日日雑記 May 2003

01 「明治の文学」の饗庭篁村の巻を読み始めた
07 シブい本、酒呑みのポルトレ、圓生の『掛取万才』
12 黄金週間お出かけメモ:鎌倉薫風ピクニック
18 走れ!映画、続・黄金週間お出かけメモ

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5月1日木曜日/「明治の文学」の饗庭篁村の巻を読み始めた

去年の年末ぐらいから、筑摩書房の「明治の文学」の
饗庭篁村の巻の発売はまだかしらと心待ちにしていた。
虎視眈々という言葉がぴったりな感じにジリジリと待ち構えていた。

それがやっと! やっと! 先月の末に発売になった。ああ、長かった。
近年こんなにも発売が待ち遠しかった本はちょっと他に思いつかない。

4月最後の土曜日、「ありがたいことだ」と敬虔な気持ちになって、
神保町の東京堂で、「明治の文学」最後の配本となる饗庭篁村の巻を買った。

土曜日に神保町に来るのはずいぶんひさしぶりだった。
今日はどこの喫茶店に行こうかしらと迷うのもまたたのし。
コーヒーを片手に買ったばかりの本を読みふける、この至福と、
土曜日の午後に読みふけったのは、もちろん、発売をまちかねていた饗庭篁村、
……と言いたいところだけど、買った嬉しさの方が先に立って、
後日のたのしみにとっておきたい気持ちがまさってしまって、
土曜日の時点では、帯の「落語の名人芸のようにすらすらと読める」
という惹句と、巻末の坪内祐三の解説の《「多数の中の一人か二人」のために》
という題名に心ときめかすにとどまったのだった。
それにしてもこの二つだけでもかなり魅惑的。

土曜日の午後にコーヒー片手に読みふけっていたのは、
これまた買ったばかりの、戸板康二の『舞台歳時記』[*] の方。



さてさて、わたしが饗庭篁村の名前を知ったきっかけは何だっただろうか、
と追憶してみると、それはやっぱり、戸板康二を読み始めたあとのことなのだった。

戸板康二を読み始めたことで新たに夢中になったことは少なくないが、
そのひとつに、明治からの劇評家の系譜にあれこれ思いを馳せる、というのがある。
たとえば、三木竹二という慶応三年生まれの男がいる。鴎外の弟。
饗庭篁村は、近代劇評の始まりと言われる三木竹二の一回り上の世代だ。
(ところで三木竹二が近々岩波文庫に入るらしい! 待ち遠しい!)

名前を知ったと言っても、まさしく文字通りに名前を知っただけ、
渡辺保の『芸の秘密』(角川選書)のなかで、饗庭篁村と黙阿弥の問答をチラリと目にし、
「竹の屋主人」という名前とともに、劇評史の人物としてその名を知ったのが最初だった。
そのあとで、戸板康二の『演芸画報人物誌』[*] という本に出会った。

文人としての饗庭篁村に全面的に興味を覚えたのは言うまでもなく、
筑摩書房の「明治の文学」で坪内祐三が直々に解説を施すというので、
それだけで、饗庭篁村、何やらただものではない気配、と思ったのがきっかけだ。

それから、岩波文庫の『明治文学回想集』に、露伴の「明治二十年前後の二文星」という文章がある。

露伴によると、饗庭篁村というのは、明治20年前後に、

《時代の蒸し出した新しい空気にその鮮やかな色彩と芳香とを具して人の注意するところとなった二文星》

のうちの一人であり(もう一人は須藤南翠)、

《読者心理を向うに置いて物を書かれるような人ではなくて
むしろ自ら語らんと欲するところを語り歌わんと欲するところを歌う方の詩人気質の豊かな方で》

《その自然の流露においておのずから人を惹き付ける力》

がある、とのこと。

明治20年前後に輝いていて、そして忘れられていった饗庭篁村の書き物、
坪内祐三のおかげで、日の目を見ることになるとはよい機会、
これは読んでみて損はないに違いないと思って、
筑摩書房の「明治の文学」の饗庭篁村の巻を心待ちにすること幾年月。

坪内祐三の『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』を読んでいるときは、
根岸派の文人として「かっこいいなあ」と遠くの方から眺めるだけだった饗庭篁村、
もうすぐ接近するチャンスがやってくると思ってますます楽しみになった。

まとめてみると、劇評史の系譜を背後に東京の文人に親しむ、その魅惑がすべてだった。

そんなふわふわした心持ちから一気にムズムズと「心待ち」度がヒートアップしたのが、去年のこと。

福原麟太郎の『本棚の前の椅子』(文藝春秋新社、昭和34年)所収の、
福原麟太郎による、饗庭篁村への招待、はあまりにも魅惑的だった。

この文章を読めば誰だって、饗庭篁村を読みたくなるに違いない。
それくらい見事な、饗庭篁村への招待、だった。

……などと、ひとり悦に入っていたのだったが、
今日、いざ饗庭篁村を読み始めようと、「明治の文学」第13巻をめくって、
まずは坪内祐三の解説を、と読み進めてみると、ああ、なんということ!

