亀山郁夫氏の「踏み越え」(«преступление») 

 『カラマーゾフの兄弟』 テクスト改ざんと歪曲の疑い

                                

木下豊房

 

文学研究や翻訳にとって、どのようなテクストを選ぶかということは、ゆるがせに出来ない問題である。古来、「原典批判」、「テクスト・クリテーク」、「テクストローギヤ(ロシア語)」という基礎的な人文科学のジャンルが重視されてきたのも、故なしとしない。翻訳者は使用したテクストを明記するのが、常識であり、亀山氏もその例外ではない。

彼が自分の翻訳の底本として挙げているのは、科学アカデミー30巻全集中の1415巻(1976年)とインターネット検索による、トマシェフスキー、ハラバーエフ編集の1881年版であって、後者については。「随時、左記のテクストも参照した」と付記されている。

ところで、すでに公開された「検証」、そして今回公開する森井友人氏とNN氏による「点検」で明らかになったおびただしい誤訳、不適切訳に付随して、亀山氏による幾つかのテクスト改ざん、文体歪曲の疑い浮かび上がってきたことを、私は指摘せざるをえない。

 

テクスト改ざんの疑い

その見過ごすことの出来ない事例の一つが、森井氏の発見による、エピローグの一場面、すなわち、アリョーシャがコーリャのせりふを受けて、自分の言葉でその意味を言い換える個所である。(この指摘はインターネット・サイト「ドストエフ好き−のページ」の18日付けの掲示板(総合ボード)において、議論の流れの中で森井氏によってはじめてなされたものであり、第1分冊の範囲に限定した氏の「点検」には含まれていない)

コーリャのせりふ:「人類全体のために死ねたらな、って願ってますけどね(«Я желал бы умереть за всё человечество»)」(亀山訳第5分冊42頁)に対して、アリョーシャがそれを受けて言うのは、「コーリャ君は先ほどこう叫びましたね、『すべての人達のために苦しみたいって』・・・(«Вот как давеча Коля воскликнул: «Хочу пострадать за всех людей»)」(拙訳)。この部分について亀山氏はこう訳している。「コーリャ君は『人類全体のために死ねたら』と叫びましたが・・・」−(同上58頁)

この亀山訳下線部に相当するテクスト(『人類全体のために死ねたら』)は上記の底本のどこにも見出すことはできない。なぜこういう明白な改ざんがなされたのであろうか?憶測に過ぎないとはいえ、亀山氏が別著「続編を空想する」(光文社新書)でコーリャを皇帝暗殺者に、またアリョーシャをその使嗾者に仕立てるための伏線として、意図的におこなったのではなかろうか?この疑いは森井氏の提起によるが、私も否定しがたいと思う。

そもそも亀山氏によるこの種のテクスト偽造は、みすず書房刊の「理想の教室」と称する高校生向けのシリーズ「『悪霊』神になりたかった男」ですでに経験ずみものだった。スタヴローギンに陵辱され母親に鞭打たれる少女マトリョーシャの年齢を、12歳から14歳に偽造し、この少女にマゾヒスチックな快感を押し付ける亀山流の手のこんだテクスト解釈の歪曲は、原語を理解できない、しかも若い読者を相手にしているだけに、吐き気を催させられる程のものだった。この問題については、当サイトの表紙のメニュー「亀山郁夫氏『悪霊』のマトリョーシャ解釈をめぐる議論」をクリックして、私、および冷牟田幸子氏の批判を読んでいただきたい。

こうした前歴を持つ人物であれば、驚くにあたらない偽造ともいえるが、百歩譲って、深い魂胆はなく、ただコーリャのせりふを日本の読者にわかりやすいように、作者に代わって言い換えてやったのだと弁明しても、通る筋合いの問題ではないだろう。一見たわいのない読者サービスのような言葉の入れ換えを亀山氏は他でもやっている。これは「検証」でとりあげた例であるが、ゾシマ長老が庵室でドミトリーに叩頭した謎の振る舞いを、ラキーチンがアリョーシャに対して「あの夢のようなこと «сон»」はなんの意味だと問いかける言葉を、「あの予言 «пророчество»」と言い換えているのである(新訳204頁)。後段の叙述でそれが予言的な行為であることが説明されているにしても、テクストの勝手な改ざんが許されるわけはない。他にも、意味不明な訳に原文にはない傍点をふる「三人が額()()()つんと(・・・)やった(・・・)(新訳208頁) といった事例も見られる。テクストに対するこのような無原則的な安易な態度偽造、改造がどのような結果をもたらすかを訳者、編集者は真剣に考えたのだろうか? 

