日日雑記 August 2001

02 谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』を再読、小出楢重
05 プルーストの花園、ナンシーの蝶
08 『JAMJAM 日記』でココロをスイング、殿山泰司と戸板康二の接点
12 ロージナ茶房でコーヒー、洲之内徹の『気まぐれ美術館』
14 幕見で『勢獅子』、銀座6丁目の銀緑館・浅草のアンヂェラスへ
19 東京国立近代美術館工芸館の展覧会:《くらしをいろどる》
21 3つの郵便物[洲之内コレクション図録、スムース、吉田健一]

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8月2日木曜日/谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』を再読、小出楢重

谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』を再読した。今回で3度目。

初めて『蓼喰う虫』を読んだのは2年前で、
その年の始めに国立劇場で初めて文楽を観て、
一気に文楽が大好きになってしまって、
そのことを当時このウェブサイトに書いて、
それを読んで下さったさる方からのお手紙に、
『蓼喰う虫』に文楽見物の場面が出てきて云々というくだりがあって、
その文面をみて、んまあ、ぜひとも読んでみましょうッ、
ということになったのがきっかけだった。

初めて観た文楽は近松の作品だったのだけれども、
情念うずまく一筋縄ではいかない人間関係を語りながらも
どこかおかしいというか、少しずらして笑いをとる匙加減が絶妙で、
大阪人ならではの笑いのセンスをあちこちで垣間みたように思った。
そんなこともあって、いわば文楽を通してはじめて
大阪の空気がなんとなくいいなあ、とぼんやりと思いはじめた。

そして、初めて読んだ『蓼喰う虫』、
冒頭からして夫婦が道頓堀の劇場へ文楽見物に行く場面が登場、
その劇場では「通人」生活を送る妻の父の老人が待っていて、
その老人は若い京女を従えていたりする。
夫婦が文楽見物にやって来たそもそものきっかけは老人への義理立てで、
夫は普段はむしろハリウッド映画やらジャズやらを好むたちだった。
が、いざ文楽を観てみると、思いがけなく堪能してしまっている自分を発見することとなる。

その道頓堀に至る道筋の描写は、さながらモダン都市大阪という感じで、非常に胸が躍った。
物語に登場するのは夫婦ともに東京出身で、老人は京都で隠居、
それから淡路島へ郷土芸術としての人形芝居を見物に行ったり、
神戸の外国娼婦が登場したりと、都市小説的たのしみが詰まっている上に、
登場人物たちの生活にかぶさるのは、大震災後に関西へ移住した谷崎の、
関西の風土への、東京人から見た京阪神、すなわち他者のまなざしだ。
『蓼喰う虫』の一番の魅力は、谷崎による文明論的文章に触れること、
谷崎とともに京阪神を他者として垣間見ることにあった。

と、そんなわけで、1999年の始めに文楽を見ることで、
なんとなく大阪への憧れのようなものを抱くこととなり、
去年は須賀敦子さんの文章を一気に読んで、
その底辺にある京阪神の空気がとてもよかったりもして、
関西へのあこがれはさらにつのり、現在に至っている。

と言っても、特に何かしているというわけではなく、
関西の空気がいいなあとなんとなく思っている、という程度なのだが……。

さてさて、3度目に読む、『蓼喰う虫』。

前回は2回とも新潮文庫版で読んでいたのだが、今回は岩波文庫。

何ヶ月か前に、古本屋の棚を何気なく見ていたところ、
岩波文庫の『蓼喰う虫』は小出楢重の挿絵が全点収録されているというのを初めて知って、
んまあ、これを見逃していたのはとんだドジであったと、思わず購入したのだった。

ちょっと眺めて見ただけでも、
小出楢重の挿絵がなんとも素敵、『蓼喰う虫』の空気にぴったり。
挿絵界の、東の横綱が木村荘八による荷風の『墨東綺譚』だとすると、
間違いなく、西の横綱は小出楢重による谷崎の『蓼喰う虫』に決定だ。

新潮文庫の『蓼喰う虫』は脚注が詳し過ぎて、
もちろん楽しい面もあるけど、少々うるさい感があった。
今回の岩波文庫は、ところどころに小出楢重のモダーンな挿絵が挿入され、
全体のつくりがすっきりしているので、とても読みやすかった。

そして、『蓼喰う虫』は荷風の『墨東綺譚』と同じように、読めば読むほど面白い。

山口瞳の、たしか戸板さんの追悼が載っている『年金老人奮戦日記』に、
鏑木清方や小出楢重の随筆のような好きな本はトイレでよく読んでいる、
という感じのくだりがあって(記憶は少し曖昧)、ここを読んで、
わたしも鏑木清方の随筆は大好きなので、それでは小出楢重もと思って、
岩波文庫の『小出楢重随筆集』を近所の古本屋で購入して、それっきりになっていた。

なので、『蓼喰う虫』を機に、今、『小出楢重随筆集』を少しずつ読んでいるところ。
画家の随筆の東の横綱が鏑木清方なら、西の横綱は間違いなく小出楢重に決定だ。

鏑木清方の文章に出てくる東京の空気とまったく同じように、
小出楢重の文章に出てくる関西の空気がとてもいい。
さらに、文楽を見ている途中、ついクスクス笑ってしまうときと
まったく同じようなおかしみが、小出楢重の文章にはある。




  

8月5日日曜日/プルーストの花園、ナンシーの蝶

昨日土曜日に、渋谷の文化村へ、《花の様式ナンシー派展》という展覧会を見に行った。

ロレーヌ地方のナンシーで総合的展開をみせたアール・ヌーヴォー芸術が
「ナンシー派」で、そこには日本の芸術が大きな影響を与えている。
その展開も工芸や絵画、家具や本の装幀など広範囲に及んでいるので、
個々の作品そのものへの個人的な好みを超えて、
おのおののモティーフをじっくりと眺めるのがとても楽しかった。

実のところは「あまり好みじゃないかもなあ」などと
ほとんど期待していなかったのだけど、ずいぶん楽しむことができた。
こんな主体性なしの展覧会見物もなかなかよいものだなあと新発見。

で、思いがけなく、《花の様式ナンシー派展》の記憶が尾をひいていて、
『プルーストの花園』(集英社、1998)という本を取り出して、ひさびさに読みふけった。

この本は、プルーストの文章、主に『失われた時を求めて』の花の登場するシーンを、
花の種類別に美しい絵とともに引用しているという体裁の、うるわしの1冊。

こういうアンソロジーではなくて、いっそのこと『失われた時を求めて』を
全文通して読みたいなあと思うのだけど、まだただ憧れているだけだ。



それから、またもや《花の様式ナンシー派展》が尾を引いて、
ふと思い出したのは、戸板康二の随筆で、
ナンシーを訪れたくだりがあったなあということ。

本棚の戸板コーナーで戸板康二のエッセイ集をいろいろめくってみた。
目当ての文章は『午後六時十五分』[*] という本にあった。

戸板康二は演劇祭の見物のためにナンシーを訪れていて、
その滞在記は、「ナンシーの日日」と「ナンシーの蝶」と2つあり、
演劇祭の詳しいことは「ナンシーの日日」にあって、
「ナンシーの蝶」の方は、ナンシー派美術館を訪れたことが書いてあった。

昨日の展覧会の出品作品はナンシー派美術館所蔵のものがかなりあり、
その記憶が鮮明な今読んでみると、さながら戸板さんと
ナンシー派美術館を見学している気分になる。なんだかとても嬉しい。

ナンシー派美術館はナンシーの富豪だった百貨店の経営者、
アール・ヌーヴォーの蒐集家の邸宅が使われていて、
そこの家具や調度品すべてにわたって、つまり実生活の隅々まで
コレクションを網羅していること、その優雅な弧に圧倒されているくだりのあと、
以下の一節を目にしたときは「おっ」という感じだった。