福原麟太郎の、饗庭篁村への招待、の文章は、
坪内祐三の解説にとっくに紹介されていていたのだった。ちょっぴり悔しい。

でも、解説の《「多数の中の一人か二人」のために》というタイトルの由来の、
森銑三の『明治人物夜話』の方は不覚にもこれまで未読だったので、
今日の帰り道、本屋さんに寄り道して、いそいそと岩波文庫を買った。

坪内祐三の解説にある、森銑三と福原麟太郎という二人の篁村愛読者、
これほどまでに見事な愛読者を擁する饗庭篁村という人の柄と徳、
そのことにまずしみじみ感じ入ってしまうものがある、
それくらい見事な、二人による、加えて坪内祐三による、饗庭篁村への招待、だった。

坪内祐三も抜き書きしている通り、ここを読めば誰だって、
饗庭篁村にそそられる、そんな福原麟太郎の一節は、

《饗庭篁村の小説を読みますと、どれもこれもがめでたしめでたしで、
すこしおかしいような気もするのでありますが、何だか美しい。
そして、その小説が書こうとしたことは、その結末ではなくて、
その結末に至った物語なのであります。
人情を書いて、古風な文体ながら、その機微を写している。
そういうのが篁村の小説なのであります。》

ああ、この一節! この「何だか美しい」というところと、
「その小説が書こうとしたことは、その結末ではなくて、その結末に至った物語」
というところに、たいへん心惹かれるものがあった。
何だか美しい、という、その美にわたしも接してみたい、と心から思わせる魔力があった。

福原麟太郎は、饗庭篁村の旅行記を高く評価している。
「結末ではなくて、その結末に至った物語」を描く最たるものとしての旅行記。

《実に洒脱で風流なもので、何度読んでも感服いたします。
事実私は、何度も読んで、その面白さを楽しんで居ります。
ただその中に満載してある洒落や引ごとは、江戸文学や芝居に通じている人ではないと、
わからないようなものが沢山あります。》

福原麟太郎は、この文章で、『人の噂』を詳細に解説している。
その『人の噂』は、「明治の文学 饗庭篁村」の冒頭を飾っている。
そして、旅行記も少しだけど、きちんと収録されている。
福原麟太郎を読んで「ムズムズ」となった身としては、幸せ二倍なのだった。

『本棚の前の椅子』では、劇評家としての饗庭篁村、
すなわち「竹の屋主人」についての文章もある。
近代劇評のはじまりといわれる三木竹二は、
型の記録ということをやった最初の人だったかと思う。(違うかも)
「近代」直前の饗庭篁村の劇評は、小説と同じ様に「めでたしめでたし」なのだそう。
戸板康二は『演芸画報人物誌』[*] の饗庭篁村の項で、
「劇評が一種の読み物」だったことを書いている。

小説、旅行記、劇評と、饗庭篁村の書く「読み物」を貫くひとつの大きなもの、
もちろん、まだ少ししか読んでいないから確かなことはいえないけれども、
まさしく「何だか美しい」ではないか。その美がわたしはとても愛おしい。

「結末ではなくて、その結末に至った物語」という一節を目にしたとき、
結末が描かれない『犬を連れた奥さん』について講じつつ、
ナボコフがチェーホフの特質、そのあまりある魅力について
明確に言葉にしてみせたことをちょっと思い出したりもした。

福原麟太郎著『本棚の前の椅子』のなかには、
福田恆存の芝居に絡めて、篁村の『人の噂』のことを少し述べている箇所もあった。

《私もこのフーガ形式というのが面白いと思った。
そして、これは通人の嗜好だ。神田明神の氏子の喜ぶところだ。
六代目菊五郎が半間ずつ後れながら、
しかも巧みに相手について踊って行く呼吸を私は思い出した。
小説の筋立てにこのしゃれた形式を使ったのは、
饗庭篁村の「人の噂」という短篇である。
私はこの短篇のことを何度も口にして宣伝するのだが、誰も応じてくれない。》

この一節も、饗庭篁村が待ち遠しい! とムズムズさせるに十分なくだりだった。



……などなど、きっかけのことばかり、ここまでダラダラと書き連ねてしまったけれども、
今日、おそるおそる読み始めた饗庭篁村、最初に読んだのはもちろん『人の噂』、
それから紀行・随筆に寄り道したりしつつ、順番通りに読んでいるところ。

気持ちのよい音楽に身をまかせているかのようにして饗庭篁村の文章を追っている。

たいへん待ち遠しくてムズムズしていた、饗庭篁村読みの期待はまったく裏切られていない。

森銑三の「多数の中の一人か二人」という言葉を使って、
坪内祐三は、解説の結びの一文として、以下のように書いている。

《この一冊を読んだあなたもまた、森銑三や私と共に、
その「多数の中の一人か二人」へと、ぜひ名乗りをあげてもらいたい。》

この一冊を読了するであろうきわめて近い未来に、わたしも、
「多数の中の一人か二人」へと名乗りをあげることができるのはもう確実なのだ。

めでたしめでたし。





  

5月7日水曜日/シブい本、酒呑みのポルトレ、圓生の『掛取万才』

戸板康二ダイジェスト、更新しています。(#016)



先日、初めて、志ん生の大津絵についてくっきりと心に刻んだ。

昭和42年の夏、山口瞳が言い出しっぺの、
明神下で志ん生の大津絵をきく会が催され、
その場に戸板康二も居合わせていた、ということを
矢野誠一さんの『落語読本』(文春文庫)で知って、
むやみやたらに大感激したのがきっかけだった。

