「点検」指摘にかかわる訂正個所・5ヶ所(20刷)、12ヶ所(22刷)

 

下記の資料は「検証」同様に「点検」の書式をそのまま使い、増刷での改訂を新訳の下に対照させ、

疑問個所を赤、訂正個所と影響をあたえたと推定される「点検」のコメントの核心部分を黄色の蛍光ペンで示した。

色で照合して読んで頂ければ、要点を掴みやすいであろう。

                                         付録 会員さんからの質問

 

 

  新訳11

 

 

 

22

 

しかしここでひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている。                        

重要なのは第二の小説であり、これは、すでに現代、つまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。

 

しかしここでひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときていて、それはつまり現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。                      

現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。

森井の疑問

 同一義の語句が近接して反復されているのは奇異に感じられる。原文にこのような冗語的反復はないのではないか。

原訳11

省略・「点検」参照

江川訳 8

同上

 

<…> но беда в том, что жизнеописание-то у меня одно, а романов два.  Главный роман второй — это деятельность моего героя уже в наше время, именно в наш теперешний текущий момент.

解 

(by N.N.)

 指摘のとおりです。原文では Главный роман второй グラーヴヌイ・ラマーン・フタローイ (大事なのは第二の小説であり)” とあるだけです。反復はありません。

 

 

  新訳12頁−13

 

 

 

 

 

 

 

 

2213

@ そうは言っても、この小説が「全体として本質的な統一を保ちながら」おのずとふたつの話に分かれたことを、わたしは喜んでいるくらいだ最初の話を読み終えた段階で、読者のみなさんはこれから先、第二部を読みはじめる価値がはたしてあるかどうか自分で決めることになる

A むろんだれにも、なんの義理もないのだから、最初の短い話の二ページ目で本をなげだし、二度と開かなくたってかまわない。しかし世の中には、公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者もいる。たとえばロシアの批評家というのは、押しなべてそういう連中である。

B    というわけで、そういう読者が相手だと、こちらとしてもじつにやりやすい。だが彼らの律儀さや誠実さをありがたく受け止めるにしても、わたしとしてはやはり小説の最初のエピソードでこの話を放り出してもよいよう、ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく。

@とAのパラグラフでは訂正なし。Bのパラグラフで訂正:

というわけで、そういう読者が相手だと、こちらとしてもじつにやりやすい。だが彼らの律儀さや誠実さをありがたく受け止めるにしても、わたしとしてはやはり小説の最初のエピソードでこの話を放り出してもよいよう、ごくごく正当な口実を提供しておく。

 

森井の疑問

@ 第一パラグラフにおいて、第二文は、第一文で「わたし」が「喜んでいる」、その理由を説明しているはずである。ところが、これを受ける第二文は「読者のみなさんは自分で決めることになる」となっている。これは、「喜んでいる」理由としては表現がいささか奇妙ではないか。

A 第一パラグラフにある「最初の話」(つまりこの小説)および「第二部」(書かれなかった続編)との対比から判断して、第二パラグラフに「最初の短い話」とあるのも、実はこの最初の小説のことを指しているのではないか。それとも、第一編第一章の短い話のことなのか。 

B ここで突然「みなさん」と呼びかけられたのでちょっと驚きました。

みなさん」とは通常、読者一般を指す。ここで話題になっているのは、批評家めいた読者のことである。ここは「彼らに」、ないし、せめて「批評家のみなさんに」とすべきではないか。

 

原訳12

省略・「点検」を参照

江川訳 8

同上

 

@Впрочем, я даже рад тому, что роман мой разбился сам собою на два рассказа «при существенном единстве целого»: познакомившись с первым рассказом, читатель уже сам определит: стоит ли ему приниматься за второй? AКонечно, никто ничем не связан; можно бросить книгу и с двух страниц первого рассказа, с тем чтоб и не раскрывать более. Но ведь есть такие деликатные читатели, которые непременно захотят дочитать до конца, чтобы не ошибиться в беспристрастном суждении; таковы, например, все русские критики. BТак вот перед такими-то все-таки сердцу легче: несмотря на всю их аккуратность и добросовестность, все-таки даю им самый законный предлог бросить рассказ на первом эпизоде романа.

解 

(by N.N.)

@ 引用訳文の第一パラグラフは、原文でも二つの文で構成されているが、「. (ピリオド)」ではなく「: (コロン)」で繋がれており、結果的には一つの文となっています。新訳ではコロンの代りに句点を打って、二つの文として訳出しているわけで、そのこと自体に問題はありません。問題は原文の「: (コロン)」が正しく訳出されているか否かです。文脈に照らすに、この「: (コロン)」は「前文の後に説明・理由の文を接続詞なしで続ける」という用例であるのに、新訳の第二文には第一文の理由説明としてのニュアンスが出ていない。また、「決めることになる」という第二文の末尾は、原文にはない原著者の押しつけがましさを感じさせることにもなりかねず、文体の視点から見て不適切と思われます。「決めてくれるであろう」というように、理由説明のニュアンスは示しつつも、原文にない他のニュアンスは付与せぬよう工夫すべきでしょう。

A 第一パラグラフの「最初の話」と「第二部」は、原文では первый рассказ ピェールヴイ・ラスカース(第一の物語) второй (рассказ) フタローイ・(ラスカース)(第二の物語)”であり、文中では、そこで果たす機能により格変化しているものの、表現は統一されています。第二パラグラフの「最初の短い話」の原語も первого рассказа ピェールヴァヴァ・ラスカーザ(第一の物語)”で、これは最初の小説のことです。「短い」という語はどこにもありません。但し、この形容詞が唐突に現れた理由は察しがつきます。ロシア語では「小説」を意味する言葉が三つあります。 роман ラマーン(長編小説)”、“повесть ポーヴェスチ(中編小説)”、“рассказ ラスカース ( 短 編小説)”。このうち三つ目の「 短 編小説」を意味する рассказ ラスカース 「物語」を意味する рассказ ラスカース と全く同じ単語で、その意味解釈は文脈に委ねられます。「話」の前に「短い」という不可解な形容詞が現れたのは、おそらくこの単語の語義を巡る混乱によるものでしょう。

B    最終パラグラフ第二文の最後にある「みなさんに」の原語は“им イーム”で、これは三人称複数代名詞 они アニー(彼ら)”の与格形、「彼らに」という意味。問題はこの「彼ら」が何を指しているか? それが「読者のみなさん(読者一般)」でないことは明らかなので、「みなさんに」というのはやはりおかしい。と言って、「批評家のみなさんに」とするのも拙い。「彼ら」が指しているのは「公平な判断を誤らないため、何が何でも終わりまで読み通そうとするデリケートな読者」のことであり、「(ロシアの批評家(たち)」はその一例として挙げられているに過ぎない。 ここは、ごく普通に 彼らに としておくのが一番よいと思います。

 

以下、「「検証」「論評」に寄せて」における、関連する木下の論評

「私が指摘したいのは、「著者より」の言葉の指向性が正しくとらえられていないため、読者への語りかけの部分がそれ自体として、訳に的確に反映されず、どっちつかずの曖昧さを残していることである(「読者のみなさんは・・・自分で決めることになる」〔亀山訳〕、正しくは「読者のみなさんは・・・自分で決めてくれるだろう «читатель сам уже определит»)。 その一方で、三人称的に客体化した対象(「批評家たち」、というのは「公平な判断を誤らぬため、最後まで読み通そうとする親切な読者」とか、彼らの「律儀さ」、「誠実さ」といった皮肉な修飾語から見ても、検閲関係者をも暗示しているかもしれない相手)に、「みなさん」という二人称の訳語を当てる見当ちがいを起こしている(「ごくごく正当な口実をみなさんに提供しておく」〔亀山訳〕。原テクストに従えば、ここは三人称で、「正当な口実を彼らに «им» あたえておく」)である」