《ナンシー派の絵が一室に集められていて、隣の部屋に移ると、
こんどはポスターが展示されていた。
明治の終わりに北野恒富が開いた博覧会のポスターや、
大正のはじめに杉浦非水が描いた三越呉服店のポスターは、
あきらかに、ここにあるポスターと系譜を同じくしている。
帰国してから、「日本の広告美術」という本に原色で縮刷されている
非水の絵を見ると、ひさし髪の美人の着物には蝶があり、
構図の中には、さらに撫子、チューリップ、椿、洋蘭、桜草が、
帯や襟、椅子のマットあるいは花瓶に、ちりばめらている。
松井須磨子のカチューシャの歌が聞こえて来そうな、
大正のなつかしい絵柄で、これぞまさしくナンシー派そのものだった。》

日本のアールヌーヴォーというと必ず言及される、杉浦非水の三越のポスター。

このポスターは、わたしの愛読書の、
矢野誠一著『大正百話』(文春文庫)の表紙になっているので、
今度は本棚から『大正百話』を取り出して、しみじみ眺める。
戸板さんの言う通り、これぞまさしく大正の気分なのだ。

三越のポスターは大正3年の作品で、
非水は昭和初期に今度は地下鉄開通のポスターを制作していて、
そちらの方は、アールデコをそのまま取り入れている。
大正ベルエポックの気分と、昭和モダニズムの空気。
非水のポスターはそれぞれをヴィヴィッドに視覚化してくれている。

わたしはアールヌーヴォーよりはむしろアールデコが大好きで
(日本のアールデコ着物はあまり好きではないけど)、
そんなことからも、日頃から昭和初期モダニズムのあれこれに
心惹かれる理由の一端がなんとなく見えてくるような気も。




  

8月8日水曜日/『JAMJAM 日記』でココロをスイング、殿山泰司と戸板康二の接点

4月にほんのなりゆきで、殿山泰司の文章を読み始めて、
さっそくメロメロになってしまった。
すなわち、殿山泰司の文章を目にした人全員が
きっとそうなるであろう症状にわたしも陥ったのだった。

初めて読んだのは《三文役者の小説集》と銘打った『バカな役者め!!』。
それから、『三文役者あなあきい伝』を読んでとにかく胸がいっぱいで、
大変大変、こうしてはいられない、ちくま文庫の殿山泰司を買い占めろ! 
というわけで、すぐさま、ちくま文庫の殿山泰司著書全5点が書棚に並ぶこととなった。

これは以前、ちくま文庫の山田風太郎の明治小説集が
すぐさま書棚に収まった経緯とまったく同じだ。
そして、いったん手にとれば、すぐに夢中で読みふけるに違いないので、
なかなか手にする勇気が出ない、未来の楽しみが減ってしまうのがツラい、
という点でもまったく同じであった。
(今となっては明治小説集、全部読んでしまったのだけれども)

と、そんなわけで、明治小説集のときと同じように、
ふいと突然、書棚から『JAMJAM 日記』を取り出した。
そして、読み始めたとたん、思わず踊ってしまいたくなるくらいに夢中になった。
なんだかもう、そのすべてが、目がウルウルしてくるくらいに眩しい。

前も思ったことだけど、殿山泰司の文章は音楽そのものなのだ。
その文章を目で追っていると、胸がキュイーンとしてくるこのスイング感。
まったくもって、殿山泰司はなんて素晴らしいのだろう!

殿山泰司の文章に心をスイングさせつつも、たとえば、

《森茉莉の古いエッセイ集「私の美の世界」と金井美恵子の
新しいコント集「アカシア騎士団」をつづけて読むという実験をしてみたら、
オレはゆうべ、森サンのらしきアパルトマンの部屋で、
オレと森サンはフライパンをフェンシングのように交差させながら
プレーン・オムレツをつくっており、金井サンはソファで大きな黒猫と
サシでウィスキーをのみながら「おまえさんは白痴よ!!」と叫んでおり、
窓の向こうの霧の中を白石かずこサンがカヌーを漕いでいるのに、
カヌーはちっとも進まないでいつまでも窓のフレエムにおさまっている、
なんて夢をみたぜ。けったいな夢を見るもんやな。……》

なんていう一節を目にして、フフフフと、わたしも思わず真似したくなって、
書棚の奥から『私の美の世界』と『アカシア騎士団』を取り出して、
交互にパラパラッと読みふけってしまったりとか、
そんな思わぬ寄り道もまたたのし、だった。



ところで、戸板康二道まっしぐらの身としては、
メロメロになってしまった殿山泰司と日頃から激しく私淑する戸板康二が
同じ1915年生まれだという事実がとても嬉しかった。
坪内祐三の『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』が出たばかりの頃だったので、
わたしも真似して、「大正四年生まれ」構想を練ろうと決意したのだった。

……と言いつつ、特に突っ込まれることなく現在に至っているのだけど、
ある日、ちくま文学全集の刊行案内を目にしていて、
1915年生まれの作家に梅崎春生がいることを発見した。
梅崎春生! まったく読んだことはなかったのだけど、
これを機に読んでみることにして、そして思わぬ経緯で
好きな作家発見、ということにもなるかもしれぬ、とほのかに期待したりも。
と言いつつ、梅崎春生、いまだ未読なのだが、
いつの日か、必ずやその文章を読む日が来るのは確実だ。

しかし、わたしの「大正四年生まれ」構想は、
すでに戸板康二本人によって先を越されていたことが発覚してしまった。

ある日、『あの人この人』[*] を読みふけっていた折、
「十返肇のアンテナ」の項で、以下の一節を見たときは、ワオ! だった。

《十返さんは私より一つ上だった。大正四年生まれの梅崎春生、
野間宏、巌谷大四、ジャーナリストの頼尊清隆、文藝春秋の徳田雅彦と、
同年の卯年の仲間が時折飲む会を作ったが、或る一夕、
ひとつ年上の「お兄様」「お姉様」をゲストにしようというので、
十返さんと芝木好子さんを招いたことがある。》

うーむ、なんということなのだろう。わたしが発見したと思っていた、
戸板康二と梅崎春生が同年生まれという事実だが、
戸板さんは一歩先を行き、会合まで開いていたというではないか。負けた。

さてさて、梅崎春生と戸板康二の接点が明らかになって、
次に気になったのが、同じく大正四年の卯年仲間の殿山泰司とは
接点はあったのかそれともなかったのか、どっちだろうということ。

しかし、そんな疑問も『あの人この人』を読みすすめればすぐに解決してしまうのだ。
「宇野信夫の巷談」の項で、以下の一節を見たときは、ワオ! だった。

《宇野さんはついに、マールイのために
「寂しき理髪師」という芝居を書き下ろしてくれた。
昭和52年の3月だったが、今まで随筆にしている宇野さんの周辺の
奇人の一人である床屋の主人の何とも哀愁のある生き方を描いて、
現代の世話狂言としてすぐれた作品である。この時、
結婚相談所の所長という役で出てもらったのが殿山泰司さんだが、
この役者も、ポスターに頼んだ滝田ゆうさんの下町俯瞰図の意匠も、宇野さんは喜ばれた。》

マールイというのは、金子信雄・丹阿弥谷津子夫妻が結成した劇団で、
ロシア語で小さいという意味なのだそうだ。
(戸板さんの言葉を借りると、「ちなみに、大きいは、ボリジョイ」)
同じく『あの人この人』の「岩田豊雄の食味」の項にも詳しいのだが、
戸板康二もマールイの同人に加わっていて、その戯曲が上演されたりもしている。
獅子文六こと岩田豊雄との交流もマールイによって深まったみたいで、
歌舞伎の専門家の戸板さんだけど、実は新劇とも深い関わりがあって、
そこからさらにいろいろな交流のきっかけが生じたというわけだ。

……というふうに、4月に初めて殿山泰司に出会って、
気になった諸々のことが『あの人この人』を読み返すことで解決し、
そんなこんなで春が過ぎ夏が来て、
『JAMJAM 日記』を読むことになったわけだが、
1975年11月から1977年3月まで続く『JAMJAM 日記』、
なんとまあ、嬉しいことに、上記のマールイの舞台に殿山泰司登場の
昭和52年3月をギリギリでカバーしているのだ。

なーんて、『JAMJAM 日記』を手にとっているときは、
マールイのことはすっかり忘れていたのだけど、
もうすぐ『JAMJAM 日記』のページが終わってしまうなあ、
と切ない気持になっているときに、思いがけなくマールイのことが登場し、
戸板康二との交流もちょっとばかし書かれているのを見ることができて、
『あの人この人』と『JAMJAM 日記』の双方から、
マールイの公演、宇野信夫作『寂しき理髪師』のことを読んだわけで、
なんだかもう、胸がいっぱいで、ドキドキの瞬間だった。
まったくもって、殿山泰司の文章のなんと素晴らしいこと!

