以上で、誤訳・悪訳の点検は終わりです。この中には翻訳というよりむしろ日本語に起因する問題がすでに幾つか挙げてありますが、最後にここで少し、日本語そのものの不備についても触れさせて頂きたいと思います。

今回の新訳の日本語で一番気になったのは「連用形 、」の形の多用です。確かにこれによって訳文に勢いが出ているのは事実です。しかし、この形だと、そこで一旦文が切れるのか、それとも後に続くのか、一瞬 判断に迷うことがよくある。連用形は、その名のとおり下の用言に続ける用法に加えて、そこで文を一旦中止する用法を持つからです。126頁から例を引きます。

「よいですか、母さんや」と長老が言った。「あるとき、昔の大聖人が聖堂で、神に召されたひとりっ子のわが子を思い、あなたと同じように泣きくれている母の姿をお認めになった。()」

なるほど、文脈上誤読の余地はありません。しかしながら、一瞬の惑いはあり得ます。この箇所は、

「よいですか、母さんや」と長老が言った。「あるとき、昔の大聖人が聖堂で、神に召されたひとりっ子のわが子を思ってあなたと同じように泣きくれている母の姿をお認めになった。()」

のように、「て」で続けて「、」も取れば、中止ではなく次に接続することがはっきりします。さらに、この例については、

「よいですか、母さんや」と長老が言った。「あるとき、昔の大聖人が聖堂で、あなたと同じように(、)神に召されたひとりっ子のわが子を思って泣きくれている母の姿をお認めになった。()」

のように、勢いは若干そがれるものの、語順を変える方法もあります。似たようなケースで私はたびたび惑いました。

 次に気になったのが、いわゆる係り受けの乱れです。一例を 91頁から挙げます。

しかし、この要領を得ない言葉は、後から一行に追いついた一人の修道僧によってさえぎられた。

頭巾をかぶり、小柄で青白い、やつれはてた顔の僧だった。

このままでは、下線部は「顔」に係り、「頭巾をかぶった顔の僧」ということになります。これは

頭巾をかぶった、小柄で青白い、やつれはてた顔の僧だった。

頭巾をかぶり、小柄で青白い、やつれはてた顔をした僧だった。

のどちらかにすれば、下線部が「僧」に係ることが明瞭になります。これは連体修飾句(語)の場合ですが。連用修飾句(語)にも係り受けの曖昧な箇所がかなりあります。

この他、主述の不一致(26頁、「フョードルは一生をとおして芝居を打ち・・・演じるのが好きだった。しかも@大事な点は・・・・・・それが自分の損になるとわかっていてなおかつ芝居をA打つのである」。@はこの場合、「大事な点については」の意ではなく、主語である。従って、「@大事な点は・・・・・・それが自分の損になるとわかっていてなおかつ芝居を打つAということである」とならなければならない)、また、文脈の乱れ(38頁、「(イワンは)なんとかアルバイトの職を手にし、はじめは家庭教師の口で二十コペイカ、その後は新聞の編集部を走りまわって・・・・・・十行記事を寄稿したものだった」。これを先行訳を参考にして直せば、「はじめは一回二十コペイカの家庭教師で」となるでしょう)、なども気にかかります。じつは、「申される」(95頁)、「おっしゃられる」(171頁)、「みえられる」(397頁)等の二重敬語も私などにはまだ違和感があるのですが、言葉は変わるものです、やがては公然と認知されることでしょう。

   ここで私は「美しい日本語」を主張しているのではありません。そもそも言語にとって何が美しいかは極めて主観的なことであり、日本語に限らず、これを押 し付けられてはたまりません。しかしながら、正誤については、ある程度客観的に判断できます。改訂されるときには、日本語についても配慮していただけると 幸いです。これまで著訳書を拝読して、この点が気になったことは一度もなく、むしろ達意の文章家と拝見していましたので、新訳の日本語は不思議なくらいで した。