 

新訳92

 

 

20

 

 

22

 

「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。

いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっております」と修道僧は答えた。

「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。

いや、院長さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので」と修道僧は答えた。

「(…)でもまあ、食事にはうかがいましょう。修道院長によろしくお礼を申しあげてください」ミウーソフは、修道僧のほうを振りかえって言った。

いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので」と、修道僧は答えた。

森井の疑問

長老の僧庵へ向かうフョードル一行に追いついた修道僧が、修道院長の招待を伝える場面である。これを受けての、ミウーソフと修道僧とのやりとりだが、一読して分かるように、これでは、会話が成立していない。修道僧が実のところ何と答えたかは、先行訳を見れば判然とする。

ここで、話者が主題化しているのは、「わたし」であり、先行訳ではこれに付いた助詞の「は」がそれを表している。ところが、新訳では、これを、「長老さまへ」と話題の中心を移してしまっている。これがつまずきの原因である。なぜなら、助詞「は」は主題化と同時に、「○○は」の○○部分が既知(旧情報)であることを表し、そのあとに未知の事柄(新情報)が続くことを予め示す助詞だからである。(助詞「が」はその逆。)この場合、修道院長のもとに僧が帰るものと思い込んでいるミウーソフに対して、そうではなく、わたしは「長老さまのところへ行く(案内する)のだ」と、(「わたし」という旧情報の主題について)新情報を与えているのである。新訳ではこれがあべこべになっており、この新情報が旧情報に、そして、助詞「が」によって「わたし」が新情報に化けてしまっている。ともあれ、文脈上なぜこう訳されたのか、不思議です。

原訳82

「(…)とにかく、お食事までには伺います、院長さまにお礼を申しあげておいてください」彼は修道僧をかえりみて言った。

いいえ、わたくしはあなた方を長老さまのところへご案内いたさねばなりませんので」修道僧が答えた。

江川訳46

「(…)では、食事にはうかがいます、僧院長によろしくお伝えください」修道僧のほうを向いて彼はこういった。

いえ、わたくしは長老さまのところまでみなさまをご案内しなければなりませんので」修道僧が答えた。

 

— <…> Так к обеду будем, поблагодарите отца игумена, — обратился он к монашку.

Нет, уж я вас обязан руководить к самому старцу, — ответил монах.

解 

(by N.N.)

 原文の я обязан … ヤー・アビャーザン……(「私には〜する義務がある」、「私は〜しなければならない」)”の訳し方の問題でしょう。先行訳はいずれもほぼ直訳で、標準的な訳と言えます。「疑問」の指摘のとおり、原文でも、修道院長への伝言依頼とともに会話を打ち切ろうとするミーウソフに対して、僧は、「いや(ここで皆様とお別れするわけにはいきません)、私は皆様を長老さまの許へお連れしなければならないのですから」と応じており、話題の中心はあくまでも僧の「私」です。

森井追記

 これも、昨年10月に直接指摘した箇所です。第20刷では確かに直されています。しかし、正しく訂正されてはいません。以下のとおりです。

  (訂正前)「いや、長老さまへは、このわたしが案内するように申しつかっております

  (訂正後)「いや、院長さまへは、このわたしが案内するように申しつかっておりますので

上記のように編集者に告げたわけではありません。それに、この例は私のamazonレビューにも載っています。原文のこの箇所に「院長さま」に当たる単語のないことは言うまでもありません。〔この個所は、訂正の混乱振りを示す滑稽な一例である。編集者は森井氏の指摘を誤解して受け止めて20刷で「長老」→「院長」の誤訳を重ね、22刷で元に戻している。本来の指摘の意味―言葉の指向性の食い違いは、僧の言葉の最後に「・・・ので」を付加して、僧のいわんとする別の理由の存在をかろうじて示している。先行訳の踏襲(木下)〕

 

新訳159

 

 

 

20

ぼく(=イワン)が反論した聖職者は、教会は国家の中で一定の正しい位置を占めていると主張しています。しかしぼくはそれとは逆に、教会こそみずからのなかに国家を含むべきであって、国家のなかの一部を占めるだけであってはならない。たとえそれがなんらかの理由で不可能であっても、本質において、国家は明らかにキリスト教社会の今後の全発展の、直接的でもっとも重要な目的として提示されるべきだと反論したのです」

ぼく(=イワン)が反論した聖職者は、教会は国家の中で一定の正しい位置を占めていると主張しています。しかしぼくはそれとは逆に、教会こそみずからのなかに国家を含むべきであって、国家のなかの一部を占めるだけであってはならない。たとえそれがなんらかの理由で不可能であっても、本質において、明らかにキリスト教社会の今後の全発展の、直接的でもっとも重要な目的として提示されるべきだと反論したのです」

森井の疑問

先の論文説明の後段。無神論者として知られるイワンとしては、本気かどうかは別として、驚くべき自説を開陳する場面である。問題は「国家は」の部分。「国家はキリスト教社会の今後の全発展の重要な目的として提示されるべき」というのはいかにも生硬で、その意味が取りにくい。この文は、「今〜であっても」、「今後〜」という構文であり、同一物の「今」と「今後」を対比させているはずである。ここも代名詞の指示する語を取り違えているのか?

原訳146

僕が反駁した聖職者は、教会は国家の中で厳密な一定の地位を占めている、と説いています。ところが僕が反論で述べたのは、むしろ反対に教会が国家全体を内包すべきであって、国家の中の小さな一角を占めるべきではない、かりにそれが現在なんらかの理由で不可能であるとしても、事物の本質から言って疑いもなく、キリスト教社会の今後の発展の直接的なもっとも主要な目的になるはずである、ということなのです」

江川訳78

ぼくが反論したあの聖職者の方は、教会は国家の中に明確な、確固とした地位を占める、と主張されています。ぼくはその人に反論して、むしろ反対に、教会のほうが国家のいっさいを自身のうちに包含すべきであって、国家の一隅にわずかな場所を占めるべきはない、たとえそのことが、いまはなんらかの理由によって不可能であるとしても、ことの本質からして疑いもなく、それはキリスト教社会の今後の全発展の直接的な、最重要な目的とならなければならない、と主張したのです」

 

Я же возразил ему, что, напротив, церковь должна заключать сама в себе всё государство, а не занимать в нем лишь некоторый угол, и что если теперь это почему-нибудь невозможно, то в сущности вещей несомненно должно быть поставлено прямою и главнейшею целью всего дальнейшего развития христианского общества.

解 

(by N.N.)

