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嵯峨野が去って行った後、伊勢は囲炉裏の前でただ宙を見つめていた。 ちょっとでもあの老人の言うことを信じた自分が馬鹿だったのか?そんなの誰にも分からない。母は「これを肌身離さずお持ちなさい、そうすればきっといいことがあるから」と言ってた・・・。周りの人たちもそう言っていた。しかし、今までにそんないいことなどあっただろうか? 「捨てるか。こんなもの」 居間に飾ってある身を持って、土間に投げそうになった瞬間、男の大きな声がしてきた。 「たのもう」 聞き覚えのある声だった。 「あ・・・」 声にならかった。答えることができなかった。その声の持ち主が誰であるか分かってしまったから。 「いないのか?開けるぞ」 ガラッと戸が開けられる。目が合った。 「伊勢」 伊勢の目は張り付いていた。 「驚いたか?」 「こ、小次郎・・・」 「伊勢、戻ろう」 「嫌だ、戻らない」 「出奔は咎めないとお父上は言ってらっしゃる」 「嫌だ、帰ってくれ!!」 「何が嫌なんだ?跡を継ぐのが嫌なのか?」 「違う!」 「お前に・・・そういう話があったことは知っている・・・」 「言うなッ!」 伊勢の手が小次郎に当たった。小次郎は頬を押さえたまま黙っていた。 「いっそ、生まれなければ良かった。こんな忌わしい体」 「そうか。それなら仕方ないな。俺もこのまま帰らない」 「何だと?」 「俺も帰らないと言っている」 「お前が帰らなくてどうするんだ?私がいなければお前が跡を継ぐんだぞ!!」 「俺も今から出奔する」 「何と簡単に・・・。私の事情はそう簡単じゃないんだぞ」 「知ってるさ、でも俺の役目はお前を連れ戻すことだった。失敗に終わったら、戻れないだろう?」 「呆れた・・・」 「そのまま修行に出たと誰かに吹けばいいんだ」 「は、ハハハ・・・」 「・・・」 「狂ってる、あそこは狂ってる」 「ああ、狂ってるな・・・」 「死んでも帰らない」 「決めた。俺も、帰って襲名はしない」 小次郎は帰っても腕が上がらないのは事実だった。小次郎より強い相手はいないからだった。小次郎と対等に渡り合えるのは伊勢だけだった。
伊勢は思い出していた。過去の忌わしい出来事を。父親が出奔を許すというのは口実だった。
結局伊勢は登城することになった。そこで伊勢は藩主に刀を突き付けた。馬を奪って命からがら逃げた末、辿り着いたのがここだった。住職は快く匿ってくれた。
「しかし、お父上はお前が戻らなければ・・・」
静かな住まいにお湯の沸く音が響き渡っていた。 |