日日雑記 October 2002

09 早稲田演博の《よみがえる帝国劇場》展
20 更新メモ、秋日和、鎌倉ピクニック

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10月9日水曜日/早稲田演博の《よみがえる帝国劇場》展

昨日の日暮れ時、早稲田大学演劇博物館まで、《よみがえる帝国劇場》展の見物に出かけた。

その開催を知って以来、待ち遠しくて待ち遠しくてたまらなかった展覧会。
夏に高野正雄著『喜劇の殿様 益田太郎冠者伝』に大変堪能したあと、
秋にはいよいよ、というめぐりあわせとなり、
タイミング的にもいうことなし、という感じで嬉しい。

本当は先週の火曜日に出かける予定だったのが、台風に阻まれて一週間遅れに。

一週間遅れになってしまったのをもっけの幸いに、
もう一度『喜劇の殿様』を読みふけり、それから、一年少し前に読んだ、
嶺隆著『帝国劇場開幕』(中公新書、1996年)でもう一度おさらいをして、
あらためて「おっ」と思う箇所があったりもして、
それから、もちろん戸板康二の本もいろいろめくったりと、
この一週間、帝劇にどっぷりとつかることができたので、かえってよかったかも。

去年の7月、「彷書月刊」のバックナンバーを買いに行った折に、
杉浦茂の特集号(1994年3月号)をなんとはなしに買ったのだったが、
あとで繰ってみると、坪内祐三の「極私的東京案内」という連載よみものがあり、
これがとても面白くてウキウキだった。思わぬところで大収穫だった。

この号で取り上げられていたのが、「丸の内 帝劇」。
これに刺激を受けて、一気に大正の帝劇が気になるッ、ということになって、
上記の『帝国劇場開幕』を見つけて買って読んだ、という経緯だった。

『帝国劇場開幕』には「今日は帝劇 明日は三越」というサブタイトルがある。
大正初年の三越の宣伝文句のことをクッキリと心に刻んだ最初は、
これまた演博にて、2年前の《五代目歌右衛門》展のときだったかと思う。

大正の都市生活者の消費生活、大正の気分をヴィヴィッドに感じることのできる
見事なキャッチフレーズ、生みの親の三越宣伝部の浜田四郎は石井研堂の実弟、
『帝国劇場開幕』では、山口昌男の『「敗者」の精神史』から、
「浜田四郎が、石井研堂経由のコネクション及び、研堂の蓄積した都市情報をフルに活用して、
デパートを絢爛たる知の別世界に仕立てあげていた」という文章をひいて、
「文化発信基地」としての三越、そして帝劇、都市生活者の気分を概説している。

《明治も末期になって、市民の生活感情そのものが、旧来の江戸期のものから、
近代市民社会のものへと、変わりつつあったことは勿論である。
芝居見物が下町の富裕層から、山の手人種のものへ、
ちょうど変わろうとしていたときに帝劇は開場したともいえるだろう。》

荷風は帝劇について、「該劇場の新設は一般の人々に
演劇の趣味を普及すると云うことができる」というふうに書いている。

「山の手の子」の趣味としての芝居見物、で思い出すのが、
戸板康二の『演芸画報・人物誌』[*] という本のこと。
「演芸画報」の創刊は明治末、帝劇より少し前。
大正4年生れの戸板康二の家でも、芝居好きのお父さんがいたおかげで、
「演芸画報」を購読していたそうで、『演芸画報・人物誌』の前書きで、
漠然と覚えていた「震災前の色紙型の錦絵を三枚重ねた意匠の表紙」の記憶が
後年、大学生になってから古本屋で買い集めていた表紙のなかから甦った、というふうな一節がある。

と、こんな感じの、江戸趣味への埋没とはまったく違う意味での、
山の手の都市生活者の趣味としての観劇という時代感覚と都市感覚、
それをとりまくいろいろなことを思うとなんとなく胸が躍って、
演芸画報、帝劇もその時代を見事なまでに象徴しているから、どこまでも興味は尽きない。