殿山泰司の文章だけでも幸福な時間だというのに、
戸板康二ファンのよろこびをも満たす『JAMJAM 日記』であった。

と、そんなこんなで、最後に、戸板康二の名の登場する箇所を抜き書き。


【『JAMJAM 日記』における戸板康二】

■ 1976年4月

《……試写のあと都営6号線で千石まで行き三百人劇場で劇団マールイの公演を見る。
腹ペコやがな。近所にタベモノ屋もない。やむなく地下の売店でコーヒーや。
久保田万太郎・作「十三夜」では昔の東京弁にオレはすぎし遠い日を思い、
戸板康二・作「肥った女」にはヒクヒクと笑った。
あわてて帰りバアサマに「メシだ!!」と怒鳴ったら、
「遅くなるときはメシぐらい食ってこい!!」と怒鳴り返された。》

ここで初めて、マールイの名前が登場。
戸板康二・作「肥った女」って、どんな脚本なのだろう。いつか読んでみたい。
三百人劇場、たしかに周辺は住宅地で、お店があまりない。
いつも映画を見に行く三百人劇場、近日ロシア映画祭に行く予定なので、
そのときにまた、『JAMJAM 日記』の余韻にひたろうと思っている。

1977年の1月に、《夕食後にテメエで入れたコーヒーを飲んでいたら、
オイ!! と金子信雄がやってきて》、芝居に出てくれと言われる。

■ 1977年3月

《……先日〈マールイ〉のケイコ場でミステリの専門家であり
今度の芝居のプロデューサーでもある戸板康二さんにお会いしたので、
クリスティの「カーテン」はどうもボクは――といったら、
「スリーピング・マーダ−」を読んでみなさいよ、とすすめられたので、
ハイ!! と読んでみたら、この30年代後半のクリスティ作品は、
ウーンなるほど、脂がのっているという感じで90点だわい。……》

戸板さん、登場。
ジャズとミステリをこよなく愛する殿山泰司の前での
戸板康二はまずはミステリの専門家という位置付けなのかしら。
ミステリファン風を吹かす戸板さんが微笑ましい。
ハイ!! と、わたしも「スリーピング・マーダ−」読んでみようッ。

《ケイコの合間に演出助手や役者諸兄姉の陰にかくれてミステリを読む。
ミステリを読む合間にケイコをしているのではありません。誤解のないように。
4幕の芝居でオレの出てるのは一幕と四幕だけなんだ。わりかしヒマがあるのよ。
きょうはハリイ・ケメルマンの「九マイルは遠すぎる」を読んだ。
こんな場所で本を読むのは気がひけるけど、この本の「あとがき」は
戸板康二さんだから、そこはかとなく罪が軽いような気もする、ヒヒヒヒ。
ところでわれらが芝居の宇野信夫・作・演出「寂しき理髪師」はですね、
3月11日初日で19日まで、地下鉄6号線千石駅下車の
〈三百人劇場〉ということになっております。
皆さまミナサマなにとぞどうぞよろしく!! なんてことを
こんなトコへ書いてイイものかワルイものか知らんけど、
もう書いてしまったんだからどうしようもない、から、どうしようもない。》

ハリイ・ケメルマンの『九マイルは遠すぎる』、
わたしも戸板康二の解説目当てで購入して、3月に読んだ。
その頃発売になった Pen の装幀特集でうっとりだった北園克衛の
装幀がとてもかっこいいハヤカワ文庫版。
戸板康二の解説はなんということもない感じだったのだけど、
『九マイルは遠すぎる』に収録の諸々の短篇ミステリは、
「アームチェアディテクティブ」の究極のかたちというわけで
中村雅楽シリーズのルーツここにあり、と非常に興味深かった。
スノッブな空気がただよってもいて、そこから漂う香気もよかった。
ケメルマンはラビシリーズが、狭い特殊な社会を扱っているという点で、
歌舞伎界のミステリである雅楽シリーズと比較対照できるかも、
と思っているのだけど、こちらはまだ未読。いずれまた。

《……マチネーの楽屋に、宇野先生との関係か、仁左衛門夫妻が見える。
オレは仁左衛門さんとは前にテレビでご一緒に仕事したことがあり、
「どうも、どうも」とごアイサツする。
芸術院賞を受賞された戸板康二さんが姿を見せると、
アチコチからオメデトウゴザイマス!! の声が飛ぶ。
戸板さんも何となくソワソワされているように見うけられる。
オレはその著書「塗りつぶした顔」[*] をいただいた。》

先代仁左衛門さんの笑顔が目に浮かぶようで、
そして、いいなあ、ソワソワしている戸板さん。
『塗りつぶした顔』は当時の戸板ミステリ最新刊。

以下、マールイ公演の千秋楽の文章もとてもいい。
殿山泰司という配役によろこんでいた宇野信夫だけど、
殿山泰司の方でも幸福な舞台だったみたいで、よかったよかった。
新劇出身の殿山泰司の何十年ぶりかの舞台だったのだそうだ。

《きょうマチネーと夜の舞台をやって
劇団〈マールイ〉3月公演千秋楽の幕は下りた。おめでとう!! 
いろいろと老いぼれ役者のメンドウを見てくれた劇団の若き友よアリガトウ!!
化粧前を片付けながらオレは――映画はヒトリではできない、
おおぜいの人間がいる、だけどそこには孤独の影がある。
芝居はヒトリでもできる、だけど孤独ではない、
そうかア、観客がいるからなんだ――なんて、ひどく当り前のことを考えたりした。
どうかしとるな。やっぱり老残役太郎なんだオレは、クククク!!
午後10時からケイコ場で和気アイアイと打ち上げパーティーが始まる。
宇野信夫、戸板康二、伊馬春部、諸先生の言葉があった。
また舞台をやりたくなったなア。いけねエいけねエ、
だからオレはこの公演のパンフレットに書いたんだ。
「芝居の魅力に、舞台の空間に捕獲されるのがオレはコワイのだ」と。》




  

8月12日日曜日/ロージナ茶房でコーヒー、洲之内徹の『気まぐれ美術館』

昨日、上野にて開催中のイームズ・デザイン展を見学に行った。

実際に見学してみると、思っていた以上に大充実の時間で、
その空間に居合わせるのがとにかく楽しかった。
帰宅後も、音楽を聴きながら図録を何度も眺め、つい夜更かし。

今日は午後になって、ぶらりと国立へ。ロージナ茶房でコーヒーを飲んだ。
ロージナ茶房は何度も来ているのだけど、食べ物類を食べたことは一度もなくて、
いつもコーヒー一杯で長居している。この居心地のよさは尋常ではない。

川本三郎がしばしば引用していた、
チェーホフの『三人姉妹』のアンドレイのセリフ、

《モスクワのレストランの、どえらいホールに坐ってみろ、
こっちを知った人は誰もいないし、こっちでも誰一人知らない、
それでいて、自分がよそ者のような気がしないんだ。……》

という一節が、ロージナ茶房に来るといつも頭に浮かんでくる。
なぜチェーホフなのか、ロージナ茶房のロージナがロシア語だからか。(なんて単純な……)

壁には絵がいろいろ飾ってあって、先週読み終えたばかりの、
洲之内徹の『気まぐれ美術館』(新潮文庫)のことを急に思い出したりも。
帰り、増田書店に寄って、新潮文庫の洲之内徹、
残り2点の『絵のなかの散歩』と『帰りたい風景 気まぐれ美術館』を買った。



