどうなるかわからない。毎回指揮者と配役は異なるようである。あらすじはいずれ書くが、いろいろウェブに出ている。とりあえずこれが忠実と思われるので挙げておこう。
 演奏は、素晴らしかった。いやオペラだから演奏だけ言うのではダメだ。そう、ものごし、表情、舞台設定など、どれも素晴らしかった。こういうものであるならば、オペラはやはり総合芸術の頂点の一つである。

 特に演出について書きたい。背景に動画映像をたくみに使ったもので、森に舞う水の精たちのこの世ならぬ世界と人間たちの現実の世界が、ときには対照的に、ときには連続的につながって表現されていた。実際の出演者たちと投影映像の出演者たちや風景があまりにうまく融けこんでいたので、いったいどうやっているんだろうと、それが気にかかりながら鑑賞するはめになった。どうも見ていると、一番奥のスクリーンへの投影とは別に、少し手前に透けたベールのようなスクリーンがあって、それには観客席の方から投影しているようである。そのスクリーンと奥のスクリーンの間に歌い手やバレエダンサーが入ったりするので、しかも足もとはわざとらしく隠さない程度に煙であいまいにしているので、誰が本物で誰が映像かわかりにくくなっているようである。このような演出で森を描いた第一幕と第三幕は幻想的に、人間世界を象徴するお城の中を描いた第二幕は現実的に仕上がっており、その対比もうまくいっている。
 それにさらに磨きをかけていたのが、登場人物たちのパーソナリティである。主役のルサルカは、当然声量はあるものの、全体の印象は透けて宙に浮いているような青白い顔の妖精のようで、これは人間として登場する第二幕でもそうだった。話の筋から当然第二幕はルサルカは芝居だけで歌わないという異色のオペラと予想していたが、そしてその通りだったが、無言で弱々しい振る舞いが大変効果的だった。他の配役たちもそれぞれの声量を目一杯出すのでなく、それぞれのパーソナリティに応じた声量を演出していたのではないかと想像する。それほど役にはまっていた。(それにしても第二幕を通して主役は歌わず芝居だけなんて、当時のプリマドンナは作曲者を呪わなかったのだろうか。ヨアヒムがブラームスのヴァイオリン協奏曲をして「なんで私が第二楽章の冒頭延々とオーボエの名旋律を手持ちぶさたに聞いてなければならないのか!」と言ったように、この手の話はことかかないと思うのだが。)
 さてドヴォルジャークの音楽であるが、ドビュッシーやラヴェルに比べると、あるいはショパンのバラード第3番に比べると、ときにはマーチのようであったり舞踏のようであったりする現実世界の音楽であるが、ときにはフッと幻想的になり、それが効果を醸しだしている。

 このオペラは魔笛やカルメンやアイーダほど知られているわけではない。これらのいわゆる超有名どころのオペラに比べると、話の筋も複雑ではなく、激しく起伏が押し寄せてくるわけでもない。しかし新しい境地を拓くものと思えてならない。そう、ペレアスとメリザンドのようなところがあり、印象派風なのである。ドヴォルジャークは小規模編成の小品にときどきそういう作品があるが、大規模作品でこういう路線を提示したという点については、大変興味を惹かれるのである。そんなことをドヴォルジャークが考えていたかは定かではないが。

[2011年5月11日 記]


風雅異端帳・目次に戻る ♪  音楽の間に戻る ♪  詠里庵ホームに戻る