黒い森

第十一章



ルイはあらかじめミロの命令どおり、5人の召し使いたちをエントランスから出てくるように言っておいた。ルイと5人の召し使いたちは、外に出てミロと馬車の到着を今か今かと待っていたのだった。
馬車が城内へ入って来た。城門が開く音と、門番たちの声でミロが帰って来たのが分かった。緊張する者たち。ゆっくりと馬車が近付いて来た。
ミロは馬から降りて、顔を見せにっこりすると、「待たせたな」と声を掛けた。
「お帰りなさいませ。姫君はいかがでしょう」
「こちらにいらっしゃるよ」
供がドアを開けようとしたが、ミロは片手で制した。
「ああ、いいよ。今日は私がするから」
5人の召し使いたちは、どんなお姫さまが出てくるのか、もう目が釘付けになっていた。
ミロは「お城に着きましたよ。さあどうぞ」と手を差し出した。
そして伸びて来た美しい手。片足を前に出した。まるで絵を見ているようだった。
降りて来た姫君は・・・。

息を飲むほど、美しい。それ以外に思い浮かばなかった。

今までたくさんの王侯貴族や他国の貴族たちを迎てきたこの城にさえ、このような美しい人はやってこなかった。ルイと5人の召し使いたちは言葉が出なかった。ミロ様は一体どこからこのような姫君を見つけて来たのだろう。どちらの高貴な姫君なのだろう。きっと名門の姫君に違いない。様々な思いが彼女たちを襲った。
長い間、高貴な女性がいなかったこの城に春がやってきたような雰囲気になった。
「ここが私の城です。白いお城ですよ」
「ここが小鳥さんのお城ね。きれい・・・」
「この者たちはお姫さまの身の回りを世話してくれる者です。分からないことや、何か用があればすぐにお申し付けください。ああ、皆、お姫さまに話し掛けられるのを待っていますよ」
ミロが促すと、姫君は出迎えてくれた者に、お辞儀をした。それはそれは優雅なお辞儀だった。
続けて「こんにちは」と声を掛けた。それは何気ない挨拶の言葉だったが、出迎えた者には十分だった。
「ようこそいらっしゃいました。皆、姫様の御到着をお待ちしておりました」
「召し使いの私たちにお辞儀なさるなんて!」
ルイの後ろで、召し使いたちは頭を下げながら小声で叫ぶように呟いた。高慢な姫君たちとはうってかわって謙虚な仕種に痛く感動したのだった。
「では中へ御案内しましょう」
ミロは姫君の手を持ったまま中へ入っていった。出迎えた者もそれに続いて中へ入った。

最初に向かったのはこの日のために用意した姫君の部屋。ほんの数時間しか使わないだろうその部屋は、姫君のドレスの色とほぼ同系色で合わせていた。ベッドカバーに付けられたピンクのリボンや可愛らしいスリッパが彼女を待っていた。
「道中お疲れでございましょう?こちらでしばらくの間お休みなりますか?」
気を利かせた召し使いが、姫君に話し掛けた。
心が洗われるような笑みを浮かべて姫は「大丈夫です」と答えた。
言われた方の召し使いは、微笑を見入っていたことに気付いて慌てて下を向いてしまった。すかさず、他の召し使いが話し掛ける。
「では、ミロ様と御一緒しましょうね」
姫君は部屋から出て来た。ミロは部屋に入れず、廊下で待っていた。
「お部屋はお気に召しましたか?」
「ええ、とても」
彼女から出る微笑みが何よりの証拠だった。