 指摘のとおりです。新訳の「明らかに〜もっとも重要な目的として提示されるべきだ」という述部の主語は「国家」ではない。この述部を含む、「たとえ」で始まる文の主語はただ一つ、指示代名詞「それ」です。そして、「それ」が指しているのは、おわかりのとおり、「教会こそみずからのなかに国家を含むべきであるということ」です。原文で「それ」に対応するのは это という指示代名詞で、一度しか出てこない。先行訳では、原訳がこの形を踏襲しています。江川訳は読みやすさを顧慮して、「そのことが〜としても、…それは」と反復しているものの、主語が同一であることに変わりはありません。新訳で唐突に現れた「国家は」という主語は明らかに余計なものでこれさえ削除すれば、一応正しい訳文になります。

森井追記

 ここは、前の箇所と一緒に編集者に指摘したもので、第20刷で正しく訂正されていました。これも訂正後のもののみ掲げます。「明らかに」の前にあった「国家は」という余計な主語が削除されています。

(訂正後)たとえそれが今なんらかの理由で不可能であっても、本質において、明らかにキリスト教社会の今後の全発展の、直接的でもっとも重要な目的として提示されるべきだと反論したのです

 

新訳161

 

20

そこまでいうと彼(=パイーシー神父)は、あたかも自制したかのように急に黙り込んだ。イワンはうやうやしげに注意深く彼の話に耳を傾けてから、長老に向かって、ひどく冷静ながらいつものように率直に自分から進んで話をつづけた。

そこまでいうと彼(=パイーシー神父)は、あたかも自制したかのように急に黙り込んだ。イワンはうやうやしげに注意深く彼の話に耳を傾けてから、長老に向かって、ひどく冷静ながらこれまでどおり率直に自分から進んで話をつづけた。

森井の疑問

 これも変である。なぜなら、イワンは、いつもは「率直に自分から進んで」話をするタイプではないからである。だからこそ、159頁にあるように、前夜からアリョーシャは、イワンが長老に対して慇懃無礼な口を利くのではないかと案じていたのである。ところが、先の論文説明で初めて長老に話しかけたイワンの口調が、案に相違して謙虚で控えめなものであったので、アリョーシャはほっとする。ここもそれを受けているわけで、アリョーシャの安堵をにおわせる表現となっているはずである。言い換えれば、語り手の視線(目)が作中人物(アリョーシャ)の視線(目)に重なっているはずである。これを、後者の認識と異なる「いつものように」とやってしまうと、語り手が高い位置から事実を客観的に叙述する体となる。つまり、この誤訳は、単に意味を変えてしまっただけでなく、語り手の視点まで変えてしまったということになる。

原訳148

 彼は自分を抑えたかのように、ふいに口をつぐんだ。イワンはきわめて冷静に、注意深くいんぎんに話をきき終わると、これまでどおり長老に向かって、みずから進んで気さくに話を続けた。

江川訳79

自分を抑えようとでもするように、彼はふっと口をつぐんだ。イワンは、彼の言葉をつつましく傾聴すると、異常に冷静な、しかし相変わらず興の乗った、飾らぬ態度で、長老の方に向って話をつづけた。

 

   Он вдруг умолк, как бы сдержав себя. Иван Федорович, почтительно и внимательно его выслушав, с чрезвычайным спокойствием, но по-прежнему охотно и простодушно продолжал, обращаясь к старцу: <…>

解 

(by N.N.)

  いつものように」というのは誤訳です。原語の по-прежнему  パ-プリェージュニェムウ は「以前と同じように、これまでと同じように(так же, как прежде ターク・ジェ、カーク・プリェージュヂェ)」という意味を表す副詞。「いつものように」と訳した方がよい場合も確かにありますが、それはあくまでも文脈次第。引用文における「以前、これまで(преждеプリェージュヂェ)」とは、この章でイワンが長老に対してずっと積極的且つ飾らぬ態度を示し続けてきたことを指しており、「いつものように」では体をなさない。よって、ここでは「これまでどおり」、「相変らず」乃至これらに準じたものが正しい訳ということになります

森井追記

ここも昨年直接指摘した箇所で、第20刷で正しく訂正されていました。

 (訂正前)ひどく冷静ながらいつものように率直に自分から進んで話をつづけた。

(訂正後)ひどく冷静ながらこれまでどおり率直に自分から進んで話をつづけた。

 

新訳168

 

22

  もしも裁判が教会というキリストの社会に属するものであるなら、そのとき国家は、だれを破門から解き、だれを自分の社会に再び迎え入れるべきか、心得ているはずです。

もしも裁判が教会というキリストの社会に属するものであるなら、そのとき社会は、だれを破門から解き、だれを自分の社会に再び迎え入れるべきか、心得ているはずです。

森井の疑問

長老の話の続きである。ここで、唐突に「国家」が出てくるのにやはり違和感を覚える。「国家」が破門を解くというのがまず妙である。破門を解くことができるのは、「教会(というキリストの社会)」ではないか

原訳154

だから、もし裁判が教会という社会に帰属しているとしたら、そこではだれを破門からよび戻して、ふたたび一員に加えてよいかわかっているはずです。

江川訳82

そこで、もし裁判が、教会としての社会に属することになれば、社会はだれの破門を解いてふたたびおのれの一員に加えたらよいかを自分でわきまえるはずなのです。

 

Вот если бы суд принадлежал обществу как церкви, тогда бы оно знало, кого воротить из отлучения и опять приобщить к себе.

解 

(by N.N.)

 人称代名詞 оно アノー”(それ)が指示するものを取り違えた誤訳です。人称代名詞は通常、それ以前に出てきて、最も近くに位置する性・数一致の名詞を受けます。 оно アノー は中性形単数であり、一番近くに出てきた単数の中性名詞は “общество как церкови オープシェストヴァ・カーク・ツェールコフィ”、即ち「教会としての社会」。 оно アノーは無論これを指します 引用文の一文前に、「国家」を意味する単数の中性名詞 государство ガスウダールストヴァ”が出てきてはいるが、指示対象としては離れすぎであり、そもそも文脈から見て、「国家」をここの主語としたのでは、ゾシマ長老の論旨に明らかな齟齬を来します。

 

新訳180

 

 

 

 

 

20

いや、ちょっとした感想のほかに、とくにこれといったことはありませんよ」イワンがすぐに答えた。「一般にヨーロッパの自由主義というのは、いやロシアの自由主義的なディレッタント主義にしても、以前から@しばしば社会主義の最終的な結論と、キリスト教のそれとをごっちゃにしているんです。Aこういった野蛮な結論が、むろんその特徴を明らかにしているわけです。しかしB社会主義とキリスト教をごっちゃにしているのは、どうも自由主義者やディレッタントばかりじゃなく、多くの場合、憲兵もそのようなんですよ。つまり、むろん外国のですがねあなたのパリの小話、なかなか味がありましたよ、ミウーソフさん」

 

いや、ちょっとした感想のほかに、とくにこれといったことはありませんよ」イワンがすぐに答えた。「一般にヨーロッパの自由主義というのは、いやロシアの自由主義的なディレッタント主義にしても、以前から@しばしば社会主義の最終的な成果と、キリスト教のそれとをごっちゃにしているんです。Aこういった野蛮な結論が、むろんその特徴を明らかにしているわけです。しかしB社会主義とキリスト教をごっちゃにしているのは、どうも自由主義者やディレッタントばかりじゃなく、多くの場合、憲兵もそのようなんですよ。つまり、むろん外国のですがねあなたのパリの小話、なかなか味がありましたよ、ミウーソフさん」

森井の疑問

パリで秘密警察(公安警察)筋から「キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりずっと恐ろしい」と聞かされたという小話をミウーソフがし、それに対してイワンがコメントする場面である。問題は2箇所ある。

まず@・Aである。ここを読んでAの「結論」が何を指しているか、すぐさま判然とするだろうか。社会主義およびキリスト教の最終的な結論のことなのか。それとも、この両者をごっちゃにしていることなのか。先行訳を見ると、@では「結果」、Aでは「結論」と訳し分けてあって誤解の余地はない。これはそもそも違う単語ではないのか

