華の宴

第三章 小箱



 その夜、嵯峨野は拾った小箱の蓋を眺めていた。
「香箱か・・・」
傷一つ付いていない綺麗な漆塗りの蓋だった。なぜ、蓋だけしかないのだろう。あの時落ちていたものだとすれば、小次郎のものに違いない。嵯峨野は紫のちりめんに包み懐にしまった。どこかで会う時もあろう。嵯峨野は小次郎に返すつもりでいた。
 翌日、嵯峨野は懐に蓋を入れたまま外に出た。花街は喧噪だった。それでなくても江戸は喧噪だった。色恋沙汰に江戸の火事、人斬り、スリ、詐欺・・・。それらの全部を一日で見ることができた。嵯峨野は花街に出るのが嫌になっていた。
「どいつもこいつもうるさい・・・」
茶店に出る気がしなくなっていた嵯峨野は、そう呟いて街を抜けようとしていた。
「こらーッ!待ちやがれ!!」
後ろの方から、盗人を追い掛ける声が聞こえてくる。盗人は嵯峨野に体当たりを食らわせて走って行った。
「くっ、不覚」
かなりの衝撃で、地面に倒れてしまった。起き上がった嵯峨野は懐に手を入れてみた。蓋が手に当たらなかった。とっさに周りを見渡す。
 二尺先に、紫のちりめんがぽとりと落ちていた。嵯峨野は慌てて拾い上げると、ちりめんを開けて傷が入っていないか確かめた。どうやら、傷は一つも入っていないようだ。嵯峨野はため息を付く。
 その嵯峨野の姿に、声がかけられた。
「そこのお方」
嵯峨野は声のする方を見た。町外れにいる占師の老人だった。
「宝物ですかな?」
しわがれた声で聞いてくる。不思議と染み渡るような声だった。
「いや、拙者のものではない。預かり物とでも申そうか」
「預かり物・・・」
「ああ。それがいかがしたのか?」
老人は間を置くと、こう言った。
「お見受けするところ、それは蓋のように見えましたが・・・。違いますかな?」
「さよう」
「さあらば、もうお返しになった方が良いでしょう。きっとその蓋を探しておられるはずです」
「なぜそのようなことが分かるのだ」
「その蓋はいにしえに伝わる箱の蓋なのです。ある寺に高名な法師がおりました。その法師はこともあろうに、まだ修行僧の時分に稚児と駆け落ちしたのでございます。その時、持っていたのが香箱で、稚児は身を、法師は蓋をそれぞれ手に持ち心中しようとしたのでございますが、自分可愛さに法師は死にきれず、稚児だけが海に身を投げ死んでしまいました。二人は生まれ変わって結ばれることを願って・・・。また、その法師もすでに息途絶え、箱の所存が分からぬままとなっておりました」
「その法師が持っていたというのがこの蓋なのか?」
「さようで。その蓋は身と対になっております。魂を引き合わせる物なのです」
「だがそのような話、寺の数だけあるのではないのか」
嵯峨野は信じていなかった。老人は呼吸をすると話し出した。
「それが、昨日ここをお通りになったお方が同じように身の方を落とされたのです」
「なに?」
「そのお方にも同じようにお話したところ、生まれた時に手に握られていたそうです。それ以来、肌身離さずお持ちになっているとか・・・。蓋をお持ちの方も同じように生まれた時にお持ちになっていたはずです。とすると、」
「・・・」
「それは、お預かりしたものではございませんな?」
「ふ、そこまでつじつまがあっていればいたしかたない。さよう、これは預かり物ではない。多分その者が落として行った物だ」
「やはり」
「・・・して、その身を持っているのは?」
「この界隈で用心棒をなさっているとか・・・。お名前までは存じ上げません」
「この界隈・・・」
「とにかく、早くお返しになることです。もし早くお返しにならなければ、その蓋はあなたの身に害を及ぼしますぞ」
「害だと?笑止な。この小さな香箱の蓋がな」
信じない、というふうに嵯峨野は答えた。
「では、会ったら返しておこう」
嵯峨野は笑いながら、その場を去った。

 嵯峨野は岡町を出て寺にいた。
「今日は寒いな・・・」
 突然、雪が降って来た。雪が降らないほど暖かな日が続いていたが、どうやら今日はそうじゃないらしい。嵯峨野は身震いをした。寺の境内で一人たたずんでいた。
「趣のある寺の境内にしんしんと降る雪か・・・演出は最高だ」
昔詰め込んだものを出すかのように扇を広げ、謡曲「江口」を舞い始めた。


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         歌へや歌へ

             泡沫の

                あはれ昔の恋しさを
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 舞いながら、下手の方へ目をやった。人が立っていた。あの、冷たくて綺麗な顔だった。紅い傘をさしていた。傘の中から見える目が嵯峨野を見ていた。嵯峨野の扇は宙で止まったままだった。




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'99.2.12
Gekkabijin