日日雑記 July 2003

03 現代ユウモア全集第3巻『楽天地獄 戸川秋骨集』
17 シブい本、斎藤緑雨のみた一葉の冷笑のこと
30 シブい本、福原路草の写真集、山野楽器ショッピング

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7月3日木曜日/現代ユウモア全集第3巻『楽天地獄 戸川秋骨集』

森銑三の『明治人物夜話』(岩波文庫)の「石井鶴三さんのこと」に触発された恰好で、
5月の連休の最終日、神奈川県立近代文学館に行った。とてもたのしかった。

その展覧会の記憶が鮮明な5月下旬のこと。
西荻の音羽館にて、函がボロボロのいかにも古ぼけた1冊の本を買った。

それが、現代ユウモア全集第3巻『楽天地獄 戸川秋骨集』(昭和4年)。

以前は字面しか知らなかった戸川秋骨にそこはかとなく
関心を抱いたのは、いつもの通り、戸板康二がきっかけだった。

昭和7年に慶應に入学した戸板康二が予科で英文学を習ったのが戸川秋骨、
そのときの挿話が、『新ちょっといい話』[*] にて、

《慶応の予科の時に、英文学史を教わったのが、戸川秋骨さんだった。
戸川さんのお嬢さんにエマさんがいること、
その名前がエマーソンからとったことを、学生は知っていた。
講義が年代を追って進行、次の週はいよいよエマーソンが出てくるという時に、
学生が、そのことを質問しようと話し合っていた。
その週、戸川さんは順々に話してゆき、やがて、「エマーソンは飛ばします」といった。》

というふうに披露されている。なんとなく頬が緩んで、たのしい。

それから、お能の愛好家だった戸川秋骨がつねに絶賛していたのが、
喜多六平太だったのだそうで、そのお能見物のくだりは、
福原麟太郎の随筆で読むことができる。
お能につい憧れるのはこういう文章の余韻の効果にほかならない。
戸川秋骨は能楽論の執筆もしている。いつか必ず読むつもり。

と、そこはかとなく関心のあった戸川秋骨、
現代ユウモア全集という叢書名もいい感じだし、
ボロボロの染みだらけの函だけど、どこか愛らしいし、
中身の本を開いてみると、散見される挿絵のある種の雰囲気に心惹かれる、
……などと思って、装幀者の名前を確認すると、なんと石井鶴三!

『明治人物夜話』を読んだばかりというタイミングで、
この本を発見することになったとはなんという奇縁であることだろう。
これは果たして偶然だろうか? って、偶然以外のなにものでもないが、
何はともあれ、前から気になっていた戸川秋骨を読むチャンスと、
音羽館にて、1000円の買い物をしたのだった。

あまりにも古ぼけていて外出のときに持ち歩くのはちょいと躊躇し、
夜寝る前に、寝酒がわり、あるいは就寝時の落語ディスクがわりに、
少しずつページを繰って、エッセイをひとつずつ読んでいったのだったが、
これがまあ、思っていた以上に面白くて、書いてある内容、
たとえば、文学史上のちょっとした挿話とか明治・大正の東京風景が、
日頃の趣味嗜好にほんわかとリンクしているという嬉しさはもちろんのこと、
戸川秋骨の筆致が、「現代ユウモア全集」という名にふさわしく、
どこかとぼけているというか、のほほんとしているというか、
読んでいて、つい笑みがこぼれる一歩手前の頬が緩む感じで、
この感覚がたまらなく好きだなあと思った。

たとえば、「戸山の原の立話」という文章で描かれるのは、
戸川秋骨が人に会いに戸山の原を歩いて行く途中に、
向うから漱石がやってくるというくだり、
ふたりが長時間立ち話をしたのは、漱石の亡くなる年の10月の出来事だったそう。