帝劇の開場は明治44年3月、三越と同じ横河民輔による設計の、白亜の石造建築、
『帝国劇場開幕』によると、日本で初めての「アメリカンボザール」派の建築様式で、
丸の内の皇居のお堀に面するように立っていた建物は大正12年、関東大震災で焼失、
2年後に改装開場されて、その建物は昭和39年に取り壊されて閉幕、
ので、現在の帝劇にはその面影はまったくない。

坪内祐三が「極私的東京案内」で書いていることは、
最初の開場から震災までの10年間の帝劇の面白さについて。

《その十年間の帝劇は、演じられた題目の面白さもさることながら、文字通り、
その空間を舞台にキラ星のような人々が入れ変り立ち変り、活躍し、通り過ぎていく。》

計画を立てた財界の大物から、実際に舞台に携わった人たちまで、
その帝劇人物誌を眺めてみると、それだけで、日本の近代の面白さが鮮やかに見えてくる。
というふうに、ここでも、戸板康二の『ぜいたく列伝』[*] の気分を味わったりも。



というわけで、この一週間、帝劇に関するおさらいをしているうちに、
さらにハイテンションになってしまって、とにかく帝劇ってばむちゃくちゃ面白いッ、
と、頭のなかはまったくまとまっていないのだけれども、なにかと楽しかった。

そのハイテンションのまま、満を持してという感じに、演博までお出かけ。
《よみがえる帝国劇場》展は2階の廊下と奥の一室を使った展示で、
演博にたどりつくと、まっさきに展覧会場へと突進してしまった。

そして、《よみがえる帝国劇場》展そのものもむちゃくちゃ面白くて、
素晴らしい展覧会に遭遇するたびにいつも思い出す文章のこと、
吉田秀和さんが『音楽紀行』で、ローマでモンテヴェルデイを聴いた体験について、

《ぼくにとって、本当に「体験」だった。つまり、単に新しい経験というだけでなく
ぼくの精神はこれを聞く前にもってなかった拡がりを増し、
今後来るものに対する新しい触覚を拓かれたような気がした位だ。》

と書いていたのとまったく同じような感覚を味わうことができて、幸福な時間だった。

《よみがえる帝国劇場》展はさいわい会期が長くて、12月まで開催されている。

演博では、11月に《近代東京の歌舞伎興行―守田勘弥から松竹まで―》という、
これまた聞いただけで大興奮の展覧会が催されるそうなので、
これと合わせて、もう一度《よみがえる帝国劇場》展の見物ができるのだ。

それまでに、さらにまたいろいろと、帝劇をとりまくいろいろなこと、
日本の近代についていろいろ、本読みで探っていけたらなあと思う。



《よみがえる帝国劇場》展は、実際の展示物とともに、
帝劇に関するいろいろなことについての説明書きをふむふむと読んで、
当時の写真パネルなどいろいろな資料を見ることで、
その説明書きについてヴィヴィッドにいろいろな方向から触覚することができて、
説明書きの合間には、文学作品、雑誌記事など、同時代の文章の引用があるので、
気分はさらに上々、というふうに、隅々まで丁寧に設計された展覧会だった。

まず、わが国初の本格的洋式劇場の帝劇、建物だけでなくて
観劇システムがとってもモダーンで、芝居茶屋を廃止したり、
客席でのお食事が禁止なので、劇場の二階には食事席が設けられていたりする。
帝劇の廊下の写真のところでは、文化サロンとしての劇場空間に関することがあって、
もっとも「帝劇の気分」を代表している、とのこと。
「帝劇の廊下」かあ、と、見ているうちにハイカラ気分になってくるのが楽しかった。

「今日は三越 明日は帝劇」の広告図案など当時の印刷物の展示がいくつかあって、
そのなかの、明治44年5月の文芸協会の坪内逍遥訳『ハムレット』の公演冊子に釘付け。
表はモスグリーンで、中身は淵に花模様があしらってあるレイアウトの配役表、
『帝国劇場開幕』(中公新書)でも紹介のあった、漱石が観劇した公演ではないかしら、
と、思わず、ショウウィンドウのなかを凝視して、
これを片手に帝劇に着席する漱石というふうに、勝手に想像してみたり。