そのくだりは、山口瞳の「男性自身」でも言及されているのは確実、
が、急に落語に熱中しだしたのはごくごく最近のことだから、
すでに読んでいても、当時はあまり印象に残らなかったのかもとも思った。

本読みの快楽の金子さんに教えていただいたところによると、
志ん生の大津絵のくだりは、山口瞳は何度か言及していて、
「男性自身」シリーズでは『男性自身生き残り』(新潮文庫)にあり、
それから『酒呑みの自己弁護』にもそのくだりが描写されていおり、
ほかの文章でもたびたび登場しているとのこと。

矢野誠一さんの書物では『志ん生のいる風景』にこのくだりがあるそうなので、
矢野誠一さんの本を少しずつ買って大事に読んでいる身としては、これまた将来のたのしみだ。

矢野誠一さんの本や山口瞳の本、それからもちろん戸板康二の本に共通するのは、
読むたびに新しい発見があるということ、一気にパッと読んでもよいけれども、
句集をひもとくようにして、折に触れページを繰ってみると、そのたびに新しい気持ちになる、
まさしく「散歩」的な読み方をしてもまた格別だということ。

……と言いつつ、くだんの山口瞳の『酒呑みの自己弁護』(新潮文庫)、
何年も前から部屋の本棚にあったというのに、うっかり読み損ねていたのだった。

というわけで、金子さんに教えていただいてから、
あわてて、本棚の奥から『酒呑みの自己弁護』を取り出して、
この連休、外出の合間合間に夢中になってそのページを繰っていた。

山口瞳はいつ読んでも面白い。

とりわけ、お酒を絡めた人物描写にシビレっぱなしだった。

梅崎春生は大正四年生れの人びとに声をかけて
一緒にお酒を飲む会を主宰していて、その会に戸板康二も参加してした。
病気でお酒を禁じられていた梅崎春生が、こっそりお酒を飲むために開いた会だったと
戸板康二は書いていて、梅崎春生の死とともにその会も開かれなくなったとのこと。

『酒呑みの自己弁護』にも、そんなエピソードを痛切に思い起こさせるくだりがある。

《梅崎さんは肝硬変で亡くなった。
その病気は亡くなる一年前からわかっていた。
肝硬変の人が酒を飲むのは自殺行為である。
梅崎さんは書棚の書物の箱のなかにポケット・ウィスキーをかくしていて、
夫人にみつからないように、夜中に飲んでいた。
……梅崎さんの死も、間違いなく、一種の自殺だった。》

この文章で、山口瞳の文章を初めて活字によって誉めたのが梅崎春生で、
それは雑誌「風景」誌上だったということが書いてあって、山口瞳は彼を大恩人と書く。

このところ、やはり戸板康二絡みで、初代編集長が野口冨士男の
雑誌「風景」に興味津々だったので、「あっ」と嬉しかったくだり。

それから、川島雄三のくだりもずっしりと心に残った。

『江分利満氏の優雅な生活』は、当初は川島雄三が撮る予定だった。
山口瞳の家に打ち合わせにやってきた川島雄三と痛烈に昼酒を飲み、
そのあと二人で銀座へ行き、夜、とある酒場で大岡昇平と大喧嘩をした川島雄三、
川島が映画化した『花影』のことで口論になったのだそう。
その十日後に、山口瞳は川島雄三の訃報をきくこととなる。

『酒呑みの自己弁護』で印象に残った箇所をあげるとキリがない。
また、次の機会にページを繰ると、また違った箇所でぐっとくるのだと思う。

《徳川夢声のあの顔は、あるときまで大酒を飲み、
そうして、あるとき突然その酒を止めざるを得なくなった人の
鬱然たる貌であると私は思わないわけにはいかない。》

という文章で締めくくられる「徳川夢声」にて、
山口瞳は、『徳川夢声全集』といったものが刊行されたら
即座に予約申込みをするだろう、と書いていたけれども、
わたしも『徳川夢声全集』が刊行されたらもちろん即座に申込みをしたい!

それから、山口瞳の「男性自身」全集(ぜひとも人名索引付きで)が
刊行されても即座に予約申込みをするに違いない。



先日、図書館で借りた、圓生のヴィデオを返却期限間近にあわてて見た。

そのなかの一席、『掛取万才』にとにかくもう大感激、メロメロだった。

『掛取万才』は大晦日に次々と掛取りがやってくる、その先手を打って、
彼らの好きなものを使って次々と「払えないよ」と断ってゆく夫婦のはなし。

喧嘩好きの男がやってくれば喧嘩をしかけ、
義太夫好きが来れば義太夫を語って断る、
芝居好きが来れば芝居のセリフで帰ってもらって、
最後にやってきたのは万歳の好きな三河屋、
万歳で言い訳をして帰ってもらおうとする、というストーリー。
『掛取万才』は音曲噺、義太夫や芝居、万歳のところでは三味線や太鼓が入って、
そこに合わさる圓生が「クーッ」となってしまうくらいかっこいい。

と、思わず何度もヴィデオをリピートしてしまったのだったが、
ふと、矢野誠一著『落語読本』(文春文庫)の最終ページ、
『掛取万歳』のところを参照してみると、
またもや、志ん生の大津絵のことがチラリと登場しているのだ。

