日日雑記 December 2003

09 里見と小津、伊藤玄二郎著『末座の幸福』、古本お買い物帖#04/

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12月9日火曜日/里見と小津、伊藤玄二郎著『末座の幸福』、古本お買い物帖#04

日日雑記が中断していたこの3カ月は、

日用帳、ぼんやりと更新。

まさしく「うっかり」という感じで始めてしまったはてなダイアリー、
せっかくなのでもうしばらく続けてみようと思っています。

戸板康二ダイジェスト、のそのそと更新。(#024-031)

串田孫一の『日記』が尾を引いたこと、
「新潮」と「三田文学」における折口信夫没後50年特集のこと、
『三田の折口信夫』という本をお借りしたこと、
戸板康二の戦前の書簡を手に入れて嬉しかったこと、
藤木秀吉の遺稿集『武蔵屋本考』のこと、
岩佐東一郎のことがにわかに気になったこと、
『あの人この人』[*] 、『久保田万太郎』[*] についての回想、
戸板康二が解説している文庫本メモ、などなど。

戸板康二に関しては他にもいろいろなことがあったなアという、この3カ月。



先週、フィルムセンターの小津特集の関連上映で見た
渋谷実の『大根と人参』についての記事があったはずと、
雑誌「東京人」の小津特集号(1997年9月号)をひさびさにめくってみたところ、
目当ての『大根と人参』よりも、武藤康史さんの
「里見とんと小津安二郎」という文章にドキドキだった。
(今年10月号の「東京人」小津特集でも、
「辞典を引いて読む、小津脚本」というタイトルの、
武藤廉史さんの文章、とても面白かった。)

昭和31年刊行の筑摩書房刊の「現代日本文学全集25」の
『里見とん・久米正雄集』の月報にある小津自身の文章によると、
小津の里見とん愛読は、大正10年3月の『桐畑』以来のことだという。
さらに、武藤さんは『全日記小津安二郎』の記述を追って、
小津が昭和8年に短篇集『渦心』(新小説社)を買っており、
翌年は『次代恐怖症』(新小説社)を買っていることについて言及している。

『次代恐怖症』は「夏草」「或る別れの話」「次代恐怖症」「怠屈夫人」
「蛇」「女性鑑定学」「浮世ばなし」「どろぼう」「ばか」を収録した短編集、
武藤さんによると《里見とんの中で都会的あるいは享楽的という感じの強い》
これらの諸短篇は、のちの全集にはいっさい収められなかったとのことで、
《小津のサイレント時代のモダンな世界が忘れられがちなのと同じように、
里見とんのモダンな小説群も埋もれがちである。》というふうに結んであった。

のちのいかにも小津という感じの諸作品も大好きだけれども、
小津に決定的に夢中になったのはサイレント時代の小津を見てからのこと、
なので、この一節、わたしのとってはなおのこと嬉しかった。
昭和初期モダニズムの諸々の連関を追うのはいつも無上の快楽だ。

最近つとに夢中になっている小説家は久保田万太郎であるが、
それとはまた違った感覚で大好きなのが、里見とん。

図書館で筑摩書房の全集の端本を借りては、里見とんを少しずつ読んでいる。

けれども、そのモダンな小説群をはじめとして、
未収録はたくさんあるというわけで、
すなわち、おたのしみはまだまだありそう。古本探索の夢が広がる。

里見とんを読むようになったのは、
もとをたどれば武藤康史さんのおかげで、
今はなき並木座で小津安二郎の映画に夢中になったあとで存在を知った、
里見とん小説集『秋日和 彼岸花』(武藤康史編/夏目書房)がきっかけだった。
とにかくもう、とびっきりの珠玉の一冊だった。編者の才気が光っている。

そのことを最近忘れかけていて、久保田万太郎関係の方で、
ふたたび里見とんに接近していた感じだったから、
ひさびさに武藤さんによる小津安二郎の文章を読んだことで、
なんとなく一周まわった感覚なのだった。

わたしの本棚の一角は久保田万太郎コーナーで、
その近辺は、「九九九会」の人物、水上瀧太郎や小村雪岱、
鏑木清方の書物やその関連本が並んでいる。
里見とんももちろん、ここにある。
このところの本読みでもっとも好きな部類のものが、
このあたりの万太郎とその近辺の棚にギュッと詰まっている。