と、漱石のことを思いつつ、展示会場の順路に沿って歩を進めてゆくと、
『硝子戸の中』の引用パネルがあるので、まあ! と嬉しかった。
展覧会から帰宅して、寝る前に、つい『硝子戸の中』を読み返して夜更かしした。

《我々はその晩帝劇へ行った。私の手に入れた二枚の切符に
北側から入れという注意が書いてあったのを、つい間違えて、
南側へ廻ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」と私に注意した。
私はちょっと立ち留まって考えた末、「なるほど方角は樺太の方が確かなようだ」
といいながら、また指定された入口の方へ引き返した。
彼は始めから帝劇を知っているといっていた。
しかし晩餐を済ました後で、自分の席へ帰ろうとするとき、
誰もが遣る通り、二階と一階の扉を間違えて、私から笑われた。
折々隠袋から金縁の眼鏡を出して、手に持った摺物を読んで見る彼は、
その眼鏡を除さずに遠い舞台を平気で眺めていた。
「それは老眼鏡ではないか。よくそれで遠い所が見えるね」
「なにチャブドーだ」
私にはこのチャブドーという意味が全く解らなかった。
彼はそれを大差なしという支那語だといって説明してくれた。》

廊下から展示室へ入ってゆくと、音声資料が再生されていて、
わたしが入ったときは、「あっ、この聞き覚えのある旋律はまさしくッ」と
『関の扉』の常磐津の音楽が聞こえてきてウキウキ、七代目幸四郎と六代目梅幸。
そのあとは、三浦環の『蝶々夫人』やら松井須磨子の「カチューシャの唄」などなど、
当時の公演をしのばせる音声資料が絶えず耳のなかに入ってくる、
BGM 付きの展覧会というわけで、視覚触覚の両方で楽しかった。

廊下の展示物で、帝劇の気分を味わったあとで、展示室に足を踏み入れると、
次は「さあ、劇場の中へ入りましょう!」といった感じに、
劇場の壁画や、天井画、客席の様子などの展示、田中良の舞台装置図などがある。
というふうに、劇場に入るのと、展示室に入るのとで、
見学者の行動と展示物の視覚とがぴったりと一致していて、
そして、音楽まで聞こえてくるのだから、文字通り、見事な演出だった。

天井画に関するところでは、和田英作(だったかな)の天井画の再現が、
展示室の壁面を眺めると、そのまま帝劇の天井を眺めているかのようにさせられる仕掛け。

それから、嬉しかったのが、田中良の舞台装置図。
とりわけ、小山内薫の『息子』の装置図に見とれた。
矢野誠一さんが『エノケン・ロッパの時代』(岩波新書)の冒頭で、
戦後エノケン・ロッパ一座初の合同公演の装置を担当した田中良に関して、
小山内薫の『息子』の装置で知られている、というふうな説明があったのと、
『息子』の久保田万太郎の『弥太五郎源七』への影響について書いていた、
戸板康二の文章のことを思い出したりもした時間だった。

さらに順路に沿って歩を進めてゆくと、次第に帝劇のハード面についての詳細へと移ってゆき、
劇場の外観や建築の図面などといった展示があり、カラー再現などもあった。
帝劇のソフト、ハードともにバランスよく配置した、展覧会だったと思った。

第一次帝劇は関東大震災で焼失し、大正13年に改装オープンした
第二次の帝劇も横河による建築で、瀟洒な第一次に比べて落ち着いた雰囲気になったそう。
戸板康二が少年時代の頃から訪れていた帝劇はこの建物だ。
……などということをどうしても思う。気分は一気に、『思い出の劇場』[*]