さてさて、ここから先は、洲之内徹の『気まぐれ美術館』について。

3月に発売になった雑誌「Pen」の装幀特集を目にしたあと、
記事に取り上げられていた北園克衛と青山二郎の文献を少し追いかけていて、
そのとき白洲正子の『なぜいま青山二郎なのか』(新潮文庫)を読んで、
この本をきっかけに、にわかに洲之内徹のことが気になって、
とりあえず、新潮文庫の『気まぐれ美術館』を購入した。

それから、何ヶ月も経過して、洲之内徹の『気まぐれ美術館』を読んだわけなのだが、
時折ポロポロと泣いてしまうくらい、その文章の節々にひたりきって、
8月に入ってからというもの、どうも頭痛気味で大変不調なのだけど、
むしろそのロウな状態で、静かな気持で文章に接するのがとても心地よかった。

『気まぐれ美術館』は、銀座の現代画廊の主人として見聞きすることになった、
絵画や画家にまつわるあれこれを綴った文章で、「散文芸術」の典型という感じ。
美術を語りつつも、話題は色々な方面へ緩やかに移っては戻り、
一遍の小説のようでもあり、評論のようでもあり、随筆のようでもある、
その文章の言葉一つ一つの緩やかな流れに身をまかせるのがとても至福だった。

洲之内徹の文章になぜこんなにも心惹かれるのか、
それはなかなか言葉では説明できそうもないのだけど、
文章の折々に登場する風土、冒頭に登場する新潟のこととか、
故郷の松山、一時期関わる京都、それから、東京だと、
大森のアパアト、銀座の現代画廊、戦前に左翼活動で逮捕される
深川東大工町の同潤会アパートなどなど、場所に関する描写がとてもよいのと、
それから、そこに立つ洲之内徹のデカダンスなところが、なんだかとてもいい。
音楽を聴いているときのように文章を追うのがとても気持ちよくて、
そして、そこから立ちのぼる、洲之内徹の風景がとても好きだ。

「松本竣介の風景」という四回にわたるシリーズがあって、
ここで洲之内徹は、松本竣介の描いた東京の風景を巡り歩くという作業をしている。

《私は私で、新しい風景の中に埋没しかかっている古い風景の残闕をあちこちで見ながら、
ふと思ってみたことがあった。松本竣介の風景は、時期的に近くへ来るに従って、
いっそう深い郷愁のごときものを画面に滲ませてくるが、あの郷愁は、
やがて失われて行くものへの哀惜の想いだったのではないだろうか。
竣介が「生きてゐる画家」を書いた昭和十六年の初め頃は、
戦局はまだ逼迫というには程遠く、情報局の軍人たちの放言にも
どこか呑気なところがあれば、竣介の抗議にも楽観的な余裕がある。
その時点で、竣介といえども、東京や横浜が焦土に化する日を、よもや想像はしなかっただろう。
しかし、その後の急速に悪化して行く戦局の経過と共に、
彼の芸術家の本能は、やがて失われるであろう風景の運命を予感して、
その風景に哀惜の目を注いだではあるまいか、と。》

そんなことを思いながら、松本竣介の風景を歩く洲之内徹は、

《私のこの気持は、ちょっと、何ともいいようがないが、
一枚のデッサンや絵を見ているうちに、突然、私の過去が、
全く無関係のはずの松本竣介のそれと、思いがけないところで交錯したり、
重なってたりしているのに気がつき、すると、その瞬間、
実際に松本竣介は後姿を見せて、私の目の前を歩いて行くのを見るような気がして、
その感じの不思議さに、私は心を奪われずにはいられないのである。》

というふうにも書くわけなのだが、
洲之内徹の文章にこんなにも心惹かれるのは、
とどのつまりは、絵画や画家に関するいろいろなことに
洲之内徹の風土とか存在とか時代とかが
交錯したり重なっていたりする点にその理由があるような気がするのだ。



新潮文庫の『気まぐれ美術館』にはカラー口絵がついていて、
8枚の絵画を見ることができるのだけれど、本文を全部読み終えて、
しみじみこれらの絵画を見直す時間がとても愉しい。

表紙を開いたときまっさきに見ることになる、
長谷川利行の《酒祭り・花鳥喜世子》。
「エノケンさんにあげようと思った絵」なのだそうで、
長谷川利行について、洲之内徹は、

《利行の作品を数点並べると、たちまちそこには、自由で澄明な、
きらきらするような美の世界が出現する。猥雑な市井のなかにも、
人間はこのような美を見出すことができると思うそのことによって、
また、そのような美に憑かれて、「痴愚な人生」の底辺にまで
恐れることなく沈潜していった画家の勇気によって、私も勇気づけられるのである。》

というふうに書いている。『気まぐれ美術館』を開いて、
《酒祭り・花鳥喜世子》の図版を目にすると、いつもその言葉が胸に響く。

カラー口絵からあともう一人を。二十代で亡くなった田畑あきら子の作品があって、
「美しきものを見し人は」というタイトルの田畑あきら子の文章もとても印象的だった。
田畑あきら子の作品に関しての洲之内徹の分析も目映いばかりで、
やはり、『気まぐれ美術館』を開くと、洲之内徹の言葉が胸に響く。

田畑あきら子は画家で詩も書くという、夭折の芸術家というイメージとは違う、
そのスナップ写真は屈託のない笑顔のふつうの女の子なのだそうで、
洲之内徹は《こんな女の子なら、私は電車の中でも、街を歩いていても、
喫茶店でも、のべつ幕なし、毎日何十人も出会っている》なんて書いていて、
その田畑あきら子が、吉祥寺の喫茶店でモダンジャズを聴きながら、
書いたという詩が引用され、そのあと、洲之内徹は以下のように書く。

《この詩と、彼女の絵とは、構造的にも共通していて、そこが面白い。
カンバスに向うときにも、彼女にはイメージとして出来上がったイメージが先にあるのではなく、
詩のなかで言葉が次々と連鎖反応を起こして行くように、手の動きにつれて、
手の下から、イメージは生まれて行くのである。
この中の(詩の中の)〈オボロ線〉という言葉がまた、私は好きでたまらない。
半意識の世界で浮動しているような自分の状況を、
彼女は月並みな詩人たちがよくやるように、
無理に作った仔細あり気な顔付や、誇張した不安の身振りで語るのではなく、
ちょっととぼけて、ちょっと気懶るいような口調で語る。
絵の中でもそうなのだ。自己表出の代りに韜晦が、
主観的な幻想の代りに客観的なヴィジョンの追求が行われる。》

洲之内徹の「美しきものを見し人は」という文章を通して、
田畑あきら子という人が好きになってしまうのだけれど、
こんな感じに、洲之内徹にいろいろと導かれる心地よさと、
これらの文章に交錯したり重なったりする洲之内徹のデカダンスな姿、
彼の生きた時代とか彼の関わった土地、それらがなんだかたまらなく愛おしい。

『気まぐれ美術館』の重層的読後感にひたるときも、その文章を読んでいるときも、
音楽を聴いているような気持ちよさと愛おしさと切なさがあって、
この感覚がなんだかもうたまらない感じで、つい何度も涙ポロポロだった。




  

8月14日火曜日/幕見で『勢獅子』、銀座6丁目の銀緑館・浅草のアンヂェラスへ

3年ぶりに、歌舞伎座の一幕見席へ。6時開演の『勢獅子』を見物。

たまにはわたしだって、あたかも熱烈な歌舞伎ファン、
であるかのような行動をとってみたいッ、と急に張り切って、
ここまでやって来た。幕見のチケット売場は長蛇の列、
傾斜の激しい階段を息も絶え絶えに駆け上がって、
天井桟敷の一幕見席は立見客でいっぱい。ムンムンと空気が蒸している。

