日日雑記 July 2002

01 銀座百点、花森安治と暮しの手帖展、佐野繁次郎
03 更新メモ(走れ!映画)
18 東京堂ショッピング
30 田河水泡・のらくろ館のこと

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7月1日月曜日/銀座百点、花森安治と暮しの手帖展、佐野繁次郎

先日、枇杷を少々分けてもらった。
庭に枇杷の木があって、高枝切り鋏でチョッキンチョッキン採集していたら、
とたんに面白くなって、一心不乱に高枝切り鋏を振り回していたとのこと。
その枇杷のなんと美味しいこと! すっかり上機嫌。
菊地信義の装幀が素敵な横長のホトトギス歳時記を繰ってみると、
「枇杷」のところで虚子の句、「ハンケチに雫をうけて枇杷すする」というのを見つけた。
いいなあ……。さらによい気分で枇杷をすする梅雨の夜長なのだった。

それから、先日、「銀座百点」6月号をもらった。
銀座百店会のタウン PR 誌で、各店鋪でちょくちょく目にする冊子なのだが、
きちんと本誌を読んだのは、実は今回が初めてだった。なぜ今まで見逃していたのだろう。
まず横長の版型がいい感じで、中身もさりげなく素敵な記事満載で、
銀座百点のよき伝統は健在なのだなあと胸がいっぱいだった。

■ 銀座百点ホームページ

「銀座百点」の創刊は昭和30年、
「演劇合評会」というコーナーが始まり、さっそく銀座百点に戸板康二登場。
久保田万太郎の人選で、戸板康二と池田弥三郎と円地文子の4人がレギュラーとなり、
ゲストを招いて四方山話をするコーナーで、万太郎死後「銀座サロン」に改名したそう。
「銀座サロン」はその後、メンバーが入れ代わって、現在に至っている。

戸板康二もエッセイで何度か、銀座百点について言及していて、
その楽しそうな筆致とそこから立ち上る洗練された語り口は、
のちの『ちょっといい話』をはじめとする人物誌エッセイにつながる雰囲気。

ところで、先月買った本のなかでの一番のよろこびだった、
戸板康二の『万太郎俳句評釈』[*] でも、「演劇合評会」の話題がのぼっている。

昭和38年3月2日、銀座6丁目の料亭金田中での「銀座百点」の座談会の席で、
万太郎が披露した句「雛の夜の雛の料理や金田中」とともに語られるエピソード。
この日のゲストは志賀直哉で、万太郎は終始ご機嫌で、
自分の句を発表するということはこういう場所ではめったにないことだったそう。
会食の献立を書きとめることをめったいしない戸板さんも、
《万太郎が「雛の料理」の句を作ったというので、手帖にそっと》献立のメモを残した。
この二ヵ月後に、万太郎は急逝することになる。

と、『万太郎俳句評釈』については、また後日あらためるとして(たぶん)、
銀座百点・年表を見てみると、この演劇合評会だけでなく、
ほかのコンテンツの執筆陣や連載の豪華さも目映いばかりで、
これらの執筆陣と各記事の醸し出すある種の空気感がなんとも愛おしいかぎり。

今まで、見逃していたのは、とんだドジだったなあと、張り切って定期購読の申込みをした。

今日、銀座百点の7月号が届いた。ラジオの名人寄席を聴いたあと、読みふけった。



しかし、定期購読、と言いつつも、銀座に行けばすぐに手が入るので、
以前、とある連載目当てでとある出版社の PR 誌を申し込んだときのような
(結局毎日のように本屋に行っているのですぐに手に入る、無料で)、
それから、これも以前好きだった「花椿」の購読を申し込んだときのような
(資生堂で無料で配布しているし、特定の本屋で100円で売っている)、
家に届く前に、本誌を町中で見かけて、うーむ、というパターンになりそうではある。

現に、「銀座百点」7月号、先週の金曜日に銀座のとある店に置いてあるのを見たばかり。

でもまあ、新しい月の開始とともに「銀座百点」が家に届く、
というふうな、生活のメリハリがついてくるのが嬉しい。

さてさて、その先週の金曜日、銀座7丁目の交絢社通り沿いのギャラリーへ、
《花森安治と暮しの手帖展》を見学に行った。待ち合わせの前に、
夕方の銀座をいそいそと移動していくつかの買物を済ませて、
その最後に、7丁目に至った次第。こういう、夕方の銀座いそいそ歩きってたのしい。