展示物の合間にところどころで引用されている、同時代の文献は、
上記の漱石の『硝子戸の中』や定番ともいうべき虚子の「丸の内」があったりと、
文学作品の引用がそれだけで楽しいのだが、そういったただの気分だけでなくて、
ふつうではあまりお目にかかれないような「新演芸」や「演芸画報」の抜き書きがあって、
さすがは演劇博物館、という感じで、つい熱心にあちこち読みふけった。

そのなかで、特に面白かったのが、大正の「新演芸」の編集後記。
帝劇の一階席にはおのおのの座席に四角い箱が備え付けられている、
「これは何ですの?」と左團次夫人(だったと思う)が尋ねたそれは、
備え付けのオペラグラスで、十銭入れると箱のふたがあいて取り出し可能、
というくだりが、とても面白かった。帝劇の座席にはそんな設備まであったなんて!
5年前にロンドン旅行に出かけた折に、ナショナルオペラで《トスカ》を観たのだが、
とても雰囲気たっぷりの古風な劇場で、そこにも同じような設備があった。
当時の帝劇も、あのときのロンドンのオペラハウスのようだったのかもと思った。

それから、久米正雄の「鳩から鳶へ」というタイトルの文章、
三階席の客を鳩にたとえて、三階横に座り、鳩の群れと舞台とを交互に眺めた、
とかなんとか、詳細はちょっとあいまいだけど、とてもユーモラスな一節でクスクス。
そんな劇場の気分にとても共感で、とりわけ西欧のオペラ見物のときのことを思い出した。
と、帝劇にまつわるいろいろなこと、ふだんの芝居見物のことよりも、
つい外国でのことをいろいろ思い出した時間だった。大正の人々の舶来趣味が伝染したのかも。

抜き書きパネルでは、獅子文六の未完の小説『太郎冠者』の一節もあった。
高野正雄著『喜劇の殿様 益田太郎冠者伝』という素晴らしい本のことを思い出した。

と思っていたら、くだんの音声資料では、太郎冠者の喜劇『唖旅行』の音声もあって、
まあ! と、大興奮だった。耳をすませて、ついにんまり。
特に大笑いだったのが、四代目松助と七代目幸四郎の共演箇所。
商人・双田宇助(ソーダウィスキーのもじり)を演じる四代目松助が、
ロンドンで道に迷って困っているところに巡査登場、もちろんイギリス人なのだが、
演じるのが幸四郎で、英語のセリフをしゃべっている。そのふたりのやりとり。
こ、これはいったい……。と、よいものを聞かせてもらったなあと大喜びのひとときだった。

四代目松助というと、思い出すのが、手持ちの名セリフ集のディスクで、
そこに収められいる『源氏店』は、十五代目羽左衛門、六代目梅幸、四代目松助という配役。
この松助の蝙蝠安がなんだか大好きで、ちょくちょく聴いているディスクなのだ。

六代目梅幸が帝劇に出ていた頃、歌舞伎座では五代目歌右衛門が君臨し、
下町の市村座では菊吉が活躍、といった、大正の歌舞伎とその東京地図を思うと
果てしなくワクワクするのだったが、そのあたりのことを、
きたる、展覧会《近代東京の歌舞伎興行―守田勘弥から松竹まで―》にて、
もっと詳しく探ることができそうで、楽しみだ。

今は頭のなかではいろいろなことがゴチャゴチャしているのだけれども、
いろいろな展覧会や本を通して、少しずつ、自分なりにまとめていけたらなあと思う。



……などなど、とっても気分爽快な展覧会だった。
音声資料に夢中になるあまりについ長居してしまって、
七代目宗十郎のセリフを聞いたのも今回が初めてで嬉しかったこと。