《話は何時までも何時までも続く。
何でもその時に出来上った作の「明暗」の話なども出、
その批評らしいことを私が言い出したので、
話は愈々進み、「明暗」中の人物の話からデカダンの事になり、
故人斎藤緑雨氏の話にまで及んで、話は決して尽きそうにもなかった。》

三越前から大混雑の市電に乗り、そこで二人ずれの男女、
松井須磨子と島村抱月を垣間みて、居心地の悪い思いをしたり、
築地の銭湯で、九代目團十郎を見たり、といった挿話や、
猫好きで園芸好きの東京生れの「郊外」生活者の日常生活などなど、
「郊外」大久保に住む戸川秋骨の家は小泉八雲の旧居だったという。

……などなど、印象的だった箇所を挙げようとするとキリがない。
明治・大正・昭和初期の東京での、英文学者で能楽愛好家の文人の生活、
戸川秋骨の筆致そのもの、そこから立ち上るホワーンとした感覚が格別だった。

前からなんとなく気になっていた書き手が、
自分の目論見通りに「当たり!」だったことの歓びは大きい。
なにかいろいろとつながっているのだと思う。

『楽天地獄』というタイトルがまずとてもいい感じ、
昭和初期の獅子文六の「新青年」初出の小説『楽天公子』(←大好き!)をも彷彿とさせる。

はしがきによると、タイトルの「楽天地獄」というのは、

《……楽天地獄とは、少々得体がしれない。まだ聞いた事もない。
とそう言われたら、まったく返事に困る。実は自分にもよく解らないのだから。》

《ただ地獄は極楽よりも面白い処だとは、イギリス現代ユウモリスト、
ショオ先生から承って居るので、僕の落ち着く処は、
地獄にしようと、極めてしまったわけである。》

《先づ楽天地獄とでも言うのではなかろうか。
まアこんな気持で、僕は地獄行きを志願し、同時に娑婆でも、
そんな心懸けで生きて居たらばと考えている。それが僕の微衷である。》

という感じなのだそうで、ますます「楽天地獄」、いいなアと思う。

さてさて、『楽天地獄』目次にある、「ケエベル先生」というタイトルを見て、
ハタと思い出したことがあった。小沼丹の随筆集をひもといた。

めくったのは、みすず書房「大人の本棚」の
『小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き』なのだが、
ここに、「古本市の本」という文章がある。

小沼丹は、高田馬場駅の古書市で「現代ユウモア全集」の端本を4冊買った。
そのうち読もうと思ってその辺に積んだが、いつのまにか視界から消えていた。
ある日、探し物をしていたら、4冊の本がひょっくり顔を出した。

《……探し物は一時中止して、戸川秋骨集を箱から出して見た。
秋骨の本は「楽天地獄」と云うのである。
目次を見ると「ケエベル先生」と云う題名が目に附いた。
漱石に同じ名の小品があって、昔読んだことがある。
そんな記憶があったからだろう、秋骨はどんなことを書いているのかしらん?
何となく読み出したらたいへん面白い。
「ケエベル先生」の他にも二つ三つ読んで、その后は最初の頁から改めて読み出して、
お蔭で探し物の方は一時延期ということになった。》

《秋骨の「ケエベル先生」を読んだら、見たことも無い昔の人が、
急に身近に感じられて面白かった。漱石の小品もなかなかいいが、
漱石の場合は何となく正式訪問と云う感じの文章だから、
無論、秋骨の「ケエベル先生」とは違う。》

なんだか、ますます、現代ユウモア全集『楽天地獄』が輝きを放つ感じで、
さらに戸川秋骨のエッセイへの愛着が胸にうずまくのだったが、
またまた、ハタと思い出したことがあった。

