日日雑記 January 2002

04 六十の手習:白洲正子の『私の百人一首』
27 新しい日記帳のこと
30 能楽堂で『邯鄲』を観た、岩波文庫の『謡曲選集』

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1月4日金曜日/六十の手習:白洲正子の『私の百人一首』

先月の下旬、とある能楽堂で仕舞を観る機会が一瞬あって、
それ以来、能のことが頭から離れない。謡いながら舞っている形そのもの、
その一瞬の美のようなものにクラクラッとなって、いつまでも心にペタリと貼り付いている。

そんなこんなで、年の瀬の日々は、能の本を集中的に、
白洲正子、土屋惠一郎、渡辺保の本などを読みふけっていた。

というふうに、思いがけなく白洲正子の日々となってしまった折りの年末に、
ひさしぶりに会ったお友だちから教えてもらったのが、
白洲正子著『私の百人一首』(新潮選書)だった。

自分の読書遍歴(らしきもの)を振り返ってみて、
今まで夢中になった本はいろいろあるけれども、
一番最初に激しく夢中になったのは何だったかしらと思い出してみると、
それは間違いなく小倉百人一首だ。我ながら月並みだと思うが事実なのでしょうがない。

10歳くらいの頃、何気なく百人一首のカルタを見せてもらったとき、
母が「一人一首ずつ全部で百の和歌があるのよー」というようなことを言うので、
んまあ! 一人一首ずつ全部で100の和歌が一堂に会しているなんて、
なんて面白いものが世の中にあるのでしょう! と感激した小学生(←当時のわたし)は、
一枚一枚うっとりとカルタを眺めていたのだったが、ふと57番目の紫式部の札を見て、
んまあ! 紫式部! と何処かにハイキングに行った時に見た花を思い出して、
さっそく「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に……」の和歌を暗誦しはじめ、
とたんに面白くなって、そのあたりの和歌を次から次へと暗誦することになった。

それ以来、対訳付きの古典文学シリーズを買ってもらって、
それらを傍らに、一首ずつ和歌をさらっていった。
図書館で、昔のカルタの絵柄が見開き1ページずつきれいなカラーで刷られた本を見つけて、
その本がいたく気に入ってしまって、何度も借りて家で眺めるということもしていた。
同じ本を誕生日のときに母がプレゼントしてくれたとき、とても嬉しくて、
紀伊国屋書店の包み紙とともにそのときのことは今でも鮮烈に覚えている。

小学校を卒業するころには、違う本が好きになってしまって、
百人一首のことは遠い記憶の彼方へと葬られていった。
母が買ってくれた百人一首の本も、その後の度重なる引越にまぎれてなくしてしまった。

……と、つい長々と書き連ねてしまったけれども、白洲正子の『私の百人一首』を読むことで、
わたしも思いがけなく、小学生以来、ひさしぶりに百人一首に対面することになった。

白洲正子の『私の百人一首』、「六十の手習」と題された序文がとても素敵で、
しょっぱなから惹き込まれてしまう。白洲正子の友人が昔こんなことを言ったという。

《六十の手習とは、六十歳に達して、新しくものをはじめることではない。
若い時から手がけて来たことを、老年になって、最初からやり直すことをいうのだ――》

わたしにとっての百人一首は小学生の一時期に夢中になっていただけで、
その後すっかり忘れていたわけで「若い時から手がけて来た」とはとうてい言えないけれども、
昔夢中になったことを「最初からやり直す」という点では現在のわたしの心境にぴったりで、
なんとなく気分が清々としてくる。

それから、この序文では、白洲正子が京都の嵯峨野を訪ねるくだりがある。
嵯峨の山荘において、百人一首の選定を行ったとされる藤原定家のこと。
45歳以後、歌をよまなくなって、批評家としての側面が多かった定家、
《定家にとっても「六十の手習」といったような、
のびのびした気分を味わったのではなかろうか》と白洲正子は書いていて、
それから、「小倉山峯のもみぢ葉心あらば……」という歌が、
実感を持って迫ってくる嵯峨野からの眺め、のこと。
昔、百人一首を楽しんでいた頃は、個々の歌を味わうのみで、
選者の藤原定家のことに思いを馳せることはまったくしていなかったので、
百人一首は、選者の藤原定家の批評的なひとつの大きな作品であるという
観点が目がさめるくらいに新鮮だった。ここでも、気分が清々としてくる。

