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亀山訳『カラマーゾフの兄弟T』「検証」「点検」その後

 

                          木下豊房    

 

「検証」(20071225日)、「点検」(2008220日)を公開して以来、掲示板その他で話題になったものの、肝心の出版当事者にどのような影響をあたえているかは、うかつにも追跡しないできた。「点検」の森井友人氏から、増刷22刷(315日刊)で「点検」指摘個所10ヶ所が訂正されているとの報告を受けたのが413日。確認のために私も、新たに1冊を買い求め、まず「検証」にかかわる個所を比較照合してみた。その訂正ぶりに私は一驚し、目を疑った。かくも悪びれずに、素直に指摘が受け入れられているとは信じがたかった。以下にその一覧を紹介する次第である。

私達(「検証」・NN氏、「点検」・森井氏)が明らかな誤訳、もしくは不適切訳として指摘したのは、「検証」75個所、「点検」48個所で、そのうち6個所の重複を差し引くと、117個所となるそのうち「検証」の指摘を受けて訂正されたと見られる個所が28ヶ所、「点検」の指摘によると見られる個所が17ヶ所、合計45個所である。対象とされた第1部の正味頁数は422頁。

この訂正量を多いと見るか少ないと見るか、訂正の仕方を私達の指摘との関連で適正と見るかどうか、増刷の形でこのような大幅な訂正がおこなわれることが、出版界の常識にかなっているのかどうかは、識者、読者の判断にまかせたい。

 私は現物との比較を、22刷を買うまで怠っていたため、「検証」個所の訂正は22刷で行われたと思っていた。ところが、そのほとんどは130日刊の20刷でおこなわれていたことが、森井氏の指摘でわかった。そういえば、「点検」前書きの「付記」で、森井氏によって、その事実を報告されており、「検証」指摘にかかわる訂正26ヶ所と森井氏自身が編集部に直接に指摘して、訂正された個所7ヶ所がすでに挙げられていたのである。

「点検」のアップロード直後に技術的な問題が発生して(Mozillaで正常にダウンロード出来ないなど、現在もまだ完全には解決出来ていないようである)、注意がそがれたために、私は不覚にもこの訂正の重大さを見逃していた。それで遅ればせながら、急遽、比較対照リストを作成して、関心を持つ方々に報告する次第である。

 なお、亀山訳5分冊のうち、私達はこれまで第1分冊(正味422頁)を対象にしたに過ぎない。しかも、第1分冊に限っても、私達の指摘に該当して訂正された個所以外にまだ手が付けられていない個所が数多くある。さらに最近、女性会員のKさんから、第2分冊、第4分冊にかかわる質問2点が私に寄せられた。彼女は原訳との比較で疑問を感じたのである。私は個人的に回答して納得してもらったが、第2分冊以降のサンプル的な問題として、「点検」の最後に、付録として、紹介しておく。

 森井氏の「点検」にかかわる訂正個所(205ヶ所、2212ヶ所)の比較対照リストはファイル書式の都合で、別ページにした。

右の《「点検」その後》をクリックしてジャンプしていただきたい。

(上記の数字のデーターに数え間違いがあり、前出を訂正した。−2008・5・8

 

                            「点検」その後 

 

「検証」指摘(全75個所)にかかわる訂正個所・26ヶ所(20刷)、2ヶ所(22刷)

下記の資料は「検証」の書式をそのまま使い、

疑問個所を赤、訂正個所と影響をあたえたと推定される「点検」のコメントの核心部分を黄色

の蛍光ペンで示した。色で照合して読んで頂ければ、要点を掴みやすいであろう。

 

 

 

Книга первая ИСТОРИЯ ОДНОЙ СЕМЕЙКИ 第1編 ある家族の物語

 

I. ФЕДОР ПАВЛОВИЧ КАРАМАЗОВ 1 フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ

テキスト

<...> Бедняжка оказалась в Петербурге, куда перебралась с своим семинаристом и где беззаветно пустилась в самую полную эмансипацию. <...>

新訳22p

20

<...> 哀れな妻はペテルブルグにいて、神学校出の教師ともども首都に流れついてから、なんの気がねも無用とばかりに完全に自由な生活にひたった<...>

なんの気がねも無用とばかりに完全な解放の生活ひたった。

コメン

 露文和訳試験の回答としてなら、この訳文も間違いではない。しかし、当時のロシアの時代背景、この作品の文脈―「いまいちどペテルブルグに飛び出してって、ネヴァ川のほとりでロシア女性の権利を見つけ出す」(新訳第二巻126p)、「じつはわたし、現代の女性問題にまんざら縁がないわけでもないんですの、ドミートリーさん。女性の進出と近い将来における女性の政治参加、それこそがわたしの理想なんです」(新訳第三巻174175p)……etc.―、更に件の章そのものの文脈―「持参金つきのうえに器量よし、おまけに利発な才女であるお嬢さんが(今の世代ではめずらしくないが、その昔にもすでに姿を現していた)>彼女にしてみれば、たぶん女性の自立を宣言し、社会的な制約や、親戚、家族の横暴に反旗をひるがえしたかったのだろう」(新訳第一巻1718p)―に照らすと、これでは不十分だ。現代ロシア語では“эмансипация エマンスィパーツィヤ(解放)”だけで、“женщин ジェンシン(女性の)”という形容が後ろに付かなくても、“婦人解放”を意味するが、19世紀も'60年代以降は既にэмансипация エマンスィパーツィヤ”だけで“婦人解放”乃至“女権拡張論”を意味していたのである。

 

米川正夫訳「完全なる女性解放(エマンシベーション)の気質に耽溺していた」(11

原卓也訳「完全な解放感にひたっていたのだった」(13

江川卓訳「そこでだれはばかることなく、文字どおりの女性解放を実践していた」(14

 

テキスト

<...> Помню, он-то (Мимусов) именно и дивился всех более, познакомившись с заинтересовавшим его чрезвычайно молодым человеком, с которым он не без внутренней боли пикировался иногда познаниями. <...>

新訳41

20

<...> わたしの記憶では、前々からひどく興味を寄せていたこの青年イワンと知り合ってだれよりも仰天したのが、ほかならぬミウーソフだった。彼はイワンとは、いささか内心の苦痛を覚えながらときどき知識を競い合った仲だったからである <...>

前々からひどく興味を寄せていたこの青年イワンと知り合ってだれよりも仰天したのが、ほかならぬミウーソフで、イワンとはその後、いささか内心の苦痛を覚えながら、ときおり知識を競い合った仲だったからである

コメント

  引用原文の意味は「わたしは憶えているが、ほかならぬ彼(ミウーソフ)こそ、大いに自分の関心を惹き起こしたこの青年と知り合って、(フョードルとイワンがこれ以上望めぬほど折り合いがいいことに)誰よりも驚いていたものだ。彼は時折この青年と知識を競い合っていたが、その際内心の苦痛を感じずにはおれなかった」である。まず「前々からひどく興味を寄せていた」というのが誤訳だ。ここの動詞заинтересовать ザインチェレサヴァーチ(誰かの関心を惹き起こす)”は1回限りの具体的な行為・動作を示す完了体動詞であり、訳文が醸している継続性のニュアンスはない。次の下線部分について言うと、原文ではミウーソフ氏の驚きと彼のイワンとの内心の苦痛を伴った知的競合との間に因果関係などはまったくない〔中途半端な訂正で、因果関係をうち消すためにだけ、「その後」を付加している。〕 新訳はミウーソフの驚きの対象を読みそこなっている。ミウーソフはイワンと知り合って、ただ漠然と驚いたのではない、イワンの強靭な知性に直に接し、「どうしてこの男があんな親父とうまくやっていけるのか?」と親子の思いがけぬ折り合いのよさに驚いたのである。