次にBである。新訳では、Bの下線部は、明らかに、イワン自身の話(認識)として語られている。しかしながら、自分の体験の前置きもなしに、「多くの場合、憲兵もそのようなんですよ。つまり、むろん外国のですがね」と言い出すのは、いかにも唐突である。そもそもここは、ミウーソフの先の小話を受けての感想であり、実際このあとすぐにその評価をくだしているではないか。先行訳と比較すると、「今のお話だと」の部分を訳し落としているようだ。つまり、Bはもともと、イワンの話(認識)ではなく、ミウーソフのそれではないのか。それに同意を与えているのである。

原訳165

省略・「点検」参照

江川訳87

同上

 

— Ничего особенного, кроме маленького замечания, — тотчас же ответил Иван Федорович, — о том, что вообще европейский либерализм, и даже наш русский либеральный дилетантизм, @часто и давно уже смешивает конечные результаты социализма с христианскими. AЭтот дикий вывод — конечно, характерная черта. Впрочем, Bсоциализм с христианством смешивают, как оказывается, не одни либералы и дилетанты, а вместе с ними, во многих случаях, и жандармы, то есть заграничные разумеется. Ваш парижский анекдот довольно характерен, Петр Александрович.

解 

(by N.N.)

    @とAにおける訳語「結論」について:

 @の結論」は誤訳。新訳でいずれも「結論」と訳されている単語は、原文では全く違う二つの単語です@の「結論」の原語は“результаты リェズウリタートゥイ”、これは英語の“result に相当する результат リェズウリタート の複数形で、その意味は「結果」。Aの「結論」の原語выводы ヴイヴァドゥイ”は、英語の“conclusion に相当する вывод ヴイヴァド の複数形で、こちらの方は紛れもなく「結論」の意味。

Bの訳文に関する疑問について:

この問題については、動きがないので、省略。「点検」のこの項参照

 

森井追記

ここも昨年編集者に直接指摘した箇所で、第20刷で@は直されています。しかし、なぜかBはそのままです。イワン自身の見解のままになっています。

(訂正前)@しばしば社会主義の最終的な結論と、キリスト教のそれとを(…)

(訂正後)@しばしば社会主義の最終的な成果と、キリスト教のそれとを(…)

 

新訳189

 

 

 

 

 

 

22

(ドミートリーの台詞:)たしかにぼくはあの大尉(=スネギリョフ)に対して野獣みたいにふるまった。いまはそのことを後悔しているし、ああいう獣じみた怒りにかられたことをいまわしいとも思っている。

ただ、あなた(=フョードル)の代理店をつとめた大尉はですよ、さっき妖艶美人とかあなたがいった例の婦人(=グルーシェニカ)のところへ出かけていってですね、@あなたの頼みと称し、こういう提案をしているんです。もしも、ぼくが財産の処理のことであなたにあまりうるさくいうようだったら、あなたが持っているはずのぼくの手形を彼女が引きとり、その手形をたてにAぼくを監獄にぶちこんでしまえばいい、とです

 

ただ、あなた(=フョードル)の代理店をつとめた大尉はですよ、さっき妖艶美人とかあなたがいった例の婦人(=グルーシェニカ)のところへ出かけていってですね、@あなたの頼みと称し、こういう提案をしているんです。もしも、ぼくが財産の処理のことであなたにあまりうるさくいうようだったら、あなたが持っているはずのぼくの手形を彼女が引きとり、その手形をたてに訴訟を起こし、Aぼくを監獄にぶちこんでしまえばいい、とです

 

森井の疑問

@にあるように、「提案」とはいえ、そのじつ「頼み」なのだから、Aの「〜してしまえばいい」は変である。これだと、フョードルが自分の利益を慮って(ドミートリーを排斥すべく)グルーシェニカに頼み込んでいるのではなく、あたかも彼女の利益を考えてまさに提案してやっている体となる。なお、先行訳と比べると、「訴訟を起こして」の部分が訳し落とされて(省略されて)いるようである。

原訳174

(…)だけど、あんたのあの大尉は、あんたの代理人とやらは、あんたが妖婦とか表現した当の女性のところへ行って、@あんたの頼みだと言ってこんな提案をしたじゃありませんか。もし僕が財産の清算であまりうるさくつきまとうようだったら、あんたの手もとにある僕の手形を彼女が引きとって、その手形をたねにA僕を刑務所へぶちこんでしまえるように訴訟をおこしてくれって

江川訳92

(…)けれど、あなたの代理人とかいうあの大尉は、あなたがいま凄腕といわれたその婦人のもとへ出かけて行って、あなたの持っているぼくの手形を引きうけてくれ、で、もしぼくがあまりうるさく財産の清算を迫ってくるようだったら、その手形をたねに訴訟を起こしてAぼくを監獄へぶちこんでくれと、あなたの代理ということで@頼みこんだじゃありませんか

 

<…> о этот ваш капитан, ваш поверенный, пошел вот к этой самой госпоже, о которой вы выражаетесь, что она обольстительница, и @стал ей предлагать от вашего имени, чтоб она взяла имеющиеся у вас мои векселя и подала на меня, A чтобы по этим векселям меня засадить, если я уж слишком буду приставать к вам в расчетах по имуществу.

解 

(by N.N.)

 「〜してしまえばいい」は誤訳です。ここに使われているのは、動詞の不定形乃至過去形を伴って目的(〜するために、〜するように)を表す接続詞 чтоб シトープ” と “чтобы シトーブイ” であり、先行訳はいずれも目的の文意(〜してくれって、〜してくれと)を正しく伝えています(訳す順序の違いは訳者の好みによるもの)。無論、フョードルの提案は自らの利益を慮ってのこと。

  次に訳し落とし如何について触れます。ロシア語には подала в суд на кого パダーチ・フ・スードナ・カヴォー(誰々を裁判所に告訴する)” という成句があり、ここでは в суд フ・スード(裁判所に) が省略されて、“подала на меня パダラー・ナ・ミニャー(彼女 [グルーシェンカ] が僕を訴えるように)”という形になっています。この前に чтоб она взяла имеющиеся у вас мои векселя シトープ・アナー・ヴズィヤラー・イミェーユッシエサ・ウ・ヴァス・マイー・ヴェクスェリャー(あなたの所にある僕の手形を彼女(グルーシェンカ)が引き取って) とあるので、先行訳は「手形をたねに」という言葉を補って(つまり、もう一度繰り返して)「手形をたねに訴訟を起こして」と訳している。新訳もこれを全く訳し落としているわけではありません。ただ、何故か「訴える」の訳出を省略し、先行訳が補った「その手形をたてに」という言葉だけを残して、極めて風変わりな訳文にしている。前後の脈絡に照らせば、こういう訳もあり得なくはないでしょう。しかし、好ましいとはとても思えません。

 

新訳203

 

 

 

20

 

22

彼(=アリョーシャ)は林道の両側に茂る古い松の木立を眺めはじめた。抜け道はさほど長くなく、せいぜい五百歩ほどだった。この時刻ならだれとも行き合うはずはなかったが、最初の曲がり道で彼はふいにラキーチンの姿を認めた。だれかを待ちうけている様子だった

「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」彼と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。

「Aいや、きみさ」ラキーチンはにやりと笑った。

 

「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」彼と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。