■ 暮しの手帖社ホームページ

暮しの手帖のウェブサイトをクリックすると、いきなり
「あなたは暮しの手帖を読んでいますか」と問いかけられてしまい、
一瞬どうしようかと思ってしまうのだったが、
酒井寛著『花森安治の仕事』(朝日文庫)を読み返して知ったところによると、
昭和40年代、暮しの手帖のテレビコマーシャルを作った際に、
花森は黒字に手書きの文字で「あなたは暮しの手帖を読んでいますか」と流し、
とつぜん音が途絶えて、画面には文字だけが静止して写っていたとのこと。
なるほどッ、暮しの手帖のウェブサイトをクリックすると、その追体験ができるというわけなのだ。

《花森安治と暮しの手帖展》は、「暮しの手帖」の表紙と
花森安治装幀の単行本を中心とした展示。なんだかとてつもなく所有欲にかられる。
ペン書きの小さな原画のウィンドウにまずうっとりだった。
それから、「おっ」と思ったのが、文字のレイアウトが素敵な中吊り広告。
青や赤の美しい発色の紙に、一言だけ花森安治独特の書き文字のスタイル。
実際に目の当たりにしてみると、その美しいレイアウト、
画像があるわけではない、文字と紙の色でここまでかっこいいなんて、
と、たぶん実際に見てみないとその美しさは知りえなかったに違いない。

実は、個人的には一番気になっていたこと、
戸板康二の本の展示はあるかしらとドキドキだったのだけれども、
きちんと、ウィンドウには、『歌舞伎への招待』[*] 『続歌舞伎への招待』[*]
『歌舞伎ダイジェスト』[*] 『歌舞伎ダイジェスト新書判』[*] の展示があり、
ウィンドウ越しに戸板さんの本を眺める、その稀有な瞬間を満喫した。

『歌舞伎への招待』[*] は奥村書店で買ったときは、
セロファンできれいに補修してあったのだけれども、
もとはカバーの上下を包装紙みたいに折り込む感じになっていて、
わたしの持っている本はベージュ色なのだが、もとは黄色だったことを初めて知った。
ここまで変色するとは……。

わたしが戸板康二の文章を初めて読んだのは4年前のこと、
1998年の6月に、六本木に当時あった暮しの手帖社別館でのこと。
暮しの手帖創刊号の「歌舞伎ダイジェスト」の文章に釘付けだった。

あのときは、晶文社発行の『花森安治の編集室』を読んだばかりで、
花森安治の天才肌な編集術に関するいろいろなことが、面白かった。
母は、わたしが物心ついた頃から「暮しの手帖」を毎回買っていた。
暮しの手帖発行の単行本も何冊もあって、幼い頃からのおなじみだった。
いつのまにか、母は「暮しの手帖」を買わなくなっていて、
まあかつての愛読者なんだし、と当時『花森安治の編集室』をすすめて、
突如気運が高まり、再び暮しの手帖を読みはじめた母が見つけたのが、
「暮しの手帖別館にお出かけください」の記事、
ここに来れば、暮しの手帖本誌が創刊から揃っているそうで、
なんとなくそそられてしまって、母と一緒に出かけた、という経緯だった。

当時は特に深い考えもなかったのだけれども、
あのときの暮しの手帖社別館をきっかけに、戸板康二の名前を知ることになったのだから、
今おぼえば、見事な出会いだったとしか言い様がない。

当時すでにウェブサイトを始めており(臆面もなくまだ続いている)、
この日日雑記に暮しの手帖社別館に行ったことを書いたのだったが、
それを読んでくださった方が、別館の成立に関するなんとも素敵なエピソード、
いかにも暮しの手帖に似つかわしいエピソードを教えてくださって、
花森安治の編集術、昔の暮しの手帖の上質な誌面と相まって、
一気に暮しの手帖のファンになった、それは多分に過去のそれに向かっていたにしても。