米川正夫訳「この人がだれより一ばんこの事実に驚いていたように記憶する。彼は自分にとって非常に興味のあるこの青年と相識になったが、どうかすると、いくぶん心ひそかに苦痛を感じながら、知識の張り合いをすることがあった」(19

原卓也訳「今でもおぼえているが、彼は大いに関心をそそられたこの青年と近づきになり、時にはいささか内心の苦痛をおぼえながら知識を競い合ったこともあるほどなので、だれにもましておどろいていた」(22

江川卓訳「私の記憶では、その彼がだれよりもいちばんこの事実に驚いていたようでもある。もっとも、いたく彼の関心を惹いたこの青年と知り合って以後、彼はどうかするとこの青年と知識を張り合っては、ひそかに自尊心を痛めていたようでもある」(23

 

 

IV. Третий сын Алеша 4 三男アリョーシャ

テキスト

<...> ... и вдруг вбегает нянька и вырывает его у нее в испуге. <...>

新訳p45

20

<…> と、とつぜん乳母が駆けこんできて、驚いた顔の母の手から幼子をうばいとる。<…>

 

<…> と、とつぜん乳母が駆けこんできて、おろおろと母親の手から幼子を奪いとる。<…>

コメント

 これまでの訳でこの作品に接してこられ方の中には、新訳のこの個所をご覧になり、びっくりなさった方も少なくないのではなかろうか。各種の『カラマーゾフの兄弟』論の中でもしばしば言及がなされる個所だからだ。鍵となるのは最後の2語“в испуге ヴ・イスプーゲ(驚いた状態にあること示す副詞句)だ。その前までを直訳すると―「と、突然乳母が駆け込んできて、母の手から彼(アリョーシャ)をもぎ離す」となる。最後の副詞句が何を修飾しているのかが問題であるが、新訳はこれを直前の“у нее ウ・ニェヨー(彼女、即ちアリョーシャの母から)”の“нее ニェヨー(彼女、即ちアリョーシャの母)”の状態を表していると解し、驚いた顔の母の手から」と訳出している。しかし、これは明らかな誤訳だ。この副詞句は一番近くに位する動詞“вырывать ヴィルィヴァーチ(もぎ離す)”を修飾するもので、その動作の主体 = нянька ニャーニカ(乳母)”の状態を表しているのである。「と、突然乳母が駆け込んできて、驚いて母から彼をもぎ離す」というのが原文本来の意味で、喚起させるイメージが新訳とはまるで違っている。

米川正夫訳「そこへ乳母が駆けこんで、あわてふためいて彼をその手からもぎとってしまった」(21

原卓也訳「そこへ突然、乳母が駆けこんできて、怯えきった様子で母の手から彼をひったくる」(24

江川卓訳「と、ふいに乳母が駆けこんできて、おびえたように母の手から彼をもぎとる」(25

 

 

V. Старцы 5 長老たち

テキスト

<...> Он (Алеша) видел, как многие из приходивших с больными детьми или взрослыми родственниками и моливших, чтобы старец возложил на них руки и прочитал над ними молитву, возвращались вскорости <...> обратно и, <...>  благодарили его за исцеление их больных.  <...>

新訳74p

20

<...> 病気の子どもや身内のおとなたちを連れて修道院をたずね、自分に手をあててお祈りを唱えてほしいと懇願する人々を、アリョーシャは見てきた。彼らの多くが日をおかずに <...> やってきて <...> 病人を治してくれたお礼を <...> 述べるのだった。 <...>

<...> 病気の子どもや身内のおとなたちを連れて修道院をたずね、彼らに手をあててお祈りを唱えてほしいと懇願する人々を、アリョーシャは見てきた。彼らの多くが日をおかずに <...> やってきて <...> 病人を治してくれたお礼を <...> 述べるのだった。 <...>

コメント

 いささかぎこちなくなるが、敢えて頭から語順に沿って文字通りの逐語訳を試みてみよう。

@    彼(アリョーシャ)は見たものだった(何をみたのかはCで判明する)、

A    病気の子どもや大人の身内を伴ってやってきて祈りを捧げる人たちの多くが(どんな祈りを捧げたのかはBで判明する)、

B    長老が彼らに(на них ナ・ニッフ = 病気の子どもや大人の身内に)手を置いて彼らの上で祈りを唱えてくれるようにと(これがAでの祈りの内容である)、

C    間もなくまたやってきて、病人を治癒してくれたことを長老に感謝するのを(これが@でアリョーシャが見たものである)。

 整理すると「病気の子どもや大人の身内を伴ってやってきて、長老が彼らに手を置いて病人たちの上で祈りを唱えてくれるようにと祈りを捧げる人たちの多くが、間もなくまたやってきて、病人を治癒してくれたことを長老に感謝するのを、彼(アリョーシャ)は見たものだった」となる。新訳では下線部の“на них ナ・ニッフ 彼らに”が指し示す対象が誤解されている。「自分に」としてしまっては、「病気の子どもや身内のおとなたちを連れて修道院をたずね」てきた「人々」のことになってしまい、これが完全な誤訳であることは前後の脈絡から誰の目にも明らかだろう。病気のわが子を医者に連れて行き、子どもではなく自分を診察してくれと頼むような母親もおるまい。〔この個所は森井氏が2007年10月に、編集者に直々に指摘した所でもある〕

米川正夫訳「彼は病気の子供や身内のおとななどを連れて来て、長老さまがその上にちょっと手をのせて。お祈りを言ってくださるようにと頼む多くの人々を見た」(33

原卓也訳「病気の子供や成人した肉親を連れて訪れ、長老が彼らの頭に手をのせて祈祷を読んでくれるように哀願する人たちの多くが、」(37

江川卓訳「病気の子供や身内の大人を連れてきて、病人に手をあてて祈祷を捧げてほしいと長老に頼みこむ人たちのうち、」(39

 

テキスト

<...> он трепетал за него, за славу его, боялся оскорблений ему, особенно тонких, вежливых насмешек Миусова и недомолвок свысока ученого Ивана, так это всё представлялось ему.

新訳82p

20

<...> 長老の、とくに名誉に侮辱が加えられたりはしないか心配でならず、ミウーソフが慇懃無礼な調子でからかったり、博学なイワンがさも見下したように話を途中でやめてしまったりする光景が、ことさらありありと目に浮かんできた。 <...>

<...> 長老の、とくに名誉に侮辱が加えられたりはしないか心配でならず、ミウーソフが慇懃無礼な調子でからかったり、博学なイワンがさも見下したようなあてこすりをする光景が、ことさらありありと目に浮かんできた。 <...>

コメント

 “недомолвка ニェダモールフカ”というロシア語には、「言い忘れ、言いそびれ」という意味と、「あてこすり」という意味があるが、ここでは直後に“свысока スヴィサカー(傲慢に)”という副詞があるので必然的に「あてこすり」の意味になる(傲慢に言い忘れたり、言いそびれたりする者もなかろう)。新訳の文体で訂正すると「博学なイワンがさも見下したようにあてこすりを言ったり」という感じだ。“недомоловка ニェダモールフカ”という名詞は「不完全・不足」を表す接頭辞“недо- ネェダ”と“молвка モールフカ(言うこと、話すこと)”から構成されており、「最後まで言い切らないこと」というふうに字解きできる。即ち、その第一義は「言い忘れ、言いそびれ」という意味で、「(わざと最後まで言い切らず、曖昧な言語表現をすることで相手を)あてこすること」というのは転義である。話を途中でやめてしまったり」という訳は“недомолвка ニェダモールフカ”の字解きをそのまま日本語に置き換えたものだろうが、これでは「あてこすり」という転義が活きてこないので読者にはなはだ不可解な印象を残すことになってしまう

