日日雑記 June 2003

24 シブイ本、こつう豆本、日本民藝館の芹澤けい介展のことなど

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6月24日火曜日/シブイ本、こつう豆本、日本民藝館の芹澤けい介展のことなど

戸板康二ダイジェスト、3回連続更新。(#017-019)
谷沢永一の書評集や雑誌「風景」のことなどを書いています。



文楽の『夢の酒』の冒頭が今の季節感にぴったりで、
噺の世界にぼーっとひたることで、鬱陶しい梅雨空さえも
なんとなく愉しくなってくるのが、なんだか嬉しい。
若夫婦の倦怠と季節感とが絶妙にマッチしていて、その余韻が実にいい。

《一年のうちにまことによい月と、いやな月がございますな。
この、五月雨とか申しまして、入梅へ入りますと、
どんな綺麗好きな方でも方々がじめじめいたしてまいります……
ちょっと外へお出かけンなろうと思っても雨がしとしと降ってェる、
『明日のことにしようじゃァないか』なんてんで、家にいる。
退屈だから横ンなる、うたた寝をする、風邪ェひくという、
ものが順に行っておりますな……》

という感じで、家に帰るとソファに寝転がって、
落語ディスクをあれこれ聴いて、いつのまにか寝てしまい、
睡眠時間は長いがどうも身体がだるい、
という状態が梅雨になってからというもの続いている。

と言いつつも、週末になると毎週暑い中をどこかしら出歩いていた。

先週末の土曜日は、鈴本演芸場へ林家正雀独演会を聴きに行った。
銀座線の末広町で下車して広小路に向かう途中、
前から行ってみたかった古本屋さん、上野文庫を初めて見ることができた。
上野文庫の棚が非常にみものだったのは言うまでもないが、
上野文庫から広小路に向かって歩くのがとてもたのしくて、
これから先、何度もこのコースをたどって、鈴本へ行きたいなあと思う。

今回の正雀独演会のメインは、円朝作『真景累ヶ淵』。
帰宅後は、圓生と正雀さんの師匠・正蔵とがリレーで語っている
『累ヶ淵』のディスクを何回も聴いて、すっかり宵っ張りだった。

日曜日の午後は、ひさしぶりの日本民藝館

現在、《芹沢けい介の世界―作品と蒐集―》と題した特別展が開催中なのだ。

ここ2、3ヵ月というもの、「こつう豆本」に夢中で
書肆アクセスの前を通りかかるたびに、毎回必ず1冊買っている。

「こつう豆本」というのは、日本古書通信社発行の豆本シリーズ、
愛らしい外見のみならず、全冊が古書への愛着に裏打ちされた内容で、
「こつう豆本」のパッケージを買う、その偶然性に委ねることで、
今まで知らなかった書き手、今までなじみの薄かった内容を
わたしも知ることになって、そのことでますます深く、
書物へと入っていくきっかけを得た気持ちがする。
そんな感じに、「こつう豆本」のパッケージに頬を緩ませ、
中身をじっくり読んで、悦に入っている。

1冊数百円なので、安い道楽である。レジでお会計すると、
「古通豆本」と書かれた特製のオレンジ色の袋に入れてもらえる。
今、部屋の本棚の隙間のあちこちにそのオレンジ色が散らばっている。

で、ある雨の日の日暮れどきに買った「こつう豆本」が、今村秀太郎著『型絵染芹澤本』。

「こつう豆本」シリーズ最多登場の執筆者、今村秀太郎は、
古書、骨董美術品の販売と書物の出版をした「吾八」の経営者だった人。
その仕事を通じてつちかった古書へのうんちくは、十数冊の「こつう豆本」に結実している。
そもそも「こつう豆本」は日本古書通信社の八木福次郎さんと
今村秀太郎さんとが協力しあって誕生した美しいシリーズなのだ。

と、なんとはなしに、『型繪染芹澤本』をぼーっと眺めて
いい気分になったあとで、梅雨の鬱陶しい季節、こんなときは、
獅子文六の未読本を読んで、気をまぎらわそうと、
本棚から「獅子文六全集」の端本を取り出して、一気に読みふけった。
それにしても、獅子文六の小説にひたっている時間の、
この居心地のよさがたまらないなあと、いつも思う。

