日日雑記 March 2003

03 走れ!映画、シブい本
06 『芝居名所一幕見』あれこれ、目黒ピクニック
07 The Joy of Music、春の夜の長唄
17 シブい本、歌舞伎座で露芝の手ぬぐいを買った
22 シブい本、小林信彦著『名人 志ん生、そして志ん朝』メモ
26 ひかへ帳、随筆寄席、大正三年五月の久保田万太郎
31 四谷見附の桜、車谷弘の横顔、小津安二郎全集

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3月3日月曜日/更新メモ(走れ!映画、シブい本)

あっという間に月が変わってしまいまして、

先月の映画館行きに関して、走れ!映画に少々。

新書館から『小津安二郎全集』が発売になるらしい。待ち遠しい。

戸板康二ダイジェスト、更新再開しました。(#012)





  

3月6日木曜日/『芝居名所一幕見』あれこれ、目黒ピクニック

戸板康二の『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』[*] という本がある。

新聞の連載をまとめたもので、芝居の舞台となった東京、全80箇所を見ることができる。

その舞台となった芝居のこととともに、その舞台となった東京のこと、
それらをとりまく様々なことに関して、見開き1ページの短文のなかに
絶妙に織り込まれていて、戸板康二が見た東京を写した写真とともに、
舞台写真なども添えられていて、「一幕見」というタイトルがまた気が利いている。

戸板康二が歩いたのは昭和28年の6月から8月まで、
現在この本をめくると、芝居の舞台を見ると同時に、
戸板康二が歩いた昭和28年の東京をも見ることになるわけで、
その二重構造と、そこに添えられた戸板康二の文章をしみじみと味わう時間の至福なこと。
戸板康二の眼は、芝居のことだけではなくて、東京そのものにも向かっている。

……という感じで、戸板康二の『芝居名所一幕見』は、わたしの長年の愛読書なのだ。

『久保田万太郎全集』で、この本に寄せた推薦文を読むことができた。曰く、

《いままでにも、こうした、 "芝居と史蹟" といったような本のあったことはあった。
が、それは、読者の興味あるいは好奇心の満足まんぞくさせるだけの写真帳にすぎなかった。
勿論、戸板君のこの "芝居名所一幕見" は、ただそれだけの目的でへんさんされなかった。
学問好きの、もともと文学から出発した演劇評論家としての戸板君の筆は
嘗ての時代、しばしば演劇の舞台にえらばれた場所が、
現在、どうなったか、どう変化したか……ばかりでなく、
どういう理由で変化したか、変化せざるをえなかったか、そこまできびしく追求している。
結果として、そこに、おのずから東京都市美論のうちたてられたのは愉快である。》

この推薦文に関連して、戸板康二は『ロビーの対話』[*] 所収の「舞台の上の東京」という文章で、
20年前の自身の仕事、『芝居名所一幕見』を振り返りつつ、
「内容見本に、久保田万太郎、河竹繁俊先生の報条をいただけたのは、望外のよろこびだった。」
というふうに書いている。それから、こんな一節もある。

《まだそのころは、戦災の名ごりが残っている反面、
オリンピック以前だから、日本橋の真上に高速道路をつくるような暴挙は行われていなかった。
もともと大正12年の関東大震災で、下町はすっかり変わったのだが、
その震災と空襲を免れた運のいい町には、なつかしい昔の、
江戸とはいえないまでも、明治の東京のにおいがあったように思う。》

戸板康二を読んでいて思うことは、戸板康二がよく歩く人であるということ。

戸板康二に夢中になっているいるのは、
その文章で目にする、「歩く人」戸板康二のちょっとしたまなざし、
歩くことから立ち上る文章の滋味に、ひとつの所以があるのだと思う。

昔の人はみんなよく歩いたものだ、と言ってしまえばそれまでだけど、
その日記に浮かび上がる樋口一葉の通り道とか、もちろん荷風の『日和下駄』だとか、
それから、最近の文章だと、洲之内徹もよく歩く人だし、須賀敦子さんもよく歩く人だ。
と、挙げてみるとキリがないけれども、日頃の本読みにおける「歩く人」の系譜、みたいなものをちょっと思う。

『万太郎俳句評釈』[*] によると、久保田万太郎もよく歩く人だったのだそうで、
「花曇かるく一ぜん食べにけり」の項に(この句、大好き)、

《万太郎は、都電に乗るのが好きで、銀座から日本橋にゆくというような時に、
タクシーが止められるようになっても、とかく都電を利用した。
私も同行したが、困るのは、鋪道の停留所で、ちょっと待っていて、
なかなか来ないと、じれったくなって歩こうといいだすのである。
しかし、表通りを歩いていて、電車に追い越されるのがいやなので、
並木通りまで行き、右折して歩くことになるわけだ。
こちらはもうすこし待てば歩かずにすんだのにと思いながらついて行ったが、
「ここに春陽堂があったんだよ」「道幅はもっとせまかった」
といった話を聞かされるのが新しい知識だから、まんざら、うれしくなかったわけではない。
万太郎はせかせかと早足で歩くのが癖で、風呂敷包みをよく抱えていた。
折り鞄というようなものは決して持たなかった。》

という一節があって、三島由紀夫曰く「お世辞にも粋とはいえない風貌」の
万太郎がチョコマカと早足ですたこらさっさと歩いていく姿が目に浮かぶよう。
こんなふうに書いている戸板さんだけれども、戸板さんだってかなり歩く人だ。

『芝居名所一幕見』における、戸板康二のまなざしの中にあるもの、
新聞社の仕事で舞台の名所を巡りつつ東京の町へと向けた視線は、
こういった万太郎をはじめとする交流の賜物ともいえそうで、
戸板康二による、万太郎曰く「東京都市美論」の根底にあるものは、
戸板康二を読むたびにいつも感じている戸板康二を貫く一本の線。
戸板康二読みに際していつも味わっている、ひとつの大きな文化圏のようなものなのが、
ここにもひそんでいるのだと思う。『芝居名所一幕見』が滋味あふれる理由は、そこにある。