米川正夫訳「博学なイワンの人をみくだしたような口数少ない皮肉などが恐ろしかった」(36

原卓也訳「学識豊かなイワンの見くだすような当てこすりとを恐れた」(40

江川卓訳「とりわけ、慇懃無礼なミウーソフの冷笑と、学識あるイワンの人を見下したような言外のあてこすりが恐ろしかった」(42

 

 

III. Верующие бабы 3 信仰心のあつい農婦たち

テキスト

<...> Но тогда же я услышал от иных помещиков и особенно от городских учителей моих, на мои расспросы, что это всё притворство, чтобы не работать, и что это всегда можно искоренить надлежащею строгостью, причем приводились для подтверждения разные анекдоты.. <...>

新訳122p

20

<...> しかしすでにそのころ、わたしの問いに対してほかの地主や、ことに町の先生方は、 あんなものは働かずにすむよう仮病を使っているだけで、しかるべき厳格な措置を講じればいつだって根絶できるという話をし、それをうらづけるいろんな小話まで持ち出してきたものだった。<...>

<...> しかしすでにそのころ、わたしの問いに対して何人かの地主や、ことに町の先生方は、 あんなものは働かずにすむよう仮病を使っているだけで、しかるべき厳格な措置を講じればいつだって根絶できるという話をし、それをうらづけるいろんな小話まで持ち出してきたものだった。<...>

コメント

 唐突に「ほかの地主」などという言葉が出てくるので、少なからぬ読者が当惑するだろう。対照されるべき地主への言及が前後にまったく見当たらないからだ。“иной イノーイというロシア語には「ほかの」という意味もあるが、この文脈ではもうひとつの語義「ある種の」と解さねばならない。読書の“流れ”に思わぬ渋滞を惹き起こすあらずもがなの誤訳である。

米川正夫訳「その当時、地主のだれかれや、ことに町の学校の先生などに根堀り葉堀ししてきいてみたら」(52

原卓也訳「そのころそこらの地主たちや、特に町の学校の先生などは」(56

江川卓訳「その当時、私が何人かの地主たちから聞いたところでは、また町にいる私の先生たちにわざわざたずねてみたところでは」(60

 

テキスト

<...> По сыночку мучусь, отец, по сыночку. Последний сыночек оставался, четверо было у нас с Никитушкой, да не стоят у нас детушки, не стоят, желанный, не стоят. <...>

新訳125p

20

<> 私とニキータとのあいだには子どもが四人おりましたが、でも立って歩けるまでには育ちませんでした。長老さま、育たなかったのでございます<>

<> 私とニキータとのあいだには子どもが四人おりましたが、でも、まともにちゃんとは育ちませんでした。長老さま、育たなかったのでございます<>

コメント

 短い文中にまったく同じ表現が三度も繰り返されているので、ロシア語をご存知ない方にもやや異様な印象を与えるのではないだろうか? ここではわが子を失った農婦の抑えようもない嘆きが民衆の素朴な会話体で綴られているが、 стоять スタヤーチ”という動詞が「育つ」の意味で使われているところにそれが特徴的に現れている。上流階級の人間であれば、“стоять スタヤーチ”を「育つ」の意味で使うことはよもあるまい。стоять スタヤーチにはいろんな意味があるが、ここでは「存続し続ける」、「(食べ物が腐らずに)保つ」という語義が転じて「(子どもが亡くならずに)育つ」という意味合いで用いられるようになったものであろう。農婦のいかにも素朴なもの言いのニュアンスを伝えるのであれば、そのまま「うちでは子どもが保たないのでございます保たないので、お前さま(註: 長老への呼び掛け)、保ちませんのでございます」という訳し方も悪くない。もちろん新訳の「育ちませんでした育たなかったのでございます」でも別に問題はない。しかし、立って歩けるまでは」というのは逸脱もはなはなだしい過剰な語の補いであり、既に創作の領域に入っており、到底首肯できるものではない。

米川正夫訳「どうもわたしどもでは子供が育ちません。どうも聖人さま、育たないのでございます」(54

原卓也訳「うちでは子供が育ってくれません。うまく育ってくれないのでございます」(58

江川卓訳「うちでは子供が育ちませんのです、はい、ありがたいお坊さま、ひとつも育ちませんのです」(6162

 

 

IV. Маловерная дама 4 信仰心の薄い貴婦人

テキスト

<...> Но ночные лихорадки совершенно исчезли, вот уже двое суток, с самого четверга <...>

新訳138p

20

<> 夜のけいれんはもうすっかり治まりました。この木曜日からすでに二昼夜になります <>

 

<> 夜の高熱はもうすっかり治まりました。この木曜日からすでに二昼夜になります <>

コメント

 下線を施したロシア語“лихорадка リハラートカの語義は「熱病、病熱、悪寒」であり、「けいれん」という意味はない(「けいれん」を意味するロシア語は“конвульсия カンヴーリスィヤ乃至“спазма スパーズマ。明らかな誤訳だ。

米川正夫訳「それでも毎夜毎夜の発熱は」(60

原卓也訳「ですけど、夜中の高熱は」(64

江川卓訳「でも夜分の高熱は」(68

 

 

テキスト

<...> — Простите великодушно за то, что заставил столько ждать. Но слуга Смердяков, посланный батюшкою, на настойчивый мой вопрос о времени, ответил мне два раза самым решительным тоном, что назначено в час. Теперь я вдруг узнаю...

— Не беспокойтесь, — перебил старец, — ничего, не сколько замешкались, не беда...

— Чрезвычайно вам благодарен и менее не мог ожидать от вашей доброты. — Отрезав это, Дмитрий Федорович еще раз поклонился, затем, вдруг бернувшись в сторону своего «батюшки», сделал и тому такой же почтительный и глубокий поклон.. <...>

新訳178179p

 

 

 

20

<…> 「ながらくお待たせしましたことを心より深くおわびします。でも、の使いで来ました下男のスメルジャコフにしつこく時間のことを聞きましたのに、二度にわたってきっぱりとした口調で、一時のお約束ですと答えたものですから。ところが、いまわかったのは、……」

「心配はご無用」長老がさえぎった。「だいじょうぶです。ほんの少し遅刻なさっただけのことです、たいしたことではありません……」

「ほんとうに恐縮です。ご親切なお言葉をいただけるものと、期待しておりました」

 ぶっきらぼうな調子でそう言いきると、ドミートリーは改めてお辞儀をしなおし、それから急に親父のほうをふり向いて、そちらにも恭しげに深々とお辞儀をした。<…>

 

<…> 「ながらくお待たせしましたことを心より深くおわびします。でも、親父の使いで来ました下男のスメルジャコフにしつこく時間のことを聞きましたのに、二度にわたってきっぱりとした口調で、一時のお約束ですと答えたものですから。ところが、いまわかったのは、……」

「心配はご無用」長老がさえぎった。「だいじょうぶです。ほんの少し遅刻なさっただけのことです、たいしたことではありません……」

「ほんとうに恐縮です。ご親切なお言葉をいただけるものと、期待しておりました」

 ぶっきらぼうな調子でそう言いきると、ドミートリーは改めてお辞儀をしなおし、それから急に親父のほうをふり向いて、そちらにも恭しげに深々とお辞儀をした。<…>

コメント

 二つの下線部は、格変化のため多少字面が異なってはいるが、いずれも“батюшка バーチューシカ(男性主格)”というまったく同一のロシア語で、意味は「父親」である。より正確には父親に対する親しみを込めた呼称で、敢えて日本語でそのニュアンスを表すとすれば、文脈によって「父ちゃん」、「親父」その他いろいろに訳せる言葉だ。その限りにおいては、新訳の「父」も「親父」も別に間違いではない。ここで問題にしたいのは、二回目の“батюшка バーチューシカ”にドストエフスキーが敢えて括弧 《》 を付した意味について考察した節が窺われぬことである。実はこの括弧 《》 、「二回目のбатюшка バーチューシカ”は直前のミーチャの言葉の引用ですよ」という意味なのである。従い、二つのбатюшка バーチューシカ”の訳語にはいずれも同じ訳語を充てねば、地の文における登場人物の言葉の引用というニュアンスが伝わらなくなってしまう。万が一、そのようなニュアンスの伝達など金輪際不可能と考えるのであれば、律儀に括弧だけ残しても無意味ゆえ、最早何の機能も果たさぬ括弧などはむしろ外して然るべきである。