「Aまさに、きみさ」ラキーチンはにやりと笑った。

「@ぼくを待ってたんじゃない?」彼と肩をならべると、アリョーシャはそう訊いた。

「Aまさに、きみさ」ラキーチンはにやりと笑った。

森井の疑問

フョードルを除いた一行に遅れて、アリョーシャが修道院長のもとに向かう場面である。@に違和感を覚えた。「〜じゃないよね?」は、「自分は〜じゃないと思うが、そうだろう?」と相手に相槌を求める問いかけである。ところが、その前の青緑下線部を見れば分かるように、この状況で、ラキーチンが待ちうけているのは自分だと、明敏なアリョーシャが気づかないはずがない。したがって、それに対するラキーチンのAの答えも自ずと違ってくる。この箇所は「検証」でも指摘されています。

原訳187

(…)「@僕を待ってたんじゃないの?」相手と並ぶと、アリョーシャはたずねた。

「Aまさしく君をさ」ラキーチンがにやりとした。

江川訳98

(…)「@ぼくを待っていたのかい?」すぐ近くまで行って、アリョーシャはたずねた。

「Aきみをだよ」ラキーチンはにやりとした。

 

Он <…> стал смотреть на вековые сосны по обеим сторонам лесной дорожки. Переход был не длинен, шагов в пятьсот, не более; в этот час никто бы не мог и повстречаться, но вдруг на первом изгибе дорожки он заметил Ракитина. Тот поджидал кого-то.

@ Не меня ли ждешь? — спросил, поравнявшись с ним, Алеша.

A Именно тебя, — усмехнулся Ракитин.

解 

(by N.N.)

  「検証」では、新訳の@-Aの応答には原文にない妙な捻りがあり、不自然であることに軽く触れたに過ぎません。しかし、「疑問」では、先行する語り手の語りの文(地の文)における二つの青緑下線部との齟齬が指摘されており、これは重要な問題を含んでいます。

  最初の青緑下線部 “никто бы не мог и повстречаться ニクトー・ブイ・ニェ・モーク・イ・パフストリェチャーッツァ” の訳はよいとして、二つ目の“Тот поджидал кого-то トート・パッドジィダール・カヴォー‐タ” の訳は些か不正確。原文には、「誰をなのかはわからぬが、ラキーチンは間違いなく誰かを待っていた」というニュアンスがあるので、「だれかを待ちうけているのは明らかだった」とすべきところ。そして、この二つの下線部はいずれも、主人公に寄り添った語り手が主人公の意識を伝えている言葉。問題のアリョーシャの問いも、彼のこの意識の流れ(『誰にも会わないと思っていたら、ラキーチンがいる。明らかに誰かを待っている』)の延長上に発せられたもの。従い、そこでアリョーシャの問いの中心にあるのは『誰を待ってるんだろう? ぼくじゃないのかな?』ということであり、原文の字義通りの「ぼくを待ってる(た)んじゃないの?」が最も当を得た問い方。一方、新訳の「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」は、恰も待たれていたのは自分ではないことの確認を相手に求めているかのような口吻であり、上述の意識の流れから発された問いとしてはやはり不自然。ここで違和感を覚える読者も少なくないでしょう。それは語り手の語りの中に潜在する主人公の意識の流れを捉えそこなった結果と言えます。

森井追記

「検証」を受けて、第20刷で訂正が施されていますが、これもまったく不十分です。

  (訂正前)「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」(…)「Aいや、きみさ

  (訂正後)「@ぼくを待ってたんじゃないよね?」(…)「Aまさにきみさ」

〔これも訂正の混乱を示すもので、指摘を受けて20刷で、一部の不十分な訂正をし、22刷でまた肝心の個所の訂正をおこなっている。小出しの訂正で取り繕う編集者の姿勢が透けて見えるというべきか(木下)〕

 

新訳207

 

 

 

22

(ラキーチン:)「(…)ああして、ものすごく高潔でも女好きな男(=ドミートリー)には、越えてはいけない一線があるんだよ。もしもそうでなきゃ、あの人は親父をぐさりとやりかねない。きみの親父は飲んだくれで、抑えのきかない道楽人で、節度なんてものは一度だって理解したことがない人間だけど、二人とも堪(こら)えきれなくなったら、溝のなかに一緒にどぶんと┄┄

きみの親父は飲んだくれで、抑えのきかない道楽人で、節度なんてものは一度だって理解したことがない人間だから、二人とも堪(こら)えきれなくなったら、溝のなかに一緒にどぶんと┄┄

森井の疑問

これも接続の問題である。文脈上、ここは順接であり、「人間だから」としなくてはならない。

原訳191

「(…)それに親父さんてのが飲んだくれで、抑えのきかない道楽者で、いまだかつて何事にも節度ってものをわきまえたことがないから、どっちも抑えがきかなくなって、もろともに溝(どぶ)の中へざんぶりと┄┄

江川訳100

「(…)ところが親父さんときたら、飲んだくれで、どうにも抑えのきかない道楽者だ、何事につけても節度ということを知らない。二人が二人とも抑えがきかないとなりゃ、一緒に溝(どぶ)のなかへどぶんさ┄┄

 

У этих честнейших, но любострастных людей есть черта, которую не переходи. Не то — не то он и папеньку ножом пырнет.  А папенька пьяный и невоздержный беспутник, никогда и ни в чем меры не понимал не удержатся оба, и бух оба в канаву…

解 

(by N.N.)

 原文の対応個所では、 二つの文が ダッシュ で繋がれています。“ ダッシュ が逆接の意味を表すことはありません。ここは「原因を表す従属節」と「結果を表す主節」を繋ぐ ダッシュ の用例です。逆接で訳したのは明らかな間違い。先行訳では、原訳が従属節と主節の因果関係を明示しており、江川訳は、明示してはいないものの、文を一旦切って、接続詞無しで次の文を始めているので、因果関係のニュアンスは仄かに感じられます。

 ところで、新訳の引用個所にはもう一つ問題があります。「ああして<中略>ぐさりとやりかねない」でラキーチンが述べているのはドミートリイの性質。「きみの親父は<中略>理解したことがない人間」で述べられているのはフョードルの性質。これは対比です。この対比を明確にすべく、ラキーチンは対比の接続詞 A ア…(「一方〜はどうかと言えば」の意)” でフョードルの性質の話を始めているのに、新訳では何故かこの А が訳されていない。先行訳はいずれもこの А への目配りを忘れていません。

 

新訳257258   

 

 

 

22258

 あるとき、こんなことがあった。わたしたちの県の新知事が、この町の視察に立ち寄ったさい、リザヴェータを見て@ひどく良心を傷つけられた。報告を受け、なるほどその女が「神がかり」であることはわかったが、それでも若い女が肌着一枚でふらふらしていてはA町の風紀が乱れる、今後はこういうことがないようにと訓令を出した。しかし、知事が去ってしまうと、リザヴェータは今までどおりに放っておかれた。

それでも若い女が肌着一枚でふらふらしていてはA町の風紀が乱れる、今後はこういうことがないようにと訓告を垂れた。しかし、知事が去ってしまうと、リザヴェータは今までどおりに放っておかれた。

森井の疑問

下線部@に違和感を覚える。「良心を傷つけられる」とは、通常、自分の言動に対してやましさを感じることである。確かに、知事は県の全責任を負っているかもしれない。しかし、Aから判断すると、この知事はこれを専ら自分の責任とは思っていないようである。「良心」の訳語が不適切なのではないか。

