日日雑記 November 2001

07 朔日の京都半日散歩のこと
20 東京堂ショッピング

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11月7日水曜日/朔日の京都半日散歩のこと

身内に不幸があって、先週の中頃、兵庫県の父の実家に行った。
となると、せっかく関西に足を踏み入れるのだから、
一日ほど滞在を延して、どこかへ散歩へ出かけることはできないかしらと、
つい思ってしまうのが人情というものだ。(んまあ、不謹慎)

と言っても、急な話なので、ダンドリをたてる余裕などなく、
とりあえず思い立ったのが京都。

京都は数年前に一度じっくりと練り歩いたきりで、
以来、所用で二度ほど来たことがある程度で、土地カンはほとんどない。
のだが、わたしの手元には、「sumus」第4号付録の《スムース流京都カルチャーマップ》がある、
これがあれば大丈夫、とりあえず行ってしまおうではないか、と思った。

本屋さんと喫茶店が一通り載っている《京都カルチャーマップ》、
日頃から大好きな本屋さんと喫茶店、舞台装置が京都であるのだから、
あこがれはさらにつのり、眺めるだけで心が躍る。

この地図を初めて手にしたのは、殿山泰司の『JAMJAM 日記』に
スイングしていた直後のことで、文中に何度か登場する京都シーン、たとえば、

《タクシーはキライだから市電の東山線で祇園に出て、
〈一力〉裏のなじみの〈御飯処〉で松茸めしと鰯の煮付を食い、
河原町をぶらぶら歩いてから三条寺町通りの〈スマート〉でコーヒーを飲む。
京都では〈イノダ〉もだけどこの店のコーヒーもうまい。……》

《三条御池の〈京都ホテル〉に入る。このホテルはオレの定宿のヒトツともいえる。
知っている顔のフロントのニイサンに、いつもの安い部屋でいいから、
なんて交渉してたら、外から帰って来たらしい桃井かおりとばったり会う。
勝プロの仕事できているという。一緒にエレベーターに乗りオレは先におりる。
それだけのハナシ。なんだか残念なような心残りのような気もするな。
残念と心残りは同じ意味か? 部屋にバックだけおいて、
すぐ外に出て、朝日会館地下の〈河道屋〉で千円の天ぷら定食を食い、
三条通りの本屋で檀一雄の「火宅の人」を買い、寺町通りの〈スマート〉でコーヒーを飲む。
タバコ値上げ直前なので、帰りにレジスターでホープ6ヶ買う。それで丁度500円だからだ。》

こんな感じの箇所を目にしたあとで、固有名詞を確認すべく
《スムース流京都カルチャーマップ》を眺める、その時間のなんと至福なこと!

『JAMJAM 日記』とスムースの夏の日々の思い出を胸に、
スマートでコーヒーを飲みながら本を読みたいな、と思った。
ガイドブックは持っていない。京都の町並みに関する知識も数年前のおぼろげな記憶しかない。
とりあえず、《スムース流京都カルチャーマップ》だけで、いざ京都、なのだ。

そんなこんなで、お葬式はしめやかにいとなまれ、故人の冥福を祈りつつ
うわー、小津安二郎の『小早川家の秋』みたーい、などと思ったりも。(←バカ)

10月最後の日、先に帰る母を伊丹空港まで見送ったあと、
空港の出口のバス乗り場から、京都行きの高速バスに吸い込まれるようにして乗り込んで、
水曜日、夜の京都にたどりついた。さっそく東京の友人に電話して、
知っているホテルを教えてもらって、とりあえず、地下鉄で烏丸御池へ。
御池通り沿いのとあるホテルに泊って、ぐっすり眠った。

それにしても、思いがけなく、京都へ行けてしまうなんて、
ちょっとびっくりだった。(どこまでも不謹慎)