『勢獅子』は常磐津の舞踊で、幕が上がると大磯仲の町の廓。
さっそく「春夏と恵みはいとど……」と常磐津が始まって、
舞台上の「江戸の粋」の結晶がサンサンと眩しくて眩しくて。
女芸者3人のなんとも粋な姿。特に青っぽいきものの福助が光っている。
そこに6人の鳶が登場するわけなのだが、勘九郎と三津五郎の姿を久しぶりに見て、
なんだかとても嬉しかった。今年1月と2月の三津五郎襲名披露は、
豪華な配役で歌舞伎の代表的な演目をおさらいできて、思っていた以上に大充実で、
文字通り「目の正月」という感じで、芝居見物の新たな意欲がふつふつと湧いた。
ひさびさに勘九郎と三津五郎のコンビを見て、あのときの喜びを鮮やかに思い出す。

今日初めて観ることになった『勢獅子』で一番楽しみだったのが、
鳶頭の勘九郎と三津五郎による、曾我物語の仕方噺の部分。
「物語の振りでありつつも踊りでないといけない」という
七代目三津五郎の芸談があるそうなのだけど、今日の二人はどうだったのだろう。
この部分を観ている最中は、そんな芸談のことは忘れて、
1月の歌舞伎座の襲名興行の『対面』のことが懐かしく思い出されて、
ひさびさの幕見席という状況がそうさせるのか、
演目にひたりつつももう少し大きな意味での歌舞伎のよろこび、
そっちの方に気持ちが行ってしまっていた。

勘九郎と三津五郎、勘太郎と七之助、染五郎と橋之助、
最後にもう一度、勘九郎と三津五郎でひょっとこ踊りというふうに、
常磐津の語りの移り変わりとともに、いつのまにか舞台の踊りも様々に変容し、
江戸の空気、歌舞伎の五感でのよろこびにひたっているうちに幕が下りる。

……というわけで、たまには新鮮な気持ちで芝居見物、という意味では、
本日の幕見席来訪は大成功だったけど、舞踊強化月間という意味合いでは、
ああ、もう一度ゆっくり見たいッ、という結果になってしまった。
立見で舞台を見ているッ、ということそのものの方にひどく興奮してしまった。



『勢獅子』は30分のわりと短かめの演目で、歌舞伎座を出た頃はちょうど日暮れ時。

さて、ここから先も、かねてからの計画があった。

先週、神保町の書肆アクセスで sumus という雑誌を初めて目にして、
そのバックナンバー「洲之内徹の気まぐれ美術館」特集号を買った。
先入観なしに洲之内徹の文章読めるように、雑誌の文章そのものは、
彼の文章をもっとたくさん読んだあとにじっくり読もうとまだほとんど未読。
でも、嬉しくてパラパラと何度もページを繰っていて、
とりわけ、1983年の現代画廊、《洲之内コレクションの20点》展の
広告の写しをうっとり眺めていた。

今日の計画というのは、その広告の写しを眺めているうちに思いついたこと。
すなわち、洲之内徹の活動の拠点だった現代画廊のあった場所へ行ってみること、
そして、現代画廊のあった場所を中心とする銀座の路地を歩いてみること。

と、そんなわけで、銀座6丁目松坂屋裏の現代画廊へ、ドキドキしながら歩いた。
日はどんどん沈んでいて、次第にあたりの空気が夜へと緩やかに移行している。

そして、完全に日が暮れた頃、薄暗い街灯の三原通り沿いに、
かつて洲之内徹の現代画廊が三階にあったという、銀緑館という建物が見えてきた。
無機的な新しめの建物がひしいめいているこの通り沿い、
薄暮のなかでもとりわけ異彩を放っているので、すぐに銀緑館だとわかったのだ。

『絵のなかの散歩』所収の「画廊のエレベーター」によると、
《このビルは関東大震災の後、東京市が指導して建てた
模範的耐震耐火構造の何々式という建物》なのだそうで、
パリのアパルトマンに見られるような、
あまりに旧式のエレベーターが人々に敬遠されていたという。

1階には何かの画廊があって、その横にビルの入り口があって、
チラリと眺めてみただけでも、雰囲気たっぷりのモダン都市的空気が漂っている。
いろいろ消えて行くものが多い街かどであっても、
古くから残っているものだってまだまだたくさんある。
しょっちゅう歩いているおのおのの町に点在する昔の建築を眺めることは、
日頃から散歩の際の一番のお楽しみだったのだけれども、
それがさらに、今日は! にわか洲之内徹読みにとって、
彼の拠点だった現代画廊のあった建物がそのままの姿で
今も見ることができるという、ただそれだけのことがとても嬉しかった。

松坂屋の裏手あたりは、ふだんの休日の歌舞伎座行きの際、
劇場までふらりふらりと散歩することが多いゾーンだったので、
今後は、三原通りが必須のコースになってしまいそう。

……というようなことを思いつつ、今度は地下鉄の東銀座の駅へと戻ってみることに。

洲之内徹は、現代画廊へ通うとき、京浜急行相互乗り入れの都営線で、
大森のアパートから、平和島で電車に乗って東銀座で下車していたとのこと。
その帰り道、彼は画廊から東銀座までどの道を歩いていたのだろう、
などと思いながら、東銀座まで戻ってきてしまったのだった。

ところで、都営浅草線は、わたしも日頃から愛用していて、
たとえば銀座に寄り道するときは、東銀座で下車して奥村書店を覗いてから、
というのが毎回のパターンだった。さらに嬉しかったのは、
洲之内徹が『気まぐれ美術館』で、出勤途中のある日、
読んでいた哲学書が面白いあまりに、電車を乗り過ごしてしまって、
人形町まで行ってしまったと書いていたこと。

わたしも東銀座で下車する予定だったのを読書に熱中して乗り過ごしたことが何度かあって、
そして、おのれの失態に気が付くのは、なぜかたいてい人形町駅だった。
そうそう、《人形町までくると電車の反対側のドアが開くので、
本の頁に鼻を突っ込んでいても気がつくのである。》ということだったのだ。



なんだかもう、今日は洲之内徹のことばかり考えている一日。
銀緑館の感激が起爆剤となり、今度は都営浅草線に乗って、浅草へ。

電車のなかで、急に先月の平野書店で買い損ねていた、
戸板康二のエッセイ集『目の前の彼女』(三月書房、昭和57年)のことを思い出し、
きずな書房に立ち寄って、1メートル強幅のある戸板コーナーの前で、
しばし思い悩んでしまうのだったが、やはり楽しみはあとにとっておきたいので、
今日のところは、当初の予定通り『目の前の彼女』のみを購入。

ここから先、スキップ気分で、喫茶店に行って、
コーヒー片手に、買ったばかりの戸板康二を読む時間、というのは
平日の浅草寄り道の毎回のコースなのだ。

が、今日はいつも行く喫茶店ではなく、えいっとアンヂェラスへ向かった。

実は、今日浅草にやってきたのは、アンヂェラスに行くのが目的で、
その理由は、やはり『気まぐれ美術館』の余韻。
アンヂェラスに飾ってある絵を洗う話が『気まぐれ美術館』のなかにあって、
うまくいけば、その絵が見られるかしら、と一縷の望みを抱いていた次第。

アンヂェラスは浅草ガイドブックの類に必ず載っている洋菓子喫茶店で、
それゆえ、いろいろな意味で敷居が高いのだけど、
今日はそんなことは言っていられないのだ。
えいっと入り口の自働ドアのボタンを押し、二階の窓際の席に座った。
洲之内徹の文章にあった絵は今もどこかにあるのだろうか。
満席の一階にあるのかな、それとも別の階にあるのかな、うーんと思いつつ、
とりあえず、テーブルのガラスの中のメニュウ表を凝視、
ミーハーついでに、「梅ダッチコーヒー」を注文した。

アンヂェラスの洋菓子のウインドウは、
小津安二郎の映画で原節子が食べていそうな感じの、
古風なケーキがとても愛らしい。いつもこのお店の前を通る度に、
とりわけ、一番小さなデコレーションケーキの、
あまりのかわいらしさに見とれているのだった。
と言っても、実際に食べたことはまだ一度もない。

梅ダッチコーヒーはアイスコーヒーに梅酒を割って飲む。
買ったばかりの戸板康二のエッセイ集のページを繰りながら、少しずつ飲んだ。
今日は朝から食欲がなく、ほとんどものを食べていなかったので、
わずかの量の梅酒なのに、梅酒の酔いがじんわりとまわってくるのだった。
そんな感じで、喫茶店の片隅で、戸板康二を読む時間、
なんてまあ、幸せなひとときなのでしょう!

