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● 「苦楽」創刊号(昭和21年12月)

苦楽

大佛次郎を中心に敗戦後の混乱のさなかに創刊された文芸雑誌、「苦楽」のことに一気に興味津々になったのは、鎌倉の鏑木清方美術館でその表紙画を見たのがきっかけだったと思う。美術館には図録が売っていて、そこに大佛次郎の文章があった。その後、安藤鶴夫の『落語鑑賞』や久保田万太郎など、ますます「苦楽」的なことに夢中になって現在に至っている。鏑木清方の絵から入ったのも必然だったという気がする。この創刊号は現時点でわたしの本棚に唯一ある当時の「苦楽」。今年6月に、石神井書林の目録で買ったもの。内田誠の『遊魚集』と同時に届いた。ちょいとぜいたくな買い物に頬が緩んだ。

大佛次郎による編集後記に《「苦楽」は青臭い文学青年の文学ではなく社会人の文学を築きたいと志している。なまぐさくって手がつけにくいと云う代物ではなく、洗練と円熟を求めている。》というくだりがある。わたしが好きな本、好きな書き手というのも、まさしくこんな「苦楽」的な人たちなのだと、その創刊号の目次における面々、先頭は里見とん、渋沢秀雄、花柳章太郎、久保田万太郎、喜多村緑郎、平山蘆江、表紙の鏑木清方といった並びを見て、彼らの醸し出す風合いを見て、自分自身の嗜好を解き明かしてもらったという感じ。

「苦楽」という雑誌は、関東大震災直後の大正13年1月に関西のプラトン社で刊行されていたのが最初。大佛次郎は誌名の使用許可を譲り受けて、戦後に自らの雑誌を始めた次第。その第一次の「苦楽」、雑誌の名付け親は小山内薫で、アメリカの雑誌「LIFE」を翻案して「苦楽」としたのだという。この「LIFE」を「苦楽」と翻案するセンスがしみじみ見事なものだなあと思う。「クラク」という音の響きも美しい。第一次の「苦楽」に関しては、『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の1920年代』(淡交社、2000年)に詳しい。とても面白かった。なにかと京阪神の諸々になんとなく興味津々でその一貫で読んだ本。


● 須貝正義『大佛次郎と「苦楽」の時代』(紅書房、平成4年)

大佛次郎と苦楽の時代

戦後の「苦楽」については、編集の中枢にいた須貝正義による本書が一級の資料となっている。横山隆一が装幀をしていることで、『大佛次郎と「苦楽」の時代』、「鎌倉文士」サイドテキストという味わいも醸し出している。ずっと探していた本で、手に入れたのは去年、鎌倉の四季書林の目録にて。この本を知ったのは、戸板康二の追悼文集『ちょっといい話で綴る「戸板康二伝」』に掲載の須貝正義の文章がきっかけだった。戸板さんは「苦楽」と同時期、「日本演劇」の編集者をしていた。戦後、新雑誌がどんどん創刊されていって、戦前からの「日本演劇」は安閑とはしていられない立場となった。その一番の脅威ともいうべきものが「苦楽」だったという。日本演劇社の社長の久保田万太郎までもが「苦楽」に傾倒していくのを目の当たりにして、《羨ましくもあり、さびしくもあった。》と、戸板さんは書いている。ちなみに、「苦楽」に折口信夫が「市村羽左衛門論」を寄稿した際の、当時の戸板さんについての池田弥三郎の証言に、《せっかくおれが「日本演劇」で、演劇評論家折口信夫を売り出したのに、こんな力作を他の雑誌に書いて、とちょっとふくれっ面をしてましたよ。それでね、ねえ池田君、こんどの羽左衛門論はやっぱり落ちるね、やっぱり先生は大阪の役者の方がいいね。……》というくだりがある。と、わたしのとって「苦楽」は、演劇雑誌編集者・戸板康二と同時代の雑誌としても興味津々なのだった。