……と、前置きが長くなってしまったけれども、ここから先は、11月朔日の京都半日散歩のことを。



思いっきり早起きして、七時過ぎに宿を引き払った。
泊ったホテルがイノダ本店のわりと近くだったので、もちろん、朝食はイノダコーヒにて。
開店からそんなにたっていなかったにも関わらず、満席に近くて、
少し奥まった方の、高い天井の下の、丸いテーブルに座った。
中庭からの明るい光の下で、ワイワイガヤガヤと客席は賑やかで、
さっそく幸福感でいっぱいになった。たぶんイノダに訪れた人全員が陥る感情。
いつもはブラックで飲むコーヒーも、今朝だけはミルクとお砂糖入りでお願いした。
殿山泰司が飲んでいたコーヒーと同じになるかしら、などと思ったのだ。
朝のイノダコーヒの店内、お客さんがほとんどおじさんだというところに、さらに好感を抱く。
隣のおじさん一人客の真似をして、店内据え付けの京都新聞に目を通したあと、
家から持って来た本、渡辺保の『千本桜 花のない神話』(東京書籍)をじっくりと熟読。
3日土曜日、国立劇場の『義経千本桜』を通しで見物することになっていたので、
その準備のためにと、読み進めていた渡辺保の本なのだが、
イノダコーヒで読み終えることになるとは、それにしてもちょっとびっくり。
あまりに居心地がよいので、ずいぶん長居をしてしまって、九時過ぎに店を出た。
イノダコーヒで朝食を食べる朝が一生に一度はあってもよい、
という感じの、一期一会的な幸福感だった。

そんなイノダコーヒの余韻にひたりつつ、三条通を鴨川に向かって直進する。
ホテルからイノダコーヒまでの道筋でも思ったことだけれども、
京都はちょっとした路地に垣間見るちょっとした風景、
しかもそれは京都以外では絶対に見られないような光景なわけで、
たとえば、古い木造建築のたたずまいとか実にすばらしいものだ。
特に建築のことは、「暮しの手帖」の清水一の随筆のことが記憶に新しいので、
歩きながらつい、清水一の目線になって、いろいろ眺めてしまう。
まだ一日が始まったばかりの時間の、京都路地歩き、ああ、なんという至福!
と、ひさしぶりの京都の町の匂いのようなものに、思いっきり酔いしれた時間だった。
三条通が寺町通とクロスしたところで、スマートの店先を見に行ったりもして、
それからまた三条通に戻って、さらに直進して、鴨川を渡った。

地下鉄に乗って、出町柳で叡山電鉄に乗り換えて、修学院駅で下車。
叡山電鉄に乗ったのは今日が初めて、かつての世田谷線を彷佛させる電車で、
比叡山方面に来るのも今回が初めてだ。目的は、前々から行きたいと思っていた曼殊院。
駅に設置の観光案内図で道筋を確認して、てくてくと歩いていった。
20分ほど歩いて、しばし坂道が続いて、その道を踏みしめていると、
《山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。》
とかなんとか、突然なぜか漱石気分になってしまって、それがなかなか愉しかった。
漱石気分になったのは、『虞美人草』のことを思ったからかも。

曼殊院は建築と庭園の全体の調和もさることながら、ディテールに楽しみが尽きなくて、
そこかしこにちりばめられてある小物がどこまでも優美で繊細で滋味あふれている。
ここでもやはり、清水一の建築エッセイのことが頭に浮かんで、
柱のちょっとした意匠など、いろいろ目をこらしてしまった。
片隅に、谷崎潤一郎が寄贈したという鐘が吊るしてあって、「おっ」と思った。
《あさゆふのかね能ひびきよ吹きそへよ我たつ杣乃やまおろし能かせ》
という和歌が添えてあって、手帖に書き写して、谷崎と京都のかかわりに思いを馳せつつ、
『細雪』に京都でお花見する場面があったということを思い出したり。
とかなんとか、曼殊院では突然谷崎気分になってしまって、それもなかなか愉しかった。
それから、お茶道具の展示もとてもよくて、目をこらしっぱなしの曼殊院だった。
嵯峨野の禅寺のように縁側に腰掛けて庭園を眺めるというわけにはいかないところが
少し残念だったのだけれども、典雅で静かな空間に身をしずめる歓びを味わうと同時に
美しいものを眺めて心がすーっとしてきて、とても気持ちがよかった。

曼殊院とともに、前々から行きたいと思っていたのが詩仙堂なのだが、
うっかり道を通り過ぎてしまったようで、叡山電鉄の線路まで来てしまって、
ここまで来てしまったのならば、いざ一乗寺駅、一刻も早く恵文社へ行きたいわッと、つい早歩き。