……というふうに、当初の目的の
洲之内徹の洗った絵を見ることは果たせなかったけど、
浅草を散歩して、その余韻とともに特別な儀式みたいに、
喫茶店の片隅で戸板康二を読むという至福をひさびさに味わった。

● 『目の前の彼女』(三月書房、昭和57年)[*]

『目の前の彼女』所収の随筆は、喉頭癌を患って
大手術をして声を失った前後の時期に書かれたもの。
戸板康二はそのことに関して具体的なことは何も言っていないのだが、
だからこそ、行間にひそむ戸板さんの静かな境地に胸がいっぱいになった。

《いま思うと、一昨年の夏から冬にかけて、ぼくの回復が、
食事でいうと、オモユからカユ、カユから常食というふうに、
すこしずつ変わって行った期間、自然に、三十数年続けてきた生活を
一度御破算にして、改めて自分の生き方を見なおすことがあったように思われる。》

《いろいろ不如意なことが多かったあいだに、自分をそうなるまでにささえたのは、
しかし、読むたのしみと、ものを書く日常があったからだと思っている。》

それから、先ほど、洲之内徹の現代画廊を探しに銀座の裏道を歩いた身には、
「銀座長廊下」と題された文章がグッドタイミングで、その書き出しは、

《しばらく家に引きこもっている期間、元気になって
真っ先に歩いてみたいと思ったのは、やはり銀座であった。》

というふうになっていて、そして、結びの文章が傑作。

《しかし、最近になって気がついたのだが、
道には歩きぐせというものがあって、そういう銀座に、
まだ通っていない道が、どうもありそうなのである。
それもまた、未知の部分として、楽しい、とっておきかも知れない。》

「Me, too ! 」と、ニンマリ。

戸板康二の随筆はとても面白くて、
わたしは特に三月書房発行のエッセイ集の大ファン。
これらは本当に、いままで何度読み返したことだろう。
今日買った『目の前の彼女』も、これから何度も読み返すに違いない。

戸板康二の随筆の魅力のひとつに、
その文面にあらわれる東京の風景というのがあって、
今日買った『目の前の彼女』にも、それがふんだんに詰まっていた。
歌舞伎座→銀座の裏道→浅草、と井上陽水の「TOKYO」みたいな、
ベタなコースをたどった直後に、梅ダッチコーヒーに酔っぱらいつつ、
戸板康二の文章にひたる時間、それが本日の締めくくり。

帰り道、銀座線の浅草駅の改札を通って、階段を降りる直前、
杉浦非水の昭和2年「上野浅草間地下鉄開通」のポスターのパネルを発見。
ここは今まで何度も通った道なのに、このパネルの存在に気付いたのは今日が初めてだ。

今まで何度目にしたかわからない図案なのだけど、
こうして、浅草散歩の帰りに目にする瞬間は、なんだかちょっとよかった。




  

8月19日日曜日/東京国立近代美術館工芸館の展覧会:《くらしをいろどる》

先月、木場の東京都現代美術館で《水辺のモダン》展に見とれていた日に、
美術館の一角の、全国各地の展覧会のチラシがおいてあるコーナーではじめて、
東京国立近代美術館工芸館の《くらしをいろどる》と題された展覧会のことを知って、
そのチラシがあまりにきれいなので、行こう行こう、ということになった。

美術館に行くと、今度はあの美術館へ、というふうな連鎖が生じて、結構楽しい。

……と言いつつ、計画を立ててもそれっきりになってしまうことの方が
実は多いのだけれど、先週、上野へイームズ展の見学に行った折、
またまた、《くらしをいろどる》のポスターに遭遇し、あらまあ、
今度こそ行きましょうと、と背中をポンと押してもらった格好となった。



というわけで、今日は、東京国立近代美術館工芸館へお出かけ。

わたしのわがままで、今日の散歩の出発点は国立劇場ということになってしまった。
来月の文楽公演『本朝廿四孝』のチケットを買いに、という重要な用件があったのだ。

しかし、それがかえってよかったのかも、と思ってしまうくらい、
国立劇場から工芸館へ、のんびりと歩く時間がとても楽しかった。

今日はわりと涼しくて、先日買ったばかりの長袖のシャツを着ていて、
皇居沿いのお堀の水辺と街路樹、ミーンミーンと鳴り響く蝉の声、
夏の終わりの気分を味わいつつ、とりわけ、石畳を踏みながら
イギリス大使館沿いの桜の並木道を歩く瞬間がよかった。
途中、千代田区の区歌の碑があって、その作詞者は佐藤春夫。

そして、さらにこのときの散歩の時間が格別なことには、
歩いているうちに、九段下方面へ向かっているうちに、頭の中は
なぜか急に武田泰淳の『目まいのする散歩』一色になってしまったこと。
美術館を出たあとは、靖国神社へ行ってしまうかしらとまで思ってしまったくらい。

そんなこんなで、千鳥ヶ淵がダイナミックにカーヴしたところで、
道路を横断、代官山通りをまっすぐ行けば、本日の目的地、
東京国立近代美術館工芸館にたどり着くこととなる。

東京国立近代美術館工芸館は、現在改装中の東京国立近代美術館の別館。

ここに来たのは今日が初めてだったのだが、
目の前に工芸館の建物が見えて来た瞬間、ふつふつと嬉しくなってしまう。
古い洋館風の建物が、実にいい感じ。入口付近の立て札で知ったところによると、
この建物は明治43年の建築で、「陸軍近衛師団司令部庁舎」だったのだそうで、
簡易ゴシック様式、イギリス積み赤煉瓦構造、とのこと。

正面のガラス戸をギイと押して、建物の中に入ってみると、
諸々の建物で味わったことのある、典型的な明治の洋館の雰囲気。
正面の階段をのぼって、二階の展示室へ。ここの階段の絨毯を踏む瞬間も実にいい。



と、ここまで、美術館にたどり着くまでついダラダラと書き連ねてしまったけれども、
今日の展覧会、またまた「ハートに直撃」状態で、楽しくて楽しくてしょうがない感じだった。

今日の《くらしをいろどる》と題された展覧会は、
「所蔵作品による近代日本による美術と工芸」というサブタイトルが示すように、
衣食住をとりまくあれこれに関する、日本の工芸作品を中心に、
休館中の美術館所蔵の、絵画、写真、版画の展示もあり、
美術館と工芸館の所蔵作品を巧みに織りまぜて丁寧に編まれていた展覧会だった。

展示室はそれぞれ、「装う」「味わう」「住む」「こどものくらし」
というタイトルになっていて、たとえば、きものにまつわる絵画、小袖など、
茶室にまつわる茶器や器など工芸品、食べ物に関する絵画、陶器、
子供をテーマにした絵画、居住空間をとりまくもの、などなど、
日々の暮らしに沿った美術工芸をあれこれ眺めるという仕掛けなのだけど、
これがもう眺めてうっとりの連続で、展示品の放つ香気、
それらの内面にひそむ日常生活への視線がまばゆいばかりだった。

そして、個人的なことを言うと、眩しい思いをしつつも、
日頃から気になっている人の文章とかそれに関連するあれこれといった、
いろいろな書物を通して諸々の興味の対象に引っ掛かってくる人々が
時折、展示品のなかに登場していて、
今日初めて見た諸々の美術や工芸にうっとりしているなかに、
具体的には、鏑木清方や岸田劉生、小出楢重、杉浦非水らが
ひょいと姿を現わすそのタイミングが絶妙で、
日頃の本読みからいろいろ類推が始まったりで、
充実している展覧会に遭遇するといつも味わう感覚、
すなわち、アナロジーの快楽に酔いしれたのだった。



