亀山郁夫訳『悪霊』U「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳                (2011430

                       木下豊房

 

亀山訳『悪霊』U2011420日付で出版された。この原稿をアップする4月末現在、私はまだ全体を検証するには至っていない(いや、『カラマーゾフの兄弟』から『悪霊』へと、亀山訳の欠陥のパターンを通覧してきた現在、引き続き「検証」作業を続けることの虚しさを感じる。願わくば、一般読者には、メディアによって作られた亀山神話から早く目を覚ましてもらいたいものである)。

ただこの巻に収録されており、この巻の目玉ともいえるスタヴローギンの告白の章「チーホンのもとで」の翻訳に、黙過できない重大な誤訳があることを、とりあえず報告しておきたい。この告白の章は、周知のように、20104月増刊「現代思想」にすでに掲載された。それに目を通した時、幾つかの問題点に気づき、チェックしておいた。そのテクストでも、『悪霊』Tの検証ですでに私が指摘したような、ごく基本的な文法的誤訳、場違いなカタカナ語の運用、訳語への余分なニュアンスの付加などが目についた。あれから1年以上経ってこのたび刊行された決定訳『悪霊』Uで、それらはどのように訂正されたのか、されなかったのかが、まず私の注目するところであった。

 亀山訳のこの巻は一つのセールスポイントとして、アカデミー版「スタヴローギンの告白」初訳をうたっている。これは何を意味するか? 「告白」のテクストにはドストエフスキーが出版者カトコフの雑誌「ロシア報知」に印刷を予定していていた「校正刷り」版と作家死後、アンナ夫人が作成した「筆写」版があって、しかも出版者の意向によって未発表に終わった「校正刷り」版には、作者自身の手による削除や訂正が入り組んだ形で残されていた。日本語の先行訳者達(米川、小沼、江川)は1922年刊の「校正刷り」版を原本としながら、米川訳は削除の個所を省略した形で、小沼、江川訳は注で復元するという形で公刊してきた。

ところがアカデミー版30巻全集第11巻(1974)では、「校正刷り」を主体としながら、作者による削除個所も復元して一本化した形でのテクストが掲載された。その結果、日本語先行訳(小沼、江川)では注として巻末で処理されていた個所が、アカデミー版では、テクスト上、同じ平面に地続きで、表に出てきてしまった。したがって、このテクストを原文とした亀山訳がアカデミー版「スタヴローギンの告白」初訳とうたうのも、間違いではない。しかしこうした複雑な経緯と入り組んだ構成のテクストを翻訳するからには、万全の注意が必要であったはずである。私が重大な誤訳としてとりあげる個所は、まさにこの微妙な問題にかかわる。まず亀山訳の問題個所を見てみよう。

 

「私は目の前に見た(ああ、(うつつ)にではない!もしも、もしもそれがほんものの幻であったなら!)、私は、げっそりと痩せこけたマトリョーシャを見たのだ。熱に浮かされたような目をし、私の部屋の敷居に立っていたあのときと寸部(たが)わない、顎をしゃくりながら、私に向ってあの小さなこぶしを振りあげた、あのマトリョーシャを。私にとって、あれほど苦しいことは一度もなかった!私を脅しながら、(何によって? あれで私に何ができたというのだ?)、むろん自分だけを責めさいなんだ、まだ分別もできていない、無力で、十歳の生きもののみじめな絶望! 一度として、まだ私の身にそのようなことが生じたことはなかった。私は身じろぎもせず、時を忘れ、夜ふけまで座っていた。それが良心の呵責、ないしは悔悟と呼ばれるものなのだろうか? 私にはわからないし、今なお答えようにも答えられない。<私にとっては、ことによると、あのしぐさそのものの思い出は、今にいたってもなお、さほど(いと)わしいものではないのかもしれない。もしかしたら、あの思い出は、今も何か、私の情欲にとって心地よいあるものを含んでいるのかもしれない。いや  たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、まさにあの敷居、まさにあの瞬間、それ以前でもそれ以後でもない、振りあげられた、私を脅しつけるあの小さなこぶし、あのときの彼女の姿ひとつだけ。あのときの一瞬のみ、あの顎のしゃくりかた。それが私には耐えられないのだ。」