ウェブの方では何度かお買い物をしたことがあるけれども、
恵文社一乗寺店の店内に実際に足を踏み入れたのももちろん今回が初めて。
そして! あこがれの恵文社は、思っていた以上に素晴らしいお店で、
これまでの山歩きの疲れが一気に吹っ飛んだ悦楽の時間だった。
ここでもずいぶん長居をしてしまって、くまなく店内を一巡二巡。
荷物になるので、お買い物は自粛する予定でいたのだけれども、
昔の「暮しの手帖」、しかもわたしが切望していた昭和20年代の
「美しい暮しの手帖」が数冊売っているのを見て、「キャーッ!」と大興奮。
と、そんなこんなで、ここで、お買い物メモを。

【恵文社一乗寺店・お買い物メモ】

● 「美しい暮しの手帖」第13号(昭和26年9月発行)
昭和20年代の暮しの手帖を手に入れるのは、
創刊号(←3年前に神保町で500円で購入)に続いて二度目。
恵文社の古書コーナーに数冊並ばれてあった昭和20年代の「暮しの手帖」は一冊800円。
ちょっとお値段高めなので、慎ましく一冊だけ購入することに決めて、吟味に吟味を重ねる。
この号を選んだのは、目次に獅子文六の名前を見つけたから。
戸板康二の『歌舞伎ダイジェスト』[*] は「四谷怪談」が取り上げられている。
清水一の建築エッセイ「家のある風景」は連載二回目。
衣食住をバランスよく配置して、オペラ、歌舞伎、映画など趣味ページを加えた構成。
この号の唯一のカラーページは牧野富太郎による「日本の花 秋から冬にかけて」。
この頃の、文章ページばかりの誌面が特に大好きで、日頃から古書店での邂逅を夢見ている。
そんなめったにない、昭和20年代の「暮しの手帖」に出会うというよろこびを、
旅行先の京都で味わうことになった展開を、心からよろこびたい。

● 三島由紀夫『お嬢さん』(講談社、1967年)
この本の存在は、恵文社の店頭で初めて知ったのだけれども、そのタイトルに一目惚れ。
三島由紀夫による少女小説だなんて、考えただけでワクワクしてしまうのではありませんかッ。
川端康成の『女であること』の風俗小説的描写がとてもよかったので、
似たような読後感を期待しつつ、500円と安価だったこともあって、購入を決意。



そんなこんなで、今回の突発的京都半日散歩は、
イノダコーヒで朝食を食べたというだけでも、朝の三条通を散歩したというだけでも、
曼殊院に至る道筋での山歩き気分だけでも、曼殊院の空間に居合わせただけでも、
もしくは、恵文社に足を踏み入れた上に買物まで出来てしまっただけでも、
大成功だなあと幸福感にうちひしがれつつ、一乗寺駅から叡山電鉄に乗り込んだ。

ここからの行き先は全然決めていなかった。電車の中で、大急ぎで、
スムース付録の地図を眺めて、数年前の京都旅行で大変感激した進々堂を再訪して、
ゆっくりと買ったばかりの暮しの手帖を眺めて、それから大好きな寺町通を歩く、
というダンドリでいこうなどと、三分で結論を下して、とりあえず元田中で電車を降りた。

《スムース流京都カルチャーマップ》で方向を確認して、京大方面へとてくてく歩いた。
日射しがまぶしい。もしかするともっと効率的な行程があったかもしれないけれども、
スムースの地図しか持っていないのだから、こうするよりいたしかたなかった。
しばらく歩けば、京大の前にたどり着くだろうとマイペースに歩いていったのだったが、
しかし! ああ、なんということなのだろう、ここで、呪われた運命が待っていようとは!

東大路通をくだりながら、ところどころに点在する、
昔からあるような建築物を見つけてはキョロキョロとしていたわたしの視界の片隅に、
《青空古本まつり》と書かれた幟がチラチラとかすめてくるではないか。
このところの散財続きを深く反省して、神保町古本まつりを自粛していたというのに、
よりによって旅先の町にして、別の古本まつりに遭遇してしまうとは!
思わずよろけてしまうのだったが、吸い込まれるようにして、
《青空古本まつり》の会場の百万遍知恩寺へと足を踏み入れて、しまいには早足に。