《平川てるという、落語協会のお囃子さんがいた。……
九歳のときから三味線を手にしていたが、つれあいに患われてこの世界に入るまでは、
かたぎの暮しをしていたから、はじめのうちはとまどった。
寄席の三味線は、にぎやかに、にぎやかにひかなくてはいけないことが、
身体でわかってきたときには、もう二十年たっていた。
古今亭志ん生が、大津絵の『冬の夜に』を小泉信三の前でうたって、
老経済学者のハンカチを涙でくしゃくしゃにさせてしまったはなしは有名だが、
志ん生が大津絵をうたうときは、必ずこの平川てるさんに三味線をたのんだ。
古今亭志ん生ばかりではない、三遊亭圓生も、
平川てるさんがいないと音曲噺の『掛取万歳』はしなかった。》

となると、昭和42年、明神下で志ん生が大津絵を唄った折、
戸板康二は居合わせていたその会でも三味線を弾いていたのは平川てるさんだったに違いない。

それにしても、このところ、立て続けに志ん生の大津絵にぶちあたっている。(といっても2回だが)

昨日、図書館に圓生のヴィデオを返したあと、銀座山野楽器にいそいそと駆け込んだ。

志ん生の大津絵の音源も売っていたけれども、もうちょっとあとにとっておきたい気もする。

今回は、「圓生百席」の『掛取万才』と『鰍沢』が収録されている巻を購入。

部屋に帰って、ライナーを繰ってみると、三味線のところに、
きちんと平川てるさんの名前がクレジットされていて、嬉しかった。
「圓生百席」では、芝居のくだりのところの音曲が
レコードの特性をいかして寄席の実演よりも長く収録されている。

そして、この「圓生百席」、目当ての『掛取万才』のほかにもうひとつ、
『鰍沢』とのセットなので、喜びもひとしお。

去年の12月に、「ラジオ名人寄席」で圓生の実況で聴いた『鰍沢』が絶品で、
円朝作の、全編になんともいえない香気をかもしだしている噺、
どうしてこうもまあ落語に夢中になっているか、その秘密がここに詰まっている。

というわけで、季節はずれの『掛取万才』と『鰍沢』、嬉しい買い物だった。

ライナーの圓生による覚え書に、

《三河万才はお正月の名物でしたが近頃はとんと見かけません。
今の漫才のみなもとになるものです。
常磐津の名曲『乗合船恵方万才』はお正月狂言の舞踊劇として歌舞伎で上演しますが、
これで三河万才がどういうものだったかを知ることができます。》

とあるのを見て、何年も前に『関の扉』目当てに買ったディスクがあって、
これに常磐津の『乗合船』も一緒に入っているので、
ひさしぶりに、浮き浮きと常磐津のディスクを聴いたりもしている。

歌舞伎を見ることで知って、この数年間に少しずつ、わたしのなかで培われた
音曲のたのしみが、落語を聴く上でも大きな歓びを与えてくれているのだった。





  

5月12日月曜日/黄金週間お出かけメモ:鎌倉薫風ピクニック

先週の三連休は、鎌倉と横浜へ出かけた。

早起きして鎌倉へ出かけたのは三連休初日のこと、
電車から降りると予想通りのものすごい人混みなのだけれども、
ひとたび路地に入ると、一気に人影は皆無となり、どこまでも静かだった。

その静かな路地を歩くことが、鎌倉行きの一番のたのしみだなあとさっそく上機嫌、
太陽が燦燦と照りつける青い空の下、日傘片手にテクテクと歩いた。

今まで何度も鎌倉へ出かけているというのに、毎回必ず行き損ねるところがある。
「次回のたのしみにとっておこう」と、その次回のたのしみが結構山積みになっている。
そんな行き損ねていた場所の代表格が、鎌倉大谷記念美術館だった。

鎌倉駅を下車して、まずは美術館へ向かった。

● デュフィ展(於:鎌倉大谷記念美術館

ESPACE Raoul Dufy でその開催を知って数ヶ月、
ぜひとも5月の連休に出かけるとしよう、とずっと心待ちにしていた。

萩原朔太郎の言うところの、「私の生活を貴族にする」五月の新緑と薫風の休日に、
デュフィの絵を見る、しかも舞台装置は鎌倉、ちょっと頭に思い浮かべただけでもウキウキだった。

鎌倉大谷記念美術館は大谷氏の私邸を改築してそのコレクションを展示している美術館、
よって、前田公爵の別邸の建物が使われている鎌倉文学館とおんなじように、
まずは門から建物の入口にいたる道筋、その木陰がとても素晴らしかった。
山あいの空気と海からの風とが渾然一体となっていて、なんとも心地よい。

美術館は、私邸が使われていることから、誰かの家に招待されて、
そこに飾ってある絵を見せてもらうという感覚で、ついゆっくりとくつろいでしまって、
さらに、飾ってある絵がどれもこれも好きな絵ばかりだった。

美術館に入ってすぐに見ることになる、ボナールの絵がまずとても素敵で嬉しかった。

デュフィの絵は、螺旋階段をのぼった先の、二階に飾ってある絵がとりわけ素晴らしくて、
どれもこれもが、デュフィの絵を見る典型的歓びを味わせてくれるものばかりだった。
油彩以外では、本の挿絵を見られたのも嬉しかったことだった。