去年の年末に、矢野誠一さんの『東都舞台風土記』(向陽書房)にめぐりあった。

本の体裁などについては、100パーセント満足というわけではないのだけれども、
なにはともあれ、戸板康二の弟子筋ともいえる矢野誠一さんによる、
現代の『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』を読めることになろうとは、なんともまあ嬉しいことで、
わたしは戸板康二をリアルタイムで読むのには間に合わなかったけれども、
現代には、まだ、矢野誠一さんがいるッ、と、そのことをとても嬉しく思った。

と、矢野誠一さんの『東都舞台風土記』を手に取ったことで、
ひさしぶりにじっくりと、戸板康二の『芝居名所一幕見』をひもとき、
これまでタラタラと書き連ねてきた、戸板康二にまつわる至福を、ひとりしみじみと思ったのだった。

それから、先日、神保町の一誠堂の棚を見ていたときのこと、
羽鳥昇平著『東京歌舞伎散歩』(読売新聞社、昭和46年)という本を手に取った。

あとがきを見てみると、またもやわたしの目論見どおり、『芝居名所一幕見』への言及があった。
もっと安くどこかに売ってるかも、というセコイ料簡ゆえに手中に収めておらず、
記憶はちょっとあいまいだけど、学生時代、『芝居名所一幕見』を座右の書として、
都内を練り歩いた、という一節があったかと思う。
昭和28年の『芝居名所一幕見』から約20年後の東京、
東京オリンピックを経た東京の姿をこの本では見ることができるに違いない。
今度機会が巡ってきたら、ぜひとも読んでみようと思う。

さて、ここでわたしが思ったことはただひとつ、戸板康二読みの先人に見習って、
わたしも『芝居名所一幕見』に載っている全80箇所を巡ってみようではないか、ということ。

思えば、戸板康二が『芝居名所一幕見』の東京を歩いた昭和28年から、
今年2003年、ちょうど50年の歳月が流れている。
その記念の年に、自分の足で『芝居名所一幕見』を巡ってみることは、
戸板康二読みにおいて、非常に有意義なことではなかろうか。(たぶん)

というわけで、張り切って表を作成し、準備万端、
3月最初の日曜日は、記念すべき「芝居名所一幕見」歩き第一日目となった。

日曜日の行き先は目黒。

『芝居名所一幕見』の目黒行人坂を出発点に、
矢野誠一さんの『東都舞台風土記』で知った五百羅漢寺に行き、
そのあと山手通りを歩いて、目黒区美術館に寄り道、
所蔵作品展を見物してから、中目黒まで歩いて、目黒鬼子母神のある正覚寺、
それから、駒沢通りのだらだら坂をせっせと歩いて、祐天寺が最終目的地。

祐天寺の先に、「赤い鰊」(だったかな)という古本屋さんがあって、
いかにも戸板康二の推理小説が潜んでいそうなたたずまいだったのだけれども、
結局買い物はせず。けれども、なかなかいい雰囲気で楽しかった。
このお店で初めて、辻嘉一が解説を寄せている、
米田祖栄著『新豆腐百珍』(中公文庫)の存在を知った。

久保田万太郎作の小唄が序文にあるということで、
嬉々として購入した、辻留『豆腐料理』(婦人画報社、昭和37年)、
その前身のタイトルが『現代豆腐百珍』。改訂版の『豆腐料理』のあとがきに、
辻嘉一は、「旧題は、お豆腐好きの方には通じる由緒あふれる書名ですが、
当世にはなじみが薄く……」というふうに書いている。

不覚にも、江戸時代、18世紀刊行の『豆腐百珍』のことを知ったのは、今回が初めて。
人に聞いてみたら、結構有名な本なのだそうで、無知の涙……。

で、気になって、家に帰って調べてみると、
新潮社の「とんぼの本」シリーズに、ずばり『豆腐百珍』という、
「江戸は天明、つまり約二百年前にベストセラーになった料理書が、現代によみがえる! 
百品すべて実際に作ってお見せします。」とのことで、
まあ、そんな本が身近に出版されていたなんて! と、さっそく週明けに買いに行った。

目黒ピクニック以来、夜は、音楽を聴きながら、『豆腐百珍』を眺めている。
なんて美しい書物なのだろう。江戸の『豆腐百珍』も詳しく見てみたくなる。
と、目黒ピクニックには、思わぬお土産があったのだった。楽しき哉。

それから、もう一冊、暮しの手帖社発行の『今とむかし廣重名所江戸百景帖』も眺めている。
広重の「名所江戸百景」には、目黒ピクニックゆかりの場所がふたつも、
「目黒太鼓橋夕日の岡」「五百羅漢さざゐ堂」(←目黒に移転前)が取り上げられていて、
あらためて見てみると、代官山から中目黒まで歩くときによく通るあの坂道が
「目黒 元不二」だったことに気づいたりして、いろいろ尽きない。
「芝居名所一幕見」歩きの傍らに「名所江戸百景」も参照しないと! と、楽しみは尽きない。

『芝居名所一幕見』の全80箇所のうち、日曜日に歩いたのは3箇所、
今年中に全部めぐるのはとても無理だと思うけれども、まあ、ゆっくりと歩いていくのだ。

と、フツフツと嬉しくなってしまうくらい、日曜日の目黒ピクニックはとても満ち足りた時間だった。

ところで、あいにくの曇り空だったけれども、今日は「啓蟄」だ。

その啓蟄の直前の日曜日に「芝居名所一幕見」歩き第一日目を迎えたわけで、
わたしも、冬ごもりから目を覚ました心持ちがする。最近とみに出不精だったから。

なんて、「芝居名所一幕見」歩き、今回限りとならないように気をつけねば……。





  

3月7日金曜日/更新メモ(The Joy of Music)、春の夜の長唄

The Joy of Music に、先月出かけた演奏会について。

なぜか毎年、寒い季節になるとバッハをよく聴くようになる、
特に年明けにバッハをよく聴くようになる。
そして、春が来るなあという頃になると、いつも決まって、シューマンのピアノ曲だ。
このところ、朝の身支度の時間はきまって、ポリーニの《交響的練習曲》だった。



最近は長唄に夢中で、夜は必ず一回は聴く。
夢中と言ってもレパートリーはまだ非常に少なくて、
前からよく聴いていた『勧進帳』のほかには、
今のところは『越後獅子』『京鹿子娘道成寺』ぐらい。
特に、今日みたいな雨の日、特に春の雨に長唄がとても似合うような気がする。