坪内祐三の書評集『シブい本』(文藝春秋、平成9年)をめくった。

小沼丹著『珈琲惹き』(みすず書房)の書評で、
坪内祐三は上記の「ケエベル先生」のくだりを引用していたのだった。

《チャールズ・ラムの『エリア随筆』を持ち出すまでもなく、
英文学には優れた随筆作品が数多くある。
それから、現代の作品はさておき、
十八、十九世紀イギリス文学に触れた事がある者なら誰でも、
それらの作品に見られる独特のユーモア、
そして悠久たる時間の流れに気がつくはずである。
イギリスにおいて文学とは、先を急ごうとする若者たちの道具ではなく、
人生の酸いも甘いも噛み分けた大人の遊びなのである。
その遊び心の結晶が随筆である。だから古くは戸川秋骨、馬場孤蝶、
さらには福原麟太郎、吉田健一、丸谷才一と、随筆の名手と言われる人には、
英文学者の出身者がとても多い。》

《英文学者という点で秋骨と漱石は同類であるが持ち味は全然違う。
小沼氏は秋骨側の人間である。》

5月初日に筑摩書房の「明治の文学」ではじめて饗庭篁村を読んで、
こうして、戸川秋骨に出会ったという、このめぐりあわせ、キーパースンは福原麟太郎だ。

それにしても、いろいろとつながっているのだと思う。





  

7月17日木曜日/シブい本、斎藤緑雨のみた一葉の冷笑のこと

戸板康二ダイジェスト、更新しています。(#020)

先月下旬に更新すべき内容が今ごろになってしまいました。
次回は石神井書林で買った本のことを書こうと思います。



戸川秋骨の『楽天地獄』はいろいろ尾をひいた。

戸川秋骨を文学史で語ろうとすると、島崎藤村、馬場孤蝶らとともに、
雑誌「文学界」の同人であったことがまず言及されて、
伊藤整の『明治文壇史』でも、最も心ときめくくだりのひとつだ。

なんといっても魅惑的なのが、彼らが
本郷丸山福山町の樋口一葉を足しげく訪問していて、
その様子をかなり綿密に一葉の日記で読むことができるということ。

昭和7年に慶應に入学した戸板康二が予科で英文学を習ったのが戸川秋骨で、
戸板さんの文章にさらっと描かれる戸川秋骨の姿がわたしはなんだか好きだった。

親子ほどの世代の戸板さんと久保田万太郎の、
ちょうど真ん中くらいの世代なのが奥野信太郎で、
彼も慶應予科で戸川秋骨に英文学を習ったのだそうで、
奥野信太郎の文章を読むと、当時の戸川秋骨は非常に厳格な先生で、
『楽天地獄』の文章の肌合いとちょいと違う様子なのが、また微笑ましかった。

学校を卒業してからあとに、奥野信太郎は戸川秋骨と交流するようになり、
そこの戸川秋骨は、教壇とは違った、穏やかな紳士だったようだ。

奥野信太郎はその折の戸川秋骨のエピソードを戸板康二に伝えてくれていて、
戸板さんは、たとえば、『泣きどころ人物誌』[*] の、
「斎藤緑雨の女友達」の項でこんなふうに披露してくれている。

《英文学者だった戸川秋骨は、一葉に対してやはり心ひかれていたらしく、
銀座のムーランルージュというバーに奥野信太郎がつれて行った時、
ホステスの一人の感じが「一葉に似ている」というので、
その後も時々行って指名したという話が残っている。》

では、戸川秋骨はどんなふうに描写されているのだろうと、
樋口一葉の日記をひさしぶりにめくってみると、

《秋骨も幾度わがもとをとひけん。大方土曜日が夜ごとには訪ひ来る。
来ればやがて十一時すぎずして帰りし事なし。
母も国子も厭ふのは此人なれど、いかゞはせん。
ある夜、川上君と共に来て、物がたりのうちにふるひ出でぬる時などの
恐ろしかりける事よ。「我れはいかにするとも、此家の立はなれがたきかな。
いかんせん、いかんせん」とて、身ももみぬ。
みづから、「こは怪し、怪し」といひつゝ、あと先見廻しつゝ打ふるふに、
川上ぬしもたゞあきれにあきれて、からく伴ひ出て送りかへしぬ。
「其夜、なき寝入りにふしたり」とて、あくる朝まだきに文おこしぬ。
うちにさまざまありけれど、「猶親しき物にせさせ給はらずや。
いかにも中空に取りあつかひ給ふ事のうらめしさ」など、書きつらねありき。
あなうたての哲学者とや。》