と、そんなわけで、《青空古本まつり》の会場をくまなく練り歩いた。
時折、お寺の建物の中からのお経が会場に響き渡るのがなかなか風流でよろしかった。
多数の古書店が出店していて、会場はかなり広いのだけれども、
それぞれの古書店のブースで会計をする仕組みで、お値段もそんなには安価というわけでもない。
劣情の波にさらわれて買い過ぎてしまうということはなく、
落ち着いて、それぞれの本屋の棚を眺めるという感じだった。
くまなく練り歩いているうちに、どんどん落ち着きをとりもどし、
買い物気分というよりは、物見遊山気分へとシフトしていった。
と言いつつ、500円コーナー(3冊だと1000円)で2冊のお買い物、
無理矢理に選ぶということもなく、2冊に抑えたおのれの冷静さを評価したい。

【百万遍知恩寺秋の古本まつり・お買い物メモ】

● 『歌舞伎全書 第2巻 戯曲篇』(東京創元社、昭和31年)[*]
戸板康二編集の『歌舞伎全書』の2冊目。
どんな本なのだろう? と前々から気になっていたもの。
目次を眺めてみると、面白そうな文章ばかりで
「今すぐこの本を読みたいッ」という気分にさせてくれる。
歌舞伎の歴史を戯曲という側面から捉え直すことができる仕組みになっている。
この本の幸福なところは、月報にもあって、
会場で幸田文の文章を立ち読みして、胸がいっぱいになった。
露伴から《都会にいるものが芝居も知らないでいるというのではちと困る》と、
父親にすすめられる形で初めて芝居見物に出かけることになった幸田文は、
同時に《けれども芝居はひとを捕虜にする名人だから、ひ弱いふらふら娘なんかが行けば、
忽ちしばられてしまう。それも困る》というふうにも言われたとのこと。
あーあ、ひ弱いふらふら娘のわたくしは忽ち芝居にしばられてしまったですよ、とニンマリ。
幸田文の随筆で芝居のことを書いたくだりがもっとあったかもと少し気になってきた。
幸田文の文章をよく読んでいたのは、歌舞伎に夢中になる以前のことだったので、
芝居に関するくだりがあったとしても印象に残らなかったような気がするのだ。
小宮豊隆による推薦の文章は《戸板康二君の責任編集で『歌舞伎全書』が出版されるという。
私は戸板君のファンである。戸板君は頭がいいし、センスがいいし、
腕がいいし、まじめな勉強家である。……》という書き出しになっていて、
こんな感じに先輩に目をかけてもらっている戸板康二の交友ぶりの一端が伺えて、いい感じ。
久保田万太郎の文章は、《歌舞伎を愛する人が、この全書によって、
歌舞伎を知る人となることを、よろこばしく思う》という言葉で締めている。
わたしも芝居にしばられているだけではなくて、歌舞伎を知る人になろう、とフツフツと思った。

● 吉村公三郎『京の路地裏』(読売新聞社、昭和53年)
上記の『歌舞伎全書』1冊のみ買おうと会計に向かおうとした瞬間、目に入った書物。
黄金町のシネマ・ジャックで目下開催中の吉村公三郎特集に行きたいッと
ちょうど思っているところだったので、「おっ」と思わず手にとってしまった。
吉村公三郎の映画をもっと観たいと常々思っているのだけれども、いつも機会を逸してしまっている。
最近は、5月に『偽れる盛装』を観たっきりだ。祇園の町並みが主役という感じの映画で、
町を捉えるカメラがかっこよかったなあということを思い出した。



日頃のすさんだ日常をわすれて、風雅に京都散歩をと思っていたというのに、
よりによって古本市に遭遇してしまうとは因果な身の上だなあと思いつつ会場を出た。
先ほどの進々堂で一休み計画はいつのまにかどこかへ飛んでしまって、
たまたま通ったバスが丸太町に停車することを察知して、とっさに乗り込んだ。

先ほどの古本まつりの邪念をふりはらって、静かな境地で寺町通をゆっくりと下っていく。
と言いつつ、ここでも本屋さんをのぞかねばならぬ。あこがれの三月書房
恵文社一乗寺店も素晴らしいけれども、三月書房も実にすばらしい。両極的にすばらしい。
三月書房は、寺町通の風情への溶け込み具合が見事で、町と一体化している本屋さん。
中の棚は眺めるだけで、なにかの書物を読んだかのような気分になる感じ。
荷物が重たくなると困るので、買い物はしないつもりだったのだったのが、
発売が待ち遠しくてムズムズしていた、内堀弘さんの新刊、
『石神井書林日録』(晶文社)の背表紙をはじめて目にして、
そのあたりのコーナーと『石神井書林日録』との並び具合もじつによい雰囲気で、
そして、この本を三月書房で買うなんて、あまりにも似つかわしいと購入を決意。

