黒い森

第五章



 どうしても会いたい。あの姫に・・・。
 ミロは広い執務室で水質と地質の報告書に目を通しながら、ここ何日か城に帰っていないことで溜まっていた欲求に頭が犯されていく様子を自嘲していた。次代の王宮はどこに建てるべきか、その調査を行っている。王に報告するものとそれに満たないものを一挙に片付けているのだった。その道に精通した者を全国に派遣している。だが、それにはもう一つの役割があるのをミロは知っていた。近隣諸国の情報収集だ。それに加えて国内に不穏な動きが無いか、調べるためだ。その調書だけは直接、王に届けられることになっていた。
 それは自分の領土も例外なく調査対象になっている。王に仕える者は快諾するように命じられた。ミロは自分の領土が報告に上がってないか、内心ひやひやしながらそれらをめくっていた。

 休憩、と称して王宮の庭の一部が見える窓に向かった。衛兵たちを見ながら、自分が文官だったことを大いに嘆いた。いっそのこと将軍家にでも生まれたら良かった・・・。
 ミロは突然、馬を駆けたくなった。馬、平原、林、森・・・。馬だって王宮の平坦な道を走るより、壮大な自然の中で走る方が嬉しかろう。頭の中には、穏やかな黄金色の草原や森で見つけた木の実や遠く連なる山々が、浮かんでは消え浮かんでは消えてなくなった。

 ミロは机に戻ると、側近たちに王に差し上げる報告書を託し、急な用事があるとだけ言い残し、王宮を去ることにした。

 ミロは城に戻ったがルイには顔を会わせず、森番の小屋に足を運んだ。
「アルベール」
 厩舎に出向こうとしていた森番を呼び止めた。アルベールが気付いてこちらを見た。
「ミロ様」
 王宮勤めになってからというもの、滅多に訪れないミロが現れたので、驚いた様子だった。
「お前の、服を貸してもらいたいのだが」
「わ、私のでございますか?」
 アルベールは唯々驚いていた。
「ぼ、坊ちゃまが着られるような服は、ございませんが・・・」
 アルベールは父の代から森番をしている男だ。ミロが小さい時から知っている男だ。
「アルベール、その『坊ちゃま』はやめてくれ」
 言って、ミロは苦笑した。このアルベールにしろ、ルイにしろ、ミロがそう呼ばせないようにしているにも関わらず、ときどきどうしても『坊ちゃま』だ出てくるのだ。
「時間が無いんだ、日が落ちたら意味が無いんだから。ああ、そうだ。お前の着ているそれがいいな」

 そして、森番はミロの言うがままに服を脱がされてしまった。少し寒そうにしている姿が滑稽に見えたりもした。アルベールは洗濯していた服に袖を通しながら、冷たさに身震いした。気付くと、ミロは自分の服を脱いだまま、外に出ていた。アルベールは慌てて小屋を飛び出す。
「坊ちゃま、これはいかがなさるんですかー!」
 ミロは厩舎に走りながら、後ろを振り向いて叫んだ。
「お前にやるよ!好きに使ってくれ!」

 サイズの合わない森番の服の腰をベルトを締めると、森の妖精のように軽快な足取りで馬に飛び乗った。アランは白馬なので目立つ。何頭もいる馬の中から一番相性のいい褐色馬を選んだ。

「止まれ!」
 門を抜けようとしたミロに、城主だと分からない門番たちが長い槍をクロスさせながら、そう叫んだ。
「アハハ、こりゃいいや」
「!」
 門番たちは顔を見合わせた。黄金の髪は森番の服には似合わないほど輝いて眩しかった。
「ミロ様!?も、申し訳ございません」
「いいよ、それより帰りもこの格好だからそのときはすぐ通せよ」
 勢い良く駆けていくミロを、不思議そうな顔で門番たちは見ていた。

 ミロは狂ったように馬を走らせた。まるで早馬のようだった。領民とか間者とかどうでも良かった。

貴方の笑顔を見たい。
望むなら下僕にでもなろう。

「あれはミロ様じゃないかの」
 畑を耕しながら老人は遠くに見える、眩いほどの金色を目で追ってそれを自分の妻に教えた。着ている服と、褐色の馬が同系色で金髪が浮いて見えたのだ。
「なーにがミロ様なものか!あんな汚い格好なんぞなさらんて」
「いいや!あんな金みたいに光ってるのは、この土地じゃミロ様だけじゃ・・・」
 老人は必死に目で追いかけた。なぜなら、こっちを向いたら手を振らなければならないから。こっちへお出でなさったら、今日採れたイモを差し上げよう。生まれた孫を抱いてもらおう。だから老人は嗄れた声で叫んだ。
「ミロ様ー!!」
 だが、金色のそれはだんだん小さくなって見えなくなった。
「ほうらご覧よ。ミロ様はお優しい方だもの。呼んだらいらっしゃるよ」
 老人は肩を落とした。


 ミロは鬱蒼とした森を抜けると、小屋の側にある湖で馬を休ませた。小屋へ近付く。ドアを叩いた。
「ばあや?」
 姫だ。あなたに会いに来た・・・。
「誰?」
「お姫さまに助けられた、小鳥です」
「まあ、あのときの」
「お礼を申し上げに参りました。お姫さまにお会いしたい」
「でも・・・ばあやがいないときは外へは出られません・・・」
 老婆は今はいないようだった。ミロは食い下がった。
「それでは・・・小鳥は寂しくて死んでしまいそうです」
「・・・」
「お姫さまにお会い出来なかったら、飛んで帰る力が出ません」
 彼女は散々迷った挙げ句に、錠前を外した。
 重たい金属が回転する。横に引かれる。ドアの軋む音がする。
 ミロは心臓が激しく波打つのが分かった。

 そして一歩だけ前へ進んだ姫君は、微笑んだ。ミロは森番の服に似合わない、優雅な立ち居振る舞いで片膝を落とし、手を差し出した。



第四章へ | 小説TOPへ | 第六章へ

2001.10.18
Gekkabijin