展示室の入口に置いてあった目録片手に展覧会に足を踏み入れたわけだが、
第一室のテーマは「装う」なので、んまあ、きもの! とさっそくワクワク。

そして、展示室に足を踏み入れた瞬間、さっそく幸福の絶頂がやってきて、
わたしが鏑木清方の絵を注意してみていこうと思ったきっかけになった絵画、
《三遊亭円朝像》の展示があったのだ。ああ、望外のよろこび。
この絵を初めて意識的に見たのは、去年の夏の早稲田演博
《三遊亭円朝とその時代》展のときのことで、
そのときの展示は下絵で、カラーはパネル展示だったのだが、
眺めれば眺めるほどこの絵に夢中になってしまう、
細部をじっと目をこらして凝視、ディテールのよろこびに満ち満ちている。
展示室の説明では「噺家の粋なたたずまいを、通好みの着物や小物で表現」となっていた。
その大好きな《三遊亭円朝像》に初めて対面、「ハテ珍しき対面じゃなア」と大喜び。

……というわけで、夢の《三遊亭円朝像》をじっくり眺めることができただけで、
つまり、展示室に足を踏み入れてさっそく、本日の来訪は大成功だったとフツフツと嬉しい。

しかし、嬉しいのはもちろん《三遊亭円朝像》だけにはとどまらくて、
「装う」の展示室、涼しげな小袖、バッグや帯留めなどの小物、どれをとっても、眺めてうっとり。
とりわけ、志村ふくみの紬織着物の布の風合い・色彩のなんと美しいこと。
それから、展覧会のチラシに大きく印刷されている、伊東深水の《聞香》、
香をかぎ当てて楽しむ香会の席の模様をとらえた絵画で、
それぞれの装いで鎮座する四人の人物のたたずまい、
日本の伝統色の色見本を眺めているかのような色彩が美しく、
見ているうちに、絵のなかの香会の席に参加しているかのような気分になる。

いつまでもこの部屋にいたい気もするのだけど、えいっと次の部屋、
そこは「味わう」と題された展示室、茶道具や漆器や茶碗が並んでいる。
部屋の角にはお茶席をかたどったコーナーまであって、そこに並べられている品々、
速水鉄舟の《茶碗と果実》や水指しに茶碗にほかの道具、その配置にまたもやうっとり。

先週、イームズ展を見物に行った折に購入した「CASA BRUTUS」の
イームズ特集でとりわけ嬉しかったのが、イームズのお茶会ごっこの記事。
茶の湯のデザイン感覚には日頃から憧れているので、あらためて愛が再燃したのだった。
わたしも実は五年ほど前に裏千家のお稽古に通っていた時期があったのだけど、
いろいろな意味で少しばかし窮屈であえなく一年で挫折している。
しかし当時、茶人友だちと五島美術館とか根津美術館に通ったりして
いろいろ勉強したことは、よい思い出としていまでも胸のなかに息づいていて、
茶道を習うなんてことはたぶんもうしないだろうなあとは思うけれども、
門外漢の無責任で、茶の湯のあれこれに憧れたりうっとりしたり、
そういうことをこれからも意気揚々とやっていきないなと、モクモクと刺激を受けたりも。

そんなことをしているうちに、この部屋にいつまでもいたいと思ってしまうのだけど、
えいっと次の部屋、今度は食事にまつわる「味わう」、食器や食べ物の絵画。
ここで思いがけなく、岸田劉生や恩地孝四郎、小出楢重の絵を見ることができた。

岸田劉生は油彩の蕪の絵(1925年)と日本画の人参の絵(1926年)の二種類の展示があって、
4月に鎌倉の神奈川近代美術館で堪能した《岸田劉生》展のことを懐かしく思い出した。
この絵が書かれた頃の岸田劉生は関東大震災のあおりで京都に移住、
そこで古美術に傾倒して、それまでの油彩画だけでなく日本画も試みるようになる。
その背景の時代のこととか、美を見つめる岸田劉生の視線、そんなことが頭に浮かんだ。
恩地孝四郎は《黒葡萄切子鉢》の絵で、ここに現れる濃紺が実に美しい。
小出楢重は《蔬菜静物》と題された絵で、これも1925年の作品。
まるでおもちゃ箱をひっくり返したような、なんともつややかな野菜の色彩。

あとの、「こどものくらし」と題された展示室でも、
岸田劉生と小出楢重の絵画を並べて見ることが出来て、
しかも、それぞれの画家の代表作、《麗子像》と《ラッパを持てる少年》なのだ。
画家の子供がモデルを勤める格好で、そこに親子の交流みたいなものが画面ににじむ。
《ラッパを持てる少年》のかしこまった表情の5歳児の姿についにんまり。
実際に見てみると、背景の青を基調とした構図がとても印象的だった。

「こどものくらし」の前後に「住む (1) 」と「住む (2) 」と題された展示室があって、
ここで、本日の《くらしをいろどる》、見事に衣食住が完結することとなる。
宇田荻邨の《桂離宮笑意軒》に描かれている日本家屋の美しいフォルムは、
小津安二郎のスクリーンを眺めているかのようで、そしてやはり色彩が見事。
それから、団扇のデザイン帳や各々の花瓶の微妙な風合い、どれをとっても尽きないたのしみ。

そして、本日の締めくくり、最後の展示室「住む (2) 」では、
和風の生活に西洋的なものが取り入れられ、和洋折衷な独特の居住空間が誕生し、
そんな時代の流れに対応した工芸家たちの様々な意匠を見ることとなる。
なので、自然と雰囲気は「モダーン!」な感じとなって、
そして、杉浦非水の1925年の三越の宣伝ポスターが圧巻だった。
これまで散々好きでうっとり眺めていた、都市風俗をうつす非水によるポスター、
大正初期のアールヌ−ヴォ−を取り入れた三越のポスターと、
昭和初期のアールデコの様式がにじみ出る地下鉄のポスターがあったが、
展示室の三越のポスターは、今日が初めて見ることとになったもの。
《東京三越呉服店本店西館修築落成・新宿分店新築落成》という長いタイトルがついている。

日本橋三越のビルディングを背景に、お買い物に繰り出す美しいお母さんとかわいいお嬢さん、
お母さんは黒い着物に黄色い帯、お嬢ちゃんはピンクのワンピイスに赤い風船。
なんだかもう、高野文子の『ラッキー嬢ちゃん』みたいに素敵にかっこいい。
着物や帯の模様に洋傘にハンドバックという備品、隅々までデザインが冴え渡っていて、
色の組み合わせや背景の建物、どこまでもモダン都市東京!

部屋から部屋へ、展示室をあとにするたびに後ろ髪ひかれてばかりいた本日の展覧会。
非水のポスターで見事な幕切れと相成って、展示室を出ると、入口の階段となる。
来たときには気がつかなかったけれども、ここから見る階段のフォルムと
格子窓から見える木々の青、それから天井のランプ、これらの融合具合も実によかった。
そのよろこびを噛みしめながら、ゆっくりと階段を降りて、美術館をあとにした。



紀伊国坂という坂を通って、右手には工事中の国立近代美術館、開館は来年の1月とのこと。
「目まいのする散歩」気分は依然として続き、靖国神社へ行ってしまおうかと言っていたのだけど、
このあたりから、武道館に向かって内堀通り沿いに行列が止めどなく続いていて、
かつてこんなに長い行列は見たことがないッ、という感じのすさまじさだった。

いったい、何の行列だったのだろう。その行列を見たと同時に、われわれの気も変わり、
やっぱりここまで来たら神保町だな、と神保町方面へとてくてくと歩いて行った。
日曜日の、閑散とした神保町も結構好きなのだ。
事務的書籍探索につきあって、それから、とあるお店でコーヒーを飲んだ。
このお店は夜の酒場の時間にしか来たことがなくて、喫茶タイムに来たのは今日が初めて。
音楽は同じジャズでも、いつもとまったく違う雰囲気なのがまたよろし、だった。