花森安治のデザインというと、とても印象的だったのが、
スムースの第3号の、林哲夫さんによる『佐野繁次郎と花森安治』という文章。
佐野繁次郎がパピリオで広告の仕事をしていたとき、
花森安治が彼を慕って押しかけ入社して、文字やレイアウトだけでなく、
雑誌のコンセプトでも、佐野の大きな影響下にあったとのこと。

……というふうに、佐野繁次郎の名前を覚えておいたところで、
後日、祖母宅で発見した、昭和17年発行の『すまひといふく』
という実用書のデザインが素敵ッ、と家に持ち帰って、
よくよく確認してみたところ、ほかでもない佐野繁次郎による装幀で、
中身のレイアウトがのちの暮しの手帖にあまりにそっくりなので、びっくりだった。

カバーは木綿の紋付ふろしきをあしらっていて、中身は染め絣、
というふうに全体的に濃紺なのだが、カバーをめくったところ、
いわゆる見返しのところは目がさめるくらいに鮮やかな赤色。
その『すまひといふく』には、「色を覚える」という題の、佐野の文章がある。
自分の色彩感覚を自分自身で教育して好きな色を探る訓練について述べている。

晩春に出かけた、県立神奈川近代文学館で購入した、
《文学の挿絵と装幀展》の図録によると、佐野繁次郎は大阪出身で小出楢重に師事、
横光利一の挿絵を書いていて、特に『家族会議』の挿絵に大感激。
『家族会議』というと先日、三百人劇場で島津保次郎の映画を見たばかりで、
その昭和モダニズム的空気を、佐野繁次郎の挿絵も見事に伝えている。
横光利一の『家族会議』、講談社文芸文庫で出ているので、近々読んでみるつもり。

そしてッ、佐野繁次郎は、銀座百点の表紙の初代担当者でもある。
1950年代から60年代を通しての、佐野繁次郎の表紙を眺めながら、
久保田万太郎や戸板康二らが四方山話を繰り広げた
「演劇合評会」に思いを馳せるのは、ちょっといい気分。

なんだか、いろいろつながっているなあ、と思う。





  

7月3日水曜日/更新メモ(走れ!映画)

走れ!映画、放置したまま1年が経過してしまったので、大急ぎで作り直し。

ただ単に、映画館で見たタイトルを書き留める備忘録。
時間がとれれば、追々コメントを追加していきたいのですが……。

年明けに銀座のとあるお店で焼き鳥を食べていた折になりゆきで、
突発的に見に行くことになった、川島雄三の『雁の寺』で始まって、
思わず初日に見に行ってしまったショーン・ペン『プレッジ』まで、
今年の上半期は、かつてないほど足しげく映画館に行っていたなあと自分でもびっくり。

若尾文子、中村登・清水宏と島津保次郎、そして田中絹代特集と、
日本映画の特集上映があるといつもつい張り切って五回券を購入していたのだ。

3月上旬に小村雪岱の『日本橋檜物町』を読んだ折に、
ぜひとも雪岱の映画セットをスクリーンで見たいものだッと思い、
そして、3月下旬に成瀬巳喜男の『歌行燈』を見た折に、
久保田万太郎に夢中の身としては、ぜひとも万太郎の名が
クレジットされている映画をほかにも見たいものだッと思い、
日本映画データベースを眺めていた直後に、
ラピュタ阿佐ヶ谷の《田中絹代特集》で、
雪岱が舞台装置を担当した、島津保次郎の『お琴と佐助』と
万太郎が脚本を監修した、久松静児の『渡り鳥いつ帰る』が
上映されると知ったときは、そのあまりのタイミングのよさに大興奮だった。

阿佐ヶ谷の田中絹代特集で観た映画は、
完成度としては「おや?」というのが多かったけれども、個人的には、
吉村公三郎の『地上』で、殿山泰司の『日本女地図』の記述を思い出しニンマリ、
溝口健二の『お遊さま』では、原作の谷崎潤一郎の『蘆刈』、
不覚にも未読だったので、大急ぎで岩波文庫を購入して読みふけって、
併録の『吉野葛』も大好きだなと、あらためて谷崎の語りにメロメロ、『春琴抄』も再読した。
昭和9年に「演芸画報」の懸賞論文に選ばれた稿料で戸板康二が買ったのが、
当時出たばかりの『春琴抄』の漆塗りの初版本。
戸板康二が青年時代を送った昭和初期を思うと、いつも胸が躍る。