米川正夫訳「どうも長らくお待たせして相すみません。ご寛容をねがいます。父の使いでまいりました下男のスメルジャコフに、時間のことを念を押してたずねましたところ、きっぱりした調子で、一時だと、二度まで答えましたので、・・・・ところが今はじめて・・・・」 

<・・・・>

「実に恐縮のいたりです<・・・>」

こうたち切るように言って、ドミートリイはいま一ど頭をさげた。それから急に自分の『おやじ』ののほうを向いて、おなじようなうやうやしい低いお辞儀をした。」(77

原卓也訳「こんないお待たせしてしまって、ほんとうに申しわけございません。でも、父の使いできた召使のスメルジャコフに時間のことをくどいほどたずねたのに、二度まで約束は一時だとはっきりと答えたものですから。ところが今になってふいに・・・・」

<・・・・>

「まことに恐れ入ります。<・・・・>」挨拶を打ち切るようにぴしゃりと言って、ドミートリイはもう一度おじぎをし、それからふいに《お父さん》の方をふりかえると、同じようにうやうやしく深々と一礼した。」(82

江川卓訳「<> 「たいへん遅参いたしましたこと、どうぞご寛恕ねがいます。父親の使いでまいりました召使のスメルジャコフに、時刻について念を押しましたところ、一時の予定だと二度までも実にきっぱりと答えたものですから。ところが、いましがた思いがけず……」

 「ご心配くださるな」長老がさえぎった。「なに、すこし遅刻されただけのことで、なんでもありませぬ……」

 「それはどうも痛み入ります、あなたさまの好意に甘えまして」投げ出すように言うと、ドミートリイはもう一度会釈をし、それから、ふいに自分の《親父》のほうへ向き直ると、彼に対しても同じように礼儀正しい、深く頭をさげた会釈をした」 <>」(8687

 

テキスト

<...> в лице Алеши выразился почти испуг. Но Миусов вдруг вскинул плечами, и в ту же минуту Федор Павлович вскочил со стула. <...>

新訳184p

20

<> アリョーシャの顔にはほとんど怯えにも似た表情が浮かびあった。しかしミウーソフがとつぜん肩をすくめ、同時にフョ−ドルが椅子から立ち上がった <>

<> アリョーシャの顔にはほとんど怯えにも似た表情が浮かびあった。しかしミウーソフがとつぜん肩をすくめ、同時にフョ−ドルが椅子からとび上がった <>

コメント

 まず引用個所全体を直訳してみる。「<…>アリョーシャの顔にはほとんど絶望せんばかりの表情が現れた。しかしミウーソフは突然肩を聳やかした。と同時にフョードル・パーヴロヴィチが椅子から飛び上がった<…>」 微妙な違いがおわかり頂けるだろうか? 新訳ではミウーソフとの動作とフョードルの動作が生起する展開のダイナミズム、メリハリ、 “リズム” がまったく感じられない。これは、第一に、下線部の“в ту же минуту フ・トゥー・ジェ・ミヌートゥ”をあまりに無造作に「同時に」としてしまったこと、それから第二に、突発的な激しい動作を示す動詞“вскочить フスカチィーチ”を不用意にも何の切迫感も伴わぬ別の動詞“встать フスターチ(立ち上る、起き上がる)”と同じ語感で訳出してしまったことによる。完全な誤訳ではないが、新訳に散見される推敲不足の典型的な一例と言える

米川正夫訳「アリョーシャの顔にはほとんどおびえたような表情が浮かんだほどである。しかし、とつぜんミューソフがひょいと肩をすくめると、それをきっかけにフョードルはいすを飛びあがった」(80

原卓也訳「アリョーシャの顔にはほとんど怯えに近い表情があらわれた。ミウーソフが「だしうけに肩をすくめ、それと同時にフョードルが椅子から跳ね起きた」(84)

江川卓訳「<> アリョーシャの顔にはおびえにも近い表情が浮かんだ。しかしふいにミウーソフが肩をぐいとそびやかすと、それを合図のようにフョードルがイスからとびあがった。 <>」(89

 

 

VII. Семинарист-карьерист 7 出世志向の神学生

テキスト

<...> — Не меня ли ждешь? — спросил, поравнявшись с ним, Алеша.

     Именно тебя, — усмехнулся Ракитин. <...>

新訳203204p

22

<> ぼくを待ってたんじゃないよね?」相手と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。

「いや、きみさ」 ラキーチンはにやりと笑った。 <>

 

<> ぼくを待っていたんじゃない?」相手と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。

まさにきみさ」 ラキーチンはにやりと笑った。 <>

コメント

 素直に読むならば、原文の会話は「ぼくを待ってんじゃないの? ― 正にきみをさ」となり、新訳の「ぼくを待ってたんじゃないよね?―いや、きみをさ」とは応答のニュアンスが微妙に異なる。新訳はアリョーシャの問いを付加疑問文のように訳しているが、原文はごく普通の疑問文である。新訳バージョンでも意味は通るものの、非常に不可解な意訳だ。

米川正夫訳「ぼくを待っているんじゃないの?」アリョーシャはそばまで寄るとこうきいた。

「図星だ、きみなのさ」ラキーチンはにやりと笑った。(88

原卓也訳僕を待ってたんじゃないの?」相手と並ぶとアリョーシャはたずねた。 

「まさしく君をさ」ラキーチンがにやりとした。(93

江川卓訳「ぼくを待っていたのかい?」すぐ近くまで行って、アリョーシャはたずねた。

「きみをだよ」ラキーチンはにやりとした。(98

 

テキスト

<...> Скажи ты мне, Алексей, одно: что сей сон значит? Я вот что хотел спросить.

— Какой сон?<...>

Вот теперь и заговорят все святоши в городе и по губернии разнесут: «Что, дескать, сей сон означает?»  По-моему, старик действительно прозорлив: уголовщину пронюхал. Смердит у вас.

— Какую уголовщину?

Ракитину видимо хотелось что-то высказать.

— В вашей семейке она будет, эта уголовщина. Случится она между твоими братцами и твоим богатеньким батюшкой. Вот отец Зосима и стукнулся лбом на всякий будущий случай. Потом что случится: «Ах, ведь это старец святой предрек, напророчествовал», — хотя какое бы в том пророчество, что он лбом стукнулся? 

<...>

新訳204p

 

 

 

 

 

 

20

<> アレクセイ、ひとつぼくに教えてくれないか。あの予言、いったい何を意味してるんだ? それが聞きたくてね」

 「なんの予言さ?