(亀山訳『悪霊』U、p.579-580

  

問題なのは、上掲、引用文中の<黄色マーカー>の個所である。小沼訳、江川訳では共に、巻末に注の形で以下のように訳され、「校正刷り」版では削除されていることを明記している。

 

小沼訳:<「ひょっとすると、この自分の行為についての思い出が、いまにいたるまでそれほどいまわしものではなかったのかもしれない。ことによると、この思い出はその中に現在でも、私の情欲にとってなにかこころよいものを含んでいるのかもしれないのだ」の一文が校正で削られている。>

             筑摩書房全集8『悪霊』注 p.702

江川訳:注65 <「私にとっては、ことによると、あの行為そのものについての思い出はいまもってなお嫌悪感のないものであるかもしれないのだ。ことによると、この思い出は、いまもなお、私の情欲にとってある種の快感めいたものを宿しているかもしれないのだ」抹消> 新潮文庫『悪霊』下注 p.724 

 

 緑色マーカーの個所の訳語が亀山訳と小沼、江川訳では著しく異なっていることに、読者は気づくであろう。原文はсамый(サームイ) поступок(パストウーポク)(行為、振舞そのもの)で、このくだりはスタヴローギンが自分の行為を振り返っていると解釈するのが自然である。これはスタヴローギンの地下室人的な意識を物語るもので、これより前の「告白」の個所で、すでにこう述べていることに照応する。

「私の人生でたまに生じた、途方もなく恥辱的な際限もなく恥辱的で、卑劣でとくに滑稽な状態は、いつも度はずれた怒りとともに、えもいわれぬ快感を私のなかにかき立ててきた」(亀山訳p.554)ついでに、この訳で、灰色マーカーの個所は重複しており、あまりにずさんな校正ミスである。

 マトリョーシャのイメージによってスタヴローギンが苦しめられる叙述の流れの中に、もともと「校正刷り」で抹消された個所がアカデミー版では地続き挿入されてきたとはいえ、самый поступок (行為そのもの)を、マトリョーシャの「しぐさ」と訳すのは、あまりに軽率な誤訳、もしかしたら意図的な誤訳ではないかとすら疑われるのである。

 そもそも亀山訳で「しぐさ」の訳語が出てくるのは、マトリョーシャが自分で命を絶つ前に、こぶしでスタヴローギンを脅しつけるような「身振り」(江川訳)「動作」(小沼、米川訳)をする場面であって、原文は движение(ドヴィジェーニエ)(動き)と記されている。か弱い少女のこのような身振り、動き(движение)を「行為」(поступокの意味に当てはめて拡大解釈するのは、明らかに牽強付会である。私は念のために、友人であるモスクワのドストエフスキー研究者パーヴェル・フォーキン氏に、ロシア人の感覚でどうなのか、メールで質問してみた。その答えでは、もちろん、スタヴローギンの「行為」以外の意味には読みとれないといことであった。

こうなると、『カラマーゾフの兄弟』の「検証」、「点検」以来、私たちが散々問題にしてきた、訳者の語学力へのあらためての疑問と同時に、彼の主観的な思い込みによる、意図的なテクスト改竄の疑いが起きてくる。亀山は「現代思想」での解説では、作者ドストエフスキーの性的嗜好(「少女陵辱」、「足フェチシズム」など)についてあれこれ言及し、スタヴローギンにその反映を見ている。私が亀山批判のスタートを切るきっかけとなった彼による少女マトリョーシャ解釈

 http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost118a.htm

以来、亀山はサド・マゾの観点に固執し続け、サディスト・スタヴローギンにとっての哀れな少女マトリョーシャの煽情性をクローズアップしないではおれないのが本音ではないのか。

翻訳者でありながら、原文を読めない読者に対して、原作者を僭称しかねない振舞を亀山がしてきているのを、私たちは『カラマーゾフの兄弟』訳で見て知っている。

コーリャのせりふ:「人類全体のために死ねたらな、って願ってますけどね」を受けたアリョーシャのせりふ(「コーリャ君は先ほどこう叫びましたね、『すべての人達のために苦しみたいって』」)を「コーリャ君は『人類全体のために死ねたら』と叫びましたが・・・」と意図的に改竄したのはその前例である。詳しくは、次のURLで参照されたい。