春になると読みたくなる本の一冊が、漱石の『草枕』。
『草枕』に長唄のシーンがあったなあと思ってペラペラめくってみた。
ここを読んでいると、ますます長唄を聴きたくなる。春は長唄。

《小供の時分、門前に万屋という酒屋があって、そこに御倉さんという娘がいた。
この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚いをする。
御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控えて、
三本の松が、客間の左側に並んでいる。この松は周り一尺もある大きな樹で、
面白い事に、三本寄って、始めて趣のある格好を形つくっていた。
小供心にこの松を見ると好い心持になる。
松の下に黒くさびた鉄燈籠が名の知れぬ赤石の上に、
いつ見ても、わからず屋の頑固爺のようにかたく坐っている。
余はこの燈籠を見詰めるのが大好きであった。
燈籠の前後には、苔深き池を抽いて、名も知らぬ春の草が、
浮世の風を知らぬ顔に、独り匂うて独り楽しんでいる。
余はこの草のなかに、纔かに膝を容るるの席を見出して、
この燈籠を睨めて、この草の香を臭いで、
そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。》

春になって急に長唄を聴きだしたのは、図書館で借りた『越後獅子』がきっかけ。

去年10月に演博で《よみがえる帝国劇場展》を満喫していた折に読み返していた、
嶺隆著『帝国劇場開幕』(中公新書)の《大正期舞台芸術の華》にて目にしたくだり。
ロシア革命後の亡命ロシア人音楽家がアメリカ行きの途中で東京に立ち寄って、
帝劇でリサイタルを開いた一例に、名前が挙がっていたのがプロコフィエフ、
彼は大森の山王ホテルに投宿、アメリカへの船便を待っていた。
アメリカ亡命中のプロコフィエフがシカゴで初演した、
ピアノ協奏曲第三番のフィナーレに、長唄「越後獅子」のメロディが引用されているのは、
そのときの日本上陸の賜物、……と、この一節を目にして、
プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番はおなじみの曲だったから、
こうなったら長唄の『越後獅子』も聴かないとッ、と張り切ったところで、
そのまま時が過ぎていて、何ヵ月かたってやっと実現したのだった。

プロコフィエフの、かっこいい協奏曲に帝劇の余滴がひそんでいたなんて、
それこそ、まさしく「ちょっといい話」だと思う。

と、そんなこんなで、じっくりと耳を傾けた『越後獅子』は、
聴く側にとっても、絶好の長唄の入門曲といえそうな、闊達さがあって、
部屋に流れているときの心地よさといったらなかった。

ここ一ヵ月は、長唄といえば『娘道成寺』に夢中で、こればかり聴いている。





  

3月17日月曜日/更新メモ(シブい本)、歌舞伎座で露芝の手ぬぐいを買った

戸板康二ダイジェスト、更新しています。(#013)

久保田万太郎を読むようになってから、東京大空襲のことが一層心にズシリと響くようになった。

昭和19年に完成した、『樹蔭』という小説がある。

吉田健一がこんなことを書いている。

《「樹蔭」で久保田さんが戦争中、どんな思いでいらしたかをはじめて知った。
それは今度の戦争が「樹蔭」という傑作を生んだことを
はじめて知ったということでもあって、何だかあの戦争が漸く立体的になったという感じがした。
「樹蔭」に出て来るどの人物に久保田さんご自身は当るのだろうか。
そんな詮索がしてみたくなる位、この小説には愛着を覚えた。》

と、この一節を『久保田万太郎回想』(中央公論社、昭和39年)で目にして以来、
『樹蔭』を読む日がたのしみでたのしみで、しょうがなかったのだったが、
いざ読んでみると、これがまあ、言葉では言い尽くせないものがあって、
わたしもただ、大好きな小説だ、としか、ここでは言い様がない。

ラストは書簡で締めくくられる。

《その夜の三日月、こよいは、はや、まんげつにちかく、
なんとなく秋めいてみえ、おはなしにうかがいたる豊夫さんの
お宅の水の音のどこかにきこゆるここちいたされ候。
湯島の宅の萩もそろそろもう花をつけるころと存じ候。
 それにつけても大事な東京を、
  だいじなだいじな東京を、
   くれぐれも空襲よりおまもりくだされたく候。
                     敬具
昭和十九年八月》

『万太郎俳句評釈』[*] に、東京大空襲の少しあと、万太郎と二人で、浅草まで行ったくだりがある。
廃墟とした吉原には行かずに、雷門の前まで行き、観音堂に向いてちょっと頭を垂れて、
すぐに引返し、戸板康二はそこに、万太郎の形容しがたい悲しみを見たのだったが、

この項で掲げられている句が、

三月十日の空襲の夜、この世をさりたるおあいさんのありし日のおもかげをしのぶ
花 曇 か る く 一 ぜ ん 食 べ に け り

おあいさんというのは、万太郎の愛した吉原仲の町の名妓で、
戸板康二も一度だけ会ったことがあって、それは、
昭和15年に小村雪岱が急逝したあとの、資生堂の画廊での追悼展覧会のときのこと。

それから、仲の町の芸者で有名なのが、万太郎よりも年上の、
おなつ、おさだの二人で、小村雪岱がその手古舞の姿を描いていて、万太郎も俳句を残している。

あつまるもの十年二十年のふるき附合のみなり
脇 息 と い ふ じ ゃ ま な も の 春 火 桶
お な つ 来 て お さ だ ま だ 来 ず 春 火 桶

小村雪岱による、おなつ、おさだの手古舞の姿はどんなふうなのだろう。

東京大空襲の日の前日の日曜日、埼玉県立近代美術館の常設展で、《小村雪岱の世界》を見た。
先週はずっと、その余韻で、「九九九会」の人物誌をいろいろ読み返したりした。

昨日の日曜日は、歌舞伎座の夜の部へ行った。

富十郎の『吃又』が絶品だった。
一生忘れないようにしたい、少しでも記憶に留めておきたいと、
今日は、歌舞伎の型の本をいろいろめくってみたのだったが、
早くも舞台の記憶のはかなくなってゆくのをひしひしと感じるのだった。

