日日雑記 August 2003

15 The Joy of Music、午後の喫茶店でのお話し会のこと
27 走れ!映画、シブい本

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8月15日金曜日/The Joy of Music、午後の喫茶店でのお話し会のこと

The Joy of Music を唐突に更新。(8月11日付)

最近の朝晩の音楽聴きのこととリンクの新設。

この一週間のんびりと夏休みを過ごしていて、
昨日はちょいと遠出して美術館めぐりをする予定だったけど、
雨が降っているしなんだか寒いしで、出無精になってしまい、
そのおかげでひさしぶりに音楽をたくさん聴いた。

雨降りの日にお茶を飲みながら部屋で音楽、だなんてずいぶんひさしぶり。
こんな日は内田光子さんの演奏でシューベルトと思って再生してみたら、
《レリーク》と《幻想》という組み合わせが、窓の外の雨空とあまりにも調和して、
それから聴いたのが、バッハの《ヨハネ受難曲》、ブラームスの合唱曲集などなど。
ちなみに今流しているのは、ドビュッシーの室内ソナタ集のレコード。



先週、神楽坂の坂の途中のパウワウという喫茶店の前を通りかかったとき、
今日から3日間、《博物館にはない代物》という展覧会があって、
「捨てる紙拾う紙あり売る紙もあり」といった感じのサブタイトルの、
案内版が軒先にかかっているのがチラリと目に入って、思わず立ち止まった。
その案内版と軒先の雰囲気が実に素敵で、印象に残って手帖にメモした。
今日の午後はちょっとしたトークショウがあるとのことだった。

前々からいろいろ計画をたてて外出の候補地がいくつかあったのだけれども、
雨降りの午後の喫茶店というのもずいぶんひさしぶりだなあと、
その手帖のメモをなんとはなしに発見して、今日の気分はまさしくこれ。
と、昨日の出無精をふりきるようにして、今日の午後は傘をさして出かけた。

そして、雨降りの夏休みの昼下がり、喫茶店のお話し会の時間はとても素敵だった。

会場には展覧会のサブタイトル通りに、紙モノがいろいろ並べてあって、
というか置いてあって、手にとって、気まぐれに眺めていったりする。
その紙はどのようにして集められていたかというと、
なんと屑カゴを背負って、電車のなかなどで集めていったとのこと、
まさしく「捨てる紙拾う紙あり」なのだ。

獅子文六の原作で渋谷実の映画『自由学校』で
その道の先輩・東野英治郎が佐分利信に屑拾いの方法を伝授する
お茶の水の坂道を歩いているシーンで二人が背負っているような屑カゴ。

そんな屑カゴで集められた、電車の切符やお弁当の包み紙やら雑多なものがたくさん、
それだけではなくて、もうちょっとコレクションっぽい、
煙草の紙や宝くじ、めんこやクスリの包装紙なども添えられていることで、
紙モノ展覧会のよい雰囲気を作り上げている。
古い映画ポスターもあった。足袋の包装の紙がかわいかった。

自分自身の生活を振り返ってみると、
旅行に出かけたときの紙モノはなんでもとってあるけど、
日常ではお気に入りのショップの紙袋や包装紙の色やデザインが好きで
思わずとっておいたりといったことをたまにする程度で、
ちょっとしたスクラップブックを作ったら面白いかもとは思うのだけど、
捨てることの方に妙に快感を感じる方で、あまりうまくいかない。
むしろ、人のものを見せてもらうのは大好きなので、
そんな感じのひとときがなかなか楽しかった。

喫煙の習慣はないのだけれども、煙草にまつわるムードがなんとなく好きなので、
煙草のパッケージ用紙のデザインがもっとも心が躍った。
「たばこが生みだす暮らしのリズム」という標語にニンマリだった。

それから、なんといっても面白かったのが各種紙談義で、
西鶴の小説に出てくる紙を混ぜる料理のこと、
王子の紙の博物館や渋沢資料館のことや(行きたい!)、
どなたかご婦人が今はすっかり見なくなったものとして
「浅草紙」のことをおっしゃっていたのも面白かった。
江戸時代に山谷で紙をすく合間に吉原へ、が
「ひやかす」の語源になったとのこと。初めて知った。

浅草というと、今度の平成中村座では『文七元結』の上演があるとのこと、
ここで「元結」に関する談義もひょいと登場して、圓生のディスクをすすめられた。
わたしは今のところ志ん朝のものしか聴いていないのだけど、
なんといっても圓生のうんちくが入ることで、
「圓生百席」で聴くとまた違った味わいになりそう。たのしみたのしみ。
『文七元結』にちなんで、平成中村座のお弁当は特製の「元結」でくくるのだそう。
そのお弁当は関係者総見の日限定なのかな、まあ! と胸が躍った。

とかなんとか、ほんの物見遊山のつもりが、
浅草紙や『文七元結』のことが登場することで、
日頃の興味関心をもモクモクと刺激、江戸へ思いを馳せることができたのが格別だった。

すべての道は「紙」に通ず、と、そんなことを思った。

展覧会の会場は喫茶店の二階、急な階段をくるりと上がってみると、
壁面の棚に、花森安治時代の「暮しの手帖」がたくさん置いてあって、びっくりだった。
その表紙がパウパウの雰囲気にいかにも似つかわしくて。