【三月書房・お買い物メモ】

● 内堀弘『石神井書林 日録』(晶文社、2001年)
石神井書林の新しい目録が届いたばかりで、週末にうっとりと眺めていたばかり。
そこで、巻末にちらりと『石神井書林 日録』の発売を告知してらして、
いよいよ出たのねッ、とひとりで大喜びして、東京堂へ買いに行こうと思っていたのが、
なんと京都の三月書房で買うことになるなんて!
このあと、喫茶店でさっそく読みふけって、一気読み。またじっくり読もうと思う。
昭和10年代の詩雑誌に殿山泰司の投稿が載っていた、というくだりにワクワク。
3月に『ボン書店の幻』を読んだことと、4月の石神井書林の目録との出会いは、
今年の出来事で幸福だったことのひとつだったなあと懐かしく思い出す。



寺町通は、数年前の京都旅行の折にも、特に大好きだったゾーン。
あのときの至福が鮮やかに胸によみがえってきて、静かな幸福感にひたった。
数年前の旅行のときに、八百卯を見に行って感激していたのだけれども(レモンは買わなかったが)、
今回も、三月書房を出てふらふらと寺町通を下って、八百卯が目に入った瞬間がとてもよかった。
寺町通では、『石神井書林 日録』のほかにも、紙製品やら漬け物やら
小皿やら御猪口やら徳利などなど、ちまちまといろいろとお買い物。

当初の予定では、そのまま寺町通を下って、スマートでコーヒーを飲むつもりだった。
が、先ほどの進々堂と同じく、スマート計画はいつのまにかどこかへ飛んでしまって、
高瀬川を見に行きましょうと、寺町通を離れて、木屋町通に出て、
水辺をぼんやりと眺めたあと、御池通に向かう道すがらの、通りがかりの喫茶店に入った。
サヴォイという名前の喫茶店で、木屋町通に沿ったそのたたずまいがとてもいい感じだったのだ。
サヴォイという名前もプラハのカフェを思い出させてくれて、とてもいい感じ。
そういえば、プラハと京都はとても似ている。今回もしみじみ思った。
サヴォイの店内のインテリア等は特に何と言うこともない感じだったのだけれども、
ジャズがかかっていて、サンドイッチをつまみながらの読書、妙に居心地がよくて、
これまでに購入した書物をいろいろ眺めつつ、ゆっくりとくつろいだ。

あとで、《スムース流京都カルチャーマップ》を見ていたら、サヴォイもしっかり載っていて、
もしかするとこの地図に載っているお店は皆信用してよいということなのかも。
今回の京都半日散歩は、本買いに走り過ぎたきらいはあったけれども、
今後の京都旅行への意欲がふつふつと湧いてくる感じで、
ぜひとも近いうちに再訪したいと、張り切っている。

関西というと、5月に戸板康二の『いろはかるた』[*] を読んで幸せな気持ちになっていたときに、
初めて存在を知った、滴翠美術館にぜひとも行きたいと思っていたのだけれども、
父の実家から実は近かったということをあとで知って、地団駄を踏んでしまった。
まあ、今回、兵庫―大阪―京都の交通事情などもだいぶわかってきたので、
今後の京阪神めぐりへのよき経験になったかと思う。あと、京阪神というと、
どうしても谷崎のことが頭に浮かんで、それもまたたのし、だった。




  

11月20日火曜日/東京堂ショッピング

本棚の奥から中央公論社版のチェーホフ全集を取り出して読みふけったり、
ディスク棚からモーツァルトを次々と引っこ抜いて、いろいろ聴いていたり、
気がつけば11月も下旬、今月は主にチェーホフとモーツァルトの日々だ。

チェーホフ全集再読に余念がないのは、Amazon.co.jp から届いた
ナボコフの『ロシア文学講義(Lectures on Russian Literature)』に刺激されて、
モーツァルトにひたすら聴き惚れているのは、大岡昇平の文章がきっかけ、
……と、先月のお買い物の余韻はいまだ覚めやらずといった感じなのだった。