などと、あらまあ、こんな書かれ方をされている、戸川秋骨なのだった。

……と、当初は、戸川秋骨めあてに、気まぐれにめくってみた一葉日記、
いつも読み返すとそうなるのだけれども、今回も一葉日記にどっぷりつかって、
その記録の数々、後半生はとりわけ登場人物のくだりに「おっ」と大興奮、
印象的な箇所を挙げようとすると、それこそキリがないのだけれども、
もっとも胸が詰まるのが、なんといっても斎藤緑雨のくだりだ。

明治29年5月2日に、戸川秋骨と平田禿木が一葉のもとを訪れ、
鴎外の発行した雑誌「めさまし草」誌上の、
鴎外、露伴、緑雨による「三人冗後」なる合評欄にて、
『たけくらべ』が大絶賛されているのを、一葉に読んで聞かせる。
『たけくらべ』の初出は「文学界」なのだから、彼らも鼻が高い。
そんな彼らを前に、一葉は内心では冷静に事態を客観視している。

その約10日後、手紙だけのやりとりだった緑雨が初めて、
一葉のもとを訪れ、その日記に書かれる緑雨のくだりはいつ読んでも、グイグイと引きこまれる。

一か月後には三木竹二が訪れ、緑雨は油断ならない奴だから気をつけろと言い、
同日夕方には、当の緑雨が一葉を訪れ、一葉に心の奥底をかなり率直に吐露する。

などなど、緑雨の来訪にまつわる、様々な交錯がエキサイティングなのだったが、
なんといっても、胸が詰まるのが、7月15日の緑雨来訪のくだり。

一葉はわざわざ後日に、この日のことを詳細に書き残している。
緑雨は一葉の作品のことを、以下のように語る。

《「君が性質みあきらめばやとて、われはまこと此日頃訪ひ寄るなり。
ことばの中にか、身のふるまひにか、我がおもへるに合いたる所あらば、
さて我が論は成り立つべきなり。

世人は一般、君が『にごりえ』以下の諸作を、
『熱涙もて書きたるもの也』といふ。こは万口一斉の言葉なり。
さるを、我が見るところにしていはしむれば、むしろ冷笑の筆ならざるなきか。
嘲罵の詞も、真向よりうってかゝるあり、おもては笑みをふくみつゝ、
『君はかしこうこそおはせ。いとよき人におはします』と優しげにいふ嘲りもあり。

君が作中には、此冷笑の心みちみちたりとおもふはいかに。
されど、世人のいふが如き涙もいかでなからざらん。
そは泣きての後の冷笑なれば、正しく涙はみちたるべし。
まこと同情の涙もて泣きつゝ、これを書くものとせんか、
さのみ悲しみの詞をつらねて、涙の歴然と顕はるゝやうの事のあらんや。

人一度は、涙の淵に身もなぐべし、さて其後のいたり処は何処ぞや。
泣たるのみにとゞまるには非じ。
君は正しく其さかいとおぼゆる物から、御口づからもれたる事なければ、如何あらん。

君がかつてあらはし給ひし、『やみ夜』といへる小説の主人公、
うらめる男の文おこしゝに、憤りはむねにみちつゝ
猶しらぬ顔にかへししたゝむるの条ありき。
あれこそはつゝみなき御本心なるべけれ。
我がみる処あやまれるか、世人のみる処相違なきか、いかゞおはすぞ。」》