「東京人」の小津安二郎特集のおける武藤康史さんの文章、
1997年の特集では『全日記小津安二郎』を丹念に読みとき、
里見とんとの関連を推測し、今年10月号では、
今年に出た新書館の『小津安二郎全集』を取り上げている。
これら2冊の分厚い書物、わたしにとってもとびきりの愛読書。
この先、何度もそのページを繰ることになるだろう。
「九九九会」と同じように。

そのたびに、いろいろちょこまかとお楽しみが待っていると思うと、
あらためて嬉しい。とかなんとか、なんだか上機嫌になっている。

とまあ、いつも思うことだけれども、各方面の個人的好みの諸々の連関が愉しい。



小津に関連してあらためて里見とん読みの幸福をしみじみと噛み締めたのは、
先月末に、伊藤玄二郎著『鎌倉編集日記 末座の幸福』(小学館)に
出会ったばかりだったせいもある。

小津安二郎と里見とんが住んでいるということで、
ますます鎌倉ピクニックが楽しくなったここ数年、
近年は鏑木清方、さらに久保田万太郎、永井龍男に親しむようになって、
さらに魅惑的な町になっている。と言っても、たまに観光するだけだけど。

「かまくら春秋」の代表の伊藤玄二郎さんのメモワール的読み物として、
『鎌倉編集日記 末座の幸福』という本があるのを知ったのは、
先月末の青山ブックセンター六本木店の店頭にて。
今年3月に出た本なのだけれども、見逃さずにすんで本当によかった。

編集者として接した鎌倉文士たちの回想を中心としつつも、
京都のお茶屋のことや食味エッセイ的なこと、
ポルトガルのことなども盛り込まれていて、
全体を読んでみると、いかにもな文人エッセイ集という趣き。

特に、メモワール的な箇所では、まさしく「ちょっといい話」の目白押しだ。

京都のところでは、祗王寺のひとりの長命な尼僧が登場する。
かつて新橋の花柳界にいた照葉のことで、二代目松蔦がちょっと絡んでいたりする。
彼女のことは、平山蘆江の『東京おぼえ帳』で読んだことがあった。
『東京おぼえ帳』では、戸板康二の『ぜいたく列伝』[*] でおなじみの、
鹿島清兵衛の写真宣伝で成功した東京の「ぽんた」、
光村の写真宣伝で成功した関西の「豆千代」の名前もある。
と、明治の富豪の写真道楽ぶりもなんとなく興味深いし、
のちの彼女たちに関することを追ってみるととても面白くて、
花柳界を抜きにしては考えられない日本の近代、という感じでなにかと尽きない。

……と、かつての本読みといろいろつながるところが多々あった。

そして、もっとも胸が躍ったのは、著者が師事していたという里見とんに関するところ。

里見とんを中心とした鎌倉文士たちの酒席では、
酒は手酌で飲むべし、という決まりだったという。

《文士たちが銘々に徳利から盃へ酒をうつし、
口に運ぶさまは名優の舞台を観るような心持だった。》

というくだりがある。そんな心持ちを、この本を読んでいるとき、始終味わった。

《人と人との距離を里見は「則(のり)」と表現した。
その則を踏み越えたばかりに出入り差し止めになった編集者がいた。》

この一節が登場するところに、泉鏡花との描写がある。

里見とんは、父からは「直情」「謹厚」を受け継ぎ、
母からは受け継いだ性格としては「洗練」「洒脱」を挙げていたという。
母から受け継いだおしゃれ心に関するくだりもいいなアとうっとりだし、
里見とんのなかにある父の薩摩気質に関する、諸々のことにもなるほどッとなった。

落語の『おせつ徳三郎』でつい最近知った、
「世の中すいすいお茶漬けさらさら」というフレーズは、
まさしく里見とんのような人にぴったりだと思った。

里見とんの「世の中すいすいお茶漬けさらさら」ぶりを垣間見ることと、
著者によってその所以を解き明かされるのを目の当たりにすること、
そんな時間がまさしく、名優の舞台を見るような心持ちだった。

この著者を知ったのは、古本屋で手にした、
「別冊かまくら春秋」の永井龍男追悼号がきっかけだった。

ちょうど一年ほど前に、戸板康二の『句会で会った人』[*] を機に、
永井龍男の『文壇句会今昔 東門居句手帖』(文藝春秋)や
車谷弘の『わが俳句交遊記』(角川書店)を手にとったときの至福を思い出したりも。



3カ月ぶりの日日雑記の最後に、約1年ぶりの別ファイル。

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