<> きっとそのうち、町じゅうの信心深い連中がそろって噂しだしてさ、県全体にふれまわるに違いないんだ。『あの予言は何を意味しているのか』ってね。ぼくに言わせりゃ、あの老人、たしかにものを見ぬく目はある。だから、犯罪の臭いを嗅ぎつけたんだね。きみの家ってへんに臭うじゃないか」

 「犯罪って、なんのさ?」

 ラキーチンはどうやら、何かを最後まで言ってしまいたいらしかった。

 「きみらの家族に起るんだよ、その犯罪が。きみの兄さんと、きみの金持ちの親父さんとのあいだで持ち上がるんだ。だからゾシマ長老も、将来の万が一にそなえて額をごつんとやったわけさ。あとで何かが起こったときに、『ああ、あれは長老さまが予言されたことだ。やっぱり予言どおりのことが起こった』って言わせるためにね。でもさ、額をごつんとやったことに、いったいどんな予言があるっていうのさ? <>

 

<> アレクセイ、ひとつぼくに教えてくれないか。あれっていったい、何のお告げだい? それが聞きたくてね」

 「あれって何さ?

<> きっとそのうち、町じゅうの信心深い連中がそろって噂しだしてさ、県全体にふれまわるに違いないんだ。『あの予言は何を意味しているのか』ってね。ぼくに言わせりゃ、あの老人、たしかにものを見ぬく目はある。だから、犯罪の臭いを嗅ぎつけたんだね。きみの家ってへんに臭うじゃないか」

 「犯罪って、なんのさ?」

 ラキーチンはどうやら、何かを最後まで言ってしまいたいらしかった。

 「きみらの家族に起るんだよ、その犯罪が。きみの兄さんと、きみの金持ちの親父さんとのあいだで持ち上がるんだ。だからゾシマ長老も、将来の万が一にそなえて額をごつんとやったわけさ。あとで何かが起こったときに、『ああ、あれは長老さまが予言されたことだ。やっぱり予言どおりのことが起こった』って言わせるためにね。でもさ、額をごつんとやったことに、いったいどんな予言があるっていうのさ? <>

 

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 引用文の前半に3回出てくる “сон ソーン(夢)予言としたのは、後半部で下線を施した3個所にいずれも予言という訳語を使用することから、文脈を考慮して断行した意訳であろうか? しかし、それでは引用部の最初のラキーチンの問いに込められた皮肉なイントネーションも、これに対するアリョーシャの応答が通常とは違ったラキーチンの言葉遣い(сон ソーン)に虚をつかれた結果としての反問であるというニュアンスもまったく伝わらない。それでは、原文はあまりにもロシア語独特の表現で到底日本語ではその微妙なニュアンスを伝え得ないようなものであろうか? そうではない。3個所の “сон ソーンをすべてごく普通にと訳出するだけでも、そのニュアンスは或る程度伝達可能である。さほど難しいとも思えぬ原文のニュアンスの伝達を放棄した意図は奈辺にあるのだろうか?

米川正夫訳「<…>ただ一つききたいことがあるんだ。いったいあの夢のような出来事はなんのこったね?ぼくはこいつがききたくってさ」

「夢のような出来事ってなに?」

<…>今に見たまえ、町じゅうのありがたがりや連が騒ぎ出して、県下一円に持ちまわるから。『いったいあの夢のような出来事はなんのことだろう?』ってんでね。ぼくの考えでは、おじいさんはほんとうにものをみぬく目があるよ。犯罪めいたものをかぎ出したんだね。まったくきみの家庭は少々くさいぜ」

「いったいどんな犯罪を?」

ラキーチンは、なにやら言いたいことがあるらしいふうであった( )

「きみの家庭で起こるよ、その犯罪がさ。それはきみのふたりの兄さんと、金満家のおやじさんとの間に起こるんだよ。それでゾシマ長老も万一をおもんばかって、ひたいでこつんとやったのさ。あとで何か起こったときに、『ああ、なるほど、あの聖人さまが予言したとおりだ』と言わせるためなんだ。もっとも、あのおじいさんがひたいでこつんとやったのは、予言でもなんでもありゃしないよ」(89

原卓也訳「<>ところで、一つだけききたいんだけどさ、アリョーシャ、あの夢はいったいどういう意味なんだい?それをききたかったんだよ」

「何の夢さ?」

<>「今にこの町や県内一体の信者たちが、『あの夢は何の意味だとう?』って言い出すにちがいないんだから。僕に言わせると、あの老人、たしかに炯眼だよ。犯罪を嗅ぎつけたものな。君の一家は不吉なにおいがするもの」

「犯罪って、どんな?」

 明らかにラキーチンは何事か言ってしまいたい様子だった。

 「君の家庭に起るのさ、その犯罪が。君の兄さんたちと金持ちの親父さんとの間でね。だからゾシマ長老は、将来の万一の場合にそなえて、おでこをこつんとやっといたってわけさ。あとで何か起れば、『ああ、そういえば長老さまが予告してらした。予言なさっていたっけ』ということになるからな。とはいっても、おでこをこつんとぶっつけることに、どんな予言があると言うんだい?<>9394

江川卓訳「<> アレクセイ、ひとつだけ聞きたいことがあるんだ。例の寝言はどういう意味だい? それを聞きたいと思ってさ」

 「寝言って、どんな?」

 <>「 まあ、見ていたまえ、そのうち町じゅうのありがたがり屋たちが騒ぎだして、県下一帯ににふれまわるから。『あの寝言はどういう意味でしょうか?』ってね。ぼくの考えじゃ、あの爺さんなかなか目が利くぜ。犯罪を嗅ぎつけるんだから。きみの家はだいぶ臭いものな」

 「犯罪って、どんな?」

 ラキーチンは何か言いたいことがあって、うずうずしているらしかった。

 「きみの一家に起るのさ、その犯罪はね。きみの二人の兄貴と、きみの金持ちの親父さんの間にね。だからゾシマ長老は、万一を考えて、おでこをこつんとやったんだよ。あとで何かが起ったときに、『ああ、あの神聖な長老さまの予言なすったとおりだった』と言わせようというんだ。もっとも、おでこをこつんじゃ予言にも何もならないがね。<> 99

 

テキスト

<...>  Статья его смешна и нелепа. А слышал давеча его глупую теорию: «Нет бессмертия души, так нет и добродетели, значит, всё позволено». <...>

新訳215p

20

<> 彼の論文なんてお笑い草だし、ばかげたもんだよ。最近の彼のくだらない理論、聞いたことがあるかい。『霊魂の不死がないなら善もない。つまり、すべてはゆるされている』とこう来たぜ。 <>

<> 彼の論文なんてお笑い草だし、ばかげたもんだよ。さっきの、彼のくだらない理論、聞いたことがあるかい。『霊魂の不死がないなら善もない。つまり、すべてはゆるされている』とこう来たぜ。 <>

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 下線部分の正しい意味は「さっきは彼の馬鹿々々しい理論を聞いた」であり、これは前の章(「どうしてこんな男が生きているんだ!」)のゾシマの僧庵におけるイワンと同席者たちとの対話の内容を指している。つまり、あくまでも「さっき」の話であり、およそ「最近」のことではない。おそらく“давеча ダーヴェチャ(さっき)“недавно ニェダーヴナ(最近)という二つの副詞を混同した結果であろうが、文脈に照らすならば、およそあり得べからざる誤訳である。

米川正夫訳「<> あの人の論文だってこっけいな、ばかばかしいものさ。さっきもあのばかげた理論を聞いたが、『霊魂の不滅がなければ、したがって善行というものない。つまり、何をしてもかまわないわけになる』ってことだったね <>93

原卓也訳「<> 彼の論文なんざ、こっけいで愚劣なものさ。さっきも『不死がなければ、善行もないわけであり、したがってすべては許される』というばからしい理論をきかされたがね <>」(98

江川卓訳「<> あの論文は滑稽なたわごとだし、さっきはあの人の愚説を拝聴させてもらったよ。『霊魂の不死がなければ、善行もない、つまりはすべてが許される』とね。 <>」(104

 