本当は他の展示室も見物する予定でいたのが、時間がなくなってしまったので、
花柳章太郎の衣裳だけでもと思って、帰る前に大急ぎで三階の常設展示室へ行った。

今回の展示は、『十三夜』の衣裳。これがとても眼福だった。なんと美しいことだろう。
昭和22年9月の三越劇場、新生新派による上演で、万太郎の脚本。
きものの隣りにその衣裳を着た花柳の舞台写真が添えられていて、
この写真の花柳が壮絶なまでに美しい。展示の衣裳は紫っぽい紺地の菊小紋、
舞台では、この上に黒の羽織を着ている。帯は銀地の秋草模様なのだそうで、
小袖と半襟と帯との組み合わせは、実際に見るとどんな色彩になっていたのだろう。
その上にピシッと黒の羽織。ぜひともカラーで見たかったッ、とその美しさに息をのんだ。
そして、さらにじっくりと、展示の菊小紋、細部まで眼をこらして眺めた。

成瀬巳喜男の『歌行燈』などでは絶対にうかがうことのできない魅力が、
舞台の花柳にはあったに違いない。
もうすぐ十三夜。そんなときに眺めた、『十三夜』の衣裳と舞台写真。
それが、今回の展覧会の幕切れだった。





  

10月20日日曜日/更新メモ、秋日和、鎌倉ピクニック

戸板康二ダイジェスト、3回連続更新。(#008-010)

走れ!映画に映画タイトル追加。(12日付け)

マキノ雅弘の『海道一の暴れん坊』は、すごい映画だった。
いつの日か、「次郎長三国志」シリーズを全部観なければいけない。

中村登の『三婆』を見に行ったのは、最近読んだ、
黒川鍾信著『神楽坂ホン書き旅館』という本に少し登場していたから。
わたしの日本映画への関心は、昭和30年代までなので、
この本に登場する映画にはあまり馴染みがなかったのだ。
後味があまりよろしくない映画ではあったけれども、
ちょっとエキセントリックな女の人を演じるのが田中絹代はとてもうまい。
『神楽坂ホン書き旅館』を読んで、木暮実千代がちょっと好きになった。
獅子文六の『自由学校』、吉村公三郎の方もいつか観たい。

獅子文六の映画というと、頼んでヴィデオに撮ってもらっていた、
市川崑の『青春怪談』を観た。実はあまり期待していなかったのだけど、
獅子文六の原作の持ち味がいい感じに映像化されていて、
4人の役者がそれぞれいい味を出していて、
銀幕の東京風景もいい感じで、案外よかった。
獅子文六の原作を読んでいなかったらどんな感想になっていたかはわからない。
長年の懸案だった映画が見られて嬉しかった。
獅子文六の『青春怪談』、好きだなあ。



先週は、国立劇場と国立能楽堂に行って、今週は、鎌倉へ1泊旅行に行った。

国立劇場の幕間の時間に、ちょっと外に出てみると、
青い空がお濠の向こうに広がっていて、まさしく秋日和。
尾形亀之助の「色ガラスの街」という言葉がぴったりの明晰さ。

能楽堂では、粟谷能の会の公演を見物、曲目は『通小町』『野宮』『黒塚』。
すべて舞台は秋なので、謡曲を通して味わう季節感が格別だった。
『野宮』の後ジテの装束、独特のくすみ具合の薄紫とオレンジ色にみとれた。
そしてそのゆっくりとした舞のかもしだす、能独特の空間に陶然となった。
「昔を思う花の袖」「月にと返す気色かな」といった、シテと地謡の交錯。

今週は、イイノホールの東西寄席に行ったりも。円楽、いい声だなあ。
その帰り、熱燗を少しだけグビグビッと飲んだ。
あとで、池田弥三郎の『私の食物誌』をめくってみると、10月15日のところに、

《きのうは旧の九月九日で重陽の節供、きょうはその翌日で小重陽とか、
後日の菊とかいう。小重陽とは、節供に招いた神との別れ、
日本の民俗でいえば、神送りの日であろう。
ものの本によると、九月九日は寒温の境の日で、「身肉のわかるる時」だという。
それはともかく、この日に酒を飲めば病気にかからないと言われ、
またこの日から酒を、温めて用いるという。
そうすると、昔は九月八日までは、お酒はおかんをしないで飲み、
九日から、百薬の長として、あたためた酒を飲んだということになる。》