原訳236

あるとき、この県の新知事がこの町を視察に立ち寄ったことがあったが、知事はリザヴェータを見て、@やさしい心をいたく傷つけられ、報告のとおりそれが《神がかり行者》であると理解はしたものの、やはり、うら若い娘が肌着一枚でさまよい歩いているのはA良俗を乱すものだから、今後はこんなことがないようにと、注意を与えた。しかし、知事が去ってしまうと、リザヴェータは今までどおり放っておかれた。

江川訳123

当県に着任した新任の知事が、この町の視察に立ち寄ったとき、リザヴェータに目をとめて、@その高尚な感情をいたくそこねられ、彼女が《聖痴愚》であることは報告で承知はしたものの、やはり、うら若い娘が肌着一枚でうろつくのはA大いに風紀を乱すから、爾後かかることのないように、と訓告を垂れていった。しかし、知事が行ってしまうと、リザヴェータはまたもとのままにほっておかれた。

 

Раз случилось, что новый губернатор нашей губернии, обозревая наездом наш городок, @очень обижен был в своих лучших чувствах, увидав Лизавету, и хотя понял, что это «юродивая», как и доложили ему, но все-таки Aпоставил на вид, что молодая девка, скитающаяся в одной рубашке, нарушает благоприличие, а потому чтобы сего впредь не было. Но губернатор уехал, а Лизавету оставили как была.

解 

(by N.N.)

 やはり、問題は「良心」という訳語。原語 свои лучшие чувства スヴァイー・ルーチシエ・チゥーストヴァ は、逐語訳すれば「自らの最良の感情」となるが、語感的には「善良な心持ち」、「やさしい心根」といった感じで、「良心」という日本語とは、読者(聴き手)に喚起させるイメージを大きく異にします。「良心」、即ち「善 持ち」などと字解きできようはずもなく、不適切な訳語と言わざるを得ません(日本語の「良心」に当たるロシア語は совесть ソーヴェスチ で、この言葉は『カラマーゾフの兄弟』でも盛んに出て来ます。その中でも特に多いのがドミートリイやイワンに関わる使用例)。

 先行訳では、江川訳が逐語的な意味に近い分、まだ堅さが抜け切らぬのに対して、原訳は原語の語感をうまく摑まえたこなれた訳になっています。

 ところで、新訳Aで「訓令を出した」と訳されている原語は поставил на вид パスターヴィル・ナ・ヴィード です。この熟語は「過失・失態などに注意を与える」という意味の公用語で、日本語の「譴責する、戒告する」に相当するもの。「訓令」と「譴責、戒告」では意味が大きく異なる。「訓令を出した」は明らかに誤訳であり、せめて「厳重に注意を与えた」とすべきところでしょう。

 

新訳325

 

 

20

「ということは、(お父さんは)今日もグルーシェニカを待っているってことですね?」

「いや、今日は来ない。思い当たるふしがある。だから、たぶん来ない!」ドミートリーはふいに叫んだ。「スメルジャコフもそのつもりだ。親父は今ごろイワンとテーブルで酒を飲んでいる。アリョーシャ、さあ行くんだ、三千ルーブルを頼みこんでくれ┄┄

今日は来ない。思い当たるふしがある。だから、きっと来ない!」ドミートリーはふいに叫んだ。「スメルジャコフもそのつもりだ

森井の疑問

「そのつもり」とは、どのつもり(どういう意志)なのか? 「スメルジャコフ」というのだから、彼もここは当然、その前のドミートリー同様、推量していなければならない。この箇所は「検証」でも触れており、それによれば、ドミートリーの「たぶん(来ない)」と訳された推量副詞も、19世紀には「きっと」の意で用いられたという。

原訳298

(…)「いや、彼女は今日は来ないよ、思い当る節があるんだ。きっと来ないとも!」突然ドミートリイは叫んだ。「スメルジャコフもそう見てるしな。(…)」

江川訳154

(…)「いや、きょうは来ない、その兆候があるんだ。まず確実に来ないな!」ミーチャは突然大声で叫んだ。「スメルジャコフもそう見ている。(…)」

 

— Стало быть, он и сегодня ждет Грушеньку?

— Нет, сегодня она не придет, есть приметы. Наверно не придет! — крикнул вдруг Митя. — Так и Смердяков полагает. Отец теперь пьянствует, сидит за столом с братом Иваном. Сходи, Алексей, спроси у него эти три тысячи...

解 

(by N.N.)

 「検証」で詳論済みです。

森井追記

 20刷で「検証」に則って直されている。しかし、全く中途半端である。なぜだろうか?

  (訂正前)「(…)たぶん来ない!」(…)「スメルジャコフもそのつもりだ。(…)」

  (訂正後)「(…)きっと来ない!」 (…)「スメルジャコフもそのつもりだ。(…)」

 

新訳382

 

 

 

22

「ぼくは、明日ホフラコーワさんのお宅にうかがいます」とアリョーシャは答えた。「@カテリーナさん宅にもこれから行って、もし会えなければ、やはり明日ということになるかもしれません┄┄

「Aでもこれからカテリーナさんのところへ行くんだろう? 例の『くれぐれもよろしく、くれぐれもよろしく』って用で?」イワンが、ふいににこりとした。アリョーシャはどぎまぎした。

 

「Aで、やっぱり、これからカテリーナさんのところへ行くんだな? 例の『くれぐれもよろしく、くれぐれもよろしく』って用で?」イワンが、ふいににこりとした。アリョーシャはどぎまぎした。

森井の疑問

@でアリョーシャがはっきり「これから行く」と言っているのに、すぐその後のAでイワンが「でも、これから行くんだろう?」と問うているのは、とんちんかんである。ここは確認のニュアンスの濃いものでなければならない。また、でも」という逆接もおかしい

原訳351

(…)「じゃ、これからやっぱりカテリーナ・イワーノヴナのところへ行くわけか? 例の『くれぐれもよろしく』ってやつだな?」(…)

江川訳181

(…)「じゃ、いまはやはりカチェリーナさんのところへ行くんだな! 例の『頭を下げます、頭を下げます』だろう?」(…)

 

— Я завтра буду у Хохлаковых, — ответил Алеша. — @ Я у Катерины Ивановны, может, завтра тоже буду, если теперь не застану...

AА теперь все-таки к Катерине Ивановне! Это «раскланяться-то, раскланяться»?— улыбнулся вдруг Иван. Алеша смутился.

解 

(by N.N.)

 原文ではAは接続詞 А で始まり、その後に теперь チェピェーリ(今は)” という副詞が続いている。直前のアリョーシャの台詞は、「明日の朝会いたい」というイワンの申し入れに対して、自分の明日の予定を説明しているもの。従い、この А は明らかに「明日」に対する「今(“теперь チェピェーリ”)」という「対比」を示しています。アリョーシャの説明を聞いて、「(明日のことはわかった。)で、今はやっぱりカテリーナさんのところへ行くってわけだ!」と少し揶揄するような調子でイワンは応じているので、そのイワンの台詞を「でも」と逆接で始めてしまっては、会話がちぐはぐになるのも当然です。

 しかも、新訳は「やはり(“все-таки フスィヨー・ターキイ”)」という言葉をどういうわけか訳し落としています。この言葉は、上述の時の「対比」の流れの中で自然にイワンの口をついて出たものなので、これを訳さぬというのはやはり拙い。

 「でも」といい、「やはり」の脱落といい、この場面の兄弟の会話の呼吸を完全に摑みそこねていると言わざるを得ません。

 

新訳395

 

 