と緑雨は笑いながら一葉に問う。一葉は微笑しつつはぐらかす。

泣きての後の冷笑。

緑雨こそがまさしく冷笑の男なのだが、そんな緑雨のみた一葉の冷笑、
サロンの女主人のように一葉に接していた「文学界」の同人たちとは違った、
戸板康二の言葉だと「女友達」として、文学の同士のような感じで
深い理解と共感をもって一葉に接した緑雨、そんな緑雨が好きだし、
そんな緑雨の評価を引き出した一葉も大好きだ。

そんな両者を思うととにかく胸が詰まって仕方がなくて、
二人の本をもっと深く読んでいこうと背筋をシャンと伸ばしてみたりもした。

初めて一葉を訪れたとき、緑雨は一葉に、
唯一生前に刊行された手紙の書き方の実用書『通俗書簡文』について、
あれを書いたのは本当かと尋ねて、本当だと聞くと、
一葉の書いたものならぜひとも読まないと、と言い、
一葉の「冷笑」を指摘した日には、緑雨は『通俗書簡文』のことにも言及し、
「例の冷笑の有さまみちみちたり」と語っている。

一葉の『通俗書簡文』については、森まゆみさんが詳細に解説した、
『かしこ一葉』(筑摩書房、1996年)という、かねてからの愛読書があるので、
緑雨の指摘する「冷笑」がわたしにもみえるかしらと、ひさしぶりに読みふけった。

そんな折、戸板康二が戦前携わっていた「スヰート」に関する秀逸な記事があったので、
つい買ってしまった今月号の「彷書月刊」には、
青木書店の店主さんの文章に緑雨が登場していて、それにまつわる古書談義がとてもよかった。

戸川秋骨という、新たに好きな書き手に出会った嬉しさもひとしおだけど、
それだけではなくて、秋骨をきっかけに、あっちをうろうろ、
こっちをうろうろ、本の散歩をする時間に埋没して、なにかと格別だった。





  

7月30日水曜日/シブい本、福原路草の写真集、山野楽器ショッピング

戸板康二ダイジェスト、更新。(#021)

石神井書林で買った本のことを書くはずが、
五反田古書展で買った本になってしまいました。
こ、こんなはずじゃなかったに。次回は必ず。



銀座百点」に連載中の、飯沢耕太郎氏の『東京写真』を毎月たのしみにしている。

かれこれ二カ月前のことになってしまうけれども、
6月号で福原路草が紹介されていて、久保田万太郎の文章が引用されてあった。

《大学の同級生だった久保田万太郎がこんなふうに回想している。
「福原信辰は……学生時代、もっともよく読み、だれよりも深く思索した、
寡黙、且、冷静な勉強家だったかれは、翻然、文学を捨て、
みづから好んで、孤独と寂寞とのなかに身を置いた。
(中略)かれのその制作の、飯櫃だの、電信柱などといった
非情なものにかれらしい目を向けるのにあるといふことを聞いて、
ぼくは、三つ子のたましひの、かれのけっして文学を捨てたのではないことに気が付いた」
(「福原路草のこと」『資生堂社史』1957)。
たしかに、路草の写真には、どこか「孤独と寂寞」の気配がある。
同時にそれはまた、久保田が「銀座の生んだ典型的な "銀座人" 」と称した、
都会っ子の洗練された感覚と重なりあって、独自の作品世界に結晶しているように思える。》

と、この一節を目にして、いてもたってもいられず、
福原路草の写真集を買ったのは、5月末日のことだった。

5月末日は台風が上陸した土曜日、午後に外出して、日本橋の丸善に寄って、
岩波書店の「日本の写真家」シリーズ、『福原信三と福原路草』を買った。
そのあと銀座線で末広町で下車して、コーヒーを飲んで、鈴本演芸場で小三治独演会を聴いた。
台風一過で聴いた小三治独演会が実に素晴らしくて、とにかくメロメロで、
その夜はなかなか眠れなくて、翌日曜日もぼーっとしていた。