クラシック音楽を聴く趣味を持ち合わせている身にとっては、
嬉しいのはなんといっても、デュフィがモーツァルト好きであり、ヴァイオリン好きであったこと。
デュフィの絵を見ることで、音楽好きの血が共鳴する時間の幸福感はいつだって格別だ。

デュフィが描いたのは「音楽家」ではなくて、「演奏」そのものだ、という説明書きがあって、
そのことを如実に感じさせてくれる、劇場のオーケストラを描いた絵、
その色と筆づかいが醸し出すリズムに身をまかせるときの幸福感といったらなかった。

なんて、「幸福感」という言葉は、デュフィの絵すべてに当てはまること。

ある絵に添えられた説明書きでは、《私の眼は醜いものを消し去るようにできている。》という、
彼自身の言葉を紹介して、「生きる歓び」としての絵、というふうにデュフィを紹介している。

そうまさしく、「生きる歓び」、デュフィの絵はこの言葉に尽きるなあと思う。

そんな「生きる歓び」のデュフィの絵を、高台の素敵な建物のなかで見ることができるのだから、
なかなか立ち去りがたくて、ずいぶん長居をしてしまった。

1階のサンルームの椅子に腰掛けて、庭園を眺めて、その向こうに見える空を眺めて、
まん前の、競馬場を描いた絵、その色彩と躍動する筆づかいをうっとりと眺めつつ、
2階の廊下のソファ(ふんわりと深い)でくつろいで、先ほどのボナールをあらためて凝視したり、
展示数はそんなに多くはないけれども、その分、ひとつひとつの絵をじっくりと見ることができたし、
絵を見る合間に、ゆっくりとくつろぐ時間も格別だったし、言うことなしという感じだった。

というわけで、鎌倉大谷記念美術館のデュフィ展を見ただけでも、
今回、鎌倉に来た甲斐があったという感じだったのだけれども、
その先にも、まだいくつか行きたいところがあった。

なかなか、立ち去りがたいのをぐっとがまんして、次に向かったのは、おなじみ鎌倉文学館。

● 吉屋信子記念館

大谷記念美術館から文学館までテクテク歩いていく道すがら、
もうすぐ文学館に着くという頃に、吉屋信子記念館の前を通りかかった。

ちょうど今、年に何回かの開館日、しかも入場は無料、というわけで、ふらりと見学していくことにした。

わたし個人としては、吉屋信子そのものにはほとんど関心がなくて、
今後も読むことなく過ぎていくのは確実なのだけれども、
作家の私邸を在りし日のまま、見学することができるのは、思っていた以上にたのしかった。

門から玄関までの道すじもよいし、その左隣りの広い庭(園芸展が開催中だった)もよいし、
広い玄関で靴を脱いで、家のなかにあがってゆくのもたのしかった。

玄関のすぐ前に、大きめのソファがあって、テーブルの上には、手作りふうの紹介冊子が置いてある。

吉屋信子の本を売っているコーナーがあって、売り場の人に、
見学者の人たち(すべてご婦人)が、子供の頃読みふけったわア、懐かしいわア、
というふうにしゃべっているのを見て、いいな、いいなと思った。

須賀敦子さんの文章の、親に隠れてこっそりと何かの少女小説を
読みふけったことを回想しているくだりがあったのを思い出して、
なんというか、そういう少女小説受容の系譜、のようなものをちょっと思ったのだった。

それから、吉屋信子の書斎の窓の向こうには、広い庭があって、
その庭は向かいの山と一体化しているそのサマを見て、ふと川端康成の『山の音』のことを思い出した。

家屋全体はつつましい雰囲気なのだけれども、平屋建てで木の匂いがして広い庭があって、
実はたいへんぜいたく、そのぜいたくを少しだけのぞかせてもらったわけで、なかなかたのしかった。

と、思いがけなく、吉屋信子記念館をたのしんだあと、いよいよ、鎌倉文学館へ。

木のトンネルをくぐって、文学館の入口へ入っていく瞬間はいつだって胸が躍る。

● 小津安二郎展(於:鎌倉文学館

鎌倉に行くたびにぜひとも行きたいと思う鎌倉文学館、
思いがけなく、「おっ」という展示物があったときは、なおのこと嬉しい。

いわゆる「鎌倉文士」には日頃のごひいきが多い上に、
新たに読み始める人も少しずつ増えている。
最近だと久保田万太郎がそうで、去年だと、永井龍男がそうだ。
その文章に登場する鎌倉の風土を読むことで、さらに鎌倉への思いが増す、
という面もあって、ますます、鎌倉行きが人生のたのしみになって久しい。

と、鎌倉に魅せられる要因は何だろうと思いを馳せてみると、
やっぱりなんといっても文士の存在が一番の要因なのだけれども、
その一方で、小津安二郎が住んでいて、その映画の舞台として何度も登場していることで、
ますます、鎌倉への思いに拍車をかけている。
それにしても、里見とんと小津安二郎が住んでいた、と、それだけで見事だと思う。

以前から小津安二郎のガイドブックとして重宝しているなかに、
雑誌「東京人」1997年9月号の小津特集号がある。

初めてこの本を見たときは、小津の写真のみならず、その遺品までもが
あまりにかっこよくてダンディなので、それだけでうっとりしていた。
その遺品の多くは「鎌倉文学館蔵」とクレジットされていて、
鎌倉文学館に行けば、じかに見学できるのかしら、と、
毎回文学館へ行くたびにほのかに期待していたのだけれども、
わたしが行くときは一度もその展示はあったことはなかったのだった。

それが! このたび、鎌倉文学館で《小津安二郎展》が開催されるというではありませんか!