1月に国立演芸場の、噺家による芝居、すなわち「鹿芝居」の公演、
林家正雀らによる『お富与三郎』が面白くて、そのあとさきに読んだ、
正雀の『正雀芝居ばなし』、『師匠の懐中時計』という本がまた、とても面白かった。
そんなこんなで、このところ、落語と歌舞伎のつながりに夢中。

今月の歌舞伎座の表紙は三題噺の会「粋狂連」に関する錦絵で、
《戯作、芝居、落語、浮世絵など……、幕末江戸文化の大きな特質、
「隣接文化のリンク」を絵に描いたような錦絵》がよかった。

今日の帰り道、ちくま文庫の新刊、殿山泰司『三文役者の待ち時間』を買って、
ペラペラめくってみると、戸板康二の『歌舞伎十八番』[*] がチラリと登場していて、さっそく嬉しい。

《戸板康二『歌舞伎十八番』オレは歌舞伎のことはよく知らないから、
とても勉強になりました。役者は死ぬまで勉強です。
ヒイッええこというがなジイチャン!!
オレがガキのころ、昭和ヒトケタの時代ですが、
その舞台で感銘を受け忘れられない歌舞伎役者は、
菊五郎・羽左衛門・吉右衛門・左團次・猿之助・松助の諸氏であります。》

と、戸板康二と同年生れの殿山泰司、さすが戸板康二の本でおなじみの役者ばかり。

戸板康二より二つ上の桑原甲子雄は、『夢の町』で

《私は当時、菊五郎の写実的な芸風にイカれていたが、
歌舞伎の様式美、型という伝統的なかたちも疎外するわけにはいかないので、
歌舞伎の解釈について迷った記憶がある。
しかしもちろん酔い痴れていた、というのがおおむねの実感である。》

と書いていたが、『吃又』の型をいろいろ見るうちに、うーむと菊五郎のことをいろいろ考えた。
なんだか、しょっちゅう、六代目菊五郎にぶちあたっているような気がする。





  

3月22日土曜日/更新メモ(シブい本)、小林信彦著『名人 志ん生、そして志ん朝』メモ

戸板康二ダイジェスト、更新。(#014)



小林信彦の本は新刊で買ったり、文庫本になるのを待ったりと一貫性がなくて、
文庫になるたびに、「ハテ、これは読了済みだったかな」としばし店頭で迷うことになる。

年末の新潮文庫の新刊、『コラムは誘う』の場合もそうで、
しばし、迷ったのだったが、目次を眺めてすぐに、
新刊で出たときに即購入し即読んだことを思い出し、
文庫本は買わずに、部屋の本棚から単行本を取り出して、しばし読み返すこととなった。

冒頭で、島津保次郎の『兄とその妹』のことが出ていて、さっそく懐かしい。
何年か前、この本を読んでフツフツと観たいと思った戦前松竹映画、
その後、アテネフランセで観る機会がやってきたときの嬉しさといったら!
「モダーン!」な戦前ニッポン、小林信彦の書く通り、
草の上で三宅邦子が珈琲を入れて、佐分利信と桑野通子とで一服するひととき、
箱根のピクニックシーンのつつましい美しさといったら!

でも、小林信彦の新刊文庫本(わたしの場合は小説以外)を見つけたら、
単行本で読んでいるかいないかは実はあまり関係なくて、
その場で買ってしまっても全然かまわないような気がする。
というのは、小林信彦の書評なりコラムなりは、いつ読んでも新しいから。

小林信彦を読むようになったのは10年以上も前、
図書館で「本の雑誌」連載の読書エッセイを愛読して以来、
これまで読書なり映画なりで、思いっきり刺激を受けてきた。
小林信彦がきっかけで読むことになった本や見ることになった映画は数多い。
そんな感じに、読書や映画の文章で夢中になっていた書き手は
今まで何人かいるけれども、たいてい読まなくなる時期がやってくる。
ここであえてその名前を挙げたりはしないけれども、そういう人が結構いる。

けれども、小林信彦は数少ない例外で、ひさしぶりに読み返すと、
必ず新しい刺激を受けることになって、そのあっさりした筆致で
見逃していたことを、のちに読んでみると「おっ」というパターンがとても多い。
前に読んだときは特になんとも感じなかったことでも、
のちに、すなわち、その間に接した本や映画が積み重なったあとで、
あらためて小林信彦を読み返してみると、とっくに言及されていて、
「あら、まあ!」とまた違った方面で刺激を受けるというパターン。

そんなこんなで、このところちょっと落語に夢中になっている身からすると、
朝日選書から出た、『名人 志ん生、そして志ん朝』はなんとも嬉しい一冊だった。

『名人 志ん生、そして志ん朝』は、志ん朝の死の直後に書かれた文章と、
そのあとで「一冊の本」に連載された「志ん生、そして志ん朝」とを軸に、
既刊のコラムの志ん朝に関わるところの抜粋が合わさって、
最後に、『小説世界のロビンソン』の落語に関する文章を付す、いう構成。

なので、半分くらいは既読のものになるのだけれども、
小林信彦の文章はいつ読んでも新しいし、また別に一冊にまとまることで、
別の文章との連関のなかで読むことで別の感慨が涌いてくるという面もあって、
一冊全体がなんとも味わい深いものとなって、落語入門という面もあれば、
東京ことば及び東京論という面もあって、
最後に「夏目漱石と落語」という『我輩は猫である』論を読むことで、
近代日本文学への示唆も多いに受ける。と、今後の本読みの意欲が煮えたぎる。

志ん朝の落語は何枚もディスクを聴きあさっていてメロメロになっている最中なので、
小林信彦の文章を読むことで改めて別の方向から志ん朝に接近することができ、
志ん生を将来のたのしみにとっておいているところで読むことで、絶好のプレリュードにもなった。

ああ、魅惑的な、あまりに魅惑的な落語、と、
どうしてこうもまあ、落語に夢中になっているのかというと、
それはここ一年間の久保田万太郎読みに負うところが多いような気がする。
美しい「東京言葉」を駆使する万太郎の文章にどっぷりとひたったあとで、
文楽なり圓生、そして志ん朝の落語ディスクを聴くと、
久保田万太郎の文章に出てくる語彙がイキイキとその高座で披露されている。
久保田万太郎を読むことが江戸落語を愉しむ絶好の下地になっていたことは確か。