それから、久保田万太郎が脚本監修したという、『渡り鳥いつ帰る』!
永井荷風原作の映画化作品としては記念すべき第1作。
川本三郎さんの『銀幕の東京』(中公新書)でも大きく取り上げられていて、
古い日本映画を見るたのしみの多くは、かつての東京を垣間見ること、その歓びを満喫。
この映画は、荷風の短編小説1つに戯曲2つをミックスしたもので、
短篇『にぎりめし』と、戯曲『春情鳩の街』『渡り鳥いつかへる』を読もうと、
図書館で荷風全集の19巻と20巻を借りてきて、寝る前に読んでいるところ。
思えば、戦後の荷風を読むのは今回が初めてだ。
あと、かねてからの愛読書、双葉十三郎の『日本映画批判』を読み返したのもたのしかったこと。

……というふうに、阿佐ヶ谷の田中絹代特集を媒介にした、本読みの時間は格別だった。

映画に限らず、美術でも音楽でも演劇でも何でも、それに付随した本読みがとてもたのしく、
いろいろ見に行っているのは、とどのつまりは、もっと本を読むためなのかも、とすら思う。

今月は、〈東京の夏〉音楽祭「音楽と文学」があるので、音楽強化月間になりそう。





  

7月18日木曜日/東京堂ショッピング

昼下がり、神保町へ。ひさしぶりに新刊本を東京堂で買った。

その前に、ちょろっと一誠堂に寄り道した。
このところ、神保町では、一誠堂の演劇書コーナーを眺めるのがひそかなたのしみ。

先月のとある土曜日の夕方、ちょっとコーヒーを、くらいの軽い気持ちで
神保町に寄ったときのこと。大好き『貝殻追放』が全編手中にッと、
水上瀧太郎全集の端本を三冊を買って「わーい、わーい」と大喜びしたあとで、
ふと足を踏み入れた一誠堂、入口付近の文学書と映画コーナーがとても好き、
めったに買うことはないのだけれども、棚を眺めるだけでとても愉しい、
それから、右寄りの演劇書コーナーを眺めるのも毎回のパターン。
というふうな、いつもの順路をたどってみると、演劇書コーナーでびっくり、
戸板康二の本が奥村書店並みにズラリと並んでいるではありませんか、
これほどの戸板康二の本が並んでいるとはッ、フツフツと嬉しい、
立ち去り難く、しばし立ち止まって、何度も何度も眺めた。
一誠堂のことなので、他の書店よりも値段が少々高め、
でも、きちんとした値段がついている、というのがファンとしては嬉しい。
が、エッセイ集などは値段が少々高めだが、小説の方でも
同じような価格設定が適用されているので、自動的に小説の方は他店並みの値段となる。
ので、「ハテ珍しき対面じゃなア」という感じで気をよくして、
『雅楽探偵譚1 團十郎切腹事件』[*] を買ってしまった。
すべて講談社文庫の『團十郎切腹事件』[*] に収録されており
読了済みのものばかりなので、大いなる無駄なのだけれども……。

ということがあって以来、神保町に行く度に、一誠堂の戸板コーナーに気をよくしていた。
気をよくするあまり、また後日、『いえの藝』[*] を買ってしまった。
1篇を除いてすべて集英社文庫の『黒い鳥』[*] に収録されており
読了済みのものばかりなので、大いなる無駄なのだけれども……。

……というわけで、今日も一誠堂の戸板コーナーに気をよくしたあとで、東京堂へ行った。

今日買ったのは、先月に発売を知って以来念願だった2冊。

● 『四代越路大夫の表現』高木浩志・取材構成(淡交社)
● 『喜劇の殿様  益田太郎冠者伝』高野正雄(角川書店)

越路大夫の芸談集は、これから何十年読み続けたい本。
益田太郎冠者は、獅子文六がその伝記小説を書こうとしたが急逝して果たせず、
高野正雄さんは獅子文六の担当記者だった人。巻末に友人渡辺保さんの文章が添えられている。
奇しくも、今日買った2冊、いずれも「遺稿」的なものとなってしまった。