万葉の歌から始まって、古今、新古今にいたる流れ、
それから個々の並びも藤原定家の細心の注意が行き届いている。
小学生のときのわたしが紫式部の歌を最初に暗誦して、
それからそのあたりの歌を次々に覚えていって面白くなってしまったのも決して偶然ではない。
紫式部のひとつ前の56番目の和泉式部から清少納言まで女の歌人が7人続いている。
小学生のとき、その並びにまず親しむことで、児童書の古典シリーズで、
和泉式部日記や枕草子の世界に曲がりなりとも親しむきっかけを得たりもしていた。
そんなところが少女の琴線をくすぐったに違いない。

百人一首のなかでの対決といえば「忍恋」のことがまず頭に浮かぶけれども、
二つの歌が順番に並べてあって、白洲正子は、

《百人一首の順序については、様々な説があるが、大部分ははじめのままで、
こうして書いていると、一篇の物語を読むような気がして来る。或は歴史といってもいい。》

というふうに書いていて、まさしく、この文章に尽きるなあと思った。

小学生の頃、蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関」がとても好きだったのだけれども、
萩原朔太郎がこの和歌の音楽的効果について書いていたのを知って「おっ」と思って、
その後に続く白洲正子の《水の流れのように流麗で静逸》という言葉を見て、深くうなずいたり。

それから、やはり小学生の頃に好きになってしまった西行を、
白洲正子は《彼は歌人でも僧侶でもなく、手ぶらで人生の迷路を闊歩した見事な人間》と書く。
ここでも、「ブラボー!」という感じだった。

それから、「玉の緒よ」の式子内親王の項に、お能の『定家』に関するくだりがある。

《『定家』の能が幽玄の極致を表現していることは事実である。
定家の和歌に対する執心も、内親王の「もみもみと」した歌の調べも、
「定家葛」の這いまつわる姿に象徴され、内面的な幽玄美を余すことなく語っている。
嵯峨の山荘を訪ねた帰り道に、私は式子内親王のお墓にお参りした。
千本今出川から少し東へ入った「般舟院」の一隅にあり、
塚の上の小さな五輪の塔が建っているだけの、つつましい墓であった。
その塚の、うっそうと繁った木立の根元に、鎌倉時代の美しい厚彫りの石仏があるのを見て、
わたしは不思議な感動におそわれた。「まことの姿はかげろふの、
石に残す形だに……」という『定家』の能の一節が、ふと浮かんだからである。》

という感じに、白洲正子の本を読んでいると、いつのまにか
お能のことに思いを馳せることにもなって、それもまた楽し。

それにしても、白洲正子の本を読むと、いつも気分が清々としてくる。

この清々とした感じはどこからくるのだろう? とぼんやりと思っていたのだけれども、
『花にもの思う春 白洲正子の新古今集』(平凡社ライブラリー)を
『私の百人一首』の次はこれね! と、手にとってみると、
渡辺保の解説がその秘密を鮮やかに解きあかしてくれていて、嬉しくなってしまった。





  

1月27日日曜日/新しい日記帳のこと

今からちょうど一ヵ月前くらいの、ある日の午後のこと。
ふと思い立って中央線に揺られてとろとろと、国立へ行った。
久保田万太郎に夢中になるきっかけとなった『春泥』の入っている、
角川日本近代文学大系の端本が通りがかりの軒先に300円で売っていて、
中をめくってみると、戸板康二が解説をしているので即購入したりとか、
そんなことをしていて、それから、国立へ行くたのしみは、
なんといってもロージナ茶房でコーヒーを飲むことで、
ロージナ茶房の二階で、夏以来の長居をして、大変な至福なのだった。

ロージナ茶房というと、山口瞳が『行きつけの店』のなかで、

《椅子もテーブルも照明も、たとえば椅子のひとつは
フランスの教会の椅子を使っているといったように凝ってはいるのだが、
凝りすぎにはならない。骨董に目が利いても、
店内をアンティークで飾りたてるような愚かなことはしない。
万事につけて程がよいのである。
だから常連客だけの溜まり場のようにはならない。》

というふうに書いていて、そうまさしくその
「万事につけて程がよい」という言葉がぴったり。
それゆえに、とても居心地がよくて、夏休みや年末など、
ほんのたまにふらっと来るのがたのしみとなっている。

さてその日、ロージナ茶房に入る前に立ち寄った本屋さんで、新しい日記帳を買った。

5年連用の日記帳で、毎日の記入量はほんの少しなので、これなら続けられそう。
大好きな小津安二郎の日記みたいに、素っ気ない記述の日記をつけてみたいなと前々から思っていたのだ。