というふうに書いてある。寄席帰りの熱燗、なかなかのグッドタイミングではあった。

鎌倉に泊りがけで出かけたのは今回が初めて。
ゆっくりと観光できるかと思いきや、油断したせいか、そうでもなかった。

ピクニックは、一日目は材木座、二日目は由比が浜からゆるりと北鎌倉に至るコース。

材木座は非常に極私的なコースで、まず久生十蘭のお墓のある材木座霊園、
長勝寺の裏山から下るようにして、材木座の住宅地を歩いた。
この墓地に至る山歩きとそこからさらに登ったところの眺望が楽しかった。
曇り空から少しだけ青空がのぞいて、そこからもれる日光の様子と、
向こう側にほのかに見える、海の水面が見事だった。絶景かな。
材木座の住宅地は、久保田万太郎の旧居のあった場所、
ちょっとした戸板康二散歩でもあって、長年の宿願達成だった。

その途中、光明寺でひと休みした。野良猫が数匹くつろいでいて、
海の近くの風が心地よく、独特の緩やかな時間が流れていた。

北鎌倉は、浄智寺、東慶寺などをめぐったあと、円覚寺の茶屋で締め。
東慶寺では、ここ二ヵ月ばかり御執心の野上弥生子さんのお墓参りをして、
北鎌倉に来るとどうしてもいつも円覚寺の小津安二郎のお墓も見に行ってしまう。
どのお墓もそこまでいたる山登り的ひとときが格別で、鎌倉お墓めぐりに結構やみつき。

神奈川県立近代美術館の《チャペック兄弟とチェコ・アヴァンギャルド展》と
毎回のお決まりコース、雪ノ下の鏑木清方記念美術館はたいへん堪能した時間だった。

今日は鎌倉がえりということで、音楽を聴きながら、久保田万太郎の句集を繰る。

鎌倉の久保田万太郎というと、『火事息子』のあとがきが大好きで、
材木座のたたずまいを思いつつ、今日も読みふけった。

《 鎌 倉 の 夜 長 に は か に い た り け り
といふ句がぼくにはあるが、じッさい、鎌倉といふところは、
秋になることが早い。カンナの花のおとろへとゝもに避暑期の去るや、
途端に、空に赤とんぼが群れ、はやくも滑川の岸のすすきが、
十五夜のために穂を用意する……
と、たちまち十三夜の、つゞいて光明寺の "お十夜" の、
海からふいてくる風が、身にしみて、めッきり冷たくなる……》

それから、『久保田万太郎回想』(中央公論社、昭和39年)所収の、
楠本憲吉による「久保田万太郎の俳句」という文章の一節、

《 ゆ く 年 の 不 二 み よ と 也 瑞 泉 寺
鎌倉瑞泉寺は、夢窓国師の開山による、臨済宗の名刹。
梅と水仙の名所で、近時は、人で賑わいすぎるが、
本堂の裏の墓所には、久米三汀の墓があり、私は殆んど毎年、
早春の候、一人で詣でることを例としている。
裏の一覧亭に登ると、晴れた日には紅葉谷越しに富士が見える。
その眺望がまた、美しい。
一句も、「也」の使い方に注目しよう。
所謂、伝聞推定の「なり」か。
富士を見よというのだろうぐらいの意だが、
やはり「也」の据え方は尋常ではない手腕だと思う。》

今回は行き損ねてしまったけれども、
ここの俳句がぴったりの季節感のときに、瑞泉寺に行って、
万太郎の句碑を目の当たりにしたいと思う。

来月から、平塚市美術館で《原精一展》が催されるそうなので、
鏑木清方美術館の展示替えと合わせて、見学に行けたらいいなと思う。
原精一は、今読んでいる、洲之内徹の『さらば気まぐれ美術館』にも登場、
これまた、よいタイミングで、よい展覧会を見ることができそうで、たのしみ。





  

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