……という個人的感慨をしみじみ思った時間でもあった。

『名人 志ん生、そして志ん朝』全体を見通すと、
そのまま小林信彦によるひとつの落語論となっていることに気付く。
この本を読むことは江戸落語のひとつの流れを見通すことでもあり、
その流れを体感できたのが、一番の収穫。

それから、この小林信彦の本を読んだ次の日に、こうしてはいられないと、
美濃部美津子著『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』(扶桑社、2002)を買いに行った。

志ん生の長女で、馬生と志ん朝のお姉さんの美濃部美津子さんの聞き書き、
とてつもなく可笑しくて美しい、そのまんま落語の、家族の肖像。
つい一気読みをしてしまったのだが、こんな幸福な時間はそうあるものではない。
そういうわけで、『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』を読んだことも、大収穫だった。



以下、『名人 志ん生、そして志ん朝』、メモ書き。

● 八代目可楽 p.10
《可楽は無表情と気むずかしい江戸前の口調がたまらなくおかしいカルト落語家で、
「今戸焼」「二番煎じ」を聞けば、下町っ子はしびれる。
志ん生が可楽の不遇を気にしていたことが、結城昌治の本には記されている。》

志ん朝の『二番煎じ』にメロメロだった冬が終わって、お彼岸が過ぎて、本格的に春。
可楽の『二番煎じ』聴き、まさしく、将来のたのしみ。
結城昌治の『志ん生一代』上下(中公文庫)を読まないといけない。

● 木村東介 p.19
《苦い顔をして、さりげなく、おかしなことを呟くのは、江戸落語の伝統だが、
さいきん、たてつづけに、そういった文章を読んだ。
ひとつは『話の特集』(1981年4月号)にのった
木村東介氏の「ジョン・レノンと歌右衛門」である。
木村東介氏は、自民党の木村武雄の実兄で、古美術商、羽黒洞の主人という方である。
この方の文章は、いまどきとしては、かなり気むずかしい。
まず、若者は寄りつかないだろう。》

戸板康二の『ぜいたく列伝』[*] の「内田百聞の御馳走」の、
《百聞随筆の醍醐味は、筆者がニコリともしないでする話のおかしさで、
三代目小さんの話術に似ている》という一節を思い出して、胸が躍った。
そして、木村東介の名前が! 洲之内徹の『セザンヌの塗り残し』所収の文章で、
木村東介の『女坂界隈』を読んで、長谷川利行の絵と久保田万太郎の句へ思いを馳せるくだりがある。
当時ここを見てさっそく『女坂界隈』を図書館で借りたのだったが、
小林信彦が「かなり気むずかしい」と書いているのをみると、もうちょっと熟読してみたくなる。

● 志ん生の『柳田格之進』のこと p.34
《終りの方で、番頭が湯島で柳田格之進に出会う。
その時の柳田の衣服の描写が見事で、ぼくは着物のことはまるでわからないのだが、
なるほど、と思わず感心するようなこまかい描写である。》

志ん生の着物描写の面白さについては再三にわたって目にしたこと。
特に志ん生は女性のきものが巧くて、圓生は男の人の着物がうまいという。
このことを最初に指摘したのが江國滋だそうで(『落語手帖』)、
日頃の圓生聴きを振り返って、うなずくことしきり。
志ん生の衣服描写の見事さは志ん朝にも生きているそう。
志ん朝の『仲村仲蔵』のくだりにうっとりだった。
こんな感じに、一冊全体に、落語をますます聴きたくなるくだりが目白押し。
今は、江國滋の落語本を読みあさっているところ。

● 江戸言葉→東京言葉の妙味 p.82
《ぼくの考えでは、江戸落語とは、まず、きまりきった噺を、
いかに自己流の江戸弁(下町言葉)、変った言いまわし、
とっぴな表現を用いて語るか、にかかっていると思う。
アクセントやイントネーションが〈下町流〉であるのは当然として、
江戸言葉の面白さを味わせてくれなければならない。
人物描写の妙もけっこうだが、その前に、笑わせてくれなければ困る。
しかし、圓生や正蔵が育った〈江戸言葉による笑いの共同体〉は、
大震災によって、あっという間に消滅した。
では、すぐれた落語家たちはどうふるまったか?》

両国の「立花屋」と路地の消滅のくだりは、とても刺激的だった。
今までの愛読書、圓生の著書や荷風や今和次郎の東京本などなど、いろいろ深めていきたいなあと思う。

● 夢声の評 p.94
《「例えて云うと、文楽の落語は古典音楽のようなもの。
これはこのまま大切に保存しておくべし。
そこへいくと、志ん生の落語は、いささかジャズである。
楽譜なんか無視して、ジャンジャンと演奏する。
然し、決してリズムは踏み外さない。これまた善哉である。」》

別のところでは、文楽の『寝床』を志ん生がやると、
スラップスティックコメディになる、という一節がある。

● 志ん生の『お直し』 p.100

三代目小さんから志ん生に伝わった『お直し』。
三代目小さんというと、漱石をはじめとして、いろいろな本で目にする噺家。
万太郎の俳句「梅咲くや小さんといえば三代目」。
安藤鶴夫と筈見恒夫の会話で、志ん生の『お直し』を、
まるでゾラの『居酒屋』ではないか、と言っているくだりがある。
壮絶な男女の噺になりつつも、
《ドライ・ヒューモアというか、乾いて、一筋の光がさす。》
先のスラップスティックコメディのたとえといい、
夢声によるジャズのたとえといい、志ん生落語、聴く前からメロメロ。

● 志ん朝の、志ん生と文楽の継承
《志ん生のノビノビしたところと、文楽の折り目ただしさを持っている》

という志ん朝落語、うーむ、なるほどと、目から鱗だった。

● 昭和の下町ことば p.151
《昭和の下町コトバは、古くからの江戸弁と、モボ・モガ風俗から発した軽薄体の入り混った、
実に奇妙なものだったのではないかという気がしないでもない。》