現代の世界のドストエフスキー研究のレベルを踏まえた者ならば、ドストエフスキーの文体が複雑な構造を持っていることを知っている。作者の言葉、語り手の言葉、人物の言葉がそれぞれ独立し、多声楽的(ポリフォニー的)、対話的な構成によって作品が息づいていることを知っている。亀山訳のように、アリョーシャの言葉を改変することは、アリョーシャの発話の立場を歪曲することにほかならない。森井氏が前出のネットの掲示板で、「アリョーシャがコーリャの台詞を言い換えて引用しているのなら、そこには、それなりの意味があるはずです(アリョーシャにとっても、また、作者にとっても)」と記しているのは、正しい。ラキーチンや民衆がゾシマ長老の振る舞いの謎を「夢のようなこと」と表現しているのには文化的背景があることを、亀山氏も底本としているアカデミー版全集の注には書かれている。

「この(あの)夢は何を意味する? «что сей сон значит?» は、1860年代から70年代にかけて大変に流行したフレーズで、風刺作家のサルトゥイコフ−シチェードリンの好きな言葉でもあったらしい。『悪霊』でも(第1編5−2)民衆の一人がセミョーン長者に夢占いを聞く場面に、同じフレーズが見られ、いまに町じゅうの信心深い連中が「あの夢は何だ?」と騒ぎだすとラキーチンがいうのも、こうした背景があるからである。流行語に敏感なラキーチンがこうしたフレーズを口にし、世間離れしたアリョーシャが「何の夢さ」と問い返すところにも、彼らの性格の特徴づけがうかがえるだろう。

ちなみに、このフレーズのルーツはプーシキンの民話詩「求婚者」(1825)にあると注記されていて、気乗りしない縁談を親達によってとり決められた商人の娘が自分の悪夢を語り、父親が「おまえのその夢は何を告げる」という場面に由来するらしい。このような背景を念頭におくならば、それを安易に「予言」と別の 言葉に置き換えて訳すのは、自分で勝手にテクストをでっちあげることに等しい。

また次のような見逃せない歪曲もある。それは「点検」(新訳129頁)にかかわる個所で、幼児を失って涙にくれる農婦に、ゾシマ長老が聖書の句を引いて慰める場面で、長老は聖書の原句を自分の言葉に直して(というのは、あえて原句からはずれる形で)発話しているのに対して、あろうことか亀山氏はそれを聖書の原句に勝手に戻して訳し、結果的にゾシマの言葉を殺してしまっている。この点については、「点検」のなかで、森井氏とNN氏によって詳細な検討が加えられているので、読んでいただきたい。

 

文体歪曲の疑い

このような訳者の恣意的、主観的な態度に由来して、発話者の言葉を殺す例のほかに、発話者の言葉の指向性をとらえそこなった結果の見当違い、あるいは滑稽な訳が散見される。その端的な一例をあげるならば、小説冒頭「著者より」の一文である。その文法上の問題点は「点検」(新訳13頁)を見ていただくとして、私が指摘したいのは、「著者より」の言葉の指向性が正しくとらえられていないため、読者への語りかけの部分がそれ自体として、訳に的確に反映されず、どっちつかずの曖昧さを残していることである(「読者のみなさんは・・・自分で決めることになる」〔亀山訳〕、正しくは「読者のみなさんは・・・自分で決めてくれるだろう」 «читатель сам уже определит»)。 その一方で、三人称的に客体化した対象(「批評家たち」、というのは「公平な判断を誤らぬため、最後まで読み通そうとする親切な読者」とか、彼らの「律儀さ」、「誠実さ」といった皮肉な修飾語から見ても、検閲関係者をも暗示しているかもしれない相手)に、「みなさん」という二人称の訳語を当てる見当ちがいを起こしている(「ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく」〔亀山訳〕。原テクストに従えば、ここは三人称で、「正当な口実を彼らに «им» あたえておく」)である。

