黒い森

第六章



 姫君は差し出された手に、自分の手を重ねた。
「お会いでき、光栄にございます」
 ミロは手の甲に軽くキスすると、立ち上がった。そのまま太陽光が降り注ぐ外に誘った。土を踏む足が覚束ないことから、姫はあまり外に出ないことが容易に想像できた。白い顔に太陽の光が当たる。まるで他の色が混ざるのを拒んでいるかのように、白かった。その上、目や髪が紅い。ミロは姫の目の、虹彩のひだまで食い入るように見つめた。
「小鳥はお姫さまと遊びたかったのです」
「遊ぶ・・・?」
 それは今までにない経験だった。
「他の誰かと外で楽しいことをするのです」
「ままごとじゃないのね」
 ミロは微笑んだ。姫君が遊ぶと言ったらそれくらいしか無かったのだろう。
「では後ほどままごとをしましょう。お姫さまは、馬に乗ったことはございますか」
 もちろん、あるはずがなかった。ミロは対岸で休んでいる馬を指差した。
「あれが馬」
 姫は指差されたものを見ながら、反芻した。
「あれはお姫さまを乗せて走ることができます。この湖を一周しましょう」
 ミロは姫を対岸の馬の側まで連れていった。目の前で見たことがない姫は、ちょっとだけ怖がっている。
「大丈夫。襲ったりはしません。ほら、こうやって」
 ミロは馬に乗ってお手本を示した。今度は姫の手を取って、「さあどうぞ」と促す。姫はミロが示したように馬に乗った。
「出発!」
「きゃっ」
 手綱を引いた瞬間の振動にびっくりした姫は声を挙げて、体を捩るとミロの胸元に抱きついた。後ろを向いて抱きつく、という行動が面白くて、ミロは笑った。
「大丈夫です、前を向いて」
 引き剥がすのが惜しい気がしたが、前を向かせた。そして後ろから腰の辺りにそっと腕を回した。ミロは彼女がどこか普通の姫君とは違うことに気付いた。手を取ったり馬に乗せたりしていた時に何気なく思っていたのだが、年頃の姫君のように柔らかく重たい感じがしない。それどころか軽くて壊れそうな感じさえした。
「わ、高い」
 ミロの思考はそこで途切れた。彼女はもう怖がらず、景色を眺めていた。
「見晴しがいいでしょう?」
「ええ、とても!」
 湖を回る間、森林の心地よい香りが風に乗ってやってきた。それともう一つの香しい風。姫の香り。ミロはこのまま時が止まったらいいのに、と思った。その願いも空しく馬での散歩は終わりを迎えた。ミロは先に馬から降りると、姫を降ろした。
「小鳥さん、馬に乗せてくれてありがとう。次はままごとね」
 姫は小屋へ戻ると、何かを持って来た。良く見ると、銀のトレーに小さな食器がたくさん並んでいた。それは、乳母が子供の両親を部屋に招く時に使用する、専用の食器だった。
 彼女はそれを雑草の上に置くと、ミロに問いかけて来た。
「小鳥さんは何がお好き?」
「栗が好きです」
 姫はそこら辺に転がっている石を取り、食器の上に乗せた。
「はい。あなたの好物よ」
 皿を渡す時の何気なく首を傾げたようなそんな仕種に心を打たれながら、ミロは渡された皿を受け取り、石ころを食べるまねをした。
「う〜ん、美味しい。そう言えば、お姫さまは何の役ですか?お母さま?」
「お母さまってなあに?」
 ミロは驚いた。そうだ、そういう教育なのだ。過って母親の名前を言わないようにしてあるのだ。それならなおさら父親の名前など知るはずもないだろう。彼女の世界ではたった二人の人間と動物しかいないのだ。これは迂闊なことは言えないなと思った。ミロは質問を微笑で流しながら、そう考えていた。
「何で笑うの?」
 彼女の好奇心は幼児のそれと似ていた。ミロの顔をじっと見つめて返事を待っている。
「お姫さまが美しいから、つい微笑んでしまうのです」
と、笑いながら答えた。
 美しい、というのがあまり理解できていなくて、首を傾げ気味にミロを見ていた。

 それでいい。あなたは天使だ。

 ミロの心の中で何かが芽生えていた。
 次の瞬間、ミロは姫の口からキスを一つ掠め取った。
 姫は何も分からない様子でミロの顔を見ていた。今のは何?小鳥さんは何をしたの?
 疑問だらけだった。

 運命と言う名の歯車がいきなりギシギシと音を立て、回り始めた瞬間だった。



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2001.10.21
Gekkabijin