テキスト

<...> — Меня не было, зато был Дмитрий Федорович, и я слышал это своими ушами от Дмитрия же Федоровича, то есть, если хочешь, он не мне говорил, а я подслушал, разумеется поневоле, потому что у Грушеньки в ее спальне сидел и выйти не мог всё время, пока Дмитрий Федорович в следующей комнате находился. <...>

新訳218p

 

20

<…> 「ぼくはいなかったさ、でもドミートリーさんがいたんだ。この話をぼくはドミートリーさんから自分の耳で聞いたんだ。つまり、彼がぼくに話してくれたといってもいい。ただし、ぼくは盗み聞きしたのさ。もちろんやむをえずだよ。なぜって、グルーシェンカの寝室にいて、隣の屋にドミートリーさんがいるあいだ、ずっとそこから出られなかったんだもの。 <…>

<…> 「ぼくはいなかったさ、でもドミートリーさんがいたんだ。この話をぼくはドミートリーさんから自分の耳で聞いたんだ。つまり、彼がぼくに話してくれたわけじゃなくて、じつはこちらが盗み聞きしたのさ。もちろんやむをえずだよ。なぜって、グルーシェンカの寝室にいて、隣の屋にドミートリーさんがいるあいだ、ずっとそこから出られなかったんだもの。 <…>

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 つまり、ほんとのことを言えば、彼はぼくに話してくれたわけではない」というのが原文下線部の意味で、新訳とはまるで正反対なのである。反駁の余地のない誤訳だ。とりたてて難しい個所でもなく、何故このように誤訳したのか理解に苦しむ。

米川正夫訳「じっさいいうと、あの人がぼくに向かって話したわけじゃない。ぼくが立ち聞きしたのさ、とは言っても、もちろんひとりで耳にはいったんだ」(95

原卓也訳「つまりさ、知りたきゃ教えるけど、彼が僕に話したわけじゃなく、僕が盗みぎぎしたんだよ、もちろん、心ならずもね」(99

江川卓訳「いや、実を言うと、ぼくに話してくれたわけじゃなくって、ぼくは盗み聞きする羽目になったんだ、むろん、心ならずもね」(105

 

テキスト

<...> Нет, вы, господа Карамазовы, каких-то великих и древних дворян из себя корчите, тогда как отец твой бегал шутом по чужим столам да при милости на кухне числился. <...>

新訳219p

20

<> いやはや、きみたちカラマーゾフ家のみなさんは、どこぞの由緒ある大貴族の末裔をきどって、そのくせ親父ときた日にゃ道化役者さながら、他人さまの食事にありつこうと駆けずりまわり、人のお情けで台所にいさせてもらっているだけの男じゃないか。 <>

<> いやはや、きみたちカラマーゾフ家のみなさんは、どこぞの由緒ある大貴族の末裔をきどって、そのくせ親父ときた日にゃ道化役者さながら、他人さまの食事にありつこうと駆けずりまわり、人のお情けで台所にいさせてもらっていただけの男じゃないか。 <>

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 下線を施したロシア語の二つの動詞“бегал ベーガル(走っていた)”“числился チィースリルサ(数えられていた)”はいずれも過去形である。それは当然そうあるべきで、フョードルが寄食生活を送っていた既に過去の話だ。ところが、新訳はこれをなんと現在形で訳出し、あたかもフョードルが未だに寄食生活をしているかの印象を醸してしまっている。誤訳。

米川正夫訳「<> きみたちカラマーゾフ一統はしきりに何かえらい家柄の貴族を気どっているが、きみのおやじは道化役なんか買ってでながら、他人の家の居候をしてまわって、お情けで台所のすみにおいてもらってたんじゃないか。 <>」(95

原卓也訳「<> ええ、君ら、カラマーゾフ家の連中はなにやら古い家柄の偉い貴族を気どっているけど、その実、君の親父なんざ道化役でよその食卓をまわって歩き、お情けで台所に入れてもらったくせにさ。 <>」(100

江川卓訳「<> いや、もう、きみたちカラマーゾフ家のご一統ときたら、まるで由緒正しい大貴族気どりだけれど、その実、きみの親父さんは、道化役でよその家を居候してまわっちゃ、お情けで食卓の末席にはべらせてもらっていたんじゃないか。 <>」(106

 

テキスト

<...> В церковь редко заходила, спала же или по церковным папертям, или перелезши через чей-нибудь плетень (у нас еще много плетней вместо заборов даже до сегодня) в чьем-нибудь огороде. <...>

新訳259p

20

<> 教会のなかに立ち入ることはまれで、どこかで眠るにしても、教会の入り口とか、だれかの屋敷の垣根を乗りこえ(わが国ではまだ、今日にいたっても塀の代わりに網垣がたくさん残っている)、その野菜畑で眠るのだった。 <>

<> 教会のなかに立ち入ることはまれで、どこかで眠るにしても、教会の入り口とか、だれかの屋敷の垣根を乗りこえ(この町ではまだ、今日にいたっても塀の代わりに網垣がたくさん残っている)、その野菜畑で眠るのだった。 <>

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 前述の“у нас ウ・ナース(わたしたちのところでは)”の場合とまったく同じ理由で、ここもまた「わが国では……」は誤訳。「わたしたちの町(スコトプリゴーニエフスク)では……」である。

米川正夫訳「<> 夜は、寺院の玄関か、さもなくばよその編みがきをのり越えて(この町にはへいの代わりをつとめる編みがきが、こんにちにいたるまで随所にあるから)菜園の中に寝るにきまっていた。 <>」(112

原卓也訳<> でなければどこかの生垣を乗りこえて(この町には今日でもまだ塀の代わりに生垣が数多くあるのだ)どこかの菜園でだったりした。 <>」(116

江川卓訳「<> でなければ、どこかの編垣を乗り越えて(この町にはいまでも塀がわりの編垣が多い)、だれかの菜園で夜を過すのが普通だった。<>」(124

 

テキスト

<...> Притом его ждал отец, может быть не успел еще забыть своего приказания, мог раскапризиться, а потому надо было поспешить, чтобы поспеть туда и сюда. <...>

新訳269p

20

<> おまけに父が待っていたし、例の言いつけのこともきっと忘れずにいて、すねたりしかねなかった。だからどちらにも間に合わせるためには、とにもかくにも急ぐ必要があった。 <>

<> おまけに父が待っていたし、例の言いつけのこともおそらく忘れずにいて、すねたりしかねなかった。だからどちらにも間に合わせるためには、とにもかくにも急ぐ必要があった。 <>

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 原文には「きっと」を意味するような副詞はない。あるのは “может быть モージェット・ブィチという挿入語だが、これは「きっと」ではなく「もしかしたら」という意味である。誤訳。

米川正夫訳「<> それに、父親も彼を待っている。ことによったら、まだ例のいいつけを忘れないで、またまた気まぐれを出さぬともかぎらない。 <>」(116

原卓也訳「おまけに父が待っているし、ことによると先ほどの命令をまだ忘れずに、気まぐれを起こしかねなかったから、どちらにも間に合うよう急がなければならなかった。(121

江川卓訳「<> それに父親も待っていて、ことによると、まだ自分の命令を忘れずにいて、わがままを言いださないともかぎらない。 <>」(129

 

テキスト

<...> Подполковник же, тот — куда!  <...>

新訳295p

20

<> で、中佐のほうだが、れがとんでもない食わせものなのさ <>

 

<> で、中佐のほうだが、れがとんでもないやつでさ <>

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 下線部ロシア語“куда! クゥダー!”をとんでもない食わせものなのさ」と訳したのは間違い。件の章を読めばわかるとおり、中佐は「食わせもの(表面はさりげなく見せて、実は油断のならない者)」などではない。ここの“куда クゥダー!”は助詞で、口語的に「……なんてとんでもない、……どころではない」という意味合いで用いられている。「中佐は(へりくだって謙虚に生活しているアガーフィヤとその叔母)どころではない、(むしろその対極に位するような人間である)」、即ち「中佐は二人とは似ても似つかない!」という意味である。

