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宴の途中で、伊勢は厠に行く振りをして広間を出た。小次郎がそれを見逃すはずはなかった。藩主は機嫌よく酔っている。師匠は隣の武官と何やら話し込んでいる様子。今、居なくなっても分からないだろう。小次郎はこっそり広間を抜け出した。 廊下に出ると、伊勢が歩いていた。 「伊勢」 呼ばれると伊勢は振り向いた。返事はなかった。顔は雲っていた。 「帰って来い」 伊勢の口がすっと開いた。 「帰れるものならば、とっくの昔にそうしている」 「帰れないなら、俺が援護してやってもいい」 「二人でか?少なすぎる」 「・・・お前、何かされてないだろうな」 「な、んだと」 突然の問いに戸惑う伊勢。 「お前、言ってる意味が分かっているのか」 「ああ」 「私は指南役の大内殿に弟子として仕えているだけだ」 「それならいい」 「・・・もう、戻った方がいい」 城内には隠密がいる。 「・・・わかった」 二人はそれぞれ戻っていった。 ある夜、伊勢は寝苦しさに目が覚め、自室を出た。廊下に出ると、どこからか人の笑う声が聞こえてくる。無意識のうちにそこへ足が向かっていた。 「こんな夜中に騒がしいな」 そう思っていると、ばったりお付き武官の影丸に会った。 襟元がはだけそうだった。 「影丸殿・・・」 「口外は無用じゃ、伊勢殿」 影丸は伊勢を睨み付けながらそれだけ言うと走り去っていった。 翌朝、伊勢が廊下を歩いていると影丸ともう一人のお付き武官八雲が並んで歩いていた。二人ともさすがに藩主に気に入られた顔立ちだった。二人が並ぶと凄みがあった。影丸と八雲は伊勢を見た。 「おはようございます、伊勢殿」 「おはようございます」 通り過ぎようとした時、影丸が横で言った。 「昨夜は良く眠れましたか」 八雲が笑った。伊勢が振り向いた時には二人とも威圧するような目で見ていた。 「先にお仕えしているのはこの影丸と八雲殿。あまり、差し出がましい真似をなさらぬように」 伊勢には身に覚えのない警告。憤りを感じながらも、この城での頼りになる者がいない伊勢は刃向かうことができなかった。 「それは・・・失礼つかまつりました」 二人はくるりと向き直り、歩き出した。 「羽須美さまも、羽須美さまじゃ。なぜあのような土臭い者を城に上げたのだ」 八雲は伊勢に聞こえるように言った。 伊勢は耐えるしかなかった。 伊勢は城の道場で、稽古に励んでいた。励む、といっても相手になる者がおらず独りで稽古していた。皆、相手をしないのだ。 「伊勢殿はあの小次郎殿と稽古していたのだろう?拙者ではなぁ・・・」 そう言っては避けていた。また、伊勢が努力せずに何でもできると思っている輩が吐いて捨てるほどいた。そいう者は伊勢を目の敵にしていた。 「拙者は稽古もせずに何食わぬ顔でできる奴は好かん」 目の前で指を差されて言われたこともある。かといって大内は見て見ぬ振りをするだけだった。藩主に言われて伊勢を受け入れただけで、面倒を見たくないのだ。 伊勢は、だんだん息苦しくなって来た。時折、腹いせに真剣で藁を斬ると、皆好奇の目で見た。 「伊勢殿でもそういう時があるのか」 伊勢はもう、人との交流すらなかった。 「飼い殺しだ」 夜、外を見つめながら呟いた。 この月を小次郎も眺めているだろうか。伊勢はふっと小次郎のことを思い出し、懐かしんだ。 虫の音が悲しげに聞こえてくる。このまま時が過ぎて冬が来て・・・動けるのは春。それまで待てなかった。次の指南役というのは口実で、大内の弟子から襲名することになるだろう。お付き武官でもない。気が狂いそうだった。 そのとき、酔った武官が二人、廊下を歩いてくるのがわかった。 「知ってるか、今江戸では金持ちの武家の息子が、花魁に狂って身を潰しそうだと。うらましい、俺もいっぺん」 「お前、一昨年の話だ。馬鹿」 「ああそうだったな、アハハハ」 花魁に身を潰した武士の話は数年前に流行った。伊勢は閃いた。江戸に行けば、刀で暮らしていけるかもしれない。苦渋に満ちた決断だった。剣は生活の為に使いたくはなかったが、今の自分にはそれしかなかった。 そう考えていると、誰かが部屋に近付く気配を感じた。伊勢が振り向くと、声が聞こえた。 「失礼いたします」 使いの者が襖を開けた。 「殿がお呼びでございます」 「・・・すぐ参ると申せ」 伊勢は太刀を掴むと腰に差した。 小次郎は眠れなかった。夜になるとこっそり寝床を抜けだしては裏山の竹薮にこもっていた。太刀を振り回し笹を切り刻んでいた。 もう何も考えたくない。何も考えられない。 息が上がって胸が苦しくなっても、汗まみれになっても止めなかった。腕が、何も感じなくなるまで太刀を振り回した。そんな自分に気付いたのは、笹の葉が顔に当たった時だった。 「うっ」 押さえた手を見た。血が垂れていた。 「くそうっ」 小次郎はうずくまると、雑草を掴んだ。 翌朝、汚れたままの小次郎が、竹薮で寝ているのが見つかった。 |