ここの前には、「〈語釈〉が必要な」万太郎文学のことがチラリと登場している。

● 漱石と落語
《漱石は、単なる落語愛好家ではなく、
江戸落語のエッセンスを感性において把握していたのである。》

近いうちに、もう一度、三代目小さんのような渋みのきいた、
渋味の笑いに満ちた『我輩は猫である』をじっくりと噛みほぐさねばならぬ。

小林信彦は、『我輩は猫である』のことを、

《『猫』を読むたのしみは、明治の知識人の家庭風俗描写と
江戸言葉の名残りを味わうのが大きな要素となっている、》

というふうにも書いていたのだった。





  

3月26日水曜日/ひかへ帳、随筆寄席、大正三年五月の久保田万太郎

コンテンツの整理に着手。

長らく機能していなかった「嬉しい街かど」と「劇場の椅子」を廃止して、
ひかへ帳を設置しました。今後の身の振り方はこれから考えるとのこと。



古本屋で、『随筆寄席』という本を見つけた。

昭和29年の発行で、内容は辰野隆と徳川夢声と林髞の鼎談集。
全7回の収録のうち5回は、各一人ずつゲストを招いていて、
その顔ぶれは、内田百聞、菅原通済、三笠宮殿下、久保田万太郎、澁澤秀雄。

古本屋の棚でこの本はいかにも汚れていて、背表紙には「日銀取引」と落書きまである。

「日銀取引」とはハテ何だろうと思ったのだが、その疑問はすぐに氷解した。
内田百聞参加の座談会のタイトルが《私は日銀と取引がある》なのだ。
つまり、前の持ち主さんは百聞のファンで、百聞先生の文献を集めていて、
この『随筆寄席』は、百聞の鼎談だけが目当てで書架に収められたに違いない。
そして、その目印のために、背表紙に乱暴に「日銀取引」と書いておいたのだろう。

と、落書きのおかげで、『随筆寄席』はとても値段が安く、
気軽にひょいと買うのに、いかにも都合がよかった。
百聞先生参加の座談を、わたしもいますぐに読んでみたいッと思った。

その百聞先生参加の座談はもちろんとても面白くて、日銀が登場することで、
辰野隆のお父さん、辰野金吾の建築にまで思いを馳せるひとときとなった。
百聞先生曰く、「お父さんが東京駅を建てたあのいくらか柔らかい気持と、
日本銀行を建てたあのゴツイ気持とは違うね」。

久保田万太郎が参加している座談のタイトルは《映画と歌舞伎を語る》、
内容そのものは特にどうということもなかったのだけれども、
万太郎が漱石の思い出をチラリと語っている一節があって、
このくだりがいつまでも心に残って離れなかった。

ここのくだりの、万太郎の発言を抜き書きしてみる。

《今日この築地に来ておもいだしたことがあります。
あの向こう河岸に、むかしぼくの俳句の先生だった、松根東洋城が住んでいたんです。
中学の四、五年ごろ、始終俳句をみてもらいによったものですが、
ある日、今日は夏目さんが来るというんでね、
ぼくはよろこんでその到着を待ったわけですが、
そのとき、ボロかくしにたてた屏風のかげから、
二階へ上がっていく夏目さんのうしろすがたをみただけが、
あとにもさきにも夏目さんをみたただ一つのおもいでです。
その後、小説を書くようになってから、二三度、手紙は頂戴しましたが、
縁なくして一度もお目にかからずじまいでした。
しかし夏目さんは五十、鴎外さんは六十三、
ぼくは、いまもっと年をとってしまったんです。
おもうてにここにいたる、いやになりますよ。》

思い起こせば、いままで、漱石と万太郎というくくりについて
考えたこともなかったけれども、よくよく考えてみると、
東洋城という人物を媒介に、漱石と万太郎をつなげることができるのだった。

成瀬櫻桃子は『久保田万太郎の俳句』(ふらんす堂)で、
子規…漱石→松根東洋城→万太郎という系譜に乗りつつも、
万太郎俳句は、籾山梓月や増田龍雨などの江戸俳諧の影響を色濃く受けているとし、
子規の俳句革新より、河東碧梧桐、虚子を経て現代に至る系譜を銀河系とすると、
万太郎の存在は、銀河系外星雲であるというふうに書いている。

一方、丸谷才一は、戸板康二の句集『袖机』について少しだけ書いていて、
その際に、《子規と虚子は松山出身だから、明治中期以降の俳句は
松山の句風に先捲されたと見ることもできる。
それを柳に風と受け流して生きのびたのは、其角以来の江戸座の句風で、
現代の代表者は久保田万太郎……》と書いていた。

久保田万太郎の小説に旧派の増田龍雨をモデルとする、
『市井人』『うしろかげ』という小説があるのだが、いったい何度読み返したことか。
以来、わたしは、この小説の余韻と戯れるようにして、
少しだけ、増田龍雨のことを気にかけるるようになった。

戸板康二は、『みごとな幕切れ』[*] 所収の「探している本」にて、龍雨の句集を探している。

《万太郎の句の中に、晩年に至るまで残っていた、いうにいわれぬ色気は、
龍雨との交遊の名ごりだというふうに考えられる。》

龍雨の句集は長年探しているが、とうとう入手できなかったそう。

この「探している本」が載ったのは「小説現代」の誌上なのだが、
後日譚は、矢野誠一さんの『戸板康二の歳月』で読むことができる。

その増田龍雨の名前を、わたしは最近、思いがけないところで見ることができた。
それは、埼玉県立近代美術館の常設展、《小村雪岱の世界》の紹介パネルでのこと、
龍雨作の小唄、《黒塀の垂れし柳の朧月 雪岱ゑがく辻車……》という一節が紹介されていたのだ。

おっと、気がついてみると、龍雨の方に脱線してしまったが、
松根東洋城は、松山での漱石の教え子で、子規のところにも通っていた人。
万太郎は小説を書く前の十代の頃、東洋城に俳句の特訓を受けていた時期があった。

このあたりのことは、伊藤整の『日本文壇史』に載っていたはずと、
最終巻の第18巻をめくってみると、ああ、なんということだろう、
東洋城はもちろんのこと、漱石と万太郎のくだりもきちんと載っていたのだった。
万太郎が「三田文学」に登場するシーンはとても鮮烈だったけれども、
東洋城のくだりは、不覚にもまったく記憶に残っていなかった。
それにしても、明治末期、荷風と「三田文学」のくだりはいつ読んでも心が躍る。