で、なぜ「暮しの手帖」なのかというと、
今回の集められた紙モノは屑カゴで拾われたものだったというわけで、
大量の「暮しの手帖」のどこかの家庭で捨てられてそうになって
でもこんなにたくさんあっては引き取り手も見つからないしで、
「捨てる紙あり拾う紙あり」のひとつとして「暮しの手帖」があったのだった。

ところどころの紙モノとおんなじように、「暮しの手帖」も売り物で1冊100円。

実は去年、何度か投げ売りされているのに遭遇して、
初期の「暮しの手帖」が何冊も部屋にあるが整理しきれていない。
なので、しばらくはおあずけ、と思っていたのだけれども、
トークショウがひとまず終わって、コーヒーとおやつをいただきながら、
「暮しの手帖」1世紀の後半の号を適当に手にとってみたら、思わず興奮。

なぜ興奮したのかというと、それは「わたしの好きなおかず」という頁に
里見とんが登場していて、湯どうふを挙げていたから。まあ、同好の士!
湯どうふを前に御猪口を持ってニヤリと不敵に笑う里見とん、
その着物と食器の様子を白黒写真で詳細に見ることができる、欲しいッ!
ということになって、他の号もあちこち眺めて、
「暮しの手帖」を5冊も買ってしまうことになって、思わぬお土産を得ることができた。

「暮しの手帖」のほかにも、もう少しお土産がある、いただきものがふたつ。
ひとつはむかしの酒屋さんの「大福帳」、もうひとつが「郵樂の會」という冊子。

大福帳というのも実際に見たのは今日が初めてで、
車谷弘が『銀座の柳』で少年時代お世話になった本屋のことを書いた
「大福帳」という1篇が大好きだったことで印象に残っていたのだ。
「郵樂の會」の方は、鳩の絵がキッチュでかわいい。

今日手に入れた「暮しの手帖」5冊のなかに、
2号にわたって「言葉づかいについて」という頁があり、里見とんはここにも登場している。
里見とんは「暮しの手帖」のごく初期から時折ナイスな登場の仕方をしていて見逃せない。

「言葉づかいについて」は幸田文の文章もあって、コーヒー飲みながら熱心に読みふけった。
どんじりに控えていていたのが福原麟太郎でタイトルが「漱石の会話」、

《私は現代日本語の大体の基準として漱石の小説の中の会話を立てて、
そのことば通りを真似るというのではなく、
その大体の言葉づかいの嗜好を学ぶということにしたらと思うのである。
……明治文学で紅葉、露伴、一葉などが、西鶴の文体を基準として、
それを依り処として、安心して自分たちが小説を書き得たという話、
ことに一葉が平田禿木に向って、「西鶴というものがあるので力強うございます」と
語ったということを禿木先生からうかがって、私は感動した。
ことばづかいについても同じことが言えるのではないかと思う。》

帰り道、5冊の「暮しの手帖」でずいぶん荷物が重くなってしまった。
いくぶん和らいだ雨のなか、上記の一節のことを思いながら歩いた。
そろそろ、西鶴を読もうかしら、と思っているのだった。





  

8月27日水曜日/走れ!映画、シブい本

走れ!映画に5月と6月に見た映画を追加。

気がついてみると、ずいぶんたまってしまってヒイヒイとなってしまった。
トリュフォーにガツーンとやられてしまったのが更新が滞った原因だと思う。
一生心に残る映画がある一方で、すぐに忘れてしまうような映画もある。
すぐに忘れてしまいそうな映画の味もなかなか捨てがたくて、
先週は、フィルムセンターの市川崑特集の『女性に関する十二章』に大喜びだった。
思いがけなく夢声が出ていて、それだけでとても嬉しかった。
それにしても、演技云々とか関係なく、夢声の風貌そのものが眼福。

戸板康二ダイジェスト、更新。(#022)

今回は特に更新箇所がなく、とりあえず一周年のごあいさつです。
あと、書き損ねていた、石神井書林で買った本について少々。

毎年なんとなく濃い日々になっている8月があともう少しで終わる。

今月の一番の興奮は、根岸で聴いた落語会、
雲助師匠の「もう半分」、ク−ッ、かっこいい! 一生ついていきたい。

その根岸に行く前、浦和へ足をのばし、うらわ美術館
《ウィーンの夢と憧れ 世紀末のグラフィック・アート》という展覧会を見て、
ふと思いついて、隣駅の埼玉県立近代美術館へ行くことにした。
3月に堪能した小村雪岱の展示のことを思い出して、
お土産に買った小村雪岱の絵ハガキを買い足そうと思いついたのと
常設展がなかなかいい感じだったからついでに見に行こうと思ったのだ。

その埼玉県立近代美術館の常設展、3月に見て好きだなあと思ったルオーの絵もよかったが、
思いがけなく、熊谷守一の絵を見られたのがとても嬉しかった。古賀春江の絵もよかった。
ルオーと熊谷守一と古賀春江を見ているうちに、ふと背景が気になって、
背景ばかりじーっと凝視したりもした。

そうこうしているうちに、洲之内徹のことを思い出して、ひさびさに読み返している。

《岡さんの言葉を聞いているうちに、
私はふと、バックというものは物や人物の背後の空間を描くだけではなく、
それによって物と私との間の空間をも描くものだということに気がついた。
物と私との、人物と私との空間的な関係が示されることで、
実際にその物の置かれている空間の広さが私に感じられ、
額縁の拘束が消滅して、物と私とが同一の空間の中に存在しはじめるのではないだろうか。》

そういえば、洲之内徹を読み始めたのも8月のことだった。





  

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