そして、5年連用日記にしたのは、戸板康二の『六段の子守唄』[*] 所収の
「むかしの日記」というエッセイが心に残っていたから。
戸板康二は昭和20年の敗戦の日から死の二日前まで日記をつけていて、
大学ノートにベタに並べて書くという形式で続けていたとのことなのだが、
実はそのまえにも日記は書いていて、大学時代に池田弥三郎から
「五年使える大判の日記がいいぜ、ぼくはこれで二冊目だ」と言われて、
同じ日記帳を買って次の年から書き始めていて、
それが三冊目になろうというころに空襲で焼けてしまったとのこと。

というわけで、小津安二郎と大学時代の戸板康二の真似っこを試みた次第。

あれから早一ヵ月、発作的に購入した五年連用日記、毎朝たのしく書いている。
一分で書けてしまえる量なので、ささやかでたのしい。

どんな感じの文面かというと、ここに写しても当り障りのなさそうなのを選んでみると、

某日:
三田文学別冊を持って外出。電車の中で
久保田万太郎『朝顔』を再読。とてもよい。
ほかに小沼丹の短篇、白洲正子の
文章などよむ。白洲正子によるお能と
絡めた近衛追悼の文章がとても素敵で、
お能への思いはふくらむばかり。

某日:
角川日本古典文学「浄瑠璃・歌舞伎」
(戸板康二編集)の『妹背山』山の段の
浄瑠璃を読む。大変面白くて浮き浮き。
土曜日の観劇メモと本文とを照らし合わせて
もう一度舞台のおさらいをしたい。
寝る直前は、万太郎『花冷え』を読んだ。

と、こんな感じなのだが、何も書き写すほどの代物ではなかった……。

さてさて、新しい日記帳の書き出しというと、岸田劉生の日記がとても好きだ。

《こういう日記帳は頁も少なく、少しずつ記せば、いいのだから、
中絶する事が割になく日課風にかける気もしてつけてみたくなり、
……これからずっと続けたく思う。
一冊、一年中の事がこの日記に記されたら不思議な味の本になる。》

この書き出しは、1920年1月27日朝の記入だそうで、奇しくも今日と同じ日。
新しい日記帳を前にしての静かな昂揚、今のわたしもまさしくそんな劉生日記気分。





  

1月30日水曜日/能楽堂で『邯鄲』を観た、岩波文庫の『謡曲選集』

先月の下旬、とある能楽堂で仕舞を少しだけ見る機会があって、
それ以来、お能へのあこがれが急激につのり、
能に関する本をいろいろ読んで、悦に入っていた。
そんな折に知ったところによると、新年明けてさっそく、
国立能楽堂の定例公演にて、『邯鄲』が上演されるというではありませんか。

『邯鄲』は戸板康二が一番好きな曲として挙げていた演目。
戸板康二の美しい書物『劇場の椅子』[*] 所収の、
「僕の『邯鄲』」という文章がいつまでもいつまでも心に残っていて、
以来、能を見に行くのだったら、『邯鄲』を最初に観ようと心に決めていたのだ。

そんなこんなで、まさしく機が熟したといってもよさそう。
さっそく『邯鄲』のチケットを申し込んで、さてさて、本日がその上演日。
ちょっとドキドキしながら、千駄ヶ谷の国立能楽堂へ行った。

書き損ねてしまったけれども、先週の23日水曜日(←実は戸板康二の命日)、
信濃町の文学座アトリエにて久保田万太郎の『大寺學校』を観覧していて、
折も折、年末に『春泥』を読んでからというもの、
急激に万太郎に夢中になってしまっていたところだった。
文学座は今年で創立65周年だそうで、創設者は岸田国士と久保田万太郎、
それに獅子文六こと岩田豊雄の3人。いずれも戸板康二の書物でもおなじみの人たち。
獅子文六の夢中の身としてはそれだけで気になっていた文学座、
戸板康二の随筆のあちことで目にする新劇の風景でもって、
歌舞伎だけでなくてかつてのいわゆる新劇への憧れもつのっていたので、
ぜひいつか行きたいなと思っていた文学座の公演だったのだが、
新年明けてさっそく万太郎の『大寺學校』が上演されたのだ。

久保田万太郎に夢中の日々まっただなかで、
岩波文庫の『大寺学校・ゆく年』を仕入れて、熟読したあとで、
実際の舞台を目にするという幸運に見舞われるということになって、
一週間たった今でも、文学座アトリエの『大寺學校』、
端正な舞台装置、雰囲気のある女の人のきものとか小道具、
そしてなんといっても、美しい東京言葉のニュアンス、
それらの融合としての舞台のことがいつまでも心に残り、
ますます久保田万太郎の本に夢中の現在となっている。