「すべて御案内して差し上げたいが、何しろ時間が掛かります。今日は天気が良いし、外に出ませんか」
そう言うと、ミロは姫君を連れて中庭に向かった。
テラスには、手際のいいルイがティータイムのセットを施していた。紅茶とお菓子が運ばれて来た。
「お好きなものをお好きなだけ選んでくださいませ」
召し使いに促され、姫君は色とりどりのお菓子を指差した。注がれた紅茶の紅さを見ながら、ミロは姫君の目は本当に紅いのだと実感した。
数分、談笑しながらティータイムを楽しんでいると、空には鳥が舞っていることにミロは気付いた。彼は何か思い付くと、召し使いの一人を森番への使いに出した。
用が済んで、すぐに振り向くと、姫君がじっとこちらを見ていた。
「どうかなさいましたか」
ミロが問いかけると、姫君は膝に掛けられていた白い布を取り、彼の口に当てた。
「小鳥さん、お口が・・・」
汚れていたらしい。考え事をしていると、夢中になる癖があるので以前から気を付けていたのに・・・。こんな時に限って、失態を見せてしまった自分が嫌だった。貴婦人や他の姫君からこのようなことをされても、一つも恥ずかしくないのに、今日は少し恥ずかしくて、思わず周りの召し使いの顔を見てしまった。
彼女たちは慣れているもので、そのような場面は敢えて視線を外している。それどころか汚れてしまった姫君のナプキンを取り替えた。
そうこうしているうちに、森番から預かった物を持って、召し使いが帰って来た。
「アルベール様からでございます」
弓と矢だった。
「お姫さま、あの鳥をここへ連れて来て差し上げますよ」
ミロは重い帽子を取ると、席を立ち少し離れているところまで歩いた。構えて弓を引いた。
ミロの視線の先には、大空を舞う一匹の白い鳥がいた。姫君は白い鳥に気付くと、突然席を立って走り出した。
「お姫様、危険でございます!」
召し使いたちの言葉も耳に入らずに、彼女はミロにしがみついた。
「殺さないで」
ミロは下を見ると、ゆっくり弓矢を降ろした。走って来た召し使いが胸を撫で下ろした。
「大丈夫。殺したりはしません」
あなたは優しい人だ。あなたの微笑みにかけて、あの鳥を殺したりはしない。ミロは姫君の顔を見つめ、短い誓いを立てた。ミロは無言だったが、彼に殺す意志がないことを見て取ると、姫君はその場から少し離れた。
ミロは空に視線を移すと、最大限に弓を引き、矢を放った。ビュンという、空気を裂くような音がして、矢は白い鳥の羽の隙間に挟まった。バランスを欠いた鳥は、もがきながら地上に落ちて来た。
ミロは鳥が落ちた地点まで歩いて行き、羽から素早く矢を抜いた。戻って来るなり、彼は姫君にミロの手の中でじっとしていた白い鳥を差し出した。
「ほら、ちゃんと生きてる」
「本当・・・」
渡された白い鳥を撫でながら、「可愛い」を頻繁に口にする姫君を見て、ミロは考えが変わった。
やはり、あなたには自然が似合う。緑があなたを呼んでいる。
今日は止めにしよう。楽士には帰らせよう。
「ルイを呼んでくれ」
そうして、姫君が抱いている鳥を撫でながら、「この鳥はあとで籠に入れましょう」と言った。

ルイが来ると、舞踏は止めることを告げた。
「今日は止める。楽士たちには倍の額を払い、帰らせてくれ」
「かしこまりました」
それはルイも予期していたことだった。あの姫君からは、舞踏会などのきらびやかなイメージは浮かばない。
「それから、この鳥は籠に入れておいてくれ」

