ある経験

Mr.X


1.はじめに

 本誌第22号の特集記事「『転職』についてあなたが思うこと」にメッセージを寄せた、30歳代の男性の者である。
 私は、その後、勤務していた公益法人を退職したのだが、これを機に、その法人への入職から退職までの経緯と、その法人での経験とを、第22号の特集記事中の拙文への補足も兼ねながら、ここに思いつくままに綴ってみることにする。

 読者の各位が、各々の勤務先の職場環境を点検するよすがとでもして貰えれば幸いである。


2.その前の勤務先

 ある冬の日のことである。


 私は、何気に巷間で著名なある「転社情報誌」を買った。
 当時、私は、経営基盤もそれなりに安定した、中堅のある株式会社に事務職として勤務していた。ここでの仕事は順調で、人間関係も良好、直属の上司も温厚な常識人で、職場の作業環境も整備されていて、少なくとも私が所属していた部署に限っては、残業は殆どなく、休日出勤も皆無であった(他の部署は、また違った状況にあったことと思うが)。今時珍しくそこそこ良質の条件が揃った職場であったと言えようか。この「場」に居続ける限り、「仕事」と「プライベート」とを両立させた、健全なサラリーマン・ライフを、将来に亘って「満喫」することが可能であったかもしれない。いわんやわざわざ「転社」を志さなければならないような「大きな負の要素」は見当たらなかったと言っていい。
 更に、私は、社内のあるプロジェクト・チームにメンバーの一人として加えられ、本業とは別に「もうひとかたまり」の仕事を任される立場になり、次の節目の人事異動を待って「平社員」から1ランク上の職位に昇格することも内定していた。ひょっとしたら、私は、会社から少しは期待されていた存在だったのかもしれない(話は横道にそれるが、こういうことを率直に書くと、嫌味に思ったり、嫉妬をしたりする人が世の中には必ずいるものだが、それを承知で事実は事実として書く)。
 このように、何もかもが順風満帆に近い状況だった訳だが、その一方で「小さな負の要素」が全くなかったという訳ではない。強いて挙げると、それは次の二つである。
 一つは、その会社の中の、私が所属していた部署を含むある特定の事業部門が、会社事業のより一層の「合理的展開」を図るという大義名分のもと、本社からそっくりそのまま切り離され、子会社として独立することになり、当該事業部門に所属しているスタッフも自動的にその子会社に「転籍」させられるという計画が明かるみになったことである。
 転籍予定先が原所属先とは親子の関係にある会社であるとはいえ、本人の意思とは関係なく、自分が選んで入った会社から「別の会社」に身柄を移されるというのは、それなりに衝撃的な話であり、しかも新しい子会社の経営基盤が今一つ脆弱とあっては、不安感は倍加される。
 もう一つは、給料が余りにも安かったことである。当時の月給は、税込みで19万円弱であった。所定時間外の勤務が殆どなく、労働環境にも余裕がある分の代償であると見做されればそれまでだが、それにしてもこの金額は、現実の生計を維持して行くための「糧」としてはちと安過ぎた。
 これら二つの「小さな負の要素」は、文字通り「小さな事」にほかならないが、組織で働く者にとっては、「異様に大きな事」とも解釈し得る可能性を秘めている。無理もない。サラリーマンは、この時代においてさえも、良かれ悪しかれ勤務先との諸々の関係によってその私生活が左右される仕組みの中に置かれているのだから。勤務に関わる如何に微細なことと雖も、気にせずにはいられまい。
 私は、現状を前進させたいと思い、もう少し条件のよい職場がひょっとしたらほかにあるかもしれない、応募してみて「引っかかる」ようなことがあれば儲けもの、という余り深刻ではない気持ちで、当時の仕事を続けながら転社行動をしてみることとし、「転社情報誌」を何気に買うことになった訳である。


3.応募

 「転社情報誌」のページをめくるうちに、ある公益法人を見つけた。
 私は、そこに応募書類一式を送った。けれども、それから1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、やがて3週間が過ぎ去っても、その法人からは何も反応はなかった。
 これはきっと書類選考で不合格にされたに違いない。
 それならばそれで仕方がないことだが、応募書類だけは返して貰うことにしよう。そうすれば、履歴書に貼り付けた顔写真をはがして、それを次にほかのところに応募するときに再利用できる。こういう顔写真だって決して安くはないのである。
 それに、私は、不合格なら不合格だとはっきり言って欲しかった。
 私は、これだけのことを伝える積もりで、応募書類を送ってからかれこれ1か月にもなろうとするとある昼休み、公衆電話機からこの応募先に電話をかけた。
 そうしたら、当然に不合格だと言われると思っていたところ、「非常に忙しくて、ご連絡をするのが遅れてすみません。実は、あなた様は、○月△日に行う筆記試験と面接を受けて頂くメンバーに入っています。今、その細かいことを記した書状をお送りしようと思っていたところです。」と、出前を催促されたそば屋のようなことを言われて大いに驚いた。
 そう言われれば、先刻まで応募書類を返却して貰おうと息巻いていたものは、都合よくも消沈する。
 私は、「ああそうですか。恐れ入ります。」と言って電話を切った。
 そうして、それまでの遅々とした対応振りからは信じられない程に、それから2、3日後には筆記試験と面接への「出頭」を要請する文書が届いたのであった。