  

8月21日火曜日/3つの郵便物[洲之内コレクション図録、スムース、吉田健一]

本屋の新刊コーナーで、東海林さだおの『昼メシの丸かじり』を発見。
丸かじりシリーズ新刊は半年に一度のお楽しみである。
その悦楽の瞬間がひさしぶりにやってきたのだ。パッと手中に収め、
パッと会計を済ませて、帰りに電車のなかで幸福を噛みしめ、
ニヤニヤを必死に抑え、さっそく読みふけった。
目次の字面は、「磯辺巻きのクラクラ」「カイワレをいじめるな」
「串カツの内部事情」「カレーをめぐる冒険」などなど、
もうこの相変わらずなところ! ここが、もう、たまらないわッ。
ジョージ君を読むたのしみが残っている、ただそれだけで、
まだまだ日本は大丈夫、と、いつもそんなことを思う。
《ジョージ君のおもしろさがわからない人とはお友達になりたくない》
と書いていたのは鹿島茂だが、うんうん、少なくとも、
東海林さだお愛読者に悪い人はいないと、わたしも勝手に思っている。
(って、わたしは悪い人だけども……)

……とかなんとか、台風もなんのその、東海林さだおの悦楽に
身をもだえつつ帰宅してみると、なんと今日は嬉しい郵便物が三つも届いていたのだ。
この郵便物はすべて自らの散財の結果なのだけれども、郵便という形態だと、
不思議と誰かからのプレゼントのような気すらしてしまうのだった。


【本日の3つの郵便物】

● 《宮城美術館所蔵 洲之内コレクション―気まぐれ美術館》図録(2000年4月発行)

洲之内徹に恋い焦がれる毎日。『気まぐれ美術館』シリーズは全5冊で、
現在手に入るのは新潮文庫2冊と前作の『絵のなかの散歩』、
残りの3冊はこれから古本屋でゆっくり探そうと思う。
しばらく間が空いてしまうので、この図録を眺めて、再読するのも一興。

洲之内徹自身は、『帰りたい風景』のなかで、
洲之内コレクションの構成は
《これだけはどうしても売りたくないという絵少々と、
誰にすすめても誰も買わないという絵が多数残った。
これが私の疑問符つき、あるいは括弧つきコレクション成立の由来である》
というふうに書いていて、
《ただ、こうして見ると、私が絵というものをどう見ているかが、
私自身の眼にはっきりするのである。》
という感じの、小説でいえば私小説のような感じなのだそうだ。

この図録は、三重県立美術館から取り寄せたもの。
三重は全然行ったことがないのだけど、急に親しみが湧いて来た。
お伊勢参りの折に、美術館にも足を運んでみたい。何年先になるか……。
その日が来るまで、『芝居名所一幕見 諸国篇』[*] を眺めるとしよう。


● sumus 第2号「画家の装幀本」特集(2000年1月発行)

その洲之内徹絡みで、初めて手にすることになったのが sumus
神保町の書肆アクセスで初めて、sumus 第5号の洲之内徹特集号を発見して即購入、
これを機に一気に sumus のファンになってしまったわたくし、
こうしてはいられないと、さっそくバックナンバーを全部注文することに。
創刊号はすでに売り切れで、発行元に直接注文したのだったが、
第2号ももう品切れですけど、海月書林にまだ残っているかも、というお手紙が、
3号から最新の6号までのsumus に同封されていたのを見て、海月書林にさっそく注文。
そんなわけで、今日届いた「画家の装幀本」特集の第2号は、海月書林からの郵便物。

海月書林は前々からよく眺めていた、ウェブ古書店。
店主さんによる書籍紹介の文章がとてもいい感じだったり、
「暮しの手帖」コーナーが特設されていたりで、ひそかなファンだったのだけど、
sumus のおかげで、このたび初めて直接お買い物できたというわけで、とても嬉しい。

ところで、海月書林の書棚のファッションコーナーに、
戸板康二の『元禄小袖からミニスカートまで』[*] が載っている!
戸板康二の著書のなかでは異色の一冊、内容はなんとファッション史。
この本、装幀とか見た目はイマイチかもしれないのだけど、
中身を見てみるとカラー図版が豊富で、2頁に一枚は
何かしらの絵を見ることができて、楽しみはどこまでも尽きない。
三越の PR 誌的な背景があるので、通読してみると、
都市のなかの百貨店という読み方もできて、モダーンな空気がただよっているのだ。


● 吉田健一著『大衆文学時評』(垂水書房、1965年発行)

この本の存在を知ったのは先週、戸板康二のエッセイ集『目の前の彼女』[*] がきっかけ。

「ワッペン」というタイトルの文章で、
自分の推理小説が文芸時評の対象になったことはほとんどない、という内容のあとに、
《吉田健一氏が大衆文学の月評を新聞で担当、一冊の本になったが、
吉田氏には、ひいきにしてもらったという思い出が残っている。
この話は、ぼくの泣きどころである。》
という一節があって、ここを目にした瞬間、思わず叫んでしまいそうになった。
えー、なんですってー! 吉田健一による戸板康二の書評だなんて、
ぜひとも読まねばならぬ、読みたいッたら読みたい、
さっそく書名を調べようと、こういうとき便利なのが講談社文芸文庫、
部屋の本棚から、とりあえず『文学人生案内』を取り出して、
巻末の目録を参照、すぐに「大衆文学時評 昭和40・11 垂水書房」の文字を発見した。

うん、これに間違いない。というわけで、後日図書館でチェックしようと
書名を手帖にメモしたのだったが、OPAC という便利なものがあるので、
とりあえず蔵書を調べることにして、ウェブ閲覧。
集英社の全集にも入っている、ということがすぐに判明したりもして、さてさて一安心、
ついでに、言及記事を探すとするかと、ほんの思いつきで検索をかけてみると、
なんということなのでしょう、ウェブ古書店のページにヒットしてしまうではないか。
そして、価格もそんなに高くないとなると、注文してしまうのが人情ではないか。

というような成行きで、本日手にすることになった、吉田健一『大衆文学時評』。

この本は、昭和36年4月から昭和40年7月まで毎月一回、
読売新聞に連載した時評をまとめたもの。
嬉しいことに巻末に索引がついているので、さっそく「戸板康二」を探してみると、
戸板さんの小説は11篇取り上げられていて、
中村雅楽シリーズはひとつもなく、すべて他の短編小説だ。
とりわけ、『黒い鳥』[*] に収録されている短篇が多い。
『黒い鳥』に入っている初期のミステリ短篇はお気に入りで、わたしのなかでも印象が深い。
そんななかで読むことになった、吉田健一独特の文体による戸板ミステリ書評は、
もうなんていったらいいのか、とにかく胸がジンとなった。
そして、吉田健一の文章を追っていると自然、戸板ミステリ云々にとどまらぬ、
小説とは何だろう? という、より普遍的なことへと考えが及ぶ感じ。

『慶応ボーイ』[*] という、思わず引いてしまうタイトルの短編集があるのだが、
タイトル作は、戸板康二の学生時代の1930年代の空気が伝わってきて、
自伝的側面も多く、なかなか興味深かったのだけど、
その他の小説は、戸板康二の著作でも異色、ブラックというか、
後味のよろしくないストーリーが多くて、びっくりだった。
そのなかでも特に、暗澹たる気分になるのが「もくれんでら」という小説。
『大衆文学時評』のなかに、その「もくれんでら」の書評もあって、
ここを読んで、ああそうか、暗澹たる気持になった理由は、
他でもない、戸板康二の小説描写の力ゆえなのだ、ということに初めて気付かされた。

とかなんとか、話は尽きないのだが、
それにしても、今回の吉田健一による戸板ミステリ書評、
わが戸板康二道のなかでもひさびさの大事件だった。
これについては、後日、抜き書きファイルを作成するつもり。




  

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