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120e.htm

 

今回の場合、上記の亀山訳の引用文中、ピンクマーカーの個所は原文にはない、まさに捏造されたフレーズなのである。こういう作為をしてまで自分の思いこみによる誤読に原文を従属させて、不案内な読者をリードしようとするところに、亀山のテクストに対するアナーキズムが感じられてならない。

そのほかに気づいた問題の個所を一、二挙げておく。

 

曖昧で不正確な訳

 

亀山訳:地面を見つめ、深いもの思いにふけりながら通りを歩きだしたが、ほんの一瞬顔をあげ、ふいに何かはっきりしないながら、強い不安にかられたような様子を見せた527頁)

原文 «По улице шел, смотря в землю, в глубокой задумчивости и лишь мгновениями подымая голову, вдруг выказывал иногда какое-то неопределенное, но сильное беспокойство»

試訳:地面を見つめ、深いもの思いにふけりながら通りを歩いていったが、時たま、ほんの瞬間、頭をあげては、ふいに何かしらはっきりしないながら強い不安な様子を見せるのだった

コメント:亀山訳では主人公が通りを歩きながらの、「時々」の反復行為のイメージを伝えきっていない。動詞=不完了体、完了体の基本的な読み取りが出来ていないせいである。先行訳では米川訳を例示するが、小沼、江川訳とてもこのポイントに曖昧さはない。

米川訳:彼は深いもの思いに沈んだ様子で、地面ばかり見つめながら往来を歩いて行った。ただときおり、瞬間的に顔を上げて、急に漠とした、とはいえ、烈しい不安のさまを示すばかりであった443

 

異和感のある訳語

 

亀山訳:「四年前にこの修道院に来た覚えなどありませんけど」スタヴローギンは、何かしら荒々しいほどの調子で言いかえした。「ぼくがここに来たのは、ほんとうに小さいころでしてね。あなたはまだ影も形もありませんでしたよ533

原文:- «Я не был в здешнем монастыре четыре года назад» - даже как-то грубо возразил Николай Всеволодович, - «Я был здесь только маленьким, когда вас еще тут совсем не было» -

コメント:チーホンに対してスタヴローギンが初対面でいうせりふ。マーカーの部分は、「あなたはまだここにはいらっしゃいませんでした」(存在の否定否定性格)の意味であるが、否定を強調するсовсем(緑マーカー)にこだわるとするなら、「あなたのお姿はまるでありませんでしたよ」程度の意味。

影も形もありませんでしたよ」というのはオーバーで、不必要なニュアンスをつけくわえている。

 

亀山訳:「わたしが言っているのは、ピユアな心の持ち主のことではありません。ピュアな心の持ち主であれば、おぞけ立って、わが身をせめることでしょう。でも、彼らが人目につくことはありません」592

原文:- «<…> Я не про чистые души говорю: те ужаснутся  и себя обвинят, но они незаметны будут. <…> »

コメント:このカタカナ表記の単語は「清い」「純粋な」の意味で、「純粋な精神の持ち主」(小沼訳)、「心の清い人」(江川訳)が自然である。チーホン僧正のような隠遁者で古色をおびた人物に、こうしたカタカナ語を使わせる必然性がどこにあるのか?ちなみに、文庫版では訂正されているが、「現代の思想」掲載のテクストでは、スタヴローギンによる「告白」の公表を懸念するチーホンのせりふに、「キャリア」という言葉が次のように使われていた。「あなたがもし、この文書を公にされるなら、あなたの運命は台なしになります ・・・・・たとえば、キャリアという点から見て、それに・・・・ほかのすべての点から見て」

 「キャリアですって?」スタヴローギンは不快そうに顔をしかめた。

ロシア語ではкарьера(カリエーラ、出世、昇進)で、英語のcareer(経歴)と同じ語源であるが、このカタカナ語を僧正にはかせるのはあまりに軽薄と気づいたのか、文庫版では「あなたの将来」という訳語に訂正されている。

 そのほか、不必要に余分のニュアンスをつけくわえた訳語や、文脈にしっくりこない訳語が散見されるが、見解の違いという強弁を許す余地もあるので、大目に見て、この際、省略する。