 しかし、ともすればちぐはぐとも取れるこの対応の変化には、その後のこの法人での私の苦衷を暗示する何ものかが含まれてはいまいか。


4.試験から内定まで

 ○月△日の指定された時刻に、私は、応募先の試験場に赴き、筆記試験と面接を受けた。北風が強くかなり寒かったが、快晴の空は青く澄んでいた。
 不合格でもともと、合格すれば儲けものだと思っていたので、私は、かなりリラックスして、その日の空模様のように晴れ晴れした気持ちで試験に臨んだ。筆記試験はそこそここなし、面接では言いたい放題のことを喋った。
 そうして、2、3日後に電話で連絡があり、「採用が内定した」と言い渡された。
 後で判ったことだが、このたびの求人には、120人からの応募があり、それを書類選考のふるいを通して10数人に絞り込んで、筆記試験と面接を行い、最終的には私も含めて3人の採用が内定したとのことであった(話は横道にそれるが、どういう理由と審査過程でこの私が最後まで「生き残った」のか、我ながら興味深いものがあったので、後々に他人(ひと)にも色々聞いてみたが、真相は判らず仕舞いであった。単に、運がよかったということか)。


5.「専門」へのこだわり

 私をスタッフの一人として採用することを内定したこの公益法人は、国のある行政機関の監督下にある、いわゆる外郭団体である。この公益法人は、「ある分野」についての調査研究を行うことをメインの事業としているが、その「ある分野」が、私の学校時代の専攻分野とかなりの部分で重なることから、私はその点に自分の職業としてのある種の魅力を感じたのである。
 私は、それまでに事務職として若干の職業経験があり、現にこのたびこうして転社行動を起こしてはいるもの、歴とした職業を持っているのであるから、わざわざそれを棚上げにしてまで、いくら学校時代の専門分野に近いとは言え、職業としては未知の領域である「その分野」に進む必要はないのかも知れない。実際に、「いつまでも学校時代の専門なんかにこだわり続けていると、もっと大切なものを逃してしまうよ。」と、忠言をしてくれる他人(ひと)もいた。しかし、私は、もう少しだけはどうしてもそういうことにこだわってみたかった。


6.「転社」の人間模様

 ところで、サラリーマンが、会社や公益法人のような「法人組織」的な事業所に所属して/と契約して仕事をするに当たっては、今述べたような「職業への動機付け」の問題とともに、「勤務条件」も、その職業生活の正否を左右する重要な要素になる。
 「採用内定」後、諸々の説明を受けるために応募先に赴いた折、条件面に纏わる話も聞いた。人事担当者によれば、月給は税込みで20万円を少々越える程度だが、仕事は「楽」で、残業はそれほど多くはなく、月平均で10時間前後になるので、実際の残業時間が月単位で10時間を越えても越えなくても一律に10時間分の時間外労働手当を月給に上乗せして支給し、所定外労働が10時間を越える月が続くような場合には手当の額を考慮する余地がある、とのことであった。
 給料の額は、当初意図していた金額よりも遥かに下回るものの、前述のような「職業への動機付け」は止み難いものがあり、また仕事が「楽」ならばゆとりの時間があるであろう分、それを自分の時間に充てられるであろう点が何よりも魅力であった。これは、給料が期待金額に達しない分の「報酬補填」に相当するに足るであろう。
 私は、この公益法人からの「採用内定話」を「お受け」することとし、当時の勤務先を円満に退職して、この公益法人に「転社」をする決心をした。
 当時の勤務先に「別れ話」を持ち掛けたとき、私は、直属の上司であるある役員から文字通り「三日三晩」に亘る慰留の説得を受けた。
 それが、通り一遍の儀礼的な慰留工作ではないことを、私は肌で感じ取った。私の欠点を指摘してくれる他人(ひと)は少ないが、その上司は、上司と部下という公の間柄から敢えて一歩踏み込むように、「ここに留まって、軌道に乗りかけたこの仕事を続けたほうがあなたの幸せのためにも絶対にいい。それを見透せず、土壇場で自ら狭い視野を作って、それに固執してしまうのがあなたの欠点である。」と、いみじくも指摘してくれて、「これからも一緒に働きたい。」と泣きそうな真顔で言うのであった。
 その上司の誠意と気迫に対峙しながら、私は、何だか申し訳ないような気持ちになったが、結局「我儘」を通させて貰い(職業選択の自由が、人間の普遍的な権利の一つとして保証されている以上、手順を踏んで「転職」や「転社」をすることは決して「我儘な行為」ではないのだが、それにも拘らず、私は、ほかならぬ自分の行為にある種の「我儘」を感じてしまったのであった)、円満に退職をすることになった。
 退職の前の日、普段は殆ど交流がないある部署の清楚な美女が、「Xさんと一度じっくりお話をしてみたかった。」と、私を昼食に誘ってくれた。
 いよいよ最後という日には、日頃給湯室で会えばいつも私を笑わせてくれた隣の部署の女の子が、「Xさん。どうして辞めちゃうの。」と反べそ寸前の真顔で呟いた。
 また、同じ部署の同僚のある女の子に、いわゆる「最後の挨拶」をしたとき、私に挨拶を返すその女の子の両の瞼には涙が光っていた。


7.新しい勤務先へ

 そうして、私は、件の公益法人に勤務する身となった。
 懸念材料が全くないとは言えないものの、概ね「良好」な条件に囲まれていた、直前の勤務先での仕事に俄かに終止符を打って、自らのステップ・アップを求めて、勇躍乗り込んだ新しい職場である。
 転職や転社に「期待」と「不安」とが入り交じるのは、いかなる社会やいかなる世渡り人にも共通の現象であろうが、ことこのたびの私に限っては、この転社によって、単に生活の糧を得るための労働に止どまらず、自分の人生の一部をなし、人格と一体となる仕事にいよいよ就くことができるに違いないとの意識が強く、「不安」は掻き消されて、寧ろ「期待」が優っていた。
 しかしながら、私が目の当たりにした新しい職場の実像は、直感として驚きに値するものであった。
(以下、次号)


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