先月とはうってかわって、今月は散財に走ることもなく、
穏やかに日々が過ぎていたのだけれども、
何週間も東京堂に足を踏み入れないとさすがに身体がムズムズとしてくる、
というわけで、本日の夕方、神保町に立ち寄って、いざ東京堂へ。

各フロアをくまなく見てまわり、二階の文学書コーナーにたどり着いた。
さっそく「おっ」となったのが、白水社の海外文学コーナー、
池内紀の訳で目下刊行中の《カフカ小説全集》の最新刊の第五巻、
『万里の長城ほか』をふと手にとって目次を繰ってみると、
わたしの偏愛小説『ある戦いの記録』が収録されているではありませんか!

三年ほど前に図書館で借りた新潮社版の全集で読んだきりなのだけれども、
なぜだか不思議と心に残っていた小説で、たまに古本屋の店頭で思い出して、
全集の端本が売っていないかしらと探していたりもしていた。
それが今回、池内紀の新しい訳で再会することになるなんて!
こんなに嬉しいことはない。胸がジンとなってくるくらいに嬉しい。
このあと、どこかの喫茶店で『ある戦いの記録』を読むとしよう、と即購入を決意。
白水社の《カフカ小説全集》のことは発売以来ずっと気になっていたのだけれども、
つい買い損ねて今日に至っていた。『ある戦いの記録』に再会したのを機に、
これから少しずつ白水社の《カフカ小説全集》を一冊ずつ読んでいこうと、
明日の本読みの意欲がモクモクと湧いてくるのだった。

それからも二階の棚をあれこれ見てまわって、
鹿島茂の書評集『解説屋稼業』を立ち読みして、
そこに載っていた大岡昇平全集の月報掲載の文章を読んで感激したり、
関川夏央の『本読みの虫干し』(岩波新書)を立ち読みして、
獅子文六に関してわりと長めの文章を目にして、つい読みふけってしまったり、
……といった感じにいろいろと立ち読みを繰り返したあと、
ある一角に行ってみると、三一書房の久生十蘭全集が端本で売っていて、びっくり。

三一書房の久生十蘭全集はとっくに版切れになっていると思っていたのだが、
なんと、東京堂で売っていたとは! これは大変と、全七冊をくまなくチェックして、
今日は、かねてからの夢だった『キャラコさん』が載っている第七巻を購入することに。

そんなこんなで、本日の東京堂ショッピング(二階)は、2冊とも全集の端本。
● 白水社『万里の長城ほか(カフカ小説全集5)』
● 三一書房『久生十蘭全集 第七巻』

とある喫茶店で、さっそく読みふける。久生十蘭全集の月報、
伊馬春部による文章は久生十蘭の演劇人としての側面を綴っていて、
獅子文六のこともちょろっと登場していてとても興味深い。
『キャラコさん』を読む日が待ち遠しい!

カフカの『ある戦いの記録』、新潮社の全集で読んだ、
マックス・ブロート版は二つの草稿を折衷させていたのだが、
今回の新訳は、A稿とB稿と二種類を掲載している。
今回改めて読んでみて、池内紀のなめらかな翻訳の効果もあって、
ゴダールの初期の映画を観ている瞬間のような、もしくは、
ラウル・クタール撮影の白黒画面を眺めている瞬間のような、
なんだかもう言葉では説明できない、幸福な時間だ。

《いまや自分が何をすべきかもわかっていた。
恐るべき出来事に直面すると、確固とした決断が生まれるものなのだ。
逃げるが勝ちであって、それも簡単至極。
左に曲がるとカール橋に踏みこむところを、右に曲がってカール通りへ駆けこめばいい。
この通りはうねっていて、暗い戸口があるし、まだ開いている酒場もある。
絶望するのはまだ早い。》

部屋に帰って、『ある戦いの記録』の余韻とともに、
ピーター・シスの『The Three Golden Keys』という絵本を繰った。
8月に発売の、雑誌「Pen」の絵本特集を見て、アマゾンに予約して先月に届いた絵本。
ピーター・シスはクンデラと同じチェコのブルノ出身で、現在ニューヨーク在住。
『The Three Golden Keys』はプラハを舞台にした絵本で、
進行とともに色合いが変化する街のディテール描写がとても素敵。
今夜も部屋での音楽はモーツァルト。プラハにはモーツァルトがよく似合う。
  



  

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