その小三治独演会のこともさることながら、
台風が遠のいていく頃、日本橋の丸善で本を見たことや、
ひさしぶりに丸善の文房具屋で10年来の愛用の、
オリジナル便箋やらノートやらを買ったこと、
末広町から、台風のあとの湿った空気のなか、
上野広小路に向かって歩いたこと、などなど、そんな些細なことと、
小三治独演会と路草の写真のこととが合わさって、
妙に忘れられない一日となり、いまでも鮮明な記憶。

■ 福原信三 路草 写真展資生堂 芸術文化

路草の写真にある独特のモダンさ、被写体をとらえる繊細な視線、
それでいて軽やか、なんとなく久保田万太郎の俳句に似ている。



万太郎を媒介に未知の表現者を知る歓びを思わぬところで味わって、嬉しかった。
というようなことを追憶しつつ、今日は銀座に寄り道、山野楽器へ行った。

密偵おまささんのページで知った、万太郎作詞の
長唄のディスクを買うというのが、そもそもの目的だった。

……のだが、うっかりメモを忘れてしまって、
どのディスクだかはっきりと確信が持てず、
今日は断念して、後日のたのしみということになった。
こ、こんなはずじゃなかったに。

が、それにしても、銀座山野楽器1階の邦楽ゾーンはいつもなんて楽しいのだろう。
志ん生ディスクやら、雲助師匠の新譜やら、常磐津やら、歌舞伎名セリフ集やら、
そんなつもりじゃなかったのに、ずいぶん散財してしまった。

特にびっくりだったのが、歌舞伎名セリフ集のディスク。
先月に発売になったばかりみたいなのだが、六代目菊五郎の新三、
初代吉右衛門の河内山、四代目源之助のお嬢吉三といった、
戸板康二の本でおなじみの役者の肉声がパッケージされている。

わたしにとって今回初めて肉声を聴いたのが源之助、とりわけドキドキだった。
源之助というと、久保田万太郎の『沢村源之助』という文章が絶品で、
現在録音で聴くことができるのは、万太郎が書いていた時代とは全然違う、
本当の源之助はこんなものじゃなかったのかもしれないけれども、
それでも、やっぱりそのアクのようなものに陶然となった。

戸板康二は源之助の全盛時代には間に合わなかった世代で、
先日買ったばかりの『劇場歳時記』[*] にも収録されている、
「桜餅」の冒頭で、源之助体験のことを、

《宮戸座の源之助を文献によって知るよりほかない年齢のぼくにとって、
深夜のプラットフォームに立って終列車の明るい窓を見送ったような印象として
今だによく覚えているのが、大正15年4月、市村座の芝居である。》

というふうに書いている。

戸板康二の見た時代の源之助と同時代の音源かしら、と思うと、
なおのこと、名セリフ集ディスクに心ときめくのだった。

それから、今回、ひさしぶりに常磐津のディスクを買った。
坪内逍遥作詞の『お夏狂乱』を買った。

坪内逍遥作詞の長唄『お七吉三』のディスクを探していたのだけれども、
あいにく見つけることができなかったので、前から気になっていた『お夏狂乱』になった。

長唄『お七吉三』については、山口瞳が書いていたのを覚えている。

「こつう豆本」の杉森久英著『私の英学修行』にもとても印象的なくだりがあった。

『お七吉三』の歌詞に日本的ではないものを感じて、
ちょっと突っ込んでみると、『ロミオとジュリエット』のセリフに似たくだりがあり、
逍遥の長唄にシェークスピアが溶け込んでいるのを見つけたり、
それから、ある句では漱石の『虞美人草』を類推してみたりと、
逍遥の『お七吉三』は『虞美人草』と同年の明治40年のこと、
『お七吉三』の文句にひそむ明治あれこれに思いを馳せること、
なんて魅惑的なのだろうと思う。そういう見方を杉森久英に教えてもらった。

常磐津『お夏狂乱』の作詞は明治41年のこと、
わたしも杉森久英みたいにこれからゆっくりと、いろいろ類推できたらいいなと思う。





  

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