というわけで、まとめてみると、
先週の『大寺學校』といい、今週の『邯鄲』といい、
一月下旬の水曜日、立続けに、
戸板康二の本を通して知った世界に
足を踏み入れることになったのだった。

さてさて、本日の国立能楽堂のことを。定例公演のプログラムは以下の通り。

● 狂言(大蔵流)『財宝』
シテ:大島寛治、アド:山本泰太郎、アド:若松隆、アド:加藤元
● 能(喜多流)『邯鄲』
シテ:友枝昭世、ワキ:宝生閑、アイ:山本東次郎

狂言『財宝』は三人の孫が長寿の祖父にあやかろうと祖父宅を訪れて、
名前をつけてもらうというストーリー。
橋掛から3人の孫が登場して、問答を繰り広げたあと、
杖をついた老人が登場する。しかし、ここで急激な睡魔におそわれて、
コンコンと寝入ってしまって、目が覚めた頃は、
孫三人が手車に祖父を乗せて、祖父退場のシーンだった。
昨日の寝不足が響いてしまったのは、音楽があまりなくて
言葉だけだったからかもしれない。「……ござーる」のところの語尾が独特な感じだった。

と、歌舞伎でもめったに寝たりなどしないのに、さっそく不覚をとってしまった。
まあ、『邯鄲』に備えて、英気を養ったということにしておこう。
結構空席がめだっていた能楽堂は、『邯鄲』の時間になると急に満席になった。

さて、『邯鄲』。演劇風に場割りをしてみると、

第一場、高僧を訪ねる旅の途中、
書生・廬生が宿屋に立ち寄って枕を借りてまどろむ。

第二場、廬生の夢の中。勅使がやってきて
廬生に帝位をゆずる。50年間の栄華の日々。

第三場、宿屋の女主人が廬生を起こす。栄華は全部夢だった。
しばし呆然の廬生、やがて「人生何事も一睡の夢に過ぎない」と悟る。

……と、ストーリー的にはこんな感じなのだが、
本日の観能に備えて、本棚の奥から岩波文庫の『謡曲選集』を取り出して、
「邯鄲」の謡曲を読んだのだが、謡曲にちりばめられた美しい文句に
さっそく夢中になってしまって、ますます今日の『邯鄲』が楽しみになっていた。

というわけで、本文をきちんと把握していたので、
先の『財宝』のように眠くなることはまったくなくて、
約100分、曲が続く間、ずっと能舞台を凝視して、
廬生ととともに五十年の栄華を経験し、そしてストーンと現実の世界にかえって、
今のは夢だったのかと幻を見ていたのように、ずっとずっと陶酔しっぱなしだった。

「邯鄲の枕に臥しにけり邯鄲の枕に臥しにけり」と地謡が続いているところで、
橋掛からワキの一行が登場して、いつのまにか第二場になって、
大臣のワキが台を扇で二回トントンとたたいて眠っている廬生を起こす、
ここの鮮やかな展開、そして、第三場になるところで、
同じように、女主人のアイが立ち上がって、
台を扇で二回トントンとたたいて眠っている廬生を起こす、
その二回の扇でのトントンが軸のようになっている。
第二場の夢のシーンでは、リズミカルな地謡が続いて、
その美しい文句を頭のなかで追いつつ、身体全体で音楽に身をゆだねる感じ。
演劇を観ているというよりは、やはり、音楽会で何かの演奏を聴いて
大感激しているときの陶酔状態によく似ていた。
音楽に空間を包囲されて、そこに身体がすっぽりおさまって、
音楽の流れとともに浮遊している瞬間のような。

そして、『邯鄲』の一番の見所の、第二場のおしまいの「楽」の部分で、
陶酔は頂点に達して、岩波文庫の『謡曲選集』を読んでいたとき
一番うっとりしていた箇所が、やはり実際の舞台でももっとも胸がいっぱいになった箇所だった。
シテと地謡が交互に謡うところの文章とリズムとシテの舞の融合、その一瞬一瞬の美!