久保田万太郎は初めて書いた小説『朝顔』を小宮豊隆に誉められ、
初めて書いた戯曲『プロローグ』が憧れの小山内薫の目に留まることになって、
華々しく世に出ることになったのだが、その記念に夏羽織を買った万太郎に対して、
東洋城は「秋風のふくなふくなの絽の羽織」という句を贈っている。

昭和38年の万太郎の死に際しても、東洋城は句を残していて、
それは「御所下がりくれば暮雨待つ火桶かな」というもの。
東洋城は宮内庁に勤めていて、「暮雨」というのは当時の万太郎の俳号だ。



古本屋で見つけた落書き付きの『随筆寄席』のおかげで、
思いがけなく、漱石と万太郎の関わりについて思いを馳せることとなって、
しばし、久保田万太郎の全集をひもとく時間となった。

それは「春火桶」という季語がぴったりの、本を持つ指が冷える晩のことだった。

万太郎は漱石から手紙を二、三受け取っていると言っているので、
まずは、漱石全集の書簡の巻をめくってみた。

万太郎宛の手紙は二通あり、いずれも内容は原稿依頼の簡単なもの。
日付けは、大正3年の7月と8月で、漱石は小宮豊隆経由で、
朝日新聞に載せる小説を万太郎に依頼していたのだった。
二通目の手紙は原稿の督促だ。のちのちの遅筆伝説をここでも垣間見せる万太郎、
どうしたのだ! と思って、万太郎の年譜を見てみると、
大正3年という年は万太郎にとって、長いスランプのまっただ中にあったのだった。
25歳の万太郎、漱石から依頼のあった小説『路』は未完のまま終わり、
荷風のすすめで「三田文学」に劇評を連載するも、一年で頓挫している。

若き日の万太郎の苦悩が、実感を持って、胸に迫って来るような気がした。

『路』は全集の第1巻に収録されていて、いざ読んでみると、
途中でふいに終わってしまっているには違いないけれども、
カチッと動かせない万太郎独自の世界は揺るぎがなくて、
帝劇のことが少し登場したりもして、大正の東京がしっとりと映し出されている。

漱石について、万太郎は何か書いているのかしらと思って、
随筆の巻を探してみると、ずばり『夏目先生についてのおもひで』という文章があった。

まず、漱石全集にある明治44年5月14日の日記の本文を紹介したあと、
先の座談にあったような、築地の東洋城の家でのことを綴っている。

《築地橋で電車を下りて、本願寺のほうへ半町ほどあるき、
広い横町を左へ一二町行ったところ。――河岸へ出る際の
細いみちを右へ切れたところに東洋城さんのうちはあった。
格子づくりの、瀟洒な、纏った感じの二階家ばかりならんだ袋地の奥で、
夕方になると、両側の軒あかりが、うき世をよそに、
やさしく、しずかに、夢のようにいつも霞んでいた。
――宮内庁書記官兼宮中式部官の住むところでないことは、
「妾宅の様な所」と夏目先生のいわれたとおりだった。
――が、東洋城さんにするとそれが味噌で、たずね来よ朧の露地の行きどまり、
そうした句を、「新居」という前書をつけて、越して来たてに新聞に出したと覚えている。》

万太郎が漱石の後ろ姿だけを見たのが明治44年5月のこと、
その直後に、万太郎の初の小説『朝顔』が「三田文学」に載った。
その『朝顔』を、東京朝日新聞の文芸欄にて小宮豊隆が絶賛したのだったが、
万太郎の『夏目先生についてのおもひで』には、
小宮よりも前に漱石が読んでくれた、というふうに書いてある。

そして、大正3年の7月から9月にかけて、
東京朝日新聞に小説を書くことで、漱石から手紙を頂戴したというくだりで、
『夏目先生についてのおもひで』の一文は締めくくられる。

『夏目先生についてのおもひで』が収録されているのは、
中央公論社版『久保田万太郎全集』の第10巻「随筆一」。

この巻のあとがきは、戸板康二が担当している。

《この巻は、まず、久保田先生の浅草に関する文章と紀行文を集め、
次に、大正の終りまでの随筆を揃えることにした。
先生は創作とはべつに、随筆をかなり多く書いた。
俳句に独自の境地を持っているのと同じような意味で、
その随筆には、先生の人柄、特に先生の詩人としての稟質が流露しているように思われる。》

とのことで、漱石の手紙が万太郎に届いた大正三年を探してみると、
その年に執筆のものはたった一篇、『五月』というタイトルの文章があるのみだった。

大正三年五月に執筆されたという、この『五月』、
戸板康二のあとがきにある通り、「詩人としての稟質が流露」の典型のような、
うつくしい、うつくしい文章で、ここまでたらたらと書き連ねてきたこと、
――「日銀取引」と背表紙に落書きのある『随筆寄席』を買ったことで、
漱石と万太郎の関わりについて思いを馳せ、龍雨や東洋城のことを垣間みて、
漱石の書簡集を繰ったあとで、本棚の万太郎全集へとたどり着く、
未完に終わった『路』を読んで、『夏目先生についてのおもひで』を読んで、
大正三年の久保田万太郎、大正三年五月の久保田万太郎へとたどり着くまで、
そのしめくくりにいかにもふさわしい、とびっきり素敵な文章だった。

漱石の手紙でも垣間みたような、万太郎の憂鬱がヴィヴィッドに映し出されていて、
そこに合わさるいくつかの挿話、大正三年の浅草の町中、活動写真の前の雑踏のこと、
近所の職人の芝居に関するおしゃべりが万太郎の書斎に聞こえてきたり、
……といった万太郎の彷徨するつぶやきは、まさしく一篇の詩のようであり、音楽のようであり。

《倫敦の水上君から、小泉君や澤木君や松本君と寄せ書の端書が届いた。》

という、『五月』の冒頭の一文を目にしたとき、ふいに水上瀧太郎に思いを馳せることとなった。

水上瀧太郎は、泉鏡花の本の蒐集を友人の万太郎に託して、外遊に旅立ち、
これを機に万太郎は、鏡花に面会することとなった。
水上瀧太郎の帰国後、万太郎がちょいと得意そうに両者を引き合わせるくだりは、
水上瀧太郎の『貝殻追放』に鮮やかに描写されている。