ああ、まさしく、長年の宿願達成となって、こんなに嬉しいことはなかった。

1階の展示室は展示物のみならず、窓の向こうの庭園と、
その向こうの由比ガ浜の海と空との境目を見ていると、
いつだって、《煎じつめればこの世のことは何もかもが美しい》と、
チェーホフの『犬を連れた奥さん』のグーロフ状態となる。

と、そんな絶好の舞台装置のなか、数々の文士の
初版本や原稿や書簡を見るのはそれだけで楽しいのだが、
今回は、このあとに《小津展》が控えていると思うと、
ますます胸が高まり、なんだかもったいなくて、
わざわざいつもより1階の展示室に長居するというありさまだった。

そして、《小津安二郎展》も、もちろんのこと、たいへん堪能することができた。

去年発売になった、みすず書房の「大人の本棚」の
小津安二郎の巻(田中真澄編)はたいへん嬉しい刊行物だったのだけれども、
そこで初めて読んだ,小津の「モボエッセイ」のひとつ、
『丸の内点景』の初出誌の展示があったりして、
それから、小津の日記の展示が数多くあって、
以前から何度も『全日記小津安二郎』で目にしている一節を、
小津の直筆で目にできる、このことがとても嬉しいのだった。

それから、これまた有名な小津の美食メモの展示もあって、
そのなかに、神保町の柏水堂の記述があり、一度も入ったことがないので、
せっかくなので一度行ってみようかしら、と、ちょっと思ってしまった。

印象としては、出征中の、中国本土の展示が多かったような気がする。
山中貞雄のことを思う。

小津の遺品の展示では、煙草や湯呑やカメラなど、
ちょっとしたものがいろいろあって、小津による絵もいくつか見ることができた。

スチール写真で、映画の追憶にひたって、おみやげにポストカードと図録を買って、
またもや、立ち去りがたいのをぐっとがまんして、文学館の外に出た。

庭園に立って、向こうの空と海をあらためてじっくりと眺めて、
バラの花がプーンと匂ってきたりもして、どこまでも風光明媚だった。

庭園の木陰の下に座ってランチタイムを過ごしている人たちが結構いて、やれ嬉しや。

実は、鎌倉駅の近くのとあるパン屋さんで買ってあったのだ。
人々の真似をして、しばしの間、庭園の芝生の上で過ごすことになって、
『犬を連れた奥さん』のグーロフ状態はまだまだ続く。ピクニックはたのし。

鏑木清方記念美術館

由比が浜通り沿いをテクテク歩いて、鎌倉駅方面に戻った。

鎌倉ピクニック最後の目的地は、毎回のおなじみ、雪ノ下の鏑木清方記念美術館。

小町通りの雑踏にまぎれて、美術館へとたどり着いて、
いざ中に入ってみると、いつもとおんなじように、外の喧騒をシャットアウトする静かな空間。

今回は、《夏涼》と、金沢文庫の別荘での絵日記の展示がメイン。
ひとあし早く、夏の季節感を体感できる仕掛けで、
展示室に入って最初に目にすることになる《夏涼》の微妙な色彩のなんと美しいこと、
蓮池の前に立ちつくす少女の姿をじっとじっと凝視して、
先ほどのデュフィとは違った意味での、色彩の美にひたった。

鏑木清方の絵を見ていつも思うのは、どんなに大きな作品でも
そのディテールのあちこちに「おっ」といくつもの至福があるということ。
なので、いつも、ついあちこちキョロキョロしてしまう。

鏑木清方の絵に親しむようになったまなしの頃に買ったのが、
新潮日本美術文庫シリーズの鏑木清方の巻、その巻末の池内紀の解説が目から鱗だった。

挿絵画家から出発した清方は、挿絵以外の場所でもどうしても文学が入ってしまう。
ときおりつい説明過多になりすぎてしまうきらいがある。
なので、たまに見ていて、ちょっと息が詰まる絵が散見されるのはたしかなのだった。
もちろん、それらの絵だって、ディテールの至福はふんだんにあるのだけれども。

清方自身の言葉を参照すると、

《龍岡町にいたこと卓上芸術ということを唱え出した。
その頃の美術雑誌「アトリエ」の藤本さんがこれに耳を傾けてくれた。
何も別に創造の意味があるわけではなく、他に強うるものでもないが、
世に会場芸術、床の間芸術などの呼び名もあることから、
画巻、書帖叉は挿絵などの、壁面に掲げるものでなく、
卓上に伸べて見る芸術の一形式を指して云った》