 

米川正夫訳「中佐のほうにいたっては、なかなかそんなことはない!」(127

 

原卓也訳「ところで、当の中佐となると、大違いさ!」(132

 

江川卓訳「ところが中佐のほうは、まるでちがった!」(140

 

テキスト

<...> В том и трагедия, что я знаю это наверно.  Что в том, что человек капельку декламирует?  Разве я  не декламирую?  А ведь искренен же я, искренен.<...>

新訳312p

20

<> 要するに悲劇っていうのは、おれがそのことを正確にわかっているっていうところにあるのさ。人がちょっとばかり熱弁をふるったからといって、なんだというんだ。おれは本当に熱弁をふるっていないか? だっておれは真剣なんだぞ、ほんとうに真剣なのさ。 <>

<> 要するに悲劇っていうのは、おれがそのことを正確にわかっているっていうところにあるのさ。人がちょっとばかり熱弁をふるったからといって、なんだというんだ。おれは本当に熱弁をふるっていないか? でもなおれは真剣なんだ。ほんとうに真剣なのさ。 <>

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 最初の二つの下線部のロシア語動詞“декламировать デクラミィーラヴァチの元々の語義は「あたかも芝居におけるかのように、思い入れたっぷりに、話すこと(或は読むこと)」であり、現代ロシア語における第一義は「朗読する」である。それが転じて文字どおりの朗読ではなく「(あたかも朗読でもするかのように)熱弁をふるう」という意味でも用いられる。その限りでは、この動詞を「熱弁をふるう」と訳すことを間違いとは言えない。しかし、「熱弁をふるう」という日本語はдекламировать デクラミィーラヴァチ”という動詞の転義としてふつうの露和辞典に載っている言葉の一字一句そのままの借用で、これを何の咀嚼もせずに文学作品の訳語として用いるのはどうにも頂けない。この動詞はミーチャの人となりを如実に表す体のものなのである。アリョーシャへの告白をシラーの詩の “朗誦” から始め、カテリーナとの馴れ初めを “ドラマ” と位置づけ、彼女との今後の関係を “悲劇” と定義づけるミーチャは、あたかも役者のように終始思い入れたっぷりに話しているのだ。それと同時にミーチャは自らのこの感激性を自覚してもいる。このようなミーチャの言葉は “悪魔のように細心に、天使のように大胆に” 訳さねばならない。ミーチャの言葉が持つニュアンスを最大限に活かしながら引用部前半を訳すとすれば、「そこに悲劇があるんだ、俺がそれをちゃんとわかってるってことにな。人がちっとばかり芝居掛かった言い方するからなんだってんだ。ぶっちゃけた話、今の俺は芝居掛かってやしないか?」といったところになろう。

 それから最後の下線部“А ведь ア・ヴェチを「だって」と訳しているのは間違いである。ここの“А は逆説の接続詞で、“ведь ヴェチはその直後の形容詞“искренен イースクリェニェン(誠実な、正直な、真心のある)を強調する助詞だ。形容詞“искренен イースクリェニェンは後続の助詞 “же ジェによって更に強調されている。従い、引用部後半の訳は「でもな、本当に真面目なんだ俺は、真面目なんだよ」といったところに落ち着くであろう

米川正夫訳「おれはそれをちゃんと知っている。そして、この中に悲劇がふくまれるのだ。しかし、人間が少しばかり演説めいた口のきき方をしたって、いったいどこが悪いのだ?たしかのおれは演説口調でしゃべっただろうよ?しかし、おれは真剣なのだ、まったく真剣なのだ」135

原卓也訳「それをちゃんと承知している点に、悲劇もあるわけさ。人間がちょっとばかり演説口調で話したからというって、それがどうだっていうんだい?ほんとうに俺は演説口調じゃないかね?でもおれは真剣なんだ、真剣だとも」(139

江川卓訳「<> そして、おれがそれを確実に知っているという点にこそ、悲劇はひそんでいるんだ。人がちょっぴり演説口調になったからって、なんてことはないだろう? 確かにおれは演説口調だろう? しかし、おれは真剣なんだ、真剣なんだぜ。<>」(149

 

テキスト

<...> Ну, слова-то были и гордые.  <...>

新訳314p

20

<> そう、言葉は自信に満ちていたよ <>

 

<> そう、言葉は自信に満ちてもいた <>

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 “ и … イ(……も)のニュアンスがまったく訳されていないため、ミーチャの言葉がはなはだ平板なものになってしまっている(当該個所のみならず、新訳全体において、この種の и に対する無頓着さは一驚に値する)。「いや、言葉は(同時に)高慢でもあった」というのが原文の本来の意味だ。

米川正夫訳「いや、言葉はおごそかなものだったよ」136

原卓也訳「いや、言葉は自信たっぷりなものだったがね」(140

江川卓訳「<> いや、言の葉のほうにはなかなか傲慢な感じもあったな。 <>」(150

 

テキスト

<...> Говорит: «Хочешь, выйду замуж, ведь ты нищий. <...>

新訳317 〜318p

20

<> 『お望みなら結婚してあげてもいいわ、だってあんたは乞食同然だもの <>

 

<> 『お望みなら結婚してあげてもいいわ、そりゃあんたは乞食同然だけど <>

コメント

 ロシア語の接続詞“ведь ヴェチには「だって」の意味もあるが、ここでは「……なのに、……にもかかわらず」という逆接の意で用いられている。従い、引用文は「(グルーシェンカは)言いやがる、―“お望みなら、あんたのところにお嫁に行ってあげるわ、あんたは貧乏ではあるけどね とな」という意味である。文脈に照らしても、「だって」ではまるで体をなさない。馴れ初めからモークロエでの真の邂逅に至るミーチャとグルーシェンカの関係が正しく理解されておれば、このような誤訳はあり得ない。

米川正夫訳「<>『お望みならお嫁にいきましょうが、だってあんたはこじき同様の身分じゃなくって。』」<>137

原卓也訳「<>『お望みなら、結婚してあげるわ、あなたは素貧漢だけど<>』」( )

江川卓訳「<> 『なんならお嫁に行ってもいいわよ。そりゃああんたは乞食も同然だけどさ。 <>」(151

 

テキスト

<...>дал он ей знать, а та знать дала, что «может-де и приду». <...>

新訳324p

20

<> 彼女にそのことを知らせたら、彼女は『たぶんうかがいます』ってな返事を寄こしてきたらしい。 <>

 

<> 彼女にそのことを知らせたら、彼女は『もしかしたら行くわ』ってな返事を寄こしてきたらしい。 <>

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  может-де モージェット‐ジェ”の意味は「たぶん」ではなく「もしかしたら」だ。「もしかしたら行くかもしれない」が下線部の直訳であり、新訳とはまったく意味が異なる。原因不明の誤訳。

米川正夫訳「<>『もしかしたら行くかも知れない』と返事したそうだ<>140

原卓也訳「彼女に連絡したら、先方も『行くかも知れない』と連絡してきたそうだからな<>」( )

江川卓訳「<> 『もしかしたら、行くかもしれないわ』 <>」(154

 

テキスト

— Нет, сегодня она не придет, есть приметы. Наверно не придет! — крикнул вдруг Митя. — Так и Смердяков полагает.  <…>