獅子文六による伝記小説というと『但馬太郎治伝』があるが
そのモデルの薩摩治郎八は、戸板康二が『ぜいたく列伝』[*] で取り上げている人物。
そして、『ぜいたく列伝』には益田太郎冠者の名前も見ることができる。
獅子文六が小説化を試みた人物、二人ともが『ぜいたく列伝』に名を連ねている。

『ぜいたく列伝』は始めから終りまで全体を通して読んでみると、
さらに面白さが際立つ、という種類の書物だ。
興味のある人物だけ、というのではなくて、全体を通すことで、
明治から昭和にかけての破天荒な人物誌を概観することで、
坪内祐三が月の輪書林の目録に対して書いていたこと、
日本の近代が、実はとてつもなく面白い時代であったことが見えてくる、
という言葉が、不思議と、実感をもって迫ってくる。
23篇の「ぜいたく」を貫く一本の線がくっきりと見えてくる。戸板康二の技だ。
と同時に、明治から昭和にかけてのここで取り上げられている人物は、
戸板康二の少し上の世代ばかり、自然と戸板康二の立つ位置もおぼろげに見えてくる。

というような能書きは抜きにしても、『ぜいたく列伝』、ディテールにも面白いところ多々ありで、
わたしが益田太郎冠者の名前を知ったのも、この本がきっかけだった。
益田太郎冠者がつくった「コロッケの唄」にまず大笑いだった。

《ワイフもらって うれしかったが
いつも出て来るおかずは コロッケ
きょうもコロッケ あすもコロッケ
これじゃ年がら年中 コロッケ
アハハハ アハハハ そりゃおかしい》

ああ、この脱力加減がたまらなく愛おしい。
何か悩みごとがあるときにでも暗唱すれば、一気に心が晴れそうな感じだ。

『ぜいたく列伝』で知って以来、「コロッケの唄」のことが忘れられず、
ある日ふと思い出して祖母宅で尋ねてみると、そこにいた祖母と母が
瞬時に同時に歌いだしてびっくりだった。そんなに有名な唄だったとは……。
そのとき、母が「子供の頃、コロッケは一個5円だった」と言い出し、
それを聞いたとたん、わたしの頭の中は一気に、
杉浦茂の『猿飛佐助』登場の忍者・コロッケ五円之助。二度大笑いだった。

そうそう、『ぜいたく列伝』というと、小林信彦がちょっとだけ言及している。

『本は寝ころんで』(文春文庫)に、

《まず、〈谷崎潤一郎の四季〉の章から読んだ。
谷崎の死は1965年(昭和40年)7月であり、その時の暑さをいまだに記憶している。
ぼくは江戸川乱歩邸の応接間で、日影丈吉氏と話しながら出棺を待っていた。
その時、谷崎の死が電話で伝えられたのだ。
その数年前、谷崎夫妻は PR 誌「銀座百点」の座談会に出席し、
〈久保田万太郎と歯切れのいい下町言葉で話していた。〉
同席した戸板康二はさりげなく書いているが、ぼくにはこのお二人の
〈歯切れのいい〉会話をきいてみたい。
そういうのが、今となっては(当時も、だが)、〈ぜいたく〉というものである。》

という一節がある。

これに限らず、戸板康二の本には、いろいろな「ぜいたく」が詰まっている。



本日の東京堂では、上記の新刊本二冊だけではなく、実はあともう二冊買った。

二階の片隅に忽然と姿を現わした、ふるほん文庫やさん出張販売コーナーに、思わず長居。
個人的には、戸板康二登場のアンソロジー、旺文社文庫の『銀座ショートショート』(欲しい!)や
角川文庫(だったかな)の『宝石傑作選集1』を立ち読みできたのがまず大収穫。

今日買ったのは、久保田万太郎の短篇集『露芝』(新潮文庫)。
この文庫本は、解説が釋迢空、折口信夫なので倍嬉しい。
久保田万太郎と折口信夫は、なんといっても戸板康二の師という共通項がある。
『万太郎俳句評釈』[*] で「トラックにのり貨車にのり日の盛り」という句とともに
語られる、万太郎と折口の「両吟」のエピソードが大好きだ。

