華の宴

第五章 再会



 嵯峨野が去って行った後、伊勢は囲炉裏の前でただ宙を見つめていた。
ちょっとでもあの老人の言うことを信じた自分が馬鹿だったのか?そんなの誰にも分からない。母は「これを肌身離さずお持ちなさい、そうすればきっといいことがあるから」と言ってた・・・。周りの人たちもそう言っていた。しかし、今までにそんないいことなどあっただろうか?
「捨てるか。こんなもの」
居間に飾ってある身を持って、土間に投げそうになった瞬間、男の大きな声がしてきた。
「たのもう」
聞き覚えのある声だった。
「あ・・・」
声にならかった。答えることができなかった。その声の持ち主が誰であるか分かってしまったから。
「いないのか?開けるぞ」
ガラッと戸が開けられる。目が合った。
「伊勢」
伊勢の目は張り付いていた。
「驚いたか?」
「こ、小次郎・・・」
「伊勢、戻ろう」
「嫌だ、戻らない」
「出奔は咎めないとお父上は言ってらっしゃる」
「嫌だ、帰ってくれ!!」
「何が嫌なんだ?跡を継ぐのが嫌なのか?」
「違う!」
「お前に・・・そういう話があったことは知っている・・・」
「言うなッ!」
伊勢の手が小次郎に当たった。小次郎は頬を押さえたまま黙っていた。
「いっそ、生まれなければ良かった。こんな忌わしい体」
「そうか。それなら仕方ないな。俺もこのまま帰らない」
「何だと?」
「俺も帰らないと言っている」
「お前が帰らなくてどうするんだ?私がいなければお前が跡を継ぐんだぞ!!」
「俺も今から出奔する」
「何と簡単に・・・。私の事情はそう簡単じゃないんだぞ」
「知ってるさ、でも俺の役目はお前を連れ戻すことだった。失敗に終わったら、戻れないだろう?」
「呆れた・・・」
「そのまま修行に出たと誰かに吹けばいいんだ」
「は、ハハハ・・・」
「・・・」
「狂ってる、あそこは狂ってる」
「ああ、狂ってるな・・・」
「死んでも帰らない」
「決めた。俺も、帰って襲名はしない」
小次郎は帰っても腕が上がらないのは事実だった。小次郎より強い相手はいないからだった。小次郎と対等に渡り合えるのは伊勢だけだった。

 伊勢は思い出していた。過去の忌わしい出来事を。父親が出奔を許すというのは口実だった。
「伊勢、お前に藩の指南役の話が来ている」
と、父親は切り出した。とても苦しそうに。伊勢にはそれが何を意味するかがすぐに分かった。美しく生まれて来た者への羨望と欲望が人をおかしくする。いずれそうなるだろうと思っていた。鷹狩りの帰りにわざわざ道場まで足を運んでやって来た藩主は父親でもなく小次郎でもなく、伊勢を見ていた。伊勢は、あの時の藩主の口元を今でも忘れることができない。
「私は嫌です。他の兄弟子を差し置いてなどそのような」
「しかし、これは大殿様から直々に命令されたことだ」
「指南役は、他の方がなさっているではありませんか」
「声が高い。内々になのだ。いずれと言うことだ」
隣の部屋では母親が泣いていた。
「お前が指南役になる前に登城して城に慣れるようにと仰せだ」
「嫌です!」

 結局伊勢は登城することになった。そこで伊勢は藩主に刀を突き付けた。馬を奪って命からがら逃げた末、辿り着いたのがここだった。住職は快く匿ってくれた。

「しかし、お父上はお前が戻らなければ・・・」
「ああ、分かっている。腹を斬るだろう」
小次郎はいいのか、とは言わなかった。
「それでも、それでも・・・」

 静かな住まいにお湯の沸く音が響き渡っていた。




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'99.3.1
Gekkabijin