ちょっと戸板康二の文章を借りてしまうと(『劇場の椅子』[*] より)、
《シテと地謡とが交々に謡い、「夜かと思えば」「昼になり」
「昼かと思えば」「月またさやけし」「春の花咲けば」「紅葉も色濃く」
「夏かと思えば」「雪も降りつつ」と畳み込んでゆくあたりの面白さは無類だ。
しかも、最後に王者としてのシテは台に腰をかけ、悠々とユウケンしつつ、
宮殿の中を見まわす誇らかな姿勢になるのである。
そのすぐあとに「かくて時過ぎ頃されば」という文句がつづくのも面白い。》

……という、「夏かと思えば」「雪も降りつつ」と畳み込んだあとの文句は、
「四季折節は目の前にて、春夏秋冬、万木千草も、一時に花咲けり。面白や。不思議やな」
ここで、橋掛のまん中までシテが来て、そこに座るという型で、
わたしの席は脇正面だったので、シテと同じ角度で舞台を見回す瞬間だった。

脇正面の席だったので、戸板康二の文章でまず知った「空下り」という、
シテが舞の途中で片足を踏み外す型のところ、
すなわち、《悠々と舞っているシテの、歓楽が頂点に達した時、
一瞬、ふっと影がさすような哀愁が心をかすめるということを示すかのごとき》
箇所のところは、あんまりよく見えなかったのだけれども、
それにしても、狭い一畳台を大宮殿に見立てて舞う「楽」の箇所の至福といったら!
舞い進むうちに囃子がリズミカルになっていって、興が乗ったふうにして、
シテが舞台に降りて、悠々と舞って、そして、夢が現実に戻る直前に、
パーッとジャンプして、再び台に横臥する瞬間、
このあたりの一連の動きのところで、すっかりわたしも廬生とともに夢の世界だった。

パーッとジャンプして、再び台に横臥した直後、宿の女主人がトントンと二回扇子を叩いて
廬生が起こされることになって、すべてが夢だったと悟っていく瞬間は、
戸板康二が『邯鄲』と久生十蘭の短篇『予言』とを類推していた通りに、
『予言』のラストを初めて読んだときの瞬間のような「ストーン」と身体が落ちていく感じだった。

というわけで、はじめての能楽堂、はじめてのお能の時間は、
満を持してという感じで、思いっきり陶酔した時間だった。
日常の些末ごとから離れて、非日常の世界に身をうずめる快楽。

最後に、2000年発行の三田文学5月臨時増刊「三田文学名作選」で読んだ、
白洲正子の『散ればこそ』という文章から抜き書きを。

《お能は、無論見るのもたのしみだが、始まる前と終った後の空気が好きだ。
芝居の様に色めきたった一種特別の情緒はないけれども、
さやさやさやさやと羽二重のすれ合う様なささやきの中に、
鼓や笛の音がどこからともなく聞えてくる、何ということもないが、それがいい。
その調べは音楽とは言えないかも知れないが、何かこう弥勒菩薩的なものを感じる。
期待とか希望とかいうはっきりしたものではなしに、
来るかも知れない又来ないかもしれない緲渺とした未来へのあこがれどでも言いたいような。》



今回、能楽堂にゆく前、岩波文庫の野上豊一郎編『謡曲選集』を読む時間がとてもたのしかった。

謡曲の文章全体を実際に舞台を見ているような感覚になるように、
台本風に編集した書物で、シテの動きとかがカッコ付きで解説してあったりして、
すんなりと臨場感を感じつつ謡曲の文句を追うことができて、とてもよい。

この本は、いつかの年、岩波文庫の一括重版で発売になったもので、
本屋の店頭で見つけて手にとって、将来のお能見物に備えて、買っておいたものらしい。
それからずっと、本棚の奥で眠っていたのだけれども、
この本を購入した当時の自分を褒めてあげたいと思う。
とりあえず買っておくのもあながち悪いことばかりでもないなあと。

というようなことをぼんやりと思いつつ、『謡曲選集』をペラペラとめくっていたら、
買った当時のレシートがはさんだままだった。日付けは1999年2月17日だった。
これを見て急に思い出した。この本を買ったのは、初めて国立劇場で文楽を観た日の夜なのだ。
近松門左衛門の『鑓の権三重帷子』を見物にいって、すっかり堪能して、
歌舞伎を本格的に観るようになって半年ばかし過ぎた頃に初めて文楽をみて、
これからもどんどん文楽を見ようと、胸を躍らせていた。あれから、三年たつ。

これから、たびたび能楽堂に足を運びたいと思う。この陶酔は忘れられそうにない。

岩波文庫の『謡曲選集』に載っている30の演目のうちどれかが上演されていたら
ひょいと行ってみるとか、はたまた、東京能楽堂めぐりをしてみるとか。
今度見にゆく能はなにがよいだろう。いろいろ考えてワクワク。

いつか観たいのが『杜若』。小津安二郎の『晩春』で原節子が見ていた曲だ。




  

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