万太郎の方は値段が少々高めだったけど、講談社文芸文庫よりは安いッ、と思えば平気平気。
(講談社文芸文庫といえば、来月、いよいよ久保田万太郎が発売になる。ワオ!)
久保田万太郎は、5月に100円コーナーで買った選集の端本で読んだ『樹蔭』以来。

あともう一冊は、小泉喜美子の『血の季節』(文春文庫)。
戸板康二が解説を書いているので、見つけたら買おうと思っていたもの。
こちらは安価だったので、よかった。

東京堂のあとは、フォリオでアイリッシュコーヒーを飲みながら、
新潮文庫の久保田万太郎をしばし読みふけって、とっても至福だった。





  

7月30日火曜日/田河水泡・のらくろ館のこと

日曜日は、隅田川以東へ行った。3月に清澄庭園に行ったとき以来だ。

5月に杉浦茂展を見て以来、これはぜひとも行かねばッと思っていた、
江東区森下文化センター内の「田河水泡・のらくろ館」が今回の目的地。

都営地下鉄の森下の駅を降りて、しばらく歩くと、
「のらくろロード」という名の商店街が登場、左折してその幟にニンマリ、
ここをもうしばらく歩いたところに、江東区森下文化センターがある。
「田河水泡・のらくろ館」は、江東区森下文化センターの一階奥。

ほんの一角という感じの「のらくろ館」なのだが、
いったん足を踏み入れると、これがまあ、なんと楽しいこと!
と、急に大はしゃぎの時間となった。ああ、来てよかった。

と言いつつ、わたしは「のらくろ」の漫画を読んだことはまだ一度もなく、
今の段階では「のらくろへの招待」という感覚だったのだけれども、
「田河水泡・のらくろ館」のたのしいことは、なんといっても、
1899年生れの田河水泡にまつわる「モダーン!」なあれこれを体感することと、
田河水泡をとりまく人物誌を概観することにあった。
そしてそれはそのまま、絶好の、のらくろへの招待、となった。

日頃から大好きなことがたくさん詰まっている、ギュッと密度の濃い時間だった。

冒頭に、のらくろの誕生にまつわる展示があって、
「少年倶楽部」の編集長加藤謙一のアイディアによって誕生、
というくだりに、さっそく心ときめくものがあった。
これにかぎらず、かつての雑誌文化をめぐる群像というか、
たとえば編集者と作者の幸福な結びつきを目の当たりにする時間は格別。
それから、大正3年に創刊の「少年倶楽部」の名前は、
戸板康二の幼少時代についてのエッセイでも目にする名前。
戸板少年が買っていた当時の少年倶楽部は、
漫画だけではなくて、冒険小説など少年小説が満載だったという。
そんな雑誌と当時の購買層、はたまたその土台の
都市文化、活字文化などなど、さらに勝手に思いをめぐらせてみたり。

そして、田河水泡にまつわることで、もっともエキサイティングなのは、
なんといっても、ベルリンから帰国したばかりの村山知義らの MAVO との交流。
田河水泡をとりまく人物誌というと、美術学校の師に杉浦非水の名前を見ることができて、
同時代の MAVO や恩地孝四郎などがおり、後輩には杉浦茂がいたりする。
田河水泡をとりまく人物誌を眺めることは、そのまま昭和モダニズムの
かっこいいデザインを目の当たりにしてクラクラしてしまうことでもあるのだ。

ささやかではあるけれども、そんなかっこいいデザインを
あちこちで見ることができるのだから、田河水泡・のらくろ館はたのしい。
これを機に、日頃から胸を躍らせている、モダニズムの空気を、
戸板康二の本を通して新劇史の側から眺めたり、
昭和初期の日本映画のことをもっと深く知ったり、
美術や文学ももちろんッ、といった感じに、
かっこいいデザインを見ることで、フツフツと明日の意欲が湧きあがるのが嬉しかった。