『五月』が書かれた翌年、万太郎は小村雪岱とも知り合うわけで、
のちの「九九九会」の素地はこのあたりの年月に潜んでいるのだ。
そのことにも思いが巡ってゆく『五月』なのだった。





  

3月31日月曜日/四谷見附の桜、車谷弘の横顔、小津安二郎全集

今月初めて聴いた噺家は、三代目桂三木助。

三木助の『宿屋の仇討』は昭和32年に NHK 放送文化賞を受賞していて、
そのディスクのライナーに久保田万太郎の句が紹介されていた。

放送文化賞をえたる三木助に
こ の と こ ろ い ゝ こ と づ く め 櫻 草

矢野誠一さんの『落語読本』(文春文庫)に、
「構成がすこぶる視覚的にできていることに感心する。
カットバック、オーヴァラップ、クロースアップと、
映画的手法がふんだんに盛り込まれている」
とある、『宿屋の仇討』はなにはともあれ、むちゃくちゃかっこいい。

そんなわけで、『久保田万太郎全句集』(中央公論社)で、
季題が「櫻草」の句を参照してみると、

去る日来る日のなんぞあわたゞしき
ま た 過 ぎ し 一 週 間 や 櫻 草

という句があって、「まったくだ」とうなずくことしきりの年度末なのだった。



この週末はいろいろ出歩いてたのしかった。

土曜日は、午後から外出、九段下で地下鉄を下りて、
九段坂の途中にある昭和館で開催中の、桑原甲子雄《東京原景》展を見学したあと、
神保町をぶらぶら、ひさしぶりにフォリオでウィーン風ミルクティを飲んだ。
古本を1冊だけ買って、新宿三丁目へ。夜は紀伊国屋寄席に出かけた。

日曜日は、戸板康二の『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』[*] めぐりを少しだけ、
今回は四ッ谷コースで、左門町のお岩稲荷と四谷見附の二カ所をめぐった。
そのあと、ホテルニューオータニの美術館で開催中のルーシー・リー展に行った。

その行きがてらの四谷見附から赤坂見附へ歩く時間がとてもよかった。
日曜日の午後、四谷見附の桜の花は七分咲きくらいで、
空は青くて、風はちょいと冷たくて、ほどほどに花見客がいて、
高い木に登って下りれなくなった猫一匹をみんな心配そうに仰いでいた。

ルーシー・リー展は、最終日にあわてて駆け込んだ格好となってしまったけれども、
それにしても、こんなにまで無心にひとつひとつの展示物を眺めることはめったにあるものではなかった。

なかなかの佳日の三月最後の日曜日だった。



帰りに本屋に寄り道して、その帰り、読書中の本をひと休みして、
買ったばかりの本の方に寄り道する、というのはなかなか楽しいものだ。

ここ数日では、新潮文庫の新刊、『山口瞳「男性自身」傑作選』がそんな一冊だった。

すでに読んだことのある文章が多かったのだけれども、
「時雨るゝや」という文章に、車谷弘と文壇句会のことが載っていて、「あっ」となった。

戸板康二の『句会で会った人』[*] を読んで以来、
文壇句会と銀座百点句会、そのキーパースンともいうべき車谷弘に興味津々になった。

山口瞳の「時雨るゝや」には、その車谷弘のポートレートがあったのだ。

「時雨るゝや」というタイトルはもちろん久保田万太郎が由来、

《いまや、私は、その土地にふさわしい俳句をつくるということに関しては、
少しも痛痒を感じないようになっている。それを思いついたのは、
久保田万太郎の「時雨るゝや麻布二の橋三の橋」という句を見たからである。
なんでもかんでも、「時雨るゝや……」とやってしまえばいい。》

万太郎の、「しぐるるや大講堂の赤煉瓦」という句を思い出す。
慶應義塾の旧図書館の脇にひっそりと、この句碑があって、
その丘の上には小山内薫の像があるので、万太郎が水上瀧太郎らとともに、
小山内薫に憧れのまなざしを向けていた学生時代が、
その空間にパッケージされているかのようで、なかなか味な句碑なのだ。

山口瞳の「時雨るゝや」は、銀座の吉井画廊で催された展覧会のことでその文章が結ばれている。

その展覧会は、車谷弘の芸術選奨かなにかの受賞を祝って催されたもので、
文壇句会での文士の色紙が展示されていたとのこと。戸板康二の企画した展覧会だったのだそう。

《展覧会のあとで、車谷さんが御病気になったことを知らないでいた。
そうして、今年の春、車谷さんは、まことに唐突に姿を消してしまわれた。
車谷さんは、よく笑う人であったけれども、
最初にお目にかかったときから、横顔の淋しい人だと私は思っていた。》

と、この一節を目にして以来、ずっと車谷弘の横顔のことをぼんやりと思っている。

それにしても、山口瞳の追悼文は、いつだって絶品なのだった。



帰り道に寄った本屋さんで買った本をすぐに読みたくて、
そのまま喫茶店に直進して、しばしの間読みふける、という時間というのも格別。

ずっと待ち遠しかった、『小津安二郎全集』(新書館)がまさしくそう。

先週、そろそろ出ている頃かなあ、と、神保町へ寄って、
東京堂で意気揚々と購入して、そのままコーヒー店に長居となった。

それにしても、こんなに嬉しい買い物というのも、そうあるものではない。

このところいろいろシナリオを読みふけっているのだけれども、
買ってまっさきに読んだのは、『彼岸花』だった。

格子のきものを着た田中絹代が、ラジオから流れる長唄に気持ちよさそうに、
手で拍子をとりながら聴き惚れるシーンが大好きだったので、
あのシーンの曲名は何だったのかしら、とずっと気になっていたのだ。

『小津安二郎全集』でその謎も解決、曲名はおなじみ『娘道成寺』、
白拍子花子が赤い衣裳から引き抜いて浅葱色の衣裳になったところの「鞠唄」の部分、
リズミカルでノリノリのところ。おお、そうであったかと、
ここ一ヵ月以上夢中になって聴いていた『娘道成寺』の長唄を今夜も聴いている。

さて、そろそろ、『娘道成寺』の舞台そのまんまに、桜が満開になる頃。





  

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