その「会場芸術」「床の間芸術」にも好きな絵はたくさんあるあるけれども、
清方の魅力は、彼自身が「卓上美術」と呼んだシリーズにこそあるのだと思う。

その魅力を知ることができたのは、「卓上芸術」を毎回、
ふんだんに見せてくれる、雪ノ下の鏑木清方記念美術館のおかげなのだった。

東京国立近代美術館で見るような清方の作品では、
うっかり見逃してしまうような魅力を雪ノ下の美術館では知ることができる。

と、清方の「卓上芸術」のよろこびは、今回は《金沢絵日記》を通して味わえた。
何度見ても、つい頬がゆるむ。

前回にこの美術館に来たのは、去年の10月のこと、
そのときは、泉鏡花の『註文帳』を13枚の作品に仕立てた、
《註文帳画譜》を見ることができて、大感激だった。
小村雪岱の『日本橋檜物町』でもおなじみの《註文帳画譜》、
夢中になってこれらを眺める雪岱のさまがとてもよかった。
わたしも、雪岱とおんなじように、眺めて幸せだった。

それから、去年10月は、《寺子屋画帖》にも大感激だった。
明治32年の歌舞伎座、松王丸は九代目團十郎、源蔵は五代目菊五郎だ。
『寺子屋』の舞台の進行を追うようにして、ひとつひとつの絵を眺めることができて、
たとえば、武部源蔵の花道の出のところだけでも、あの感じを絶妙に伝えていた。

……というわけで、清方の「卓上芸術」の大のファンになのだったが、
今回、ふと美術館の売店コーナーを見ると、収蔵品目録として、
清方の「卓上芸術」は、明治・大正記と昭和記の二分冊として、
きちんと図録として販売されているではないか。なぜ今まで見逃していたのだろう。

ペラペラと立ち読みしてみると、くだんの《註文帳画譜》《寺子屋画帖》はもちろんこと、
切望していた一葉の『にごりえ』の挿絵も収録されていて、こんなに嬉しいことはない。

雪ノ下の鏑木清方記念美術館のおかげで知ることができて、
ふんだんにその歓びを満喫していた、清方の「卓上芸術」、
今回の鎌倉ピクニックのおみやげのひとつは、その図録。

まさしく、宝物みたいな本がまたわたしの書架に増えることとなった。やれ嬉しや。

● イワタコーヒー店のサンルーム

まだまだ時間はたっぷりあったので、いつもだったら、
このまま、北鎌倉まで歩いていきたいところだったのだけれども、
今回は、のんびりと過ごしたい気がした。

小町通りを駅に向かい、雑踏にまぎれて歩いて行って、
どこかで一休みしましょう、というわけで、
わたくしのおすすめ、門かイワタコーヒー店にいたしましょう
(二店とも今まで一度行ったきりなのだったが)、
と、今回は、約2年ぶりにイワタコーヒー店に入ることとなった。

奥のサンルームに空席があって、嬉しかった。

前に来たときは「もくれん」という名のアイリッシュコーヒーを注文した。
今回は「じんちょうげ」という名の、マシュマロが浮かんだコーヒーに決めた。

小町通りの入口という場所柄、大混雑しているかと思いきや、
混雑はしているものの、回転が早い様子ですぐに出て行く人が多い。

でも、のんびりと過ごしても、全然大丈夫で、
たとえば銀座のいくつかの喫茶店のような、世知辛さは皆無なのだ。

テキパキと働く店員さんの姿が気持ちよかった。

まわりと見回すと、大きなパフェやパンケーキなど、
見た目が派手なメニュウを注文している人が多くて、つい盗み見してニヤニヤ。

そんな不埒なことをしつつ、のんびりとサンルームで過ごす午後なのだった。

それにしても、イワタコーヒー店はなぜいつもこうもまあ、くつろげるのだろう。
鎌倉ピクニックの絶好の幕切れとなった。





  

5月18日日曜日/走れ!映画、続・黄金週間お出かけメモ

走れ!映画に先月見た映画について。おそなわりまして。(←幸田文の真似)



「おそなわりまして」ついでに、ここから先は、黄金週間お出かけメモ後半を。

三連休の最終日は横浜元町へ出かけた。

目当ては、ちょうど1年ぶりの来訪となる神奈川近代文学館

筑摩書房の「明治の文学」の饗庭篁村を読み始めて、
さっそくメロメロになって、こうしてはいられないといそいそと買いに行った、
森銑三の『明治人物夜話』(岩波文庫)を浮き浮きと拾い読みしていたときのこと、
「石井鶴三さんのこと」という文章を読んで「おっ」となった。

神奈川近代文学館にて開催中の《不滅の剣豪3人展》、
そこに石井鶴三の代表作、武蔵の挿絵の展示もあることはうっすらと記憶にあったから、
「おっ、グッドタイミングだ」と、最初の「おっ」はそんなところにあった。

が、「石井鶴三さんのこと」を読み進めていくと、
ぜひとも石井鶴三の挿絵を直に見てみたいとふつふつと思うところ目白押しで、
さらに、久保田万太郎の『春泥』の挿絵を描いたのも石井鶴三だったことを知って、
二度目の「おっ」、これは絶対に展覧会に行ってみたいなと思ったのだった。