新訳325p

20

「いや、今日は来ない。思い当たるふしがある。だから、たぶん来ない!」ドミートリーはふいに叫んだ。「スメルジャコフもそのつもりだ<>

「いや、今日は来ない。思い当たるふしがある。だから、きっと来ない!」ドミートリーはふいに叫んだ。「スメルジャコフもそのつもりだ<>

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 まず第一の下線部は副詞“наверно ナヴェールナ”の19世紀における用例、特にドストエフスキーの作品における用例に通じていないことに起因する誤訳である。現代ロシア語でこそ、この語は「おそらく、たぶん」の意味だが、かつては「きっと、確かに」の意味で用いられていた。

 次の下線部も誤訳で、これは 《たぶん》 誤読によるものではなく、推敲不足のために原文の意味とはまるで違った意味を伝えるものとなってしまったのであろう。原文の意味は「スメルジャコフもそのつもりだТак и Смердяков намерен ターク・イ・スメルジャコーフ・ナミェーレン)」などではない、「スメルジャコフもそう考えている」である。現代日本語がいかに乱れているとしても、この二つの文意の違いは明白なはずだ。

米川正夫訳「いや今日は来ないよ。ちゃんとそういう前兆があるんだ。きっと来やしない!<>スメルジャコフもそう思ってるよ」140

原卓也訳「いや彼女は今日は来ないよ、思い当たる節があるんだ。きっと来ないとも!<>」スメルジャコフもそう見てるしな」(145

江川卓訳「まず確実に来ないな! <> スメルジャコフもそう見ている」(154

 

 

VIII. За конячком 8 コニャックを飲みながら

テキスト

<...> — То-то, брат, вот этакая валаамова ослица думает, думает, да и черт знает про себя там до чего додумается. <...>

新訳354p

20

<> 「そうなんだ、イワン、あのバラムのロバが、あれこれ物事を考えているとはな。でもまあ、どこまでちゃんと考え抜いているかは、知れたもんじゃないさ <>

<> 「そうなんだ、イワン、あのバラムのロバが、あれこれ物事を考えているとはな。でもまあ、何を考えつくかは知れたもんじゃないさ <>

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 下線部分の原義は「(バラムのロバが考えて考えて)一体どんなことまで考えつくか、知れたものではない」である。ニュアンスの違いは明白であろう。誤訳

米川正夫訳「ほんとうにどんなところまで考えつくか知れやせんぜ」(153

原卓也訳「ついにはどこまで考えぬくか、わからんな」(157

江川卓訳「腹のなかでいったい何を考えつくか知れたもんじゃないからな」(168

 

テキスト

— Иван, Иван! Скорей ему воды. Это как она, точь-в-точь как она, как тогда его мать! Вспрысни его изо рта водой, я так с той делал. Это он за мать свою, за мать свою... — бормотал он Ивану.

新訳370p

22

「イワン、イワン、早く水をのませてやれ。まるで母親だ、母親と瓜二つだ。あの時の母親と同じだ!口で水をふっかけてやれ、おれもあれにもそうしてやった。こいつは自分の母親のために、母親のために・・・・」彼はしどろもどろになってイワンにつぶやいた。

「イワン、イワン、早く、こいつに水を。まるで母親だ、母親と瓜二つだ。あの時の母親と同じだ!口で水をふっかけてやれ、おれもあれにもそうしてやった。こいつは自分の母親のために、母親のために・・・・」彼はしどろもどろになってイワンにつぶやいた。

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 下線部分の逐語訳は「早くこいつに水を!」で、具体的な文脈から切り離して考えれば新訳の「早く水をのませてやれ」は必ずしも間違いではないが、この文脈では完全な間違いだ。後続のフョードルの言葉に、かつてアリョーシャの母に同様の発作が起った際、まず自分で口に水を含んで彼女に吹きかけてやっていたとあるとおり、フョードルが「早くこいつに水を!」とイワンを促したのがアリョーシャに水を飲ませるためではなかったことは明らかだ。ケアレスミス。

米川正夫訳「早よう水を持って来てくれ」(160

原卓也訳「早く水をやれ」(164

江川卓訳「早く水をやれ」(175

 

テキスト

<...> Образок-то, божией-то матери, вот про который я давеча рассказал, возьми уж себе, унеси с собой.  И в монастырь воротиться позволяю... давеча пошутил, не сердись. <...>

新訳380p

20

<> これがさっき話した聖像だがね。聖母さまの像だが、これをおまえにやるから持ってお行き。それに修道院に戻ってもかまわんよ・・・・あのとき言ったのは冗談だからな、怒るなよ。 <>

<> さっき話した聖像だがね、聖母さまの像だが、あれをおまえにやるから持ってお行き。それに修道院に戻ってもかまわんよ・・・・さっき言ったのは冗談だからな、怒るなよ。 <>

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  最初の下線部の原義は聖像のことだけどな、聖母さまの、ほらさっき話して聞かせたやつだよ、あれお前にあげるよ、持っていきな」であり、新訳のニュアンスとはまったく違う。おそらく 関係代名詞“который カトールイの前にある “вот ヴォット(ほら)に幻惑され、あたかもフョードルが聖母像をアリョーシャに実際に手渡している図を思い浮かべたのであろう。しかし、ここで父子は件の聖母像を眼前に見ながら会話しているのではない。原文は、聖像は家のどこかに存するものの、具体的にどこにあるのかまでは読者にはわからない、そういう書き方だ。明らかな誤訳である。

 それからもうひとつの下線部が「あのとき言ったのは」と訳されているのも間違い。ここでもまた新訳は副詞“давеча ダーヴェチャ”に躓いている。正しくは「さっき言ったのは」である。

米川正夫訳「<> さっきわしが話した聖母マリヤの像も、おまえにやるから持っていくがよい。<> さっきのはほんの冗談だから <>」(164

原卓也訳「<> さっき話した聖母の像だが、あれをお前にやるから、持っていくといい。 <>さっきはちょっと冗談を言っただけさ <>」(168

江川卓訳「<> あの聖像な、ほら、さっき話した聖母の像な、あれはおまえにやるから、持って行くといい。 <> さっきのは冗談だ <>」(180

 

テキスト

<...> Он рассказывал минут десять, нельзя сказать, чтобы плавно и складно, но, кажется, передал ясно, схватывая самые главные слова, самые главные движения и ярко передавая, часто одною чертой, собственные чувства. <...>

新訳416p

20

<> 話していたのは十分ほどで、整然と淀みなくとはいかなかったが、肝心な言葉や肝心なしぐさを的確にとらえ、しばしば自分の気持ちをひとことでぴったりと言いあらわし、その場の雰囲気をはっきりと伝えた。 <>

<> 話していたのは十分ほどで、整然と淀みなくとはいかなかったが、肝心な言葉や肝心なしぐさを的確にとらえ、しばしば自分の気持ちを顔つきひとつでぴったりと言いあらわし、その場の雰囲気をはっきりと伝えた。 <>

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 下線を付したчасто одною чертой チャースタ・アドノーユゥ・チェルトーイは、言い換えればчасто лишь движением лица チャースタ・リーシ・ドヴィジェーニエム・リッツァーということで、その逐語的意味は しばしば顔の動きだけで」である。日本語訳としては「しばしば顔の表情だけで(自分の感情をはっきりと伝えながら)」くらいが妥当なところだ。新訳の「ひとことでぴたりと」というのは、確信を持てぬまま思い余って編み出された苦肉の“創作”でもあろうか?

米川正夫訳「<> かんじんな言葉やかんじんの動作をつかむとともに、ただ一語で自分自身の感じを伝えるようにしながら <>」(180

原卓也訳「<> いちばん肝心な言葉や、肝心な動きをつかみ、しばしば自分自身の感情を特徴的な一点でありありと伝えながら <>」(184

江川卓訳「<> 肝心の言葉、肝心の動作は的確につかんで、なんとか状況をはっきりと伝え、また自分の感想も、ほとんどはほんのひと言かふた言をはさむだけで、目に見えるように描きだしてみせた。 <>」(197