怠惰なわたくしのことなので、毎回湧きあがるだけで終ってしまいがちなのだけれど、
しょうこりもなく、何度もいろんな刺激を受けると、その度に嬉しい気持ちになる。

義兄小林秀雄を通じての鎌倉文士との交流、というところにも胸が躍った。

実際の展示物で、ワオ! と眼福だったものを少し挙げてみると、
まず、田河水泡の還暦記念に漫画家仲間が寄せ書きしたという「還暦祝い帳」。
ウィンドウ越しに眺めてみると、そこは滝田ゆうのページ!
この滝田ゆうのイラストを見るだけでもここに来る価値がある。
展示室の隅っこに「滝田ゆう展」のポストカードがおいてあって、
その図柄というか写真がとても素敵、一枚いただいて、大喜びだった。
8月22日より27日まで、銀座8丁目の陽栄ギャラリーだそう。行ってみようと思う。

かっこいいデザインというと、「のらくろ」の初版本そのものがとっても素敵で、
いつもながら、展示物として書物を眺めること、書物をかたちをして見るのは
それだけで幸福な時間だ。函、目次、扉、付録の図案等々、
「のらくろ」の単行本は、すべて田河水泡によるデザインだそうで、
ウィンドウ越しなので、函と本体しか見ることができない、
目次や扉はどんなふうなのかしらッ、と、もだえてみるのもまた愉し。

それから、田河水泡の書斎を再現したコーナー。
5月の杉浦茂展のときとおんなじように、書斎コーナーには大興奮。
つい本棚を凝視してしまうのだが、パッと目についたのが、
創元社の『能楽全書』と河竹繁俊著『歌舞伎史の研究』。
田河水泡は芝居好きだったのかしら。とにもかくにも、ますます親しみが!



江東区森下文化センターの1階「のらくろ館」と同フロアに、
「伊東深水・関根正二紹介コーナー」があり、ここも思いがけなく堪能した。
実際に絵の展示があるわけではなくて、1歳違いの二人の画家は、
田河水泡とも同時代、その軌跡を深川の町と交えて紹介している。
1903年には小津安二郎が誕生するわけで、
深川という土地にはいっそうの魅惑をおぼえる。

小名木川で水遊びをした幼友達だったという、伊東深水と関根正二。
このふたりは、去年の夏の稀にみる大堪能をした展覧会、
木場の東京都現代美術館の《水辺のモダン》でも大きく取り上げられており、
田河水泡と合わせて、《水辺のモダン》の至福を懐かしく思い出した。

関根正二は、洲之内徹の文章に何度も登場する画家のひとりでもあり、
2月の《未完の世紀展》のときも、先日見学したときにも、
竹橋の近代美術館で、しばし立ち止まってしまった代表格だった。

わたしにとって、ちょっとだけ悔恨なのが、洲之内徹を読み始めたのが、
去年《水辺のモダン》を見学したあとになってしまったこと。
洲之内徹を読んでいたら、展覧会にもっともっと深くひたることができただろうし、
洲之内徹の文章を胸に、長谷川利行や柳瀬正夢 etc を見たかったなあと思うのだ。
実際、洲之内徹を読みつつ、いったい何度、《水辺のモダン》の図録を繰ったことか。

なーんて、そんなことは、言い始めるとキリがない。
洲之内徹を初めて読んだのが去年の8月だった。
「気まぐれ美術館」シリーズ、未読の2冊は来月に読もうと決めている。
今年の夏もどっぷりと、洲之内徹にひたりたい。
今回の森下来訪は、その絶好の前奏だったともいえそうだ。

江東区森下文化センターは小名木川のすぐ近く、ちょっと行ったところが、
洲之内徹が戦前住んでいた、同潤会アパートがあった場所、
その先を少し歩くと、東京都現代美術館があって、
そして、一度行って大喜びだった深川江戸資料館もわりと近く、
それから、隅田川の橋をわたる瞬間も格別だし……、
というような感じで、ちょっと地図を見てみただけでも、
「田河水泡・のらくろ館」のまわりはとっても魅惑的な散歩コース。
隅田川以東というだけで、ちょっとした遠足気分。観光気分全開になる。
また、近いうちに、東京都現代美術館の常設を見に行くつもり。

と、おとといは計画をたててみただけで、駅にすぐに戻って、
それから先、大江戸線に乗って、夜になるまで3度ほど途中下車をした。





  

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