「獅子文六全集」の函を眺めてみると、装訂は芹沢けい介によるもので、
「こつう豆本」の『型絵染芹澤本』を買った直後に、
またもや芹沢けい介に遭遇するなんて、と、
そんな機縁ともいえない機縁をひとりで喜んで、
日本民藝館で現在展覧会が催されているとはなんてグッドタイミングと、
《芹沢けい介の世界―作品と蒐集―》展を見に出かけたのだった。

「作品と蒐集」と題されているとおり、日本民藝館全体が
芹沢けい介であふれていて、芹沢の作品とともに彼の蒐集物を見ることができて、
柳宗悦のいうところの《芹沢は美しいものへのいい観察者である。
見る人ととしての芹沢の正しさは、その好みでも持ち物でもよく分る》という、
その芹沢のすべてに、自分自身のふだんの好みや思い込みから離れ、
身をゆだねるひとときで、無私になって空間全体に身をしずめるのが格別だった。

一番嬉しかったのは、やはり書物の展示で、
「こつう豆本」の『型絵染芹澤本』でその存在を知った、
限定本をウィンドウ越しに眺める時間がとてもよかった。
それにしても見事な書物群であった。その書物の展示のある部屋は、
バーナード・リーチの陶芸作品の展示がある部屋で、
部屋の真ん中の丸いテーブルにしばらく腰かけてのんびり。
「パン入れ」という用途の陶芸作品にニンマリ、これに限らず
日本民藝館ではいつも、作品の背後にある「生活そのもの」に思いを馳せるのが愉しい。

民藝館の入口に「御自由にどうぞ」の団扇があって、
つい嬉しくて、団扇片手に見学していたのだけれども、
そんな団扇を仰ぐという行為、その季節感そのものが嬉しくなってしまうような
芹沢けい介による「団扇絵」が、まさしく眼福の数々だった。
団扇絵の近くには、雑誌「工芸」を収める帙の展示もあって、
その文様や色や素材のみならず、雑誌をしまうという行為へ思いを馳せること、
やっぱり作品の背後の「生活そのもの」がなんだか愛おしいのだった。

大きな部屋での展示、木綿に赤玉と藍玉をあしらった紋染飾布が好きで、じっと凝視した。
おんなじ部屋に、「こつう豆本」の『型絵染芹澤本』で言及のあった、
佐藤春夫の『極楽から来た』の挿絵の展示があったのも嬉しかった。

……と、「こつう豆本」と獅子文六全集の端本、というふうに、
偶然性にゆだねるようにして、ほんの軽い気持ちで、
日本民藝館の芹沢けい介を見学に来たのだったが、
やっぱり、民藝館の空間に無私になって身をしずめることで、すーっとよい心持ち。
いつもの絵を見に行くのとのはちょっと違う感覚なのが格別だった。

お土産に、大津絵の絵はがきを数枚買った。そろそろ志ん生を聴こうかなと思っている。

民藝館から帰って、思いのほか「団扇の絵」が心に残って、
団扇というと、歌舞伎の舞台で見る団扇がいつも目に焼きついて、
最近だと、先月の歌舞伎座の団扇をあおぐ新三の所作が印象的だった。

それから、「団扇の絵」で思い出すのが、
そのものずばり、柴田宵曲著『団扇の画』(岩波文庫)。
というわけで、本棚から取り出して読んでいたのだったが、
それにしても、品位と教養に裏打ちされたシブい文章にひたすらシビれる。
表題の「団扇の画」というのは、子規の『病牀六尺』に登場の、
浅草の凌雲閣を描いた団扇の絵から文章が始まって、
団扇が登場する俳諧へと及び、という実に見事な文章、
いいなアとちょっとうらやましくなるようなシブい香気がたまらない。

わたしもちょいと真似をしてみようと、
久保田万太郎の句を眺めてみたのだったが、
「団扇」よりも「扇」の方につい目がいってしまった。

たとえば、安藤鶴夫の『落語鑑賞』に添えた句で、『酢豆腐』にあえた句、

た ゝ む か と お も へ ば ひ ら く 扇 か な

だなんて、それにしても、まあ、巧いこと巧いこと。

というわけで、文楽の『酢豆腐』、短夜の季節感ぴったりの一席を聴いた。
ものを腐らせないように気をつけないといけない。

やはり結局は、万太郎をめくったり落語を聴いたりで寝る時間になるのだった。





  

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