《鶴三さんの挿絵の現代物には、久保田万太郎の『春泥』がある。
その中の二、三人の人物が、雨の夜に料亭で話し続けるところがあるのに、
鶴三さんは、そのところの一回に、もう雨戸を閉した料理屋の戸外の様子を画いた。
久保田氏もそれには感心したそうである。このことは、直接鶴三さんから聴いている。
その『春泥』が、春陽堂から、菊判の単行本として出た時、鶴三さんはその装幀をして、外題も書いた。
鶴三さんの字では、それなどがもっとも出来のよいものではあるまいかと思う。
なお単行本には、鶴三さんの口絵一葉があって、それがまた出来がいい。
向島の堤に、新派俳優の二、三人が行くところで、それが木版の色摺になっているのである。
あれは鶴三さんの版画としても、珍重すべきものと思う。
ただしその『春泥』を、私は久しく手にしていない。》

石井鶴三は、森銑三の奥さんの叔父さんにあたるのだそう。
その石井鶴三の絵は、森銑三によると、

《その画稿の一枚を見ても、私はそこに鶴三さんその人を感じる。
そして鶴三さんは、ほんとうの芸術家であったことを思う。》

とのこと、結びの一文は、

《きのうの朝の新聞がその死を報じており、そのニュースの後に、
中川一政氏の追悼の談話が付け添えられているのを見たら、
私は私として、急に何か書いて見たくなった。
それでこの一文を草したのであるが、鶴三さんから、静かな口調で、
君は相変らず、ぞんざいな文章を書きますね、といわれそうである。》

と、森銑三の筆致がしみじみとよい雰囲気で、
その石井鶴三の挿絵が少しでも見られるのなら、ぜひとも参りましょう!
と、1年ぶりの神奈川近代文学館行きと相成って、
三連休はよいお天気ばかりで、クラクラしてしまうくらいに太陽が眩しかった。
元町の商店街を歩くのもたのしくて、高台の公園もあちこちに花が咲いていて、
と、行楽を満喫しつつたどり着く近代文学館はまさしくピクニック気分。

去年の漱石展見物のときは見逃してしまっていた常設展示をまず見学した。
里見とんや獅子文六など、ささやかながらもたのしみなコーナーが目白押し、
谷崎の『痴人の愛』の新聞連載時の田中良による挿絵をじーっと凝視、
つい本の装幀や挿絵などに注目してしまうのだった。

企画展の《不滅の剣豪3人》展は、大佛次郎の鞍馬天狗、
柴田練三郎の眠狂四郎、吉川英治の宮本武蔵の三本立てとなっていて、
いずれもまったく読んだことがなかったというのに、不思議とたいへん満喫。

以前「びっくりするくらい面白い!」と立て続けに読んだ、
大村彦次郎さんの文壇三部作でゾクゾクと興奮した
大衆小説全盛の時代を展覧会を通して追体験したよろこびがまずあって、
大衆小説の歴史、出版史などに思いを馳せることがウキウキとたのしかったのが第一だった。
雑誌、その付録、単行本などなど、出版史にまつわるエトセトラはいつも面白い。

そもそもの目当ての、本の装幀、挿絵を見るたのしみはもちろん大いにあって、
木村荘八や目当ての石井鶴三、万太郎と同級生だった鴨下晁湖の原画がよかった。

特に石井鶴三は、実は印刷だけではその質実剛健さに馴染めないところがあったから、
印刷で見ただけでは絶対にわからない微妙なところが、
原画を見ることでしっかりと心に刻むことができて、すっかり見とれてしまった。

そして、映画化作品が多いことから、映画への言及もたっぷりあったのが嬉しい。
剣豪映画にはあまり馴染みがないながらもいろいろ刺激的で、
出版史、挿絵、映画とバランスよくアンテナを張り巡らしていて、
その周辺いろいろに興味津々な身としては、満喫してしまうのは当然のこと。

一年に一度か二度来訪する、黄金町の映画館、シネマジャックにて、
この《不滅の剣豪展》とのタイアップ上映があるので、ぜひとも一度は見に行きたいなあと思う。

などなど、石井鶴三の挿絵を見てみたいッと森銑三の文章で刺激されて、
ふらっと見に来た展覧会は結果的には、全方位的に満喫した展覧会となった。

そして、もちろん、かねてから興味津々の挿絵史にますます興奮して、
これかた先、いろいろ追いかけてみたいと思っている。

去年も大興奮だったお土産売場で今年も大興奮。
《広津柳浪・和郎・桃子展》の図録が売っている!

実はこのところ、広津柳浪と広津和郎を立続けに読みふけっていたところで、
その周辺のことにもいろいろ突っ込んでみたいと思っていた矢先だったので、
こんなにグッドタイミングなことはなかった。

それから、かつて催された展覧会でもうひとつ、
牧野信一展の冊子を手に入れたのも嬉しかったこと。
久保田万太郎が書いた牧野信一への追悼文がとても印象的で、
震災直後に編集者と作家としての関係から始まった二人の交流、
そんなこんなで、近い将来に読んでみようと決めていた書き手だったのだ。

……などなど、書ききれないほど、将来の諸々に関して、
いろいろ刺激を得ることができる、文学館ってなんて楽しいのだろう!
と、ひたすら上機嫌だった。

と、展覧会も面白かったし、おみやげも持ち帰ることができて、言うことなしの連休最終日。

文学館のあとは、元町の裏手の通りがかりの喫茶店に長居して、これまた楽しかった。

近沢レース店で、来るべき夏に備えて、ハンカチを何枚か買って、家に帰った。





  

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