  さて、原文との照合そして解説に当たって頂いたNN氏についても少しご紹介させてください。

  いまだに互いに面識はないのですが、今回のやりとりで私はずいぶん益せられました。氏は、ここ17年間は専ら原文で『カラマーゾフの兄弟』に親しみ、「検証」の前文にもあるように、モスクワ駐在中には、文学部出のロシア人チューターを相手に、1年をかけてこの大長編を朗読で読破したという本物のドストエフスキー・ファン。そのための練習も含めると既に30回以上は原文で読んでいるだろうとのこと。その間、原訳と江川訳を懐かしさと好奇心から一度ずつ読み直し、ともに、誤訳無しとはいかないが、全体としては良訳であると判断されたそうです。そして、一昨年この両訳から実に30年ぶりの新訳登場ということになります。この新刊広告を目にしてすぐに氏は第1 を購入。期待を持って読み始めたところ、それは裏切られ、逆に誤訳の余りの多さに失望(新訳を原文と逐一突き合わせたのではない。氏のからだには『カラマーゾフの兄弟』の「あり得べきテキストのイメージ」がしみついている)、とにかく続刊の出来を見ようと、順次リアルタイムで読み継いだものの、誤訳は減らず巻を追うごとにむしろ増えていると確認。自分は原語で読めるからいいようなものの、そうでない一般読者のことを思えば、これは看過できない事態と観じて、木下先生に相談。かくして「検証」の労作業に取り組むことになったとのことです。氏によれば、各巻の誤訳の概数はそれぞれ最小値で、

   第1巻: 5060箇所     第2巻: 5060箇所

   第3巻: 90100箇所    第4巻: 150160箇所(但し、これは第5巻エピローグの56頁を含む)

これを今回の第1巻の「点検」のように、もう一つの違った目で見ればさらに増えるだろうとの予測です。「点検」は専ら第1巻に係るものと「前書き」では述べ ましたが、第2巻以降について「検証」を続行するつもりはないと聞きましたので、関心をお持ちの方もあると考えて、あえてここに記しました。

ここからは、私事になります。

回の「点検」で、ロシア文学・ドストエフスキー文学およびロシア語の専門家との協同作業に携わったことは私にとってこの上なく有益なことでした。お二人の 高い知見に触れたことはこれからのドストエフスキー再読に生きてくると確信しています。また、単に誤訳指摘に終わらずに、それをきっかけに作家と作品について思いを致すことの出来たのも本当にありがたいことでした。必要に迫られて五十の手習いで始めたワードとメールもなんとか打てるようになりました。それ から、「検証」および「点検」で、親しんできた原訳・江川訳にも誤訳があることを知ったのも有益でした。やはり完璧な翻訳はないと、改めて翻訳という仕事 の大変さに思いを馳せました。ただし、そこで、「誤訳のない翻訳はない」と、どの翻訳も同列にしてしまっては、翻訳家のご苦労に対して失礼ですし、建設的 な議論にもなりません。私の読書家の友人が、送ってきたメールで喝破していますが、この場合、要は程度の問題。つまり誤訳・悪訳の質と量の問題です。この 問題と翻訳家は日夜格闘されているのですね。本当に大変なお仕事です。

最後にもう一度繰り返しますが、新訳が不備を正されて、いよいよ魅力を増して読み継がれることを私は強く願っています。それぞれに特徴のある良い翻訳が幾つもあることは読者にとってもファンにとっても喜ばしいことです。

 【付記】

回の作業がまだ始まっていなかった1月上旬、本ホームページの姉妹サイトである「ドストエフ好きーのページ」の「意見情報」交換ボードを興味深く閲覧して いた私は、そこでの議論に導かれるような形で、新訳第5巻「エピローグ」に重大と思われる誤訳があることに気がつきました。この誤訳については、他の問題 も含めて木下先生が詳論されますので、ここでは触れませんが、ハンドルネームで少しばかり議論に参加させてもらった身としてこの場を借りて、サイトの主宰 者のSeigoさん、そして、ボードのご常連に、知識を授けて頂いたお礼を申し述べさせていただきます。ありがとうございました。

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