黒い森

第七章



「なんということです!」
 ルイの言葉は耳にも心臓にも悪かった。姫の元を離れた後、戻って来たミロを待ち受けていたのはルイのこの一言だった。
「あまりにもお帰りが遅いので、門番に聞いたところ森番の格好をしてどこかへおいでになったというではありませんか」
 普段着に着替えたミロはソファに座り、黙って聞いていた。
「もう、このじいは心臓が止まるほどびっくりいたしましたぞ。どこかの名もない盗賊やら反逆の徒にでも、万が一殺められることなどあっては、と死ぬほど心配いたしました」
 息をつく間もなく、ルイはまたしゃべりだした。
「それほど御自分の身分を隠さなければならなかったのでございますか?先日の御質問と関係がございますのか?お願いですから、今後一切そのようなお姿でお出かけにならないでください。じいは坊ちゃまが心配で心配で」
「・・・分かったから、そのくらいにしてくれ。ルイ」
 ミロは『坊ちゃま』を正す気にもならなかった。
「ああいう格好を一度してみたかったんだ」
 それは本心から言ったのではなかった。ルイに言うのはまだ早いと思ったからだった。
「今後は、お前の言うように、森番の格好でなんか外へ出ない。ちゃんと外出の際も言付ける。これでいいだろう?」
「まだありますぞ・・・。御領主である証の指輪も外されませんように」
「!」
 慌てて左の中指を押さえた。流石に執事は見るところが違った。
「領内に坊ちゃまにそっくりの人間がいなくて本当に良かった・・・。お食事の御用意は整っておりますが、いらっしゃいますか?それともこちらで?」
「ああ、行こう」
「では、おいでください」
 ミロはソファから立ち上がると、部屋を後にした。

 ミロは食事が終わると、寝室で休んでいた。ベッドで書物を広げて読んでいると、どこから猫の鳴き声が聞こえてくる。こんな城の高い位置まで登ってくるはずがないと思い、視線を元に戻した。しかし、鳴き止むどころか、ますます強く鳴くのがはっきり聞き取れた。ミロはベッドから出てガウンを羽織ると、窓を開けた。
「寒いな・・・!」
 そこには、猫が一匹、狭い縁側で寒そうに助けを求めて鳴いていた。顔を出したミロと目が合った。猫はミロが救世主とも分からずに、怯えて鳴き続けた。
「何だ、そんなところにいたのか。寒いからこっちへおいで」
 差し出したミロの手を見て、猫は体を引いた。ミロは体を乗り出して、猫の前足を捕まえた。引っ張ると、猫の体は宙を浮くように移動した。
「バカだなぁ、お前。昼間上に登るのが楽しくて、気付いたら降りれなくなってしまったんだろう?」
 ミロは腕の中で気が動転して暴れている猫に話し掛けた。猫は優しく頭を撫でてやると、だんだん落ち着きを取り戻した。そのまま部屋を出て厨房に行き、ミルクを与えてやった。真夜中の厨房はもう誰もおらず、女中連中に騒がれることもなかった。暗い厨房の片隅で、燭台を手にミロは美味しそうにミルクを舐めている猫に話し掛けた。
「あんなところにいたら腹も減るよな。美味しかっただろ?」
 全部舐め終わった猫は、ミロを見ると、にゃあと一言鳴いた。ミロは頭を撫でてやり、器を流しに置いてしまうと、また寝室へ連れて戻った。
 寝室へ戻ったミロは、すぐには寝ずに猫と遊んでいた。
「今日は森へ行ったよ。姫と会って来た」
 猫はただゴロゴロと喉を鳴らしているだけだったが、ミロは構わず話し掛けた。
「乗馬とままごとなんて、素敵だろ?」
 ミロは昼間のことを思い出していた。

「これはお姫さまへプレゼントです。何か困ったことがあれば、この指輪を民に見せるといい」
 ミロは指輪を自分の指から外すと、姫の指に嵌めようとした。しかし、彼女の指は細く、指の付け根まで押し込んでもすぐに抜けてしまった。
「あ」
 膝の上に落ちた指輪を取った姫は、嵌め込まれたルビーを「綺麗」と言いながら、眺めていた。
「これは二人だけの秘密です。いいですね?」
 姫はミロを見て、小さく頷いた。気付くと姫の顔が黄昏色になっていた。少し涼しい風が吹いて来たので、今日はもう帰ることにした。
「もうすぐ暗くなってしまいます。小鳥は帰らねばなりません」
 ミロの言葉に姫も辺りを見回した。
「お姫さまがお家にお入りになるのを見届けてから、帰ることにいたします」
 そう言うと、ミロは立ち上がり、姫が持って来た銀のトレーを持った。姫も同じように立ち上がった。二人は歩き出し、姫がドアを開けると、ミロはトレーを差し出した。トレーを受け取った彼女は、微笑むとこう言った。
「今日は遊んでくれてありがとう。また来てね」
 そして小屋に入っていき、ドアが閉まり、錠前の音がした。
 ミロは放心したようになっていたが、我に帰ると慌てて馬に乗り、城へ帰った。

 ミロは猫を撫でながら、彼女と食事ができたら楽しいだろうなと考えた。広いテーブルで楽しく会話を弾ませる相手は誰もおらず、最後の家族であった父親はすでになく、親戚は遠く離れた土地に住んでいた。
「どうすればいいかな?」
 どうすれば、彼女と食事ができるのか。考え込んでいたミロは、突然立ち上がると、猫とダンスをし始めた。
「これだ、舞踏会!昼間テラスでお茶をして少し踊ったら食事だ」
 部屋の中で猫の両腕を掴んだまま跳ねながら、ミロは喜々として呟いた。
「彼女には、ドレスと帽子と靴を!」

 無理矢理動かされている猫が、にゃあにゃあ鳴いていた。



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2001.10.27
Gekkabijin