鳥をかかえたルイがその場を去った後、ミロは姫君に一つの提案をした。
「そうだ、お姫さまが住んでいらっしゃる森に似ているところがあるのです。そこへ行ってみませんか」
「ええ、是非」
「じゃあ、走りますからしっかり付いて来て下さいね」
ミロは姫君の手を取ると、突然走り出した。意外にも彼女はしっかり付いて来た。ミロがちらりと後ろを見ると、召し使いたちも小走りだがこちらに向かって来ていた。
「お待ちくださいませー!」
失敗だ。せっかく引き離そうと思ったのに。ミロはがっかりした。
彼女たちはルイに、姫君のお守をきつく命ぜられていたため、必死で駆けて来た。
あともうちょっとで逃げ切れるところで、実はわざと作っておいた水たまりが見えて来た。
ミロは心の中で舌打ちしながら、召し使いたちに「大丈夫だ」と言った。
彼女たちは、はあはあ言いながら、走って来て 「そうはおっしゃいましても」と吐くように言った。
「水たまりだわ」
全く邪念のない、可憐な一言がミロを引き戻しくれた。
ここは、隣は深い林、草むらの向こうは湖になっていて、どうしても水たまりが邪魔なのだ。
「仕方がない。皆を通して、お姫さまを向こう側にお連れします」
言うなり、彼はブーツを脱いで靴下を脱ぐと、裸足になった。ズボンを捲り、落ちないようにする。ミロは言葉どおり、召し使いたちから先に向こう岸に連れて行った。一人ずつ、腕に抱いて。
「さあ、お姫さま。あなたの番です」
ミロは手を差し出した。姫君の手を取ると、肩に置いて、「ここに手を掛けて」と説明し、自分は腰を下げた。ひょい、と姫君の足許を掬って抱き上げた。
ミロはゆっくり歩きながら、姫君に囁きかけた。
「あなたとゆっくり話すために、最後まで待っていただきました・・・」
姫君は恥ずかしそうにも恥ずかしくなさそうにも見える、ちょっと困った可愛い顔をしていた。
「私はあなたと本当のおしゃべりをしたいんです」
姫君はミロをじっと見ていた。
「だから、彼女たちをまくために、あなたの帽子を飛ばします。それで、走って林の中に逃げ込むんです。いいですね?」
彼女は頷いた。
「ああ、ずっと水たまりならいいのに」
ため息のように呟いた。
ミロは最初から最後まで姫君の目を見ながら歩いた。彼女が腕の中にいる。自分を見つめている。このままどこかへ連れ去って、それからどうしてくれよう。
それは今まで以上に彼女を意識した瞬間だった。
そうしているうちに、いつの間にか向こう岸に着いていた。ミロは姫君を降ろすと、手を繋いで歩いた。
少し歩いて、召し使いたちがおしゃべりをし始めたところを見計らって、姫君の帽子を素早く投げ飛ばした。
「あ、帽子が」
彼女が発した言葉は絶妙のタイミングで召し使いたちの耳に入って来た。
「大変!」
草むらの中へ消える帽子。走る召し使いたち。林へ逃げ込む二人。時間が交差する。
ミロは姫君の手を引いて走った。
「こっちです」
二人はしばらく走ると、誰も追いつけないことを確かめて、足を止めた。
「ここなら彼女たちも追いつけないだろう。子供の頃、良く遊んだところです」
そう言うと、ミロは大きな岩の前に姫君が座る場所を作った。
「ここへ座って」
二人は並んで座った。遠くの方で名前を呼ぶ声がした。それを聞き、声を殺してくすくす笑う。
ミロはポケットから小さな指輪を取り出した。
「これはあなたに」
小さい指輪の上には、花をあしらった綺麗な石が付いていた。それを彼女の左手を取り、薬指にはめた。
「この指輪のことは誰も知りません。だから二人の秘密です」
微笑んで自分を見つめている姫君に、ミロは質問をしてみた。
「お姫さま。私はあなたを大事にしたい。あなたが私と同じように思っているなら、一生守ってみせる。・・・あなたは私をどう思っていますか」
手は自然と繋がっていた。
「好き?」
分かりやすく言ってみる。
「・・・好き」
言葉の意味では、彼女の「好き」は真意が計りかねたが、表情や態度を見ている限り、ミロを恋愛の対象として受け止めているようだった。
ミロは上半身を手前に起こし、彼女の唇にキスした。
「目を瞑って」
彼女はミロに応えてくれた。ミロはこのまま押し倒してしまおうかとも悩んだ。しかし、こんなに純粋な人を傷つけることになったらと、愛おしい思いが止めさせた。
彼は口を離すと、「もっと好きになった?」と囁いた。
彼女は、恥ずかしそうに頷いた。
ミロは胸に去来する、せつなくて甘い感情をどうしようもなく、世界中がそうなっているかのように感じていた。



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2002.1.4
Gekkabijin