22

(カテリーナ:)「(…)わたし、この一週間というもの、それこそ胸が苦しくなるくらい心配でした。使い込んだ三千ルーブルのことを、あの人に恥と思わせないようにするにはどうすればよいかと。つまり、いろんな人や自分のことを恥ずかしく思うのはかまいません。でも、わたしに対しては気がねしてほしくないのです。(…)」

つまり、世間の人やご自分に対してを恥ずかしく思うのはかまいません。でも、わたしに対しては気がねしてほしくないのです。(…)」

森井の疑問

ドミートリーが「自分のこと」を恥ずかしく思うのは分かる。だが、なぜ「いろんな人」のことまで恥ずかしく思わなければならないのか。

原訳363

(…)つまり、世間の人たちみんなや自分自身に対して恥じるのは結構ですけど、あたくしには恥じないでほしいんです。

江川訳187

(…)ええ、ほかの人に対して、ご自分に対して恥ずかしいと思われるのはかまいませんけど、私に対しては恥ずかしいと思ってほしくないんです。

 

<…> Меня всю неделю мучила страшная забота: как бы сделать, чтоб он не постыдился предо мной этой растраты трех тысяч?  То есть пусть стыдится и всех и себя самого, но пусть меня не стыдится. <…>

解 

(by N.N.)

 誤訳です。確かに стыдиться себя самого ストゥイヂィーッツァ・スィビャー・サマヴォー だけであれば、「自分自身を恥ずかしく思う」という意味にもなり、現に第7編第3章「一本のねぎ」ではグルーシェンカが正にそのような意味で同じ表現をしています。しかし、動詞“стыдиться ストゥイヂィーッツァ” の補語として「全ての人(всех フスィエッフ)」が来て、“стыдиться всех ストゥイヂィーッツァ・フスィエッフ となった場合、「全ての人を恥ずかしく思う」ではなく、「全ての人に気がねする、全ての人に対して恥ずかしく思う」というほどの意味。従い、下線部原文の逐語訳は「全ての人に気がねしたり、自分自身を恥ずかしく思ったりするのは構わない」となります。しかし、ここは一つの動詞 стыдиться ストゥイヂィーッツァ” に対し、“и всех и себя самого イ・フスィエッフ・イ・サマヴォー(全ての人と自分自身)” と補語が二つあり、そこには「〜も〜も(“и … и … イ・〜・イ・〜)」というニュアンスも出ているので、全ての人に対しても、自分自身に対しても、恥ずかしく思われるのは構いません」とした方がよいでしょう。先行訳はいずれも意訳として首肯し得るものです。

 

新訳412

 

 

22

アリョーシャはよろめくようにして通りに出た。カテリーナと同じように、自分も泣きたかった。そこへとつぜん、小間使いが後ろから追いかけてきた。

「ホフラコーワさまからことづかった手紙です。@お嬢様(=カテリーナ)がお渡しするのをお忘れでしたので。A昼のお食事のときからお預かりしていました

@お嬢様(=カテリーナ)がお渡しするのをお忘れでしたので。A昼のお食事のときからお預かりしていましたのに

 

森井の疑問

@で、えらく気のつく小間使いだなと思ったところ、Aで「ん?」となりました。小間使いは昼すでに手紙を預かっていた? そんなことはない。リーザ・ホフラコーワの手紙をことづかったのはむろんカテリーナである。

原訳379

(…)「お嬢様がホフラコワ様のお手紙を@お渡しするのを、お忘れになったそうですので。Aお昼のお食事のときからお預かりしておりましたのに

江川訳195

(…)「お嬢様が@お渡しするのをお忘れになったそうです、ホフラコワさまからのお手紙で、Aお食事のときお預かりしたままになっておりましたので

 

   Алеша вышел на улицу как бы шатаясь. Ему тоже хотелось плакать, как и ей. Вдруг его догнала служанка.

@ Барышня забыла вам передать это письмецо от госпожи Хохлаковой, A оно у них с обеда лежит.

解 

(by N.N.)

 推敲が不十分なため、読者の誤読を招きかねない不適切な訳文になっているということでしょう。手紙をことづかったのは “お嬢様” であり、「お昼に預かって、そのままずっと “お嬢様” の許にあった」というのがAの原文の意味。誤読されることのないように、先行訳はいずれも適宜、語を補って訳しています。

 

新訳413

 

22

「さあ、命が惜しけりゃ、金を出すんだ!」

「なあんだ、兄さんか!」アリョーシャは、震えあがったが、それでも驚きのほうが強かった

 

「なあんだ、兄さんか!」アリョーシャは、震えあがったが、それでも驚きのほうがまさった

 

 

森井の疑問

下線部の表現では、「震え」と「驚き」とが併存していることになるが、「なあんだ、兄さんか!」と認識した時点でアリョーシャの「震え」は収まっているはず。つまり本来、「震え」、「認識」、「驚き」の順になるはずである(多少の重なりはあっても)。ところが、新訳では、「認識」、「震え」+「驚き」、のように読めるため、違和感がある。

 

原訳379

「金を出すか、生命をよこすか!」

「なんだ、兄さんじゃありませんか!」ひどく震えあがったアリョーシャは、びっくりして言った

 

江川訳195

「金か、命か!」

「なんだ、兄さんですか、ミーチャ!」一瞬ふるえあがったが、アリョーシャは意外さに目を見張った

 

 

— Кошелек или жизнь!

— Так это ты, Митя! — удивился сильно вздрогнувший, однако, Алеша.

 

 

解 

(by N.N.)

指摘を受けて、少しいじってみたものの、変わり映えのしない無意味な修正。テクストの意味の詳細は以下の解説を読んでいただきたい(木下〕

 “Так это ты, Митя! ターク・エータ・トゥイ、ミーチャ!(なあんだ、兄さんか!)” に続く地の文の主語は勿論アリョーシャで、述語は удивился ウヂィヴィールサ(驚きの声を上げた)”。従い、「アリョーシャは驚きの声を上げた」というのが文意の中心。 しかし、主語アリョーシャに вздрогнувший スィーリナ・ヴズドローグヌゥフシィー(震え上がった)” という能動形動詞過去が冠されているので、「震え上がったアリョーシャは驚きの声を上げた」という意味になり 更に однако アドナーカ(それでもやはり)” という間投詞が入ることで、「震え上がったアリョーシャは、それでもやはり、驚きの声を上げた」という意味を構成します。

 残るは副詞 сильно スィーリナ(ひどく)” の扱いのみ。新訳はこれをどうやら удивился ウヂィヴィールサ” に掛るものと取っているらしい。江川訳もそうです。しかし、これは誤り。もし作者がそのつもりだったならば、次のような語順で書いたはずです。

  Сильно    удивился    /   вздрогнувший,   однако,  Алеша.

   スィーリナ   ウヂィヴィールサ   /    ヴズドローグヌフシィー、 アドナーカ、 アリョーシャ。

 スラッシュ / は朗読の際に不可欠なpause(間)を表します。短い文ですが、それでも必要な個所で最低限の極小のpause(間)を置かぬと、朗読してもまともに意味が通じません。これならば、副詞 сильно スィーリナ” は間違いなく удивился ウヂィヴィールサ” に掛り、全体で「震え上がったアリョーシャは、それでもやはり、ひどく驚いて声を上げた」という意味になります。しかし、現実に見るテキストは―

  удивился    /   сильно    вздрогнувший,   однако,  Алеша.