発話者の置かれた状況とその言葉の指向性に対するこのような鈍感さによって生み出されたちぐはぐなやりとりが、「点検」(新訳203)でとりあげたラキーチンとアリョーシャの会話の場面である。アリョーシャは路上で誰かを待ち受けているラキーチンの姿を認める。「誰かを待ち受けている様子だった」はアリョーシャの視線である。そこで彼は 自然の流れで、「ぼくを待っていたんじゃないの?«Не меня ли ждешь?»」と問いかける。それに対して相手は「正にきみをさ «Именно тебя»」と答える。アリョーシャの視線に寄り添いながら叙述されるこの場面で、亀山氏はアリョーシャの問いかけを、「ぼくを待ってたんじゃないよね」と訳し、相手には「いや、きみさ」と、テクストでは読みとれないとんちんかんな応答をさせている。

発話者である主人公の状況や性格を無視したもう一つの例をあげよう。第33「熱い心の告白−詩」の章で、ドミトリーがアリョーシャに語るせりふ、激情家で芝居がかったせりふをはくドミトリーの性格を反映したおおげさな言葉:「魂の襞という襞、肋骨さえもかけておまえを渇望し、待ち焦がれていた «алкал и жаждал всеми изгибами души и даже ребрами»」を、亀山訳(276頁)は「それこそ藁をもつかむ思いでおまえを求め、おまえを渇望していた」と、平板な、そこに何ら発話主体の性格を反映しない、つまらない文体に貶めているのである。

ドストエフスキーの創作に特徴的な人物の独立した声を殺すこのような無神経な仕事ぶりは、次のような面でも現れている。語り手が人物の声を独立したものとして、間接話法ながらも伝えている部分を、語り手の中立的な、単なる客観的な情報に改変してしまい、人物の性格(思いこみ、意識)の伝達を損なっているケースである。

これは「検証」(新訳27頁)にかかわる個所である。ドミトリーは自分が「いくらか財産を持っており、成人したら独立できるという信念をもって育った( «рос в убеждении, что он всё же имеет некоторое состояние и когда достигнет совершенных лет, то будет независим»)」という、主人公の信念にかかわる個所が、亀山訳によると「いくらか財産をもっていたので、成人したあかつきには独り立ちをするという、たしかな信念をもって成長していった」という風に、「信念」にかかる下線の部分が、中立的、客観的な情報の形に改変されてしまっている。

もう一つの同様の例をあげよう。「点検」(新訳19頁)で、アデライーダのフョードルに対する思いこみにかかわる個所である。アデライーダの意識:「フョードル・パーヴロヴィチはその居候という身分にもかかわらず(«убедила<……>что Федор Павлович, несмотря на свой чин приживальщика, »)」が、亀山訳では「たんに居候の身にすぎないフョードルが」という風に、フョードルの中立的、客観的な規定づけに改変されている。大体、「フョードル・パーヴロヴィチ」という名前+父称の用法自体が、日本語では「フョードルさん」という程度の、2人称的な呼称であって、彼女の意識を伝える鍵語であることに注目するならば、亀山訳のようなことはありえない。これはテクスト改ざんに近い文体歪曲というべきである。

このような文体歪曲に伴う誤訳がその他にも数多く見られる(逆接順接の問題など)のも、複数の立場からの発話が交差するドストエフスキーの文体、すなわちそれぞれの主体の発話の指向性を的確に見極めきれていないからである。これはドストエフスキー作品の翻訳者の資格としては致命的なことである。

亀山氏は自分の翻訳の底本としてあげた原文のほかに、明らかに自分流のテクストを作ってしまっている。読みやすいという幻想を生み出しているのは、この自分流のテクストと戯れているからである。

日本のロシア文学翻訳の歴史は二葉亭四迷の身を削るような苦労からはじまった。「原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にもまたピリオドが一つコンマが三つという風にして、原文の調子を移さうとした」というのは二葉亭の言葉であるが、原文と真剣に向かい合うという姿勢は一貫して先人翻訳者たちが受け継いできた伝統であったはずである。亀山氏がいかに苦労話を語ってみても、その残された結果が裏切っている。

彼の偽装に幻惑されて、理由もなく彼を偶像に仕立てあげ、読者を欺く行為に手を貸しているメディア、ジャーナリズム、書評家、作家達の社会的責任は大きい。

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