須貝正義は、戦前の「モダン日本」の編集者をしていた人。「苦楽」に至るまでの、雑誌編集と当時の情勢に関する諸々のことも面白かったし、大佛次郎の眼鏡にかなって「苦楽」の編集を始めるまで、「苦楽」がどんどん洗練味を増していって、次々とうっとりするようなページが誕生して(その圧巻が万太郎推薦で誕生した、安藤鶴夫の『落語鑑賞』)、「苦楽」的趣味性がどんなものかをつぶさに知ることができる。「苦楽」は長くは続かず、昭和24年には廃刊となった。廃刊にまつわるくだりは結構ありふれた問題によるもの。敗戦間近だからこそ誕生した雑誌であり、敗戦間近だったからこそ消えた雑誌だった。表紙が鏑木清方でなくなったことが「苦楽」消滅の象徴となっているところも興味深かった。しかし、短い命だったからこそ、今見てみると、「苦楽」がますます輝きを放っているという気もする。

この本で個人的に興味津々だったのが、昭和22年に講演旅行のおともをして里見とんと共に和歌山に宿泊したくだり、《その夜、先生方と枕を並べて寝たが、隣の里見先生が布団の中から「君は、久保田君にものが好きらしいが、なにがいいと思う?」「『春泥』や『末枯』が好きです。」「君みたいな若いもんがねえ。やっぱり下町なのかなあ。」先生は筋金入りの東京っ子、私は興奮して、しばらく寝つけなかった。》という箇所。戸板康二より1才上の須貝正義、このとき33才、昭和20年代前半に、すでに久保田万太郎は渋い本だったらしい。


● 「美しい暮しの手帖」18号(昭和27年12月)

美しい暮しの手帖

「苦楽」の編集部が創刊当時の京橋から、銀座西八丁の日吉ビルに引っ越したのは昭和22年7月のこと。同じビルに「暮しの手帖」の編集部もそこにあって、その創刊は昭和23年9月。「暮しの手帖」の方は現在も健在だ。「暮しの手帖」創刊号から「歌舞伎ダイジェスト」を連載していた戸板康二、日吉ビルには何度も足を運んだという。『大佛次郎と「苦楽」の時代』に、《日吉ビルは、道路一つをおいて、新橋から土橋に流れる川(現在、高速都心環状線)に面していて、当時は風紀も治安も悪く、浮浪者たちが入って来るので、早々と鎧戸を下の方まで下ろしてしまった。木村荘八画伯から一通の戯画文を頂戴した。ブラインドの下を潜ろうとしている紳士の姿が描いてあって、「苦楽出入図・只今聞けば下のアナより時間すぎ出入とのこと、昨日小生アナは見たれども参入の心付かず・空しく退陣せり 万 背眉談」欄外に「アナっぱいりとは則ちコレ」とある。粋なお便りであった。》という一節がある。いかにも木村荘八らしい。

「美しい暮しの手帖」18号は、去年の梅雨のころ、神保町の小宮山書店のセールで3冊500円で数冊仕入れたうちの1冊。ここに里見とんの「手前味噌」なるグラビアページがある。見開き2ページで、里見邸における工夫いろいろを紹介している。針金で傘立ての場所をこしらえたり、寝床の枕元に棚をおいたり、火鉢の上の鉄瓶の蓋にこよりを通して持ちやすくしたり、鴨居にS字の針金を通したり、などなど。《以上の手前味噌から、小生を、吝嗇臭いまねをする奴だ、との感想をお催しになったか、はたまた、どんな風にお感じになったか、本誌宛ての投書で結構ゆえ、御遠慮のないところを承りたし》と結んでいて、にんまりの連続だった。里見とん自身がこんな工夫を「まるで暮しの手帖みたい」というふうに冷やかす感じでどこかの小説で使っていたのを覚えているので、ますますにんまりだった。昔の「暮しの手帖」をめくっていると、結構、里見とんに遭遇する。ついまず里見とんを探してしまう。

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