  ウヂィヴィールサ   /    スィーリナ    ヴズドローグヌフシィー、  アドナーカ、 アリョーシャ。

という語順である。スラッシュ / の意味は上述の通り(これ以外の位置にpause(間)を置いたのでは、ロシア語としての朗読が成立しない)。副詞 сильно スィーリナ” は “удивился ウヂィヴィールサ” ではなく、あくまでも вздрогнувший スィーリナ・ヴズドローグヌゥフシィー” に掛っているのであり、「ひどく震え上がったアリョーシャは、それでもやはり、驚きの声を上げた」というのが全体の正しい意味です

 新訳の「アリョーシャは、震えあがったが、それでも驚きのほうが強かった」は副詞 сильно スィーリナ” がどの語に掛かるかを捉えそこなっているのみならず、後半などは完全な創作に陥っています。

 原訳は基本的な意味は確実に捉えている。“однако アドナーカ(それでもやはり)”という間投詞が反映されていないのは、おそらく意図的なものでしょう。この間投詞はロシア人にも些か場違いに映るようですから、敢えて無視したものと思われます。

 江川訳の「意外さに目を見張った」という訳が異様に感じられるかもしれませんが、これは“удивлиться ウヂィヴィーッツァ(驚く、驚いて言う)” というロシア語動詞が「全く予期もしなかった意外な驚き」を表すものだからでしょう。加えて、副詞 сильно スィーリナ” が “удивился ウヂィヴィールサ” に掛かるとの誤読により、「目を見張った」というふうに「驚き」を強調することで、副詞 сильно スィーリナ” のニュアンスを活かそうとしたものと推察されます。

 

 

付録: 会員さんからの質問、第2分冊、第4分冊にかかわる2

 

新訳

2−260

 

 

 

 

Kさんの疑問

 

原訳

 

 

 

 

 

原文

 

 

 

 

コメント

(木下)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント補足

2008.5.14

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新訳

4−260

 

 

 

 

 

Kさんの疑問

 

原訳

 

 

 

 

 

原文

 

 

 

コメント

(木下)

深い闇のなかでふいに牢獄の鉄の扉が開かれ、手に燭台をたずさえた老審問官がゆったりと中に入ってくる。付き人はなく、背後で扉がすぐに閉じられた。<・・・>やがて静かに歩みより、燭台をテーブルに置いて彼に言うのだ。

 『で、おまえがあれなのか?あれなのか?』しかし答えを得られないまま、彼は早口でこう言い添える。<・・・>

 

 原訳との違い。原文はどうなのでしょうか?

 

深い闇の中で突然、牢獄の鉄の扉が開き、当の老大審問官が燈明を片手にゆっくりと牢獄に入ってくる。彼は一人きりで、入ったあとただちに扉はしめられる。<・・・>

やがて静かに歩みより、燈明をテーブルの上に置くと、キリストに言う。『お前はキリストなのか?キリストだろう?』だが、返事が得られぬため、急いで付け加える。<・・・>

 

Среди глубокого мрака отворяется железная дверь тюрьмы, и сам старик великий инквизитор со светильником в руке медленно входит в тюрьму. Он один, дверь же запирается. <…> Наконец тихо подходит, ставит светильник на стол и говорит ему:

«Это ты? ты ? – Но, не получается ответа, быстро прибавляет: <…>

 

原訳で「おまえはキリストなのか?キリストなのか?」のの原文は 

«Это ты? ты?»(エト・トゥイ? トゥイ?) で、直訳すると、「これは おまえか?おまえなのか?」で、確かにキリストという言葉はありません。ロシア語の「トゥイ」は「おまえ」とか「あんた」というふうに馴れ馴れしく呼びかける時の言葉ですが、ロシア人特有の感覚で、難しいのは「神」とか、「祖国」とか、精神的存在に向けて発せられる言葉でもあることです。そこで、原訳は「キリスト」、米川訳でも「イエス」と意味をとって訳しています。

亀山訳の『で、おまえがあれなのか?あれなのか?』は「トゥイ」の二人称的ニュアンスが殺されて、三人称的な「あれ」に置きかえられており、問題です。ここでは一つのセンテンスのなかに、大審問官の「彼」(он) がキリストの「彼に」(ему)に語りかける三人称の二重化が特徴的ですが、語り手であるイワンによって三人称化されている大審問官(「彼」)が、囚人(「彼に」)、«Это ты? ты?»(エト・トゥイ? トゥイ?)「これは おまえか?おまえなのか?」と対話的に呼びかけるところに、この場面の深い意味があるはずです。

 

先日NN氏のコメントとして紹介した部分には誤解を生む可能性があるので、取り下げ、新たに木下が補足します。)亀山氏は佐藤優しとの対談の書『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)で、イワンが構想する叙事詩「大審問官」に登場するキリストは「偽キリスト」ではないかという仮説をのべています。斉藤美奈子氏が亀山訳の成功は、「ここの部分を、キリストと明示しなかったことだ」とまで評したとして、自信を示しています。しかしこれは相当に大胆な憶測というべきでしょう。亀山氏がいうように、「実際にイワンはいちども彼を、キリストとは呼んではいない」、自分の訳以外はすべて「キリスト」と名指ししていて、「じつは、これは変なんです」(p.97)と胸を張るところまでは、認めるとしましょう。しかしその先のテクスト、«Это ты? ты?»(エト・トゥイ? トゥイ?)「これは おまえか?おまえなのか?」を、亀山氏が『で、おまえがあれなのか?あれなのか?』とロシア語の習いたての者でもやらない「誤訳?」を、あえてやってのけたのはどういう料簡からなのか?ここに透けて見えるのは、この対談の書で語られている「偽キリスト」「僭称者」なる仮説にちがいありません。。

「大審問官の前にあらわれた「彼」がキリストか偽キリストか、にわかに判定できない曖昧さがないと、文学の魅力が消えてしまう」(.102)とまでいって、自分の憶測を正当化していますが、テクストにひねりを入れ、結果的に初級者にも分かるテクストの改ざんをおこなうとなると、これはもう翻訳者の埒を越えた越権行為というべきではないでしょうか。

 なお同書で、佐藤優氏は「亀山訳は、読書界で、「読みやすい」ということばかり評価されているようですが、語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしな部分はきちんと訳し直している」(p.38)とのべていますが、これほど嘘八百な無責任な追従もないものです。その正否は、私達の「検証」「点検」そしてそれに追随して増刷で訂正し、自ら認めている少なくとも40ヶ所にのぼる誤訳が雄弁に物語っています。

 

 

「兄さん」声を震わせながら、アリョーシャはまた切り出した。「ぼくが兄さんにこのことを言ったのは、兄さんは、ぼくの言葉を信じてくれるからです。そのことがわかっているからです。《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!いいですか、死ぬまで、ですよ。

 

 

 

原訳との違い。原文はどうなのでしょうか?

 

「兄さん」アリョ−シャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことを言ったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなた(・・・)じゃ(・・)ない(・・)、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。

 

-Брат,- дрожащим голосом начал опять Алеша, - я сказал тебе это потому, что ты моему слову поверишь, я знаю это. Я тебе на всю жизнь это слово сказал: не ты! Слышишь, на всю жизнь.

 

「あなたじゃない!」の個所ですが、これは亀山氏のとんでもない誤訳です。

原訳の「一生をかけて」はна всю жизнь (ナ・フシュ・ジーズニ)で、「永久に」という意味で、自分の発言への確信と責任を表明したものです。米川訳では「ぼくは命をかけて言ったのです!」となっています。「自分が死ぬまで信じています」ならともかく、「あなたが